[行政不服審査法18条・不服申立期間]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、まだコロッケの匂いが残っていました。
正確には。
相馬先輩が十二個だか十五個だか食べたせいで、揚げ物屋みたいな匂いになっています。
「先輩」
「何だ」
「窓、開けません?」
「寒い」
「九月ですよ」
「俺は寒い」
「ずいぶん局所的な気候ですね」
私は窓を半分だけ開けました。
机の上には、朝倉美代子さんの事件記録。
六月二十七日付の処分通知。
一度返戻された茶封筒。
九月十日の再発送記録。
九月十二日の到達。
そして。
今日の異議申立書の控え。
その横に、私はノートを広げました。
大きく書きます。
――不服申立期間。
書いた瞬間。
眠くなりそうな字面です。
行政法の期間制限というものは、単体で見ると本当に華がありません。
三か月。
一年。
六十日。
何月何日の翌日。
知った日。
処分の日。
読んでいるだけなら、カレンダーと喧嘩する単元です。
でも。
朝倉さんは昨日、
「もう六十日を過ぎています」
の一言で、申立ての入口そのものを閉じられかけました。
そう考えると。
期間というのは、ただの数字ではありません。
中身を審理してもらえるかどうか。
その入口を開ける鍵です。
「相馬先輩」
「嫌だ」
「まだ何も頼んでません」
「勉強だろ」
「なぜ分かったんです」
「そのノート開いてるときのお前は面倒くさい」
「失礼な」
私は奥を見ました。
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿を見たまま言いました。
相馬先輩がため息をつきました。
「この事務所、俺に対する不利益処分が多くないか」
「不服申立てします?」
「誰に」
「所長に」
「棄却される未来しか見えねえ」
制度設計に問題があります。
私はペンを持ち直しました。
「まず、昨日の朝倉さんの事件です」
処分通知の日付。
六月二十七日。
でも。
通知は古い住所へ送られていた。
七月二日には市役所へ返戻。
そのまま二か月以上止まり。
九月十日に再発送。
朝倉さんが実際に受け取ったのは九月十二日。
「市役所の担当者は最初、六月二十七日から六十日を数えてました」
「ああ」
「そこが間違いだった」
「何が違う」
相馬先輩が聞きます。
「旧法でも、不服申立期間は単純に処分日から六十日じゃないからです」
私はノートに二本の線を引きました。
一つ目。
本人側から見る期間。
二つ目。
処分そのものから見る期間。
「現代の受験勉強だと、主観的期間と客観的期間って整理します」
「また未来語か」
「考え方は分かりやすいんです」
私は一つ目を指しました。
「主観的な期間は、その人が処分を知ったことを基準にする」
「朝倉さんなら九月十二日か」
「そうです」
そして。
翌日から期間を数える。
朝倉さんの場合。
九月十二日に処分を知った。
だから原則として、
九月十三日から六十日。
「昭和六十三年の旧法ではな」
相馬先輩が念を押します。
「はい」
ここは大事です。
現代の私は、
三か月。
と反射的に答えたくなる。
でも。
昭和六十三年に適用される旧行政不服審査法では、原則六十日です。
「現代なら?」
「現行法では、処分についての審査請求は、原則として処分があったことを知った日の翌日から三か月です」
「三か月」
「はい」
「六十日じゃない」
「はい」
「お前、昨日間違えかけてたな」
「その話は忘れてください」
「期間制限の勉強で忘れろとは何事だ」
「そこだけ記憶の除外規定を」
「ない」
厳しい。
私はノートに書きました。
旧法――六十日。
現行法――三か月。
「ここ、試験でもかなり危ないですね」
「今の試験なら今の法律で答えろ」
「当然です」
でも。
この物語の私は昭和六十三年にいる。
頭には現代法。
手元には旧法。
受験生としては便利そうで、実務家としてはかなり危険です。
現代知識を持っていても。
適用法を間違えれば、一瞬で役立たずになります。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「何で『知った日』なんだ」
「本人が知らないうちに不服申立期間が全部終わったら困るからです」
「昨日みたいにな」
「はい」
朝倉さんの通知は、市役所の台帳ミスで古い住所へ送られた。
本人は六月に何も知らない。
それなのに、
役所が発送した。
処分日は六月。
だから八月で終わり。
そう扱われたら。
本人は一度も争う機会を持てないまま、期間だけ消費したことになります。
「それじゃ救済制度になりません」
「だから知った日が基準になる」
「はい」
ただし。
ここで私は赤線を引きました。
――本人が「知らなかった」と言えば、それで確定するわけではない。
「朝倉さんの場合も確認しました」
家族が受け取っていないか。
担当者から電話で処分内容を伝えられていないか。
別の文書で知っていなかったか。
現地で撤去を命じられていなかったか。
そういう事情があれば、
実際にはもっと前に処分を知っていた。
という判断もあり得る。
「知った日って、本人の胸の中だけ見るわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「『昨日まで知らなかったです』で何年でも延ばせるなら、期間制限にならねえ」
「ですよね」
だから。
主観的期間と呼ばれても、
完全な自己申告ではありません。
客観的な事情から、
いつ処分の存在を現実に知ったといえるか。
そこを見る。
朝倉さんの場合は、
通知が返戻されていた。
電話連絡もなかった。
九月十二日以前に処分を知った資料もなかった。
だから。
市役所自身も、
六月から期間が進んでいたとは扱えない。
と認めた。
「じゃあ」
相馬先輩が煙草を指で回します。
「本人が永遠に知らなかったら、永遠に申立てできるのか」
「そこで二本目ですね」
私はノートのもう一方の線を指しました。
客観的期間。
処分があった日を基準にする期間。
「本人が知ったかどうかに関係なく、処分そのものから一定期間が経てば、原則として争えなくする」
「何のためだ」
「法律関係を安定させるためです」
「昨日も言ったな」
「十年前の許可処分が、突然ひっくり返るかもしれない状態だと困る」
「そういうことだ」
行政処分は。
その一件だけで終わるとは限りません。
許可が出た。
その許可を前提に工事が始まる。
契約を結ぶ。
金を借りる。
人を雇う。
別の行政処分も積み重なる。
そこへ十年後、
「あの処分、やっぱり取り消してください」
と言われても。
世の中のほうが持ちません。
「だから、本人が知った日だけじゃなく、処分があった日からの最終的な線もある」
「はい」
旧法でも、
原則として処分の日から一年という客観的な制限がありました。
現代法でも。
処分についての審査請求は、
原則として処分があった日の翌日から一年を経過するとできなくなります。
「そこは似てるんだな」
「はい」
ただ。
私はノートに注意書きを入れました。
旧法と現行法では、
条文構造や例外の表現も含めて同じではありません。
だから。
試験で現行法を問われているなら、
現行法の条文に従う。
昭和六十三年の事件なら、
旧法に従う。
似ているからといって、丸ごと同じと思わない。
「お前、それ自分に言ってるだろ」
「かなり」
私は現代法の欄に書きました。
処分があったことを知った日の翌日から三か月。
処分があった日の翌日から一年。
「現行法では、どちらも正当な理由があれば例外があります」
「正当な理由?」
「たとえば、大規模災害で交通や通信が途絶したような場合です」
「本人の責任じゃどうにもならん事情か」
「そういう例が典型です」
そして。
誤った教示がされた場合なども、救済の問題になります。
期間制限は重要です。
でも。
行政側の説明ミスや、本人にはどうしようもない事情があるのに、
機械的に締切だけ適用する。
そんな制度ではありません。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「例外から考えるな」
「はい」
「まず原則を確認しろ」
さすが所長。
受験生がやりがちな事故を一言で潰します。
試験勉強でも実務でも。
例外が印象に残ると、
何でも救済されるような錯覚が出ます。
でも基本は期間内に申し立てる。
例外は例外。
「朝倉さんの件では、そもそも正当な理由による救済を持ち出す前に」
私は言いました。
「六十日の起算点そのものが違ってた」
「そこだ」
所長が答えました。
これ、大事です。
期間を過ぎた。
だから例外に当たらないか。
と考える前に。
本当に期間を過ぎたのか。
いつから始まったのか。
そこを確認する。
朝倉さんの事件はまさにそれでした。
六月二十七日付。
だから八月には終わり。
ではない。
九月十二日に初めて知ったなら、
そこから主観的期間を数える。
「数字の前に、起算点」
私はノートに大きく書きました。
相馬先輩が覗き込みます。
「そこは覚えやすいな」
「ですよね」
「でも試験で『数字の前に起算点』ってだけ書いたら点は来ねえぞ」
「分かってます!」
私は次の見出しを書きました。
――不作為。
「ここ、教材では処分と分けて考えるところです」
「不作為って何だ」
「申請に対して、行政庁が相当の期間内に何らかの処分や応答をしない状態です」
「昨日の事件とは違うな」
「はい」
朝倉さんの事件では、
処分が出ています。
だから処分に対する不服申立て。
一方。
たとえば。
営業許可を申請した。
一か月。
二か月。
三か月。
いつまで経っても許可も不許可も出ない。
そんな場合。
不作為に対する不服申立てが問題になります。
「期間は?」
「現行法では、不作為が続いている限り、いつでも審査請求できます」
「三か月じゃない」
「はい」
「一年でもない」
「はい」
ここ。
試験ではすごく狙いやすいところです。
処分。
知った日の翌日から三か月。
処分の日の翌日から一年。
不作為。
不作為状態が継続している限り、いつでも。
「なぜでしょう」
私が聞くと、相馬先輩が眉を寄せました。
「処分が出てねえからだろ」
「そうです」
不作為というのは、
行政庁が動いていない状態そのものを問題にしている。
そして。
その状態が続いている限り、
権利侵害や不利益も続いている。
だから。
処分と同じように、
知った日から三か月。
と切る構造ではない。
「じゃあ一年経ったら?」
「不作為状態が続いている限り、現行法上はそれだけで審査請求できなくなるわけではありません」
「二年でも?」
「不作為が続いているなら」
「なるほど」
私は丸をつけました。
処分。
期間制限あり。
不作為。
継続中ならいつでも。
「ここは行政事件訴訟法の不作為の違法確認訴訟も同じ感覚で整理できます」
「また未来の試験か」
「未来じゃなくても、比較は便利なんです」
私は次に、
行政事件訴訟法。
と書きました。
「期間制限、似てるけど違います」
「面倒だな」
「すごく面倒です」
行政不服審査法。
現行法では。
主観的期間は、
処分があったことを知った日の翌日から三か月。
行政事件訴訟法の取消訴訟は、
処分または裁決があったことを知った日から六か月。
「翌日って言葉、片方にだけ入ってる?」
「条文表現ではそうです」
「嫌らしいな」
「試験委員が喜びそうです」
「お前らは何と戦ってるんだ」
受験生は条文の一文字と戦っています。
しかも。
客観的期間はどちらも一年。
ただし。
行政不服審査法では、
処分があった日の翌日から一年。
行政事件訴訟法では、
処分または裁決の日から一年。
「似てるから余計に混ざるんですよ」
「全部同じにすりゃいいのにな」
「受験生一同、だいたい同意します」
でも。
制度は試験を簡単にするために作られていません。
それぞれの法制度に沿った条文がある。
受験生は従うしかありません。
「試験で覚えるなら」
私はノートにまとめました。
不服審査――三か月・一年。
取消訴訟――六か月・一年。
「ただし」
相馬先輩が言います。
「今、お前が使ってるのは?」
「旧法なので六十日です」
「そうだ」
ややこしい。
本当にややこしい。
頭の中に、
六十日。
三か月。
六か月。
一年。
数字が四人で盆踊りしています。
「これが転生者の弱点ですね」
「何が」
「未来の正解を知っていても、今の正解とは限らない」
「それ法律じゃなくても当たり前だろ」
「身も蓋もない」
私は次の見出しへ進みました。
郵送。
「昨日、相馬先輩に聞かれました」
「ああ」
「郵便で不服申立書を出す場合の期間計算」
現行法では。
審査請求書を郵便または所定の信書便で提出した場合、
送付に要した日数は審査請求期間に算入しません。
簡単に言えば。
締切日に郵送し、
数日後に審査庁へ届いたとしても。
送付にかかった日数のために期間徒過とは扱われない。
「十一月十一日が最終日なら」
私は言いました。
「十一月十一日に適法に郵送すれば、翌日以降に届いても、郵送期間のせいでアウトにはならない」
「消印を見る感じか」
「イメージとしてはそうです」
ただし。
私は横に大きく書きました。
――何でも宅配便でいい、ではない。
「現代法の条文では、郵便と法律上の信書便です」
「宅配便は?」
「何でも自動的に対象になるわけじゃありません」
「昨日、お前も妙なこと言いかけてたな」
「昭和六十三年に民間信書便とか言ったら完全に時代事故ですから」
そもそも制度が違います。
現代の条文を昭和へコピペしてはいけません。
ここも。
転生者だからこそ気づく危険。
法律は言葉が似ていても、
制度ができた年代で前提が違う。
「で」
相馬先輩が言いました。
「昨日は結局どうした」
「持参しました」
「なぜ」
「期限が争点になっている事件で、さらに郵便の到達や発送を争点に増やしたくなかったからです」
「そういうことだ」
法律上できる。
と。
実務上それを選ぶ。
は別です。
郵送でも有効。
だから必ず郵送する。
ではない。
期限がぎりぎり。
証拠を確実に残したい。
窓口が近い。
なら。
持参して受領印をもらう。
そういう実務判断もあります。
「法律を知るって」
私は言いました。
「使える選択肢が増えることなんですね」
「やっと見習いらしいこと言ったな」
「やっとって何です」
「今までコロッケの数しか数えてなかった」
「期間計算の練習です!」
私はノートを見直しました。
ここまで。
処分。
主観的期間。
客観的期間。
不作為。
郵送。
でも。
まだ一つあります。
「再調査の請求」
私は小さく書きました。
相馬先輩が首をかしげます。
「何だそれ」
「現代法の制度です」
「じゃあ昭和の事件には出すな」
「分かってます」
現行法では。
法律に再調査の請求をすることができる旨の定めがある場合。
処分庁に対して、まず再調査の請求をすることがある。
そして。
その再調査の決定を経て審査請求をする場合。
原則として、
再調査の決定があったことを知った日の翌日から一か月。
また。
客観的には、
再調査の決定があった日の翌日から一年。
「一か月が増えました」
「数字が増えたな」
「受験生の机に新しい地雷が設置されました」
「制度を地雷扱いするな」
「覚える側からするとそう見える夜があります」
でも。
これも。
何の期間か。
を分ければ整理できます。
最初の処分から直接審査請求する場合。
三か月。
再調査の請求を経た後に審査請求する場合。
一か月。
「数字だけ抜き出すと混乱しますけど」
私は言いました。
「手続の順番に置けば分かりやすい」
「何をした後の期間か、だな」
「はい」
結局。
期間問題は全部、
何が起きたか。
いつ起きたか。
誰がいつ知ったか。
どの手続を選んだか。
そこを整理する話です。
カレンダーより前に、
事実関係の整理。
「朝倉さんの件もそうでした」
私は事件記録を開きました。
最初に見えていたのは、
六月二十七日。
九月二十八日。
六十日を超えている。
それだけ。
でも。
実際に並べたら。
六月二十八日発送。
七月二日返戻。
二か月以上放置。
九月十日再発送。
九月十二日受領。
九月二十八日相談。
「日付を並べただけで、景色が変わった」
「そうだな」
相馬先輩が言います。
「最初は期間徒過に見えた」
「はい」
「でも実際は違った」
「はい」
「だから最初に事実を拾え」
私はペンを止めました。
これ。
今日の一行候補です。
でもまだ早い。
片桐所長がこちらを見ました。
「期間制限は何のためにある」
「法律関係を早期に安定させるためです」
「申立人に嫌がらせするためか」
「違います」
「役所を守るためだけか」
「違います」
「ではなぜ短い期間を置く」
私は少し考えました。
「処分がいつまでも争われる状態を避けるため」
「そうだ」
「その処分を前提に、別の人や行政も動くから」
「そうだ」
だから。
期間制限そのものは、
悪ではない。
冷たいけれど必要です。
でも。
その必要性を理由に、
本来まだ期間が始まっていない人まで切り捨ててはいけない。
「法律関係を安定させたいなら」
私は言いました。
「起算点も正確じゃないと駄目なんですね」
「そうだ」
期限を厳しく守る。
なら。
期限の始まりも厳しく確認する。
そこはセットです。
「昨日、市役所が間違っていたのは」
私は続けました。
「六十日という数字じゃない」
「うん」
「六十日をどこから数えたか」
「そこだ」
数字は正しい。
使い方が間違っていた。
こういう行政法の事件。
私はかなり好きかもしれません。
いや。
困っている人がいるので好きと言うと語弊がありますが。
論点が一つずれるだけで。
「もう無理です」
が、
「まだ入口に立てます」
へ変わる。
あの瞬間の気持ちよさは。
たぶん。
法律を知る楽しさの一つです。
「でも」
私は言いました。
「期限内だったからって、処分が自動的に取り消されるわけじゃない」
「当たり前だ」
朝倉さんの件でも。
期間の問題を突破したあと。
ようやく本案へ進めました。
道路管理上、本当に全面撤去が必要だったのか。
隣の青果店には条件付きで継続を認めているのに。
なぜ朝倉さんだけ全部撤去なのか。
歩行者の通行幅。
台の位置。
営業時間。
そういう事情を比較した。
結果。
全面撤去ではなく、
商品台を引き、
一定の通行幅を確保する条件で継続を認める方向になった。
「期間って」
私は言いました。
「勝負の本体じゃないけど、本体に入るための門番ですね」
「悪くない」
相馬先輩が言いました。
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
私はノートの最後のページを開きました。
――試験での注意。
一。
現行法の処分に対する審査請求。
原則。
知った日の翌日から三か月。
処分の日の翌日から一年。
二。
再調査の請求を経た場合。
決定を知った日の翌日から一か月。
決定の日の翌日から一年。
三。
不作為。
不作為状態が続く限り、いつでも。
四。
郵送。
送付に要した日数は期間に算入しない。
五。
旧法との混同注意。
昭和六十三年の旧法では、異議申立て・審査請求が併存し、原則六十日。
「これでどうです?」
相馬先輩がノートを見ます。
「未来の試験ならな」
「はい」
「今の朝倉さんの事件なら?」
私は別の欄に書きました。
昭和六十三年。
旧法。
市長処分。
上級行政庁なし。
異議申立て。
処分を知った日の翌日から六十日。
「そこを混ぜない」
「そうだ」
私は大きく線を引きました。
現代法を覚えていることと。
今使う法律を知っていること。
同じではない。
この世界に来て。
それを何度も思い知らされます。
法律は。
正しい知識だけでは足りない。
いつの法律か。
どの制度か。
どの処分か。
誰が争うのか。
そこまで合って初めて、
現場で使える。
「所長」
「何だ」
「一行の覚え書き、できました」
「言え」
私はノートの一番下に書きました。
――期限を数える前に、何の日から数えるのかを確かめる。
相馬先輩が覗き込みます。
「普通だな」
「普通だから大事なんです」
「もう少し試験っぽくしろ」
「じゃあ」
私はその下に書き足しました。
――処分は「知った日」と「処分の日」を分ける。不作為は続く限りいつでも。
「二行じゃねえか」
「またそこですか」
「一行の覚え書きだろ」
「では統合します」
少し考える。
そして。
――期間は数字より起算点。処分は二本、不作為は継続中ならいつでも。
「……まあいい」
「今、かなり褒めましたよね」
「気のせいだ」
私はノートを閉じました。
窓の外では。
商店街の灯りが一つずつ点き始めています。
朝倉さんの店も。
たぶん今ごろ。
少し引っ込めた商品台の上に、
コロッケや煮豆を並べている。
道路を歩く人の邪魔をしないように。
でも。
店そのものを諦めなくてもいいように。
法律は。
期限を切ります。
いつまでも争わせない。
どこかで終わらせる。
冷たいです。
でも。
その代わり。
誰が。
何を。
いつ知ったのか。
どこから時間を数えるのか。
そこも冷たく確認する。
役所が勝手に早く時計を回してはいけない。
申立人が勝手に止めてもいけない。
同じ時計を。
同じルールで動かす。
たぶん。
制度の冷たさが人を救うというのは、
こういうことなのかもしれません。
朝倉さんが救われたのは、
役所が優しくなったからではありません。
沢渡課長が情にほだされたからでもない。
六十日という数字の意味を。
正しい起算点から計算し直した。
ただそれだけです。
でも。
その「ただそれだけ」で。
閉じていた入口が開いた。
中身を見てもらえた。
明日の商売が残った。
私は少し笑って、机の上を片づけました。
「さて」
相馬先輩が立ち上がります。
「帰るぞ」
「待ってください」
「何だ」
「今日、朝倉さんからコロッケの追加ありませんでした?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
「先輩の机の引き出し、何で油染みできてるんです?」
「知らん」
「開けますよ」
「勝手に開けるな」
「処分があったことを知った日の翌日から――」
「何の処分だ!」
私は引き出しを開けました。
紙袋。
中にはコロッケが二個。
「発見」
「それは俺が買った」
「証拠は?」
「俺が言ってる」
「主観的事情だけでは足りませんね」
「今日覚えた言葉を雑に使うな」
奥から片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「一個は俺のだ」
「え?」
「相馬に買わせた」
相馬先輩が腕を組みます。
「そういうことだ」
「じゃあもう一個は」
「俺のだ」
「全部先輩じゃないですか!」
「法律関係が安定したな」
「してません!」
私は紙袋を睨みました。
「異議があります」
「申立期間は?」
所長が聞きます。
「今知った日の翌日から六十日!」
「客観的期間は?」
「そこまで待ちません!」
私は相馬先輩のコロッケを一個奪いました。
「おい!」
「即時救済です」
「そんな制度ねえ!」
「じゃあ返します?」
「返せ」
「もう食べました」
「早えよ!」
法律関係というものは。
早期に安定させることが大切です。
だから。
私は口の中のコロッケを飲み込みました。
これで。
少なくとも一個については。
もはや原状回復不能です。
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