[行政不服審査法20条・口頭による審査請求]現場編 「口で言えるなら、好きにしゃべればいい」の罠。消える苦情と、役所の記録に変わる正式な陳述
「口頭で申し立てられます」と言われると、少し安心します。
紙を書かなくていい。
難しい言葉を知らなくていい。
窓口で事情を話せばいい。
――でも。
法律が言う「口頭」は、
ただ好きなだけ喋って帰ることではありません。
むしろ。
喋った言葉を、
役所の側が逃げられない形にする手続です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は、七枚の便箋と格闘していました。
「先輩」
「何だ」
「この人、ものすごく丁寧です」
「そうか」
「一枚目が挨拶です」
「そうか」
「二枚目が生い立ちです」
「そうか」
「三枚目でようやく市役所が出てきます」
「長えな」
「四枚目からまた奥さんとの馴れ初めに戻ります」
「何でだ」
「私が聞きたいです」
相談者から届いた手紙。
差出人は、
神谷栄吉。
六十九歳。
駅前の仮設市場で、漬物と乾物を売っている男性でした。
そして七枚目の最後。
ようやく本題が出ます。
――市役所から、来月いっぱいで仮設市場の使用許可を取り消すと言われました。
「そこ最初に書いてくださいよ!」
思わず叫びました。
「文章には性格が出る」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「七枚使って本題を隠す性格って何ですか」
「知らん」
そのとき。
事務所の扉が開きました。
「ごめんください」
小柄なおじいさんが、
大きな紙袋を両手で抱えて立っていました。
「神谷栄吉です」
「あ」
私は立ち上がりました。
「お手紙、読みました」
「長かったでしょう」
「はい」
正直に答えてしまった。
「朝比奈」
相馬先輩が睨みます。
「でも、とても詳しかったです!」
急いで足します。
神谷さんは笑いました。
「昔から文章が下手でねえ」
紙袋を机へ置きます。
「これ、沢庵です」
「沢庵!」
「自家製」
相馬先輩が即座に近づきました。
「ありがとうございます」
「相談より先に差し入れを回収しないでください」
「腐ると困る」
「漬物ですよ」
片桐所長が奥から出てきました。
「座ってください」
「はい」
神谷さんは帽子を膝に置きました。
さっきまで笑っていた顔が、
少し曇ります。
「店を出られなくなるんです」
駅前。
再整備予定地の一角。
古い木造店舗を取り壊したあと、
市が暫定的に設けた仮設市場。
八軒。
八百屋。
魚屋。
惣菜屋。
履物屋。
そして神谷さんの漬物屋。
本格的な駅前再開発が始まるまで、
市の条例に基づく使用許可を受けて営業していました。
「取り消す理由は?」
片桐所長が聞きます。
「通路だそうです」
「通路?」
「わしの店の前に木箱を置いとるでしょう」
「商品箱ですか」
「そうです。あれが避難通路を狭くしていると」
「注意は受けました?」
「受けました」
「直しました?」
「すぐ下げました」
私は顔を上げました。
「じゃあ今は?」
「何も置いてません」
「それでも取消し?」
「はい」
神谷さんは茶封筒から通知書を出しました。
――仮設市場使用許可取消処分通知書。
理由。
市場管理上の指示に従わず、通行の安全を妨げたため。
「何回注意されたんですか」
「一回です」
「その日に直した?」
「はい」
「そのあと再発は」
「ないです」
うん。
嫌な匂いがします。
沢庵ではありません。
行政法のほうです。
「ほかのお店は?」
私が聞きました。
神谷さんが少し迷いました。
「箱を出しとる店は、ほかにもあります」
「今も?」
「あります」
「でも神谷さんだけ取消し?」
「そうです」
出ました。
シリーズおなじみ、
同じような人のうち一人だけ違う扱い。
行政法では、
この瞬間、
眠かった単語が一斉に起床します。
平等。
裁量。
比例。
事実認定。
判断過程。
昨夜の私なら、
五分で寝ていました。
今は寝られません。
漬物屋さんが消えます。
「いつ通知を受けました?」
「昨日です」
期間は大丈夫。
まずそこ。
私は通知の裏を見ました。
不服申立てについての教示があります。
そして。
妙な一文。
私は二度読みました。
「先輩」
「何だ」
「これ」
指差す。
相馬先輩が覗き込みます。
「……ああ」
「口頭でもできる?」
「条例に書いてあるんだろ」
「え?」
私はもう一回見ました。
仮設市場条例。
その処分に関する不服申立てについて、
口頭による申立てを認める特別な規定があるらしい。
「本当に口でいいんですか」
神谷さんが聞きました。
「書かなくても?」
「そのようです」
答えながら、
私の頭の中で現代の条文が顔を出します。
行政不服審査法十九条。
原則書面。
例外。
他の法律、条例に口頭でできる旨の定めがある場合。
そして二十条。
口頭の場合は、
必要事項を陳述して、
行政庁が録取。
読み聞かせ。
誤りがないことを確認。
――待って。
私は手を止めました。
昭和六十三年。
またです。
また未来法をそのまま持ってきそうになりました。
「どうした」
相馬先輩。
「今の法律なら二十条なんですけど」
「今?」
「何でもありません」
危ない。
ここは旧行政不服審査法。
条文番号も違う。
ただし。
仕組みそのものはあります。
旧法でも、
特別な定めによって口頭で不服申立てをする場合、
ただ自由に喋って終わりではない。
必要事項を陳述する。
行政庁が内容を書き取る。
本人に読み聞かせる。
誤りがないことを確認する。
しかも。
この時代は、
そこからもう一段あります。
「印鑑」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「持ってきてるか」
神谷さんが胸ポケットを探りました。
「三文判なら」
「それでいい」
私は相馬先輩を見ました。
「押印?」
「旧法だ」
ああ。
昭和。
また昭和。
現代法二十条では、
録取。
読み聞かせ。
誤りがないことの確認。
そこまで。
でも旧法では、
口頭による審査請求の陳述を録取し、
読み聞かせて誤りがないことを確認したうえで、
陳述人に押印させる。
未来人の脳内条文、
一個足りませんでした。
「また妙な顔してるな」
「制度改正に殴られました」
「朝から何言ってんだ」
私は通知へ戻りました。
「所長」
「何だ」
「これ、本人が口頭でできますよね」
「できる」
「じゃあ今日、市役所へ?」
「行く」
片桐所長は即答しました。
神谷さんが驚きます。
「今からですか」
「早いほうがいい」
「でも」
神谷さんは帽子を握りました。
「わし、うまく喋れませんよ」
その言葉で、
手紙七枚を思い出しました。
確かに。
悪い人ではありません。
ただ。
話が横道に入る。
ものすごく入る。
たぶん一度入ったら、
昭和三十年代くらいまで戻る。
「大丈夫です」
私は言いました。
「話す順番を整理しましょう」
「順番?」
「はい」
誰が。
どの処分に。
いつ知って。
何を求めて。
なぜ不服なのか。
「それだけです」
「それだけ?」
「奥さんとの馴れ初めは不要です」
「書いてありましたか」
「二枚目から四枚目まで」
「三枚も!」
本人が驚くところじゃありません。
私たちは、
神谷さんの話を順番に並べました。
処分を受けた人。
神谷栄吉。
処分。
仮設市場使用許可の取消し。
知った日。
昨日。
求めること。
取消処分の取消し。
理由。
一度指導を受けたが即日是正。
その後は再発していない。
同様に通路へ商品を出している他店舗には取消処分がされていない。
処分は重すぎるのではないか。
「これを言えばいいんですか」
「はい」
「こんな短くて?」
「短いほうが伝わります」
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「論点で喋るな」
「今日は論点を喋らないと駄目な回でしょう!」
「本人の言葉にしろって意味だ」
「あ」
そうでした。
法律の要件を、
人間の言葉に戻す。
私は神谷さんを見ました。
「じゃあ、こうしましょう」
「はい」
「『一回注意を受けたのは事実です』」
「はい」
「『でも、その日に箱を下げました』」
「はい」
「『それからは出していません』」
「はい」
「『それなのに店を辞めなきゃならないのは重すぎると思います』」
神谷さんが頷きます。
「それなら言えます」
「あと」
「はい」
「ほかのお店のこと」
「ああ」
「『同じような箱を出している店が残っているのに、どうして自分だけなのか説明してほしい』」
「それも言えます」
相馬先輩が立ち上がりました。
「じゃあ行くぞ」
「沢庵は?」
「帰ってから食う」
「先輩が保管してるんですか」
「安全管理だ」
「盗難リスクが一番高い人が管理してる!」
市役所二階。
総務課。
窓口の奥で、
沢渡課長が書類を読んでいました。
私たちを見る。
「……今週二度目ですね」
「数えてるんですか」
「多いので」
「出入り禁止とか言いませんよね」
「適法な用件なら」
そこ、
わざわざ適法ってつけます?
相馬先輩が通知書を置きました。
「神谷栄吉さん。仮設市場の使用許可取消し」
「ああ」
沢渡課長が神谷さんを見る。
「市場の件ですか」
「はい」
「今日はどういったご相談で」
神谷さんが息を吸いました。
「不服申立てです」
沢渡課長の目が少し変わりました。
「書面は?」
「口頭でします」
一瞬。
静かになります。
沢渡課長が通知の教示欄を確認しました。
「……条例の特則ですか」
「そうです」
私が言いました。
「口頭でできると」
「ええ」
「なので正式にお願いします」
沢渡課長は神谷さんを見ました。
「分かりました」
あっさり。
「え?」
思わず声が出ました。
「何です?」
「もっと抵抗するかと」
「朝比奈さん」
「はい」
「根拠があるものには抵抗しません」
この人、
敵として非常に扱いづらい。
「ただし」
沢渡課長が言いました。
「単に『納得できない』と仰るだけでは、こちらも処理できません」
来た。
「必要事項を陳述していただきます」
「はい」
「こちらで録取します」
「はい」
「最後に内容を読み聞かせます」
「はい」
「確認後、押印していただきます」
神谷さんが胸ポケットを叩きました。
「持ってます」
「準備がいいですね」
「この人たちが持ってこいって」
沢渡課長が私たちを見ました。
「ちゃんと昭和の手続を覚えたんですね」
「どういう意味ですか」
「いえ」
「絶対何か含んでますよね」
「気のせいでしょう」
最近この人まで、
事務所の悪い言い回しを覚え始めています。
別室へ通されました。
机。
椅子。
職員一人。
記録用紙。
思っていたより、
ずっと地味です。
でも。
神谷さんは緊張しています。
「お名前を」
「神谷栄吉」
「住所を」
答える。
「年齢」
「六十九」
私は思わず反応しました。
旧法。
現代法との違い。
旧法の審査請求書では、
氏名だけでなく年齢も記載事項に入っていました。
今なら、
年齢?
と思うところです。
でも今日は昭和六十三年。
また一つ、
未来のテキストと違う。
職員が続けます。
「不服のある処分は」
「仮設市場の使用許可を取り消すという処分です」
「その処分があったことを知った日は」
「昨日です」
「何を求めますか」
神谷さんが一瞬、
私を見ました。
私は何も言いません。
本人の申立てです。
「取消しを取り消してもらいたいです」
職員の鉛筆が止まりました。
「取消処分を取り消してほしい、ですね」
「ああ。そうです」
少しだけ笑いそうになります。
取消しを取り消す。
日本語としてはややこしい。
法律としては普通。
行政法、
たまに言葉が二重扉です。
「理由をお願いします」
「はい」
神谷さんは息を吸いました。
「一度、店の前の通路に商品箱を出して、注意されました」
職員が書く。
「でも、その日に全部下げました」
書く。
「それから一度も出してません」
書く。
「なのに、店をやめろというのは重すぎると思います」
書く。
「それと」
神谷さんの声が少し強くなりました。
「ほかの店には、今でも箱を出してるところがあります」
書く。
「どうしてわしだけ許可を取り消すのか、分かりません」
書く。
ここまで。
神谷さんは、
話を脱線しませんでした。
奥さんも出ません。
昭和二十三年の洪水も出ません。
結婚式で飲みすぎた叔父さんも出ません。
手紙七枚の人が、
五分で終わりました。
すごい。
法定事項には、
人を短く喋らせる力まであるのでしょうか。
「以上でよろしいですか」
職員が聞きます。
神谷さんが迷いました。
「あと一つ」
「どうぞ」
「わしは、駅前の工事に反対してるわけじゃありません」
私は神谷さんを見ました。
「店がいつか無くなるかもしれんことも分かっとります」
職員の手が止まる。
「でも」
神谷さんは続けました。
「決まった日までは、ちゃんと商売させてほしい。それだけです」
職員が静かに書きました。
私は何も言えませんでした。
再開発に反対したいのではない。
永遠に居座りたいのでもない。
ただ。
自分だけ、
予定より早く店を取り上げられる理由が分からない。
それだけ。
生活の中の引っかかりは、
だいたいこういうところにあります。
革命ではありません。
今日と明日の間に、
一本だけ変な段差がある。
それにつまずいている。
法律は、
その段差を測る道具です。
「では」
職員が書き終えました。
「今から読み上げます」
来た。
録取した内容。
読み聞かせ。
私は少し身を乗り出しました。
氏名。
住所。
年齢。
対象となる取消処分。
知った年月日。
申立ての趣旨。
理由。
教示。
年月日。
一つずつ読み上げられます。
神谷さんは、
黙って聞いていました。
途中。
「待ってください」
神谷さんが言いました。
職員が止まる。
「どこです?」
「今のところ」
「他の店舗について?」
「はい」
記録には、
――他の店舗については同様の違反がない。
と書かれていました。
「違います」
神谷さんが言いました。
「違反がないんじゃない」
「では?」
「箱を出してる店はあります」
職員が確認します。
「つまり、他店舗にも通路上の商品陳列が見られる、と」
「そうです」
「その店舗が行政から注意を受けたかは」
「分かりません」
「なるほど」
職員が書き直します。
私は息を止めていました。
危ない。
たった一文。
でも意味が全然違います。
他店には違反がない。
と、
他店にも似た状態があるが、行政からどう扱われたかは不明。
では、
話が真逆になりかねない。
これですか。
読み聞かせ。
ただの儀式じゃない。
役所が書き取った言葉が、
本人の言いたかったことと同じなのか。
その場で確かめる。
「朝比奈」
相馬先輩が小声で言いました。
「今分かった顔すんな」
「分かりました」
「声がでかい」
「すみません」
読み上げが再開されます。
最後まで。
「以上です」
職員が神谷さんを見る。
「誤りはありませんか」
神谷さんは少し考えました。
「ありません」
それから。
朱肉。
印鑑。
神谷さんが押します。
ぽん。
小さな赤い丸。
それだけです。
でも。
その瞬間。
さっきまで空気の中にあった言葉が、
正式な不服申立ての記録になった。
不思議でした。
「これで?」
神谷さんが聞きます。
「これで正式に受け付けます」
職員が答えました。
神谷さんは、
小さく息を吐きました。
「紙を書いてないのに」
「口頭ですから」
「でも紙になっとる」
その一言に、
私は思わず笑いそうになりました。
そうなんです。
口頭なのに、
最後は記録になる。
むしろ。
口頭だからこそ、
行政側が記録にする。
ここが面白い。
私は沢渡課長のところへ戻りました。
「課長」
「何でしょう」
「口頭って」
「はい」
「紙が要らない手続じゃないんですね」
「申立人が自分で審査請求書を書く必要がない、というだけでしょう」
「行政側が録取する」
「そうです」
「本人に読み聞かせる」
「そうです」
「間違ってたら直す」
「当然です」
「押印」
「この時代は、そこまでです」
この時代。
と言った?
私は沢渡課長を見ました。
「課長」
「何でしょう」
「今ちょっと未来人みたいな言い方しませんでした?」
「何の話ですか」
「ですよね」
危ない。
私が疲れているだけです。
沢渡課長が通知書を見ながら言いました。
「それで片桐先生」
「何だ」
「本案についてですが」
空気が変わりました。
ここからが、
申立ての中身。
「取消処分を直ちに撤回するつもりはありません」
来た。
一度出した処分。
簡単には戻さない。
沢渡課長です。
「市場管理上、通路確保は重要です」
「否定してない」
相馬先輩が言いました。
「本人も違反した事実は認めてる」
「なら」
「だが、一回だ」
「はい」
「しかも即日是正」
「そのようですね」
「再発なし」
「記録上は」
「それで営業そのものを止めるのか?」
沢渡課長は答えません。
私はさっきの録取内容を思い出しました。
他の店舗。
類似の状態。
扱い。
「課長」
「はい」
「他店舗の記録を確認してもらえますか」
「何の記録です?」
「通路への商品陳列に対する注意や指導」
「なぜです」
「神谷さんだけ取消処分まで行っている理由を知りたいからです」
「個別事情が違います」
「だから比べたいんです」
沢渡課長が黙ります。
「一回注意」
私は指を折りました。
「即日是正」
二本目。
「その後再発なし」
三本目。
「それで使用許可取消し」
四本目。
「ほかに似たケースがあるのに、そこでは取消しまで行っていないなら」
私は一度息を吸いました。
「神谷さんにだけ一番重い処分をした理由が必要ですよね」
「行政庁には管理上の裁量があります」
「あります」
「なら」
「裁量があることと、理由なくバラバラに扱っていいことは同じじゃありません」
一瞬。
相馬先輩がこちらを見ました。
沢渡課長も。
私は続けます。
「神谷さんが悪くなかった、とは言ってません」
「……」
「箱を出した。それは事実です」
「はい」
「注意された。それも事実」
「はい」
「でも、直した」
「はい」
「それでも店を全部取り上げる。それが本当に必要な重さだったのか」
沢渡課長の指が机を一度叩きました。
「朝比奈さん」
「はい」
「今日はずいぶん整理されていますね」
「口頭申立ての練習をしたので」
「なるほど」
ほんの少し。
沢渡課長の口元が緩みました。
「他店舗の記録は確認します」
「取消しも?」
「そこまでは言っていません」
「ですよね」
「ただし」
沢渡課長は立ち上がりました。
「同様事例との処分の均衡は確認します」
神谷さんが顔を上げます。
「それだけでもいいです」
「神谷さん」
私は小さく言いました。
「まだ結果は出てません」
「分かっとります」
神谷さんは帽子を被りました。
「でもな」
「はい」
「さっき、わしの言ったことを役所の人が読み上げたでしょう」
「はい」
「あれ聞いてたら」
少し笑います。
「ちゃんと話を聞いてもらった気がした」
私は返事ができませんでした。
ただ聞く。
と、
記録して読み返す。
は、
似ているようで全然違う。
行政の人が、
あなたはこう言いましたね。
と本人へ返す。
違うなら、
その場で直す。
それだけ。
でも。
声が制度の中へ入ったことを、
本人自身が確認できる。
口頭申立てというのは、
話しやすくするだけの制度ではないのかもしれません。
言葉を消さない仕組み。
そんな気がしました。
三日後。
片桐事務所の電話が鳴りました。
「はい」
『沢渡です』
声だけで分かるようになってしまいました。
「神谷さんの件ですか」
『ええ』
「どうでした?」
『市場管理課の過去一年分の指導記録を確認しました』
「はい」
『通路への商品陳列について、注意を受けた店舗は五店舗』
「五」
『そのうち四店舗は是正後、処分なし』
「……え?」
『神谷さんだけ使用許可取消しです』
私は立ち上がりました。
「理由は?」
『それを調べました』
「はい」
『神谷さんの区画が、再整備に伴う仮設市場縮小予定区画に入っています』
止まりました。
「それ」
『ええ』
沢渡課長の声は冷静です。
『通路違反だけが理由ではなかったようです』
「でも通知には」
『市場管理上の指示に従わなかったため、としかありません』
「しかも、従ってますよね。注意後は」
『その点も問題です』
来た。
話が変わりました。
通路違反。
それだけだと思っていた。
でもその裏に、
再整備。
仮設市場の縮小。
駅前開発。
神谷さんの区画を先に空けたい。
そんな事情が混ざっていた。
「課長」
『はい』
「これ、取消処分を維持します?」
数秒。
『一度撤回して、改めて処理する方向で検討しています』
私は息を吐きました。
「こちらの勝ちですか」
『そういう言い方は好きではありません』
「じゃあ」
『こちらの処理が雑でした』
沢渡課長。
強い。
間違いを認めるときまで乾いています。
「なるほど。これはこちらの負けですね、くらい言ってくださいよ」
『嫌です』
「そこだけ頑固!」
『それより』
「はい」
『神谷さんには、再整備による区画縮小の話を正式に説明します』
「いきなり追い出さずに?」
『当然です』
「代替区画は」
『空きが一つあります』
「……あるんですか」
『あります』
「最初からそれを提案すればよかったんじゃないですか!」
『その点も含めて、処理が雑だったと言っています』
すごい。
役所の事なかれ主義を、
役所自身が雑と認定しました。
「朝比奈さん」
「はい」
『一つ言っておきます』
「何でしょう」
『口頭申立てだったのは、今回は大きかったかもしれません』
「え?」
『神谷さんの言葉が、その場で録取されています』
「はい」
『駅前整備そのものには反対していない。決まった日までは商売したい』
「……はい」
『あれで争点が見えました』
私は黙りました。
もし。
こちらで申立書を書いていたら。
もっと法律っぽく。
もっと綺麗に。
処分の不当性。
比例。
公平性。
そう整理したかもしれません。
でも。
神谷さん自身の言葉。
駅前整備に反対しているわけではない。
ただ、
決まった日までは商売させてほしい。
その一言が、
役所側にも、
これは開発反対運動ではない。
処分の重さの問題だ。
と見せた。
「口頭にも意味があるんですね」
『だから制度として認められているのでしょう』
「課長が言うと教科書みたいです」
『仕事中ですから』
電話が切れました。
私はしばらく受話器を見ました。
「どうした」
相馬先輩。
「処分、いったん撤回する方向です」
「理由は」
「通路違反だけじゃなかった」
片桐所長も顔を上げます。
「駅前再整備」
「……そうか」
「神谷さんの区画を、先に空けたかったみたいです」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「また駅前か」
その一言が、
妙に残りました。
また。
駅前。
花売り台。
露店。
仮設市場。
ばらばらに見えていた処分。
でも。
その後ろには、
同じ再整備計画が少しずつ見え始めています。
私はノートの端に、
小さく、
――駅前再整備。
と書きました。
その日の午後。
神谷さんが事務所へ来ました。
「聞きました」
「取消しは、いったん撤回の方向です」
「はい」
「ただし、ずっと今の場所で営業できるわけではありません」
「分かっとります」
「再整備で区画が縮小される話は、改めて説明があります」
「はい」
「代替区画も候補があるそうです」
神谷さんは、
しばらく黙っていました。
「それで十分です」
「本当に?」
「わしな」
帽子を膝へ置きます。
「駅前がきれいになるのは、悪いことだと思っとらんのです」
「はい」
「若い人も来るようになればいい」
「はい」
「ただ」
神谷さんは笑いました。
「だからって、わしをゴミみたいに先に片づけんでもいいでしょう」
胸に刺さりました。
そうです。
開発そのものが悪いわけじゃない。
観光振興も。
再整備も。
道路も。
新しい店も。
必要かもしれない。
でも。
大きな計画の端っこで、
一人分の生活を雑に扱っていい理由にはならない。
「はい」
私は答えました。
「その通りです」
神谷さんが紙袋を持ち上げました。
「今日は白菜漬け」
「やった!」
相馬先輩。
速い。
「先輩!」
「何だ」
「相談者より先に喜ばないでください」
「沢庵より白菜派だ」
「知らないですよ!」
神谷さんが笑います。
「朝比奈さんにもあるよ」
「ありがとうございます」
「所長にも」
「どうも」
「相馬さんは」
「はい」
「沢庵食べすぎたって聞いたから少なめ」
「誰が言った」
私です。
でも黙っておきます。
片桐所長が白菜漬けの包みを受け取ります。
「神谷さん」
「はい」
「次に役所で話をするときも」
「はい」
「確認しろ」
「何を?」
「自分の言ったことが、相手にどう記録されたか」
神谷さんは少し考えて、
頷きました。
「はい」
私はその言葉をノートへ書きました。
今日の教訓。
――口頭とは、記録しないことではない。
もう一行。
――話した内容を行政が録取し、本人が読み聞かせで確かめて、初めて「正式な言葉」になる。
「二行」
相馬先輩が即座に言いました。
「まだ完成してません!」
「じゃあ一行にしろ」
考えます。
そして。
――口頭申立ては「しゃべって終わり」じゃない。録取して、読み返して、言葉を制度に残す。
「長い」
「内容が大事です!」
「もっと短く」
「じゃあ」
私は下に書きました。
――口頭でも、言葉は記録にする。
相馬先輩が頷きます。
「それでいい」
「先輩、今日は厳しいですね」
「白菜食いたいから早く終われ」
「教育的意図ゼロ!」
窓の外。
駅前のほうに、
夕日が落ちています。
あの先で。
古い店がいくつも並んでいる。
花屋。
露店。
仮設市場。
少しずつ、
新しい町へ変えられていく場所。
行政計画は大きい。
一人の生活は小さい。
だから放っておけば、
大きいほうが簡単に小さいほうを踏みます。
そんなとき。
法律は、
大声を出して止めるわけではありません。
氏名。
住所。
処分。
知った日。
趣旨。
理由。
教示。
そんな冷たい項目を一つずつ並べる。
そして。
人が喋ったことを記録し、
本人へ読み返し、
本当にその言葉でいいのか確かめる。
地味です。
ものすごく地味です。
でも。
神谷さんの、
――駅前整備には反対していない。
――決まった日までは商売したい。
その一言は、
ちゃんと記録に残りました。
だから、
誰かの机の上で、
「開発反対の苦情」
に勝手に変換されずに済んだ。
制度の冷たさは、
人の言葉から熱を奪うことがあります。
でも。
同時に。
誰かが勝手に別の意味へ変えてしまうことも、
止めてくれる。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「皿」
「また私ですか」
「見習いだ」
「白菜漬けくらい各自で取ってください!」
「不服か」
「不服です」
相馬先輩がにやりとします。
「口頭で申し立てるか?」
「します!」
「特別な定めは?」
「うちの事務所にそんな条例ありません!」
「じゃあ書面だな」
「面倒くさい!」
所長が一言。
「録取してやる」
「え?」
相馬先輩が新聞の裏を出しました。
「氏名」
「朝比奈こはる」
「住所」
「何で本格的なんですか!」
「不服の内容」
「白菜漬けの皿を私だけに出させるのは不当です!」
「理由」
「全員に手があります!」
「なるほど」
相馬先輩が新聞の裏に、
何やら書きます。
「読み上げます」
「やるんですか!?」
「申立人朝比奈こはるは、白菜漬けを一人で全部食べたいので――」
「違う!」
「誤りがありますか」
「最初から全部違います!」
「じゃあ訂正」
私は思わず笑いました。
そう。
だから読み聞かせるのです。
言ったことと、
書かれたことが、
同じとは限らないから。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
口頭で話せる制度にも、
ちゃんと「確認」という歯止めがあります。
そして今日。
その意味を一番よく理解したのは、
たぶん私ではなく。
「白菜、早くしろ」
「先輩は絶対違います」
相馬先輩以外の全員でした。
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