[行政不服審査法19条・審査請求の方式]現場編 「口で言ったから、もう不服申立てしたことになる」の罠。怒りを訴えるだけの窓口と、権利を動かす一枚の書面
役所で一時間怒っても、一枚の書類に負けることがあります。
言った。
聞いてもらった。
課長まで出てきた。
「納得できない」と何度も伝えた。
それでも。
法律の上では、
――まだ何も始まっていない。
そんなことがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は一枚のメモ用紙を見ながら、盛大に首をかしげていました。
「先輩」
「何だ」
「これ、何語ですか」
「日本語だ」
「そういう意味じゃありません」
机の上にあるのは、
市役所。
農政課。
県庁。
電話番号。
日付。
担当者名らしき名字。
その横に、
――納得できない。
――県に言う。
――もう一度考えてくれ。
――課長対応。
と、鉛筆で走り書きされています。
そして最後に。
赤鉛筆で、
――不服申立て済み。
「誰が書いたんです?」
「相談者」
「不服申立て済みって」
「本人はそう思ってる」
「本人は?」
嫌な言い方です。
こういうときの相馬先輩は、
だいたいもう一枚、嫌な紙を持っています。
「ほら」
渡されたのは、
農業関係の許可申請に対する不許可通知でした。
申請者。
野々村正吉。
五十八歳。
市の外れで、小さな農機具修理店を営んでいる男性です。
農地転用に関係する申請を出したものの、不許可。
細かい許可要件の話はさておき。
野々村さんには、どうしても納得できない事情がありました。
市から事前に聞かされていた説明と、
実際の不許可理由が、
どうにも噛み合わなかったのです。
「それで市役所へ?」
「ああ」
「文句を言いに?」
「本人は、不服申立てをしに行ったつもりらしい」
「つもり」
また嫌な言葉が出ました。
そのとき。
事務所の扉が勢いよく開きました。
「先生!」
大きな声。
大きな体。
日に焼けた顔。
作業着姿の男性が、茶封筒を握って立っています。
「野々村さんですか?」
「ああ。あんたが朝比奈さんか」
「はい」
「俺、もう県に話は上がっとるんだろ?」
私は一瞬、止まりました。
相馬先輩を見る。
相馬先輩は煙草をくわえたまま、私を見ません。
逃げた。
こういうときだけ先輩のくせに逃げた。
片桐所長が奥から出てきました。
「座ってください」
「ああ」
野々村さんは椅子に座るなり、茶封筒から紙を全部出しました。
「市役所には三回行った」
「三回」
「農政課で二回。総務で一回だ」
「何を話しました?」
「全部だよ」
野々村さんは机を指で叩きます。
「俺は納得できん。これはおかしい。県にも言う。正式に不服だってな」
「そのとき、何か書類は出しました?」
「書類?」
「はい」
「出してない」
そこで。
事務所の空気が、ほんの少し変わりました。
「何でだ?」
野々村さんが私たちを見回します。
「役所の人間に直接言ったんだぞ」
「はい」
「課長も出てきた」
「はい」
「『この処分には不服がある』って言った」
「はい」
「だったら不服申立てだろ?」
私は返事をする前に、通知書を見ました。
処分庁。
市ではありません。
県の機関。
市役所は申請書類の受付や事実確認には関わっていましたが、最終的な処分をした行政庁は別です。
そして。
教示欄。
小さな文字。
審査請求についての記載。
相馬先輩が言いました。
「野々村さん」
「何だ」
「役所で怒鳴ったのはいつだ」
「怒鳴っちゃおらん」
「声は?」
「多少大きかった」
「怒鳴ってるじゃねえか」
「話を聞かんもんだから仕方ねえだろ!」
今の声量で、当時の様子がかなり再現できました。
「日付だ」
「ああ……」
野々村さんが手帳を開きます。
「八月二十二日」
「不許可通知を受け取ったのは?」
「七月三日」
私は反射的に頭の中で数えました。
七月三日。
八月二十二日。
そして今日は、
八月二十六日。
六十日。
ぎりぎり。
いや。
かなり嫌な位置です。
私の脳内に、現代の行政不服審査法が勢いよく飛び出しました。
三か月。
まだ大丈夫。
――違う!
私は自分の膝を叩きました。
「痛っ」
「何やってんだ」
相馬先輩が言います。
「何でもありません」
ここは昭和六十三年。
現在の原則三か月ではない。
旧法。
原則六十日。
現代知識の便利さが、
今日は完全に毒です。
「先輩」
「ああ」
「急いだほうがいいですよね」
「だから呼んだ」
片桐所長が通知書を取ります。
「野々村さん」
「はい」
「市役所で話したとき、担当者は何と言いました」
「最初は『処分は県ですから』って」
「そのあと」
「俺が『じゃあ県へ不服を言ってくれ』と言ったら、『ご意見として伺います』って」
「不服申立書を書けとは?」
「言われてない」
「用紙を渡された?」
「ない」
「口頭で不服申立てを受け付ける、と言われた?」
「いや」
私は嫌な汗が出てきました。
言った。
確かに言っている。
本人の気持ちとしては、
間違いなく不服を申し立てた。
でも。
法律上の手続として成立したか。
それは別です。
「先輩」
「何だ」
「不服申立てって、この時代も原則――」
「書面だ」
やっぱり。
私は唇を噛みました。
旧行政不服審査法では、不服申立ては原則として書面です。
他の法律や、条例に基づく処分なら条例に、
口頭でできるという特別な定めがある場合は別。
でも。
ただ窓口で、
「納得できない」
と言っただけでは。
原則として、
正式な不服申立てになったとは限らない。
いや。
この件では、かなり危ない。
「そんな馬鹿な」
野々村さんの声が低くなりました。
「俺は三回も行ったんだぞ」
「分かります」
「ちゃんと不服だって言った」
「はい」
「じゃあ、何なんだ。俺が喋った一時間は」
答えに困りました。
無駄だった。
なんて言えるわけがない。
あの一時間があったから分かったこともある。
担当者から説明を引き出した。
処分理由も確認した。
誰が処分したかも分かった。
でも。
権利救済の手続を開始するという意味では、
まだ足りない。
片桐所長が言いました。
「話し合いと、不服申立ては別です」
「……別?」
「役所が話を聞くことと、法律上の不服申立てを受け付けることは同じではありません」
「でも俺は、正式に不服だって言ったぞ」
「言葉だけで足りる制度なら、それでいい」
所長は通知書を机へ置きました。
「この件は違う」
野々村さんが黙ります。
悔しそうでした。
これは分かります。
ものすごく分かる。
普通の人からすれば、
役所の窓口で、
相手に向かって、
処分に不服がある。
取り消してほしい。
県にも伝えてくれ。
そこまで言えば、
何か法的な手続が始まったと思うでしょう。
でも法律は、
気持ちではなく、
方式を要求することがあります。
冷たい。
実に冷たい。
けれど。
その冷たさには理由があります。
誰が。
どの処分について。
いつ知って。
何を求めて。
どういう理由で争うのか。
そこを残さないと、
後になって、
言った。
聞いていない。
そんな話はしていない。
あれは単なる相談だった。
という泥沼になる。
書面は面倒です。
でも。
面倒だからこそ、
人の権利を、
「聞いた覚えがありません」で消されにくくする。
「市役所へ行きましょう」
片桐所長が言いました。
「今から?」
「今からです」
「書類は?」
「作ります」
相馬先輩が立ち上がりました。
「こはる」
「はい」
「処分庁」
「県側です」
「審査庁」
私は通知の教示を確認しました。
「ここです」
「期間」
「まだ――」
言いかけて止まります。
日数を数え直す。
「余裕はありません」
「それでいい」
「全然よくないですよ!」
「慌てろって意味だ」
「日本語が雑!」
野々村さんが、ぽかんとして私たちを見ています。
「今から間に合うのか」
片桐所長が答えました。
「間に合わせます」
短い。
でも。
それだけで野々村さんの顔が少し変わりました。
私は机に向かいました。
審査請求人。
処分。
処分を知った日。
趣旨。
理由。
教示。
年月日。
旧法と現代法では細かな条文配置も制度も違う。
今の教材の第十九条を、そのまま昭和六十三年へ持ち込むことはできません。
頭の中に現代法の条文が浮かんでは、
私は一つずつ追い返しました。
今日は未来人が一番邪魔です。
「野々村さん」
「何だ」
「お名前と住所、ここ確認してください」
「ああ」
「不許可通知を受け取った日」
「七月三日」
「間違いないですね」
「間違いない」
「求めるのは、不許可処分の取消し」
「ああ」
「理由は感情じゃなくて整理します」
「俺は感情で怒ってるぞ」
「それは分かってます」
「分かるか」
「かなり」
私は少し笑いました。
「でも、紙には怒鳴らせません」
「紙に?」
「代わりに、論点を喋らせます」
野々村さんは一瞬黙ってから、
「変な姉ちゃんだな」
と言いました。
「よく言われます」
「言われねえだろ」
相馬先輩が横から刺してきます。
今それ要ります?
三十分後。
最低限の形ができました。
不許可処分の特定。
処分を知った年月日。
取消しを求める趣旨。
事前説明との食い違い。
処分理由について再検討を求める理由。
教示の内容。
審査請求年月日。
あとは証拠資料を整理する。
「二通」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「審査請求書」
「あ」
また現代知識が邪魔をしました。
旧法の審査請求。
書面で行う場合、原則として正副二通。
現代の様式感覚だけで走ると危ない。
「未来から来たみたいな顔すんな」
「気のせいです」
「今日は気のせいが多いな」
「制度改正が多いんです!」
「意味分からん」
市役所へ向かう車の中で、
野々村さんはずっと黙っていました。
市役所二階。
総務課。
窓口の奥に、
見慣れた灰色の背広がありました。
「また皆さんですか」
沢渡課長。
今日も安定の無表情。
人間の感情を条例で禁止されたような顔です。
「野々村正吉さんの件」
相馬先輩が言いました。
「ああ」
沢渡課長はすぐ分かったようでした。
「先日、農政課でかなり熱心にご意見をいただいた方ですね」
「熱心って何だ」
野々村さんの眉が動きます。
「役所用語で怒鳴ったって意味じゃないですか」
「朝比奈」
「すみません」
沢渡課長は気にしません。
「本日は?」
「審査請求だ」
相馬先輩が書類を置きました。
沢渡課長が一枚目を見る。
次。
教示。
処分日。
知った日。
時計の音がやけに聞こえました。
「なるほど」
「何だ」
「間に合いましたね」
さらっと言いました。
私は思わず聞き返しました。
「やっぱり、先日のやり取りは審査請求として扱われてなかったんですか」
「扱われていません」
「野々村さん、『不服です』って言ってますよ」
「聞いています」
「取り消してほしいとも」
「聞いています」
「県に伝えてくれとも」
「記録にあります」
「じゃあ」
「朝比奈さん」
沢渡課長が私を見る。
「苦情と不服申立ては同じですか」
止まりました。
「……違います」
「相談と不服申立ては?」
「違います」
「処分について怒っている人が窓口に来るたび、すべて法定の不服申立てとして処理しますか」
「それは……できません」
「でしょう」
悔しい。
でも正しい。
沢渡課長は淡々と続けます。
「不服申立てには方式があります」
「原則、書面」
「ええ」
「例外として、法律などに口頭ですることができる旨の定めがある場合」
「その場合は別です」
「今回は」
「少なくとも、市役所の窓口で意見を述べただけで直ちに審査請求が成立する扱いではありません」
野々村さんが声を上げました。
「だったら何で教えなかった!」
空気が止まります。
「俺は正式に不服だと言った!」
「野々村さん」
「『ご意見として伺います』じゃねえだろ!」
沢渡課長は逃げませんでした。
「その点は確認します」
「確認?」
「担当者が、あなたが法定の不服申立てを望んでいると認識できる状況だったか」
「俺は言った!」
「記録を確認します」
「役所はいつもそれだ!」
野々村さんの拳が震えています。
私は思いました。
ここで、
役所が悪い。
説明不足だ。
と一緒に怒るのは簡単です。
でも。
それでは期間は止まらない。
「野々村さん」
「何だ」
「今日は、怒るのを一分だけやめましょう」
「何?」
「先に出します」
私は審査請求書を指しました。
「今、一番怖いのは、市役所の説明が悪かったかどうかじゃありません」
「じゃあ何だ」
「時間です」
六十日。
これを越えてから、
あのときちゃんと説明してくれなかった。
口頭で言ったつもりだった。
と争うことになったら、
救済の入口そのものが面倒になる。
「説明の問題はあとで確認できます」
私は言いました。
「でも期限は、待ってくれません」
野々村さんが黙ります。
「だから今は」
私は書面を押しました。
「怒りを、権利に変えましょう」
自分で言ってから、
ちょっと格好つけすぎたと思いました。
相馬先輩を見る。
案の定、
ものすごく嫌そうな顔をしています。
「何ですか」
「いや」
「言ってください」
「恥ずかしくねえのかなって」
「聞こえてるんですけど!」
野々村さんが、
ぷっと吹き出しました。
張りつめていた肩が少し下がります。
「分かった」
そして、
審査請求書を見ました。
「これを出しゃいいんだな」
「はい」
「俺がさっきまで言ってたことは?」
「無駄にはしません」
私は言いました。
「理由を書く材料になっています」
「そうか」
「でも」
「でも?」
「法律を動かすには、法律が決めた形にします」
野々村さんは、しばらく紙を見ました。
「面倒なもんだな」
「面倒です」
「もっと簡単にできんのか」
「私もそう思います」
「お前が言うな」
相馬先輩が言います。
「でも」
片桐所長が口を開きました。
「形があるから残る」
みんなが所長を見ます。
「誰が何を求めたか。いつ申し立てたか。何について争っているか」
所長は書類を指しました。
「口だけでは消える」
短い。
それだけ。
でも。
野々村さんは小さく頷きました。
沢渡課長が書類を確認します。
「審査庁への取扱いは確認します。処分庁経由の扱いも含め、適切に回付します」
「受け取ってくれるんですね」
野々村さんが言いました。
「方式が整っていれば、受けない理由はありません」
「この前はあれだけ言っても駄目だったのに」
「今日は審査請求ですから」
沢渡課長は平然と言いました。
そこ。
ものすごく大きいです。
三回窓口へ行った。
一時間喋った。
声を荒らげた。
課長まで出てきた。
それでも「ご意見」だった。
今日は。
紙二枚。
言葉数はずっと少ない。
でも、
行政はこれを、
審査請求として扱わなければならない。
法律というのは、
ときどき人間の熱量をまったく評価してくれません。
そのかわり。
決められた要件を満たした一枚には、
驚くほど律儀です。
「沢渡課長」
私は言いました。
「一ついいですか」
「どうぞ」
「もし法律に、口頭で審査請求できるって特別な定めがあったら?」
「その場合は口頭でもできます」
「口頭だから全部駄目、ではない」
「ええ」
「原則は書面。でも特別な定めがあれば口頭もあり得る」
「そうです」
頭の中で、
カチッ。
と何かがはまりました。
原則。
書面。
例外。
特別な定めがあるとき、口頭。
教材なら三行です。
眠くなるところです。
でも今は違う。
一行間違えれば、
野々村さんの申立期間が消える。
急に全部起きています。
行政法の文字たち。
働くの遅いよ。
「朝比奈さん」
沢渡課長が言いました。
「何でしょう」
「妙に嬉しそうですね」
「法律がつながったので」
「人の不服申立てで勉強しないでください」
「すみません」
「否定しねえのかよ」
相馬先輩まで乗ってきました。
書類が受け付けられたあと。
私は少しだけ気になって聞きました。
「課長」
「まだ何か?」
「野々村さんが最初に来たときの対応記録、残ってるんですよね」
「あります」
「そこに『処分に不服。県へ伝達希望』まで書いてある」
「ええ」
「担当者が不服申立ての方法を全然説明してなかったとしたら?」
沢渡課長は数秒黙りました。
「それは別の問題として確認します」
「別?」
「審査請求が成立していたかどうかと、窓口対応が適切だったかどうかは別です」
あ。
そうか。
私はまた頭の中で線を引きました。
本人が不服だと言った。
だから自動的に審査請求になる。
ではない。
でも。
法定の手続を望んでいることが明らかな住民に、
窓口が曖昧な対応をしていい。
という話でもない。
論点を混ぜない。
分ける。
これです。
「課長」
「はい」
「野々村さんが口頭で言ったから審査請求成立、ではない」
「はい」
「でも、正式な不服申立てをしたい人に『ご意見として伺います』だけで済ませるのが適切だったかは、別に検討する」
「そのとおりです」
「なるほど」
沢渡課長の口元が少し動きました。
「何です?」
「いえ」
「笑いました?」
「気のせいでしょう」
またそれです。
一週間後。
事務所へ電話がありました。
野々村さんでした。
『朝比奈さんか』
「はい」
『県から書類が来た』
「もう?」
『審査請求を受け付けたって』
私は息を吐きました。
「よかった」
『それとな』
「はい」
『市役所の農政課からも電話が来た』
「何て?」
『窓口での説明が十分じゃなかったって』
「え」
『今後は、不服申立てをしたいって言う人には、通知書の教示をちゃんと確認して説明するようにするってよ』
私は少し黙りました。
「謝ったんですか?」
『まあな』
「素直でした?」
『沢渡って課長が来た』
強い。
担当者に投げず本人が行ったらしい。
『あの男、謝るときも顔変わらんな』
「でしょうね」
『でもまあ』
野々村さんの声が少し柔らかくなりました。
『話が始まっただけでもいい』
「審査請求の結果はまだですよ」
『分かっとる』
「取消しになるとも限りません」
『それも分かっとる』
少し間がありました。
『でも前はな』
「はい」
『何言っても、壁に向かって喋っとる感じだった』
私は黙って聞きました。
『今は向こうから紙が来る』
「はい」
『俺の言ったことに、返事が来る』
「はい」
『それだけでも違うな』
電話が切れたあと。
私はしばらく受話器を見ていました。
「どうした」
相馬先輩が聞きます。
「野々村さん」
「結果出たか?」
「まだです」
「じゃあ何だ」
「話が始まったって」
「そりゃ申立てしたんだからな」
「そうなんですけど」
それが大きい。
行政処分を争う。
というと、
ものすごい戦いを想像します。
裁判。
法廷。
激しい主張。
でも。
最初の一歩は、
意外なくらい地味です。
紙を出す。
必要なことを書く。
期間内に出す。
それだけ。
それだけなのに。
その一枚が、
単なる「苦情」を、
行政が正式に答えなければならない「不服申立て」に変える。
「法律って」
私は言いました。
「書面が好きですよね」
「今さら何だ」
「人間は喋るほうが早いのに」
「喋ったことは消える」
片桐所長が帳簿を見ながら言いました。
「書けば残る」
「この前と同じですね」
「だから書け」
「はい」
私はノートを開きました。
今日の教訓。
――「不服です」と言っただけでは、原則として不服申立てにはならない。
その下に、
――方式は面倒。でも、その面倒が権利を形にする。
と書きます。
「二行じゃねえか」
相馬先輩が覗き込みました。
「今日は二つとも大事なんです」
「毎回それ言う気か」
「じゃあ一行にします」
私は少し考えて、
書き直しました。
――怒りは口で伝わる。でも、権利は決められた形にして初めて動き出す。
「長い」
「内容が大事です」
「試験前に見返しにくいぞ」
「じゃあ超短縮版」
さらに下。
――原則、書面。例外、口頭。
相馬先輩が頷きました。
「最初からそれでいいだろ」
「物語性がない!」
「ノートに物語性を求めるな」
その日の夕方。
野々村さんが事務所へやって来ました。
「これ」
机に置かれたのは、
大きな段ボール箱。
「何です?」
「梨」
「梨!」
「近所でもらった」
開ける。
見事な梨が十二個。
相馬先輩が即座に一個持ち上げました。
「重いな」
「先輩」
「何だ」
「まだ食べていいって言われてません」
「差し入れだろ」
「確認してください」
「野々村さん。もらっていいか」
「そのために持ってきたんだ」
「ほら」
「方式が雑!」
私が言うと、
野々村さんが笑いました。
「口頭じゃ駄目か?」
「梨の贈与は大丈夫です」
「法律に書いてあるのか」
「そこまでは知りません」
「行政書士見習い、頼りねえな」
「今日は行政不服審査法の話なんです!」
相馬先輩はもう梨を剥き始めています。
「包丁どこです?」
「引き出し」
「何で事務机に包丁があるんですか」
「前にスイカもらった」
「事務所の装備がおかしい」
片桐所長が一切れ受け取りました。
「甘い」
「所長、食べるの早い!」
野々村さんも笑っています。
まだ。
処分が取り消されたわけではありません。
審査請求は始まったばかり。
県がどう判断するか分からない。
野々村さんの主張が全部通るとも限らない。
でも。
三回役所へ行って、
声を枯らして、
それでも「ご意見」で終わっていた話が、
今は正式な審査の机に乗っている。
紙一枚。
たったそれだけです。
でも。
法律の世界では、
たった一枚が、
ものすごく重い。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「梨」
「はい?」
「皿を出せ」
「私ですか」
「見習いだろ」
「行政書士見習いの仕事じゃありません!」
「不服か」
「不服です!」
私は即答しました。
相馬先輩がにやりと笑います。
「じゃあ書面で出せ」
「そこまでしないと駄目なんですか!」
「原則だろ」
「事務所内まで旧行政不服審査法を持ち込まないでください!」
「口頭でできる特別な定めは?」
「ありません!」
「じゃあ却下だ」
「まだ申立てすらしてないでしょう!」
野々村さんが腹を抱えて笑いました。
片桐所長まで、
梨を食べながらほんの少し口元を緩めています。
私はため息をついて、湯呑みと皿を出しました。
書面。
口頭。
原則。
例外。
昨日までなら、
試験の四択肢でしかなかった言葉です。
でも今日。
その違いは、
一人の男が、
ただ怒鳴って帰る人で終わるのか。
それとも、
行政に正式な答えを求める人になるのか。
その境目になりました。
法律は冷たい。
気持ちを汲んで、
「そこまで怒ってるなら申立てたことにしましょう」
とは言ってくれません。
でも。
決められた形にした瞬間、
誰が相手でも、
「ただの愚痴です」
では片づけられなくなる。
その冷たさは、
ときどき、
声の大きくない人を守るためのものでもあります。
「朝比奈さん」
野々村さんが梨を一切れ食べながら言いました。
「何です?」
「俺、今度から役所へ行くとき紙持ってくわ」
「極端ですね」
「口だけじゃ駄目なんだろ?」
「何でも書面にすればいいって話でもありませんよ」
「難しいな、法律」
「はい」
私は笑いました。
「だから、私たちがいます」
一瞬。
相馬先輩がこちらを見ます。
「また言ったな」
「何をです?」
「格好つけたやつ」
「いいでしょう!」
「梨食え」
「話を逸らした!」
私は梨を一切れ取りました。
甘い。
驚くくらい甘い。
怒りを紙に変える仕事は、
たぶん地味です。
新聞にも載らない。
拍手も起きない。
でも。
誰かが、
「ちゃんと聞いてもらえる場所」
まで辿り着くには、
ときどき一枚の紙が必要になります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた。
眠かった法律用語が一つ、
生活の中で、
ちゃんと重さを持ちました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




