[行政不服審査法19条・審査請求の方式]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、梨の甘い匂いが残っていました。
正確には。
梨そのものも残っています。
野々村さんが持ってきてくれた十二個。
昨日の夕方には十二個。
今日の夕方には四個。
「先輩」
「何だ」
「減り方がおかしくないですか」
「梨は腐る」
「腐る前に食べただけですよね」
「食品管理だ」
「行政書士事務所の業務みたいに言わないでください」
相馬先輩は新聞を広げたまま、まったく悪びれません。
片桐所長は奥で帳簿を書いています。
私は机の上にノートを広げました。
今日の見出し。
――審査請求の方式。
そして、その下に大きく、
――原則、書面。
と書きます。
さらに少し間を空けて、
――例外、口頭。
「昨日と同じじゃねえか」
新聞の向こうから相馬先輩の声が飛んできました。
「復習です」
「それなら三秒で終わるな」
「終わりません」
「何でだ」
「原則と例外の間に、昨日の野々村さんが一時間くらい怒ってましたから」
新聞が少し下がりました。
「それは条文に書いてねえ」
「現場には書いてありました」
野々村正吉さん。
農業関係の許可申請を不許可にされ、
市役所へ三回出向いた人です。
不服だ。
納得できない。
県へ伝えてくれ。
取り消してほしい。
そこまで口頭で伝えていました。
本人は、
――もう不服申立てをした。
と思っていた。
ところが。
法律上の不服申立てとしては扱われていなかった。
理由は単純です。
その制度では、
原則として書面による申立てが必要だったから。
「じゃあ、今日の問題です」
私はペンを持ちました。
「役所の窓口で『この処分には納得できません。取り消してください』と言いました」
「うん」
「これで審査請求成立」
「しない」
「早い」
「昨日やった」
「じゃあ次」
私は続けます。
「一時間怒鳴りました」
「しない」
「課長まで出てきました」
「しない」
「机を叩きました」
「むしろ別の問題が増えそうだな」
「そうですね」
大事なのは、
怒りの強さではありません。
声量でもない。
担当者がどれだけ申し訳なさそうな顔をしたかでもない。
法定の方式を満たしているか。
そこです。
「法律って、情緒がないですよね」
私が言うと、
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「情緒で成立する手続のほうが怖い」
「……あ」
短い。
でも確かに。
Aさんは真剣だったから正式申立て。
Bさんは声が小さかったから相談扱い。
Cさんは怒っていたから苦情。
そんな基準で決まったら、
そっちのほうがずっと怖い。
だから、
書面という形を要求する。
誰が見ても、
この人はこの処分を争っている。
そう残すために。
「所長」
「何だ」
「書面主義って、単に役所が紙好きだからじゃないんですね」
「役所は紙も好きだ」
「否定しないんですね」
「だが、それだけじゃない」
私はノートに書きます。
書面で出す意味。
誰が申し立てたのか。
何の処分についてなのか。
いつ知ったのか。
何を求めるのか。
なぜ争うのか。
そして。
いつ申し立てたのか。
これらを記録として残す。
「野々村さんの場合」
私は言いました。
「口頭ではかなり具体的に話してました」
「ああ」
「でも、あとから担当者が『あれは相談だと思った』と言えば揉める」
「そうだな」
「逆に野々村さんが『取消しまで求めてない』と言い出す可能性だってある」
「ある」
「だから紙にする」
「そういうことだ」
書面は、
住民を縛るだけのものではありません。
役所側も縛ります。
受け取った以上、
ただの雑談だったとは言いにくい。
苦情箱行きにもできない。
法定の不服申立てとして処理しなければならない。
「昨日の沢渡課長」
私は思い出しました。
野々村さんが三回口頭で訴えたときには、
『ご意見として伺います』
だった。
でも。
審査請求書を出した瞬間。
『今日は審査請求ですから』
と言った。
同じ不満。
同じ処分。
同じ人。
なのに。
紙一枚で、
役所側の扱いが変わった。
「ちょっと怖いですね」
「何がだ」
「形式を知らない人ほど損しやすい」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「だから仕事になる」
「身も蓋もない」
「行政書士ってのは、紙を書く仕事じゃねえぞ」
「え?」
「紙にしなきゃ動かねえ話を、動く形にする仕事だ」
私は数秒黙りました。
「先輩」
「何だ」
「今日すごく格好いいこと言いましたね」
「忘れろ」
「ノートに書きます」
「やめろ」
書きました。
――紙を書く仕事ではなく、権利を動く形にする仕事。
「消せ」
「嫌です」
さて。
ここからが試験です。
私はノートの真ん中に線を引きました。
左。
原則。
右。
例外。
「原則は?」
相馬先輩。
「書面」
「例外は?」
「口頭」
「雑だな」
「先輩が聞いたんでしょう!」
ただし。
ここを雑に覚えると危ない。
審査請求は、
いつでも口頭でできるわけではありません。
原則は書面。
口頭でできるのは、
他の法律に、
口頭ですることができる旨の定めがある場合。
そして現代法では、
条例に基づく処分については、
条例にその定めがある場合も同様です。
「つまり」
私は書きます。
口頭でやりたい。
本人が字を書くのが苦手。
役所まで来た。
担当者が内容を全部理解した。
――だから口頭でいい。
ではない。
「特別な根拠が必要」
所長が言いました。
「はい」
「便利だから口頭、じゃない」
「はい」
「法律等が認めているから口頭」
「そこですね」
私は二重線を引きました。
ここは試験で引っかけやすい。
原則は書面。
でも、
本人が口頭を希望すれば口頭でもよい。
――違う。
役所側が了承すれば口頭でもよい。
――違う。
緊急なら口頭でもよい。
――そうとも限らない。
他の法律などに、
口頭ですることができる旨の特別な定めがある。
そこが必要です。
「何でそこまで固いんですかね」
私は言いました。
「さっき答え出ただろ」
相馬先輩が言います。
「記録に残すため」
「それもあります」
でも。
もう一つ。
手続をする側も、
受ける側も、
これが正式な不服申立てなのかどうか。
境界を明確にする。
野々村さんの事件は、
まさにそこでした。
不服です。
取り消してください。
それだけ聞けば、
普通の感覚なら十分そうです。
でも行政の窓口には、
苦情。
相談。
要望。
陳情。
質問。
正式な不服申立て。
いろいろなものが来る。
全部を同じ扱いにはできない。
「つまり」
私は言いました。
「『怒っている』と『法定の手続を開始する』は別」
「そうだ」
「現場編で一番大事だったところですね」
野々村さんは、
怒っていました。
でも。
怒っている事実と、
審査請求が適法にされた事実は別。
だから片桐所長は、
感情を否定しませんでした。
ただ。
形にした。
私は次の見出しを書きました。
――何を書くのか。
「教材では出題可能性低めってところですけど」
私は言います。
「現場では大事です」
「試験で出にくいから仕事で要らねえ、にはならんからな」
「ですよね」
処分について審査請求をする場合。
現代法十九条なら、
大きく六つ。
私は指を折ります。
「一つ。審査請求人の氏名または名称と住所または居所」
「誰が申立てるか」
「二つ。審査請求に係る処分の内容」
「何を争うか」
「三つ。処分があったことを知った年月日」
「期間確認にも関係する」
「四つ。審査請求の趣旨と理由」
「何を求めて、なぜ争うか」
「五つ。処分庁の教示の有無と内容」
「うん」
「六つ。審査請求の年月日」
「いつ出したか」
こうして見ると。
単なる書類上の飾りではありません。
昨日の事件そのものです。
野々村さん。
誰が。
不許可処分。
何を。
七月三日に知った。
いつ知った。
取消しを求める。
何を求める。
事前説明との食い違いや判断過程に疑問がある。
なぜ争う。
通知には不服申立てについての教示がある。
どんな案内を受けた。
そして。
いつ申し立てるか。
「こう並べると」
私は言いました。
「審査請求書って、事件を分解する紙ですね」
「そうだな」
「誰が、何を、いつ知って、どうしてほしいか」
「それが分からん申立書は、読むほうも困る」
「ですよね」
昨日の野々村さんが、
もし勢いだけで書いていたら。
――こんな処分は絶対におかしい!
――市役所はちゃんと説明しろ!
――俺は三回も行った!
たぶん、
気持ちはよく分かります。
でも。
何を取り消してほしいのか。
どの処分か。
いつ知ったのか。
理由は何か。
そこを拾い直さなければ、
法的な申立書にはならない。
「だから所長が」
私は思い出しました。
感情は書くな。
ではなく。
今回は、
紙には怒鳴らせない。
論点を喋らせる。
そういう仕事だった。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「感情を書くな、という意味じゃない」
「え?」
「事実として必要なら書く」
「なるほど」
生活への影響。
処分までの経緯。
担当者とのやり取り。
それが処分の不当性や手続の問題につながるなら、
当然、意味があります。
でも。
怒っていること自体を、
法的理由の代わりにはしない。
「感情を捨てるんじゃなくて」
私は言いました。
「法的意味のある事実に翻訳する」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
私はそれもノートに書きました。
――怒りを削るのではなく、争点に翻訳する。
「今日は名言ノートか」
相馬先輩が覗き込みます。
「勉強ノートです」
「梨の食った数まで書いてあるぞ」
「証拠保全です」
「消せ」
次。
不作為の場合。
「処分の場合より記載事項が少ないですね」
私はページを変えました。
現代法十九条で、
不作為について審査請求をする場合。
書くのは、
審査請求人の氏名または名称と住所または居所。
不作為に係る処分についての申請の内容と年月日。
審査請求の年月日。
「処分内容は?」
相馬先輩が聞きます。
「まだ処分がない」
「知った日は?」
「処分自体がない」
「趣旨と理由は?」
私は少し考えました。
「十九条三項の列挙では、処分の場合みたいには入ってない」
「そうだな」
なるほど。
不作為。
行政庁が、
申請に対して処分すべきなのに、
何もしていない。
だから、
どの処分を争うか。
ではなく。
何を申請したのか。
いつ申請したのか。
そこが軸になる。
「事件の形が違うから、書く内容も違う」
「そういうことだ」
ここも、
表だけ覚えると退屈です。
でも構造が分かると当然です。
処分あり。
その処分を特定する。
不作為。
処分がないから、元の申請を特定する。
「行政法、意外と理屈通ってますね」
相馬先輩が呆れました。
「意外は余計だ」
「受験生の頃は、覚える欄が増えたとしか思ってなかったんですよ」
「かわいそうな勉強法だな」
「今、治療中です」
次。
代理人。
総代。
法人。
私はノートの端に矢印を書きました。
本人以外が前面に出る場合、
その人が誰なのかも書く。
「昨日は野々村さん本人でした」
「ああ」
「もし代理人による審査請求なら」
「代理人の氏名や住所等も必要になる」
「はい」
当たり前と言えば当たり前です。
誰が本人の代わりに手続しているのか。
それが分からないと困る。
法律の書類には、
『誰がやっているのか』
がとにかく重要です。
「行政法って」
私は呟きました。
「主語にうるさいですよね」
「法律は大体そうだ」
「誰が処分した」
「うん」
「誰が申立てた」
「うん」
「誰が審査する」
「うん」
「誰に権限がある」
「それを間違えるな」
所長が言いました。
短い。
でもこれ、
たぶんシリーズ全体の話でもあります。
誰が。
何の権限で。
何をした。
そこを追う。
行政法の事件は、
主語を曖昧にすると急に迷子になります。
さて。
ここで一番危ないところ。
私はノートに赤線を引きました。
――昭和六十三年。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「何です?」
「未来人事故」
「言い方!」
でもその通りです。
今回の教材は、
現行の行政不服審査法十九条。
平成二十六年全面改正後の制度です。
今、
私が生きている昭和六十三年は旧法。
だから。
現代の十九条を、
そのまま事件に持ち込んではいけない。
「昨日も危なかったですよ」
「何がだ」
「三か月」
「ああ」
審査請求期間。
現代なら原則三か月。
旧法では原則六十日。
野々村さんが不許可を知ったのは七月三日。
相談に来たのは八月二十六日。
未来の感覚なら、
まだ一か月以上ある。
くらいに思ってしまう。
でも旧法では。
そんな余裕はありません。
「未来の知識があるせいで、逆に期限落としたら笑えませんね」
「笑うぞ」
「先輩は笑うんですか!」
「終わってからな」
「最低!」
そして。
制度そのものも違います。
旧法では、
審査請求と異議申立てが併存していた。
上級行政庁がある場合には審査請求。
上級行政庁がない場合などには異議申立て。
もちろん個別法の特則があるので、
現場では必ず根拠を確認する。
一方、
現代は原則として審査請求へ一本化。
「昨日の野々村さんは」
私は言いました。
「県側の審査庁へ審査請求する事件だった」
「そうだ」
「だから今回は異議申立てじゃない」
「川瀬さんの事件とは違う」
ここ。
大事です。
不服がある。
だから不服申立て。
そこまでは同じ。
でも。
どの手続を使うか。
誰に出すか。
それは処分庁や上級行政庁の有無などで変わる。
「旧法って」
私は言いました。
「住民からすると、入口で一回悩ませますよね」
「異議か審査か、って?」
「はい」
「だから現代では整理されたんだろ」
「そこなんです」
現代法では、
原則として審査請求に一本化。
さらに、
審理員制度。
行政不服審査会等への諮問。
昭和六十三年には、
そんなものはありません。
「昨日、審理員どこかなって一瞬思いました」
「いねえよ」
「未来にはいるんです」
「未来に帰って探せ」
「帰れないから困ってるんです!」
でも。
なぜ改正されたのか。
少し分かります。
旧法では、
異議申立てと審査請求が並び、
入口が分かりにくい。
しかも異議申立てでは、
処分庁自身が見直す場面がある。
もちろん、
自己修正が早い。
現場を知っている。
そういう利点もあります。
でも申立人から見れば、
自分で処分して、
自分で見直す。
本当に公平なのか。
という疑問が出る。
だから後の制度改正で、
入口を原則審査請求へ整理し、
処分に関与していない職員による審理員制度など、
公正性を高める仕組みが設けられた。
「だから」
私は言いました。
「旧法と現行法を比べると、制度改正って暗記じゃなくて、困りごとの履歴なんですね」
片桐所長が頷きました。
「制度は理由なく変わらん」
「ですよね」
受験生のころは、
旧法。
六十日。
異議申立てあり。
現行法。
三か月。
審査請求へ一本化。
審理員。
と表にしていました。
でも。
今なら。
野々村さんが、
どこへ出せばいい。
口頭で言っただけじゃ駄目なのか。
期限はいつまでだ。
と混乱した顔が浮かびます。
制度改正は、
こういう混乱を一つずつ拾った結果なのかもしれない。
「ただし」
所長が言いました。
「新法だから簡単とは限らん」
「はい」
「制度が整理されても、方式は残る」
「あ」
その通りです。
現代法でも。
審査請求は、
原則として審査請求書を提出して行う。
審査請求に一本化されたから、
何でも口頭でいいわけではない。
手続の入口が整理されたことと、
方式が不要になることは別。
「そこ、試験で混ぜられそうですね」
私は言いました。
「現代では審査請求へ一本化された。だから方式も簡略化され、口頭でできる」
「誤り」
「はい」
「一本化と書面主義は別の話」
「そこです」
論点を分ける。
また出ました。
行政法で迷ったら、
だいたい何かを混ぜています。
手続の種類。
申立期間。
申立方式。
申立先。
審理の仕組み。
これらは別々。
「野々村さんの事件でも」
私は整理します。
一。
どの不服申立てを使うか。
旧法上の審査請求。
二。
いつまでか。
旧法上の申立期間。
三。
どうやって申し立てるか。
原則書面。
四。
どこへ出すか。
審査庁等を確認。
五。
何を書くか。
申立人、対象処分、知った日、趣旨、理由など。
「こうやって分ければ簡単なんですよね」
「混ぜるから難しくなる」
所長が言いました。
「はい」
昨日までの私は、
全部ひっくるめて、
不服申立て。
と思っていました。
だから眠い。
でも。
現場では、
どの扉。
いつまで。
何を持って。
誰に渡す。
全部違う問題です。
私は次に、
――口頭でできる例外。
と大きく書きました。
「ここ、もう一回やります」
「まだやるのか」
「ここが今回のテーマです」
原則書面。
例外として、
他の法律に口頭でできる旨の定めがある場合。
現代法では、
条例に基づく処分について、
条例に口頭でできる旨の定めがある場合も含む。
「大事なのは」
私は言いました。
「例外があるからって、役所の窓口で好きに喋ればいいわけじゃない」
「そうだ」
「法律や条例に根拠がいる」
「そうだ」
「じゃあ、野々村さんが三回行ったうち、一回目に『口頭で審査請求します』って言ってたら?」
相馬先輩が聞きます。
「それだけでは足りない」
「なぜ」
「この事件について、口頭でできる特別な定めがないから」
「じゃあ職員が全部メモしたら?」
「それでも、原則書面」
「課長が『分かった、正式に受け付ける』と言ったら?」
少し考える。
「根拠なく口頭方式を認められるわけじゃない」
「そうだ」
ここ。
かなり大事です。
役所の人が親切かどうか。
理解してくれたかどうか。
そこでは決まらない。
法定された方式。
だからこそ、
人によって扱いが変わりにくい。
「制度の冷たさが人を守るって」
私は呟きました。
「こういうところなんですね」
昨日。
野々村さんは怒りました。
俺はちゃんと言った。
それなのに、
正式な審査請求として扱われていなかった。
その瞬間だけ見れば、
書面主義は冷たい。
でも逆に。
審査請求書を出したあと、
役所は、
これはただの愚痴です。
とは言えなくなった。
書面主義は、
入口では厳しい。
でも。
入ったあとは強い。
「所長」
「何だ」
「書面って、住民に『ちゃんとしろ』って求めるだけじゃなくて」
「うん」
「役所にも『ちゃんと扱え』って求めるんですね」
「そうだ」
私はそこに大きく丸をつけました。
今日の核心。
形式は、
市民を排除する壁にもなり得る。
だから窓口の説明は必要。
でも同時に。
形式は、
市民の申立てを役所の都合で曖昧に扱わせないための枠にもなる。
だから、
冷たい形式をなくせば全部優しくなる。
というほど単純ではない。
「昨日、沢渡課長が」
私は言いました。
「窓口対応と審査請求の成立は別問題って言ってました」
「ああ」
「これも大事ですね」
野々村さんが口頭で不服を伝えた。
だから当然に審査請求が成立する。
――とは限らない。
でも。
法定の不服申立てをしたい意思が明らかな住民に、
職員が何の案内もせず、
ただ「ご意見として伺います」で終わらせた。
それが適切だったか。
――これは別に問える。
「一つの出来事から、二つの問題が出る」
「そうだ」
「成立したか」
「うん」
「窓口対応は適切だったか」
「うん」
「混ぜない」
「そうだ」
法律は、
怒りを一個の大きな塊で受け取りません。
細かく切る。
この問題。
あの問題。
成立。
期限。
教示。
対応。
権限。
それぞれ別に見る。
冷たい。
でも。
だからこそ、
「全部気に入らない」
という喧嘩を、
解ける問題に変えてくれる。
私はノートの最後のページを開きました。
「試験対策、まとめます」
「やっとか」
「原則」
「書面」
「例外」
「他の法律などに口頭でできる旨の定めがある場合」
「現代法の条例に基づく処分なら」
「条例による例外もあり得る」
「処分についての審査請求書」
私は指を折ります。
「申立人。処分。知った日。趣旨と理由。教示。年月日」
「不作為」
「申立人。元の申請の内容と年月日。審査請求年月日」
「代理人や総代」
「その人の氏名や住所等も追加」
「旧法の期間」
「原則六十日」
「現代」
「原則三か月」
「旧法の不服申立て」
「異議申立てと審査請求が併存」
「現代」
「原則審査請求へ一本化」
「昭和六十三年に審理員」
「いない」
「行政不服審査会への諮問」
「今の制度をそのまま持ち込まない」
相馬先輩が腕を組みました。
「今日はまともだな」
「いつもまともです」
「たまに未来法で事故るだろ」
「それは特殊事情です!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「一行」
来た。
いつものやつ。
私はペンを持ち直しました。
「今回の一行……」
考える。
原則書面。
例外口頭。
でも、
それだけでは少し足りない。
今回の事件で分かったのは、
方式そのものの意味です。
私は書きました。
――不服申立ては原則書面。形式は面倒でも、怒りを「正式な権利救済」に変える境界線になる。
相馬先輩が覗き込みます。
「長い」
「またですか」
「一行じゃなくて標語だ」
「じゃあ短くします」
下にもう一つ。
――原則書面、例外口頭。形にして初めて、不服は手続になる。
「まあいい」
「褒めた」
「気のせいだ」
「今日はそれ二回目です」
そのとき電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『野々村だ』
「こんにちは」
『県からまた手紙が来た』
「何か問題ですか?」
『いや』
少し間。
『ちゃんと俺の言ったことが書いてある』
「え?」
『向こうの書類にな』
私は黙りました。
『俺が何を不服に思ってるか。どの処分を争ってるか。書いてある』
「はい」
『前は何回喋っても、どこに消えたか分からんかった』
その言葉が、
少し胸に残りました。
『紙ってのも悪くないな』
「野々村さんがそれ言います?」
『ただし』
「はい」
『書くのは嫌いだ』
「そこは変わらないんですね」
『だからまた頼む』
「はい」
思わず笑いました。
「そのために私たちがいます」
『また格好つけたな』
「何で知ってるんですか!」
電話の向こうで大笑い。
切ったあと。
相馬先輩がこちらを見ています。
「また言ったな」
「もういいでしょう!」
「癖になってんじゃねえか」
「いい台詞なんです!」
片桐所長が静かに言いました。
「梨」
「え?」
「最後の一個」
見る。
本当に一個。
「ちょっと待ってください」
私は箱を持ち上げました。
「昨日十二個あったんですよ!」
「そうだな」
「四個残ってたはずですよね」
「そうだな」
「今一個」
「そうだな」
「先輩」
「何だ」
「食べましたね」
「二個だけだ」
「所長!」
「一個」
「三個消えてる!」
「計算は合う」
「私まだ一個しか食べてないんですけど!」
相馬先輩が最後の梨へ手を伸ばします。
私はその手を叩きました。
「これは私のです!」
「口頭で主張しただけだろ」
「は?」
「権利を主張するなら書面にしろ」
「梨一個に審査請求書を作れっていうんですか!」
「原則だ」
「そんな特別法ありません!」
「じゃあ早い者勝ちだな」
「待って!」
相馬先輩の手。
私の手。
梨。
三者が同時に動きます。
その横で。
片桐所長が梨を取りました。
「あ」
「あ」
所長は包丁で梨を四つに切りました。
「分けろ」
短い。
強い。
「所長」
「何だ」
「最初からそうしてくださいよ」
「争いが起きてからのほうが、ルールは身につく」
「教育方針だったんですか?」
「違う」
「違うんだ!」
相馬先輩が笑いました。
私も笑いました。
窓の外では、
夕方の市役所の明かりが、
ぽつぽつ点き始めています。
野々村さんの審査請求は、
まだ結論が出ていません。
処分が取り消されるかもしれない。
維持されるかもしれない。
理由を補われて終わるかもしれない。
それはまだ分からない。
でも。
もう、
彼の言葉は消えません。
何を争っているか。
何を求めているか。
いつ申し立てたか。
それが、
行政の記録の中に残っている。
書面。
たったそれだけ。
法律の世界では、
少し窮屈で、
少し冷たい仕組みです。
でも。
声の大きさではなく。
担当者との相性でもなく。
怒鳴れる人かどうかでもなく。
決められた形を満たせば、
同じ入口から手続を始められる。
それはたぶん、
形式だからこそ守れる公平です。
私は最後の梨を一切れ口に入れました。
甘い。
法律の書面とは、
だいぶ違います。
でも。
今日のところは、
どちらも悪くありません。
ノートの最後に、
私はもう一度だけ書きました。
――原則書面、例外口頭。形にして初めて、不服は「正式な手続」になる。
そしてその下に、
小さく付け足しました。
――ただし梨は、口頭でも早い者勝ちになることがある。
「そこ消せ」
「嫌です」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
行政不服審査法の方式については少し理解が進みましたが、
梨の配分をめぐる適正手続については、
まだ制度整備の余地がありそうです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




