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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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149/287

[行政不服審査法18条・不服申立期間]現場編 「もう六十日を過ぎていますから」の罠。役所が数えた“処分の日”と、本人が初めて知った日

挿絵(By みてみん)

 役所の締切は、知らないうちに始まっている――とは限りません。


 紙には日付がある。


 役所には発送記録がある。


 担当者は、


「もう期間を過ぎています」


 と平然と言う。


 でも。


 その六十日。


 いったい、どの日から数えました?


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は卓上カレンダーと睨み合っていました。


「先輩」


「何だ」


「九月二十八日の六十日前って、いつです?」


「自分で数えろ」


「数えてます」


「じゃあ聞くな」


「自信がなくなってきたんです」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、私の机を見ました。


 赤鉛筆。


 青鉛筆。


 定規。


 カレンダー。


 そしてなぜか、そろばん。


「何だその装備」


「期間計算です」


「戦争でも始めるのか」


「行政法受験生にとって、期間計算はだいたい戦争です」


「知らん」


 冷たい。


 行政法並みに冷たい。


 私はもう一度、カレンダーに印をつけました。


 六十日。


 この言葉を見るだけで、頭の中に別の数字が浮かびます。


 三か月。


 現代の行政不服審査法。


 処分があったことを知った日の翌日から三か月。


 ――違う。


 ここは昭和六十三年。


 旧法です。


 審査請求なら、原則六十日。


 異議申立ても原則六十日。


「六十日……六十日……」


「朝から呪うな」


「未来だと三か月なんですよ」


「また未来か」


「三か月のほうが数えやすいのに」


「法律に文句言うな」


「受験生の切実な要望です」


 そのとき。


 事務所の扉が開きました。


「すみません」


 入ってきたのは、五十代くらいの女性でした。


 買い物籠を腕に掛けています。


 中には新聞紙で包まれた長葱。


 長葱と行政書士事務所。


 なかなか法律相談っぽくない組み合わせです。


 でも。


 だいたいうちの相談は、そういうところから始まります。


 封筒より先に大根が出てきたり。


 申請書より先に饅頭が出てきたり。


 生活というのは、法律ほど項目別に整理されていません。


「どうぞ」


 私は椅子を引きました。


「朝倉美代子さんですね」


「はい」


 昨日、電話をくれた人です。


 駅の南側で、小さな惣菜店を営んでいる。


 朝倉惣菜店。


 コロッケ。


 煮豆。


 卵焼き。


 夕方になると、工場帰りの人が寄る店だそうです。


 朝倉さんは籠を足元に置きました。


 そして。


 一通の封筒を机に出しました。


「これなんですけど」


 私は中身を取り出します。


 市役所からの通知。


 営業に伴う道路占用関係の許可について。


 店の前に出している商品台。


 その一部が道路区域にはみ出しているとして、継続使用を認めない。


 期限までに撤去するよう求める内容です。


 問題は。


 そこではありませんでした。


「これに不服があって、市役所へ行ったんです」


「いつです?」


「昨日です」


「何と言われました?」


 朝倉さんは困ったように笑いました。


「もう遅いって」


「遅い?」


「不服を申し立てる期間が過ぎてるって言われました」


 私は通知の日付を見ました。


 六月二十七日。


 今日が九月二十八日。


 なるほど。


 三か月どころか。


 六十日なら、とっくに過ぎている。


「これ、六月に受け取ったんですか?」


「いいえ」


 私は顔を上げました。


「いつ受け取りました?」


「九月十二日です」


「……え?」


 相馬先輩の煙草が止まりました。


 朝倉さんは繰り返します。


「九月十二日」


「でも通知の日付は六月二十七日ですよ」


「はい」


「その間、どこに?」


「分からないんです」


 分からない。


 はい。


 行政法において、かなり怖い言葉です。


 私は椅子を少し前へ寄せました。


「順番に聞きます。六月ごろ、ご自宅に届いてません?」


「届いてません」


「お店にも?」


「ないです」


「家族が受け取った可能性は?」


「主人は三年前に亡くなりました。娘は名古屋です。一人暮らしです」


「長期で留守には?」


「七月に一週間、姉のところへ行ったくらいで」


「郵便受けは?」


「毎日見ます」


 相馬先輩が通知を取ります。


「封筒は」


「これです」


 朝倉さんが茶封筒を差し出しました。


 私は表を見ました。


 住所。


 店名。


 朝倉美代子様。


 そして。


「……先輩」


「ああ」


「住所、一丁目になってます」


「そうだな」


「朝倉さんのお店、二丁目ですよね?」


「はい」


 朝倉さんが頷きました。


「昔は一丁目に住んでたんです」


「いつまで?」


「五年前までです」


 私は封筒をひっくり返しました。


 裏側に何か書いてある。


 一度、市へ戻った跡。


 赤い印。


 転居先不明。


 そして九月になってから、別の住所へ再発送された形跡。


「これ」


 私は言いました。


「最初の通知、住所が古かったんじゃないですか」


「たぶん」


「役所には住所変更を?」


「しましたよ。住民票も店の届出も」


 相馬先輩の眉が少し上がりました。


「それで昨日、市役所は何て?」


「通知を出したのが六月二十七日だから、もう六十日を過ぎていますって」


 私は数秒、黙りました。


 それから。


「誰が言いました?」


「総務の……沢渡さん」


 来た。


 またあなたですか。


 沢渡課長。


 この町に法律上の「もう無理です」が発生すると、高確率で奥から出てくる人。


 行政救済界の中ボス。


「先輩」


「行くか」


「早いですね」


「日付の話は記憶が腐る前に潰す」


 言い方は怖い。


 でも正しい。


 片桐所長が奥から出てきました。


「朝倉さん」


「はい」


「確認します」


 所長は通知の日付を指しました。


「六月二十七日」


「はい」


「あなたが実際に通知を見たのは、九月十二日」


「はい」


「それ以前に、この処分が出たと誰かから聞いたことは」


「ありません」


「市役所から電話は」


「ないです」


「店の撤去を言われたことは」


「九月十五日に初めて」


 所長は頷きました。


「封筒は預かります」


「まだ間に合うんでしょうか」


 朝倉さんが聞きました。


 その声は、小さかった。


 行政法の「期間」というやつは残酷です。


 中身が正しいか。


 処分が不当か。


 裁量がおかしくないか。


 そこへたどり着く前に、


 遅い。


 の一言で扉が閉まることがある。


 だから。


 私は簡単に「大丈夫です」と言えませんでした。


「確認します」


 片桐所長が言いました。


「ただ」


 朝倉さんが顔を上げる。


「役所が紙に書いた日と、あなたが処分を知った日は、同じとは限りません」


 その一言で。


 私の頭の中に、昨夜まで眠かった文字が起きました。


 ――処分があったことを知った日の翌日。


 知った日。


 そうだ。


 期間は単純に、


 処分の日から六十日。


 ではない。


 少なくとも主観的な期間は。


 本人が処分を知ったことが基準になる。


「所長」


「何だ」


「九月十二日に初めて知ったなら――」


「市役所で確認してこい」


「はい」


 答えは先に言わない。


 うちの所長は、だいたいこうです。


 魚をくれない。


 釣り竿もくれない。


 釣り場だけ指さして、


「行け」


 と言う。


 教育方針が山賊。


    ◇


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、私たちを見るなり言いました。


「朝倉さんですね」


「早いですね」


 私が言うと、


「昨日いらっしゃいましたから」


 と返されました。


 机の上には、例の通知の写し。


 沢渡課長は相変わらずです。


 薄い灰色の背広。


 細い眼鏡。


 机の上は整理整頓。


 感情も整理整頓。


 たぶん怒りも悲しみも「保存期間五年」でファイルされている。


「昨日」


 相馬先輩が言いました。


「期間が過ぎてると説明したそうだな」


「ええ」


「何を基準に?」


「処分は六月二十七日付です」


「それは見りゃ分かる」


 相馬先輩が通知を置きます。


「聞いてるのは、いつから六十日を数えたかだ」


 沢渡課長が私たちを見る。


「六月二十七日を基準にしています」


「なぜです?」


 私は聞きました。


「処分日だからです」


「朝倉さんが処分を知った日は確認しました?」


 少し。


 空気が止まりました。


「本人は九月十二日と言っていました」


「なら?」


「ただ、市としては六月二十七日に通知を発送しています」


「古い住所へ」


 私は封筒を置きました。


「一度戻ってますよね」


 沢渡課長の視線が封筒へ落ちる。


「確認しました」


「朝倉さん、五年前に転居届を出してます」


「それも確認しています」


「店の関係書類も新住所になってた」


「担当課の台帳だけ修正されていなかったようです」


 出た。


 役所の中だけ時間が五年間止まっていた。


 行政法より先に、台帳を転生させてください。


「じゃあ」


 私は言いました。


「六月二十七日に発送したから、その日から六十日っていう説明はおかしくないですか」


 沢渡課長の目が少し細くなりました。


「朝比奈さん」


「はい」


「何条を見ています?」


 来た。


 抜き打ち試験。


 この人、最近ちょっと楽しんでません?


 私は一瞬、


 第十八条。


 と言いそうになりました。


 危ない。


 それは現代法。


 昭和六十三年に現行十八条を持ち込んだら、条文番号から事故ります。


「……旧法十四条」


「審査請求期間ですね」


「はい」


 言えた。


 転生者、本日一点獲得。


 沢渡課長が続けます。


「この件で、審査請求ですか?」


「あ」


 一点返却。


 相馬先輩が横で鼻を鳴らしました。


「朝比奈」


「はい」


「誰の処分だ」


 私は通知を見る。


 市長名義。


「市長」


「上級行政庁は」


「……ない」


「なら?」


「異議申立て」


「そうだ」


 ぐぬぬ。


 現代では原則として審査請求に一本化されています。


 でも今は違う。


 昭和六十三年。


 処分庁に上級行政庁がない。


 この場合、旧法上は異議申立てが問題になる。


 そして異議申立期間は。


「旧法四十五条」


 私は言いました。


「処分があったことを知った日の翌日から六十日以内」


「そうです」


 沢渡課長があっさり答えました。


「じゃあ昨日の説明」


「担当者の説明が正確ではなかった可能性があります」


「可能性?」


 相馬先輩が低い声で聞きます。


「訂正します」


 沢渡課長は表情を変えません。


「正確ではありませんでした」


 潔い。


 この人、感情では一ミリも動かないくせに。


 条文で斬ると、妙に素直です。


「ただし」


 沢渡課長が続けました。


「朝倉さんが九月十二日以前に処分を知っていた事情がないかは確認します」


「もちろんです」


 私もそこは同意しました。


 本人が、


「九月十二日に知りました」


 と言えば自動的にそこから数える。


 そんな単純な話ではありません。


 その前に担当者から説明を受けていた。


 家族が通知を受領していた。


 別の文書で処分を知っていた。


 そういう事情があれば、話は変わる。


 でも。


 少なくとも。


 役所の処分日と、


 本人が知った日を、


 何も確認せず同じ日にしてはいけない。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「発送簿を見せてもらえるか」


「可能な範囲で」


「返戻日は」


「調べます」


「再発送日は」


「それも」


「朝倉さん本人への電話記録は」


「現時点では見当たりません」


「なら、まずそこからだ」


「分かりました」


 沢渡課長は職員を呼びました。


 五分。


 十分。


 役所のファイルが三冊出てきました。


 発送簿。


 返戻郵便記録。


 再送記録。


 私は横から覗き込みます。


 六月二十八日。


 発送。


 七月二日。


 返戻。


 理由。


 転居先不明。


 そして。


 そこで止まっている。


「……二か月以上」


 私が言いました。


「止まってますね」


 沢渡課長は黙っています。


 九月九日。


 別件で朝倉さんの店へ現地確認に行った職員が、


 住所の誤りに気づく。


 九月十日。


 再発送。


 九月十二日。


 到達。


「課長」


 私は言いました。


「これで六月から期間が進んでいた扱いは、かなり無理がありません?」


「少なくとも、先ほどの事情だけを見る限り」


 沢渡課長が言いました。


「朝倉さんが六月に処分を知ったとは考えにくいですね」


 よし。


 扉が一枚開いた。


 朝倉さんの店先。


 揚げたてのコロッケ。


 夕方の客。


 そういうものが、


「六十日経過」


 という四文字だけで消されずに済むかもしれない。


 でも。


 沢渡課長は書類を閉じませんでした。


「ただ」


「まだあります?」


「あります」


 ありますよね。


 行政法。


 一つの数字を倒すと、だいたい次の数字が出てきます。


「旧法には、もう一つ期間があります」


 沢渡課長が言いました。


 私は黙りました。


 もう一つ。


 六十日。


 それとは別。


「あ」


 思い出す。


「一年」


「そうです」


 処分を知ったかどうか。


 それを基準にする期間とは別に。


 処分そのものがあった日から、一定期間が経過すれば申立てができなくなる。


 法律関係をいつまでも不安定にしないための線引き。


 主観。


 客観。


 受験テキストでは二段の表。


 現場に来ると。


 一本目は、


「本人は本当に知っていたのか」


 二本目は、


「知らなかったとしても、処分から何年も争えるのか」


 という話になる。


「今回」


 私は通知を見る。


「六月から九月ですから、一年は問題ないですね」


「ええ」


「つまり」


 相馬先輩が言いました。


「六十日の起算点を確認すりゃいい」


「はい」


 私は頷きました。


 処分の日。


 通知を発送した日。


 本人が知った日。


 全部同じとは限らない。


 当たり前のことです。


 でも。


 日付が紙に印刷されていると、人はそこを起点だと思ってしまう。


 行政法の数字は、


 数字だけ覚えると危ない。


 何から数える数字なのか。


 そこまで見ないと使えない。


「異議申立てを出します」


 片桐所長が言いました。


「分かりました」


 沢渡課長が答えます。


「ただし、朝倉さんが九月十二日以前に処分を知っていた資料が見つかれば、その点は主張します」


「当然だ」


「処分の内容についても、期間内だからといって認めるとは限りません」


「それも当然だ」


 会話が妙にあっさりしています。


 私はちょっと拍子抜けしました。


「課長」


「何でしょう」


「昨日は『もう無理です』みたいな説明だったのに、今日はずいぶん早いですね」


「事実が違えば結論も変わります」


「役所のメンツとか」


「ありません」


「一度言ったことを引っ込めにくいとか」


「法的に維持できない説明を維持するほうが面倒です」


 この人。


 やっぱり合理性だけで動いている。


「それに」


 沢渡課長が封筒を指しました。


「これは市側の台帳更新漏れです」


「はい」


「その結果、本人に届いていない期間まで不服申立期間として消費させたと扱うのは、さすがに無理があります」


 私は少し驚きました。


「課長がそこまで言うんですね」


「私は市役所の味方ではありません」


「え?」


「法的に維持できる処理の味方です」


 なるほど。


 敵でも味方でもない。


 法律関係を安定させる側。


 だから。


 期限を過ぎれば切る。


 でも。


 期限が始まっていなければ切らない。


 冷たい。


 でも。


 冷たいからこそ、役所側の都合にも寄らない。


    ◇


 事務所へ戻る途中。


 私は相馬先輩の横を歩きながら言いました。


「期間制限って、嫌な制度だと思ってました」


「急に何だ」


「だって六十日過ぎたら、原則として争えなくなるんですよ」


「そうだな」


「中身がおかしくても」


「期間の問題は別だ」


「冷たいですよね」


「じゃあ十年前の処分を今日ひっくり返されてもいいのか」


「……困りますね」


「その処分を前提に、次の話が百個進んでるかもしれねえ」


「土地とか許可とか補助金とか」


「そういうこった」


 私は歩きながら考えます。


 期間制限は。


 困った人を追い返すためにあるわけじゃない。


 法律関係を、どこかで確定させるためにある。


 いつまでも、


 昔の行政処分がひっくり返るかもしれない。


 そんな状態では、社会のほうが困る。


 だから線を引く。


 ただし。


 その線を引くなら、


 どこから数えるかも厳密でなければならない。


 本人がまだ知らない処分について、


 役所の机の上だけで時計を進める。


 それでは。


 線ではなく、落とし穴です。


「先輩」


「何だ」


「ちょっと分かりました」


「何が」


「期間制限って、人を切るための制度じゃないんですね」


「半分は切る制度だ」


「台無し!」


「だが」


 相馬先輩が続けました。


「切るからこそ、どこで切るかは雑に決めちゃいけねえ」


 私は黙りました。


 またです。


 この人。


 口が悪いくせに、たまに教科書の余白に書きたくなることを言います。


「それ、今夜ノートに書きます」


「勝手に俺を教材にするな」


    ◇


 翌朝。


 私たちは朝倉さんの異議申立書を作り始めました。


 第一の争点。


 不服申立期間を徒過していないこと。


 処分通知は六月二十七日付。


 しかし旧住所へ送付され、返戻。


 市はその事実を把握しながら、二か月以上再送していなかった。


 朝倉さんが現実に通知を受領したのは九月十二日。


 それ以前に処分の存在を知った事実は確認できない。


 したがって、


 「処分があったことを知った日」


 を六月二十七日とすることはできない。


 九月十二日の翌日を起算点としても、まだ六十日以内。


 第二の争点。


 処分内容そのもの。


「商品台全部を撤去しろ、でしたよね」


「正確には道路部分へ出ている部分だ」


 相馬先輩が言います。


「はい」


「現地見たか」


「昨日見ました」


「何センチだ」


「一番出てるところで三十八センチ」


「歩道幅は」


「二・八メートル」


「通行実態は」


「朝夕は多いです。でも問題の台がある場所は電柱の内側」


「写真」


「あります」


 私は机に並べました。


 処分期間の話が通ったからといって、


 中身で勝てるわけではありません。


 期限内。


 それは入口。


 そこからようやく、


 処分は適法だったか。


 妥当だったか。


 市の判断に問題はなかったか。


 という本番が始まります。


「これ」


 片桐所長が写真を指しました。


「隣の青果店は?」


「同じくらい台を出してます」


「許可は?」


「確認したら、条件付きで継続」


「条件は」


「営業時間外は撤去。通行幅二メートル以上確保」


 相馬先輩が笑いました。


「朝倉さんにも同じ条件付けりゃ済むんじゃねえか」


「ですよね」


「だからって勝手に決めるな」


「はい」


 所長が言いました。


「申立書に書くのは、市が比較検討したかどうかだ」


「同じ条件が必ず適用されるとは限らない」


「そうだ」


 私は文章を直します。


 朝倉さんの店。


 青果店。


 場所。


 歩道幅。


 台の大きさ。


 時間帯。


 交通量。


 全部同じではありません。


 だから、


「隣がいいなら私もいいでしょう」


 では弱い。


 聞くべきは。


 なぜ一方は条件付きで認め、


 一方は全面的に駄目なのか。


 違いは何か。


 比較したのか。


 これもまた。


 感情を論点に翻訳する作業です。


「こはる」


 所長が言いました。


「提出はいつにする」


「今日です」


「方法は」


「持参します」


「なぜ」


「期限で揉めた事件なので、提出日を確実にしたいです」


「それでいい」


 私は少し嬉しくなりました。


 そこへ。


 相馬先輩が横から言います。


「郵便でも出せるけどな」


「それは知ってます」


「郵送日数の扱いは」


「……」


 来た。


 また抜き打ち。


 私は頭の中で現代法を開きかける。


 審査請求書を郵便や信書便で――。


 待て。


 昭和六十三年。


 宅配便とか民間信書便とか言い出したら未来の風が吹きます。


「郵便で提出した場合」


 私は慎重に言いました。


「送付に要した日数は、期間計算に算入しない」


「つまり」


「期間内に郵送していれば、到達が後になっても、郵送に要した日数のせいで期間徒過にはならない」


「旧法でもだ」


「はい」


 よし。


「じゃあ今日、郵便でもいいな」


「いいですけど」


「けど?」


「この事件で郵便事故の可能性を増やしたくありません」


「正しい」


「徒歩で持っていきます」


「それが一番早い」


 法律上の郵便ルールを学んだ結果、


 最終的に徒歩。


 昭和の実務、強い。


    ◇


 市役所。


 沢渡課長は申立書を受け取ると、最初のページを確認しました。


「異議申立年月日」


「今日です」


「処分を知った日」


「九月十二日」


「その根拠」


「封筒、返戻記録、再発送記録を添付しました」


「六月二十七日以前――ではなく、九月十二日以前に知った事情は?」


「朝倉さん本人にも再確認しました。ありません」


「分かりました」


 沢渡課長は受領印を押しました。


 ぽん。


 ただの音です。


 でも。


 朝倉さんにとっては、


 閉められかけた扉が開く音でした。


「期間については」


 沢渡課長が言いました。


「現時点で、徒過しているとは扱いません」


 私は思わず息を吐きました。


「じゃあ、中身を見てもらえる」


「ええ」


「昨日の『もう遅い』から、ずいぶん進みましたね」


「昨日の説明が誤っていましたから」


「それを普通に言えるの、すごいですね」


「誤りを維持する理由がありますか」


 この人、本当にブレない。


「ただし」


 また来た。


「処分そのものが取り消されるかは別問題です」


「分かってます」


「道路管理担当は、歩行者の安全確保を理由にしています」


「隣の青果店との扱いの違いも書きました」


「見ました」


「比較記録は?」


「これから確認します」


 沢渡課長が申立書を閉じました。


「期間を通過したから、本案に入れる。それだけです」


「それだけが大事なんです」


「そうでしょうね」


 あっさりした言い方でした。


 でも。


 その一言で十分でした。


 不服申立期間というのは、


 勝つためのルールではありません。


 審理してもらうための入口です。


 入口で転べば、


 中身は誰にも見てもらえない。


 どれだけ処分がおかしくても、


 どれだけ生活が苦しくても、


 原則としてそこで終わる。


 だから。


 期間は地味なくせに怖い。


 六十日。


 一年。


 数字だけなら、小学校の算数です。


 でも。


 何を起点に数えるか。


 誰が何を知ったのか。


 いつ処分があったのか。


 そこへ事実を当てはめると。


 急に行政法になります。


    ◇


 一週間後。


 朝倉さんが、事務所へ駆け込んできました。


「先生!」


「どうしました」


 私は立ち上がりました。


「市役所から電話がありました」


「何て?」


「全部どけなくてもいいって」


「え?」


 相馬先輩が奥から出てきます。


「詳しく」


「商品台を少し引っ込めて、通るところを二メートル以上空ければ、当面は続けてもいいって」


「書面は?」


「あとで送るって」


 片桐所長が電話を取りました。


「確認する」


 市役所へ電話。


 数分。


「そうですか。……はい。……分かりました」


 切る。


「所長?」


「担当課で現地を再確認した」


「はい」


「全面撤去までは必要ないと判断したそうだ」


「じゃあ」


「処分内容を見直す方向で調整する」


 朝倉さんが椅子に腰を下ろしました。


「よかった……」


 それだけ言って。


 しばらく俯いていました。


 私は何も言いませんでした。


 全面勝利。


 大逆転。


 そんな派手な話じゃありません。


 店の前へ好き勝手に台を出していいわけでもない。


 安全のための条件は守らなければならない。


 市にも道路を管理する責任がある。


 でも。


「もう期限が過ぎました」


 そこで切られていたら。


 この比較も。


 現地確認も。


 条件付き継続という結論も。


 何一つ始まりませんでした。


「朝倉さん」


 私は言いました。


「台、少し小さくなりますけど」


「いいんです」


「商品、全部は置けないかも」


「夕方だけ追加で出します」


「面倒ですよ」


「店ごとなくなるよりいいです」


 その通りです。


 完全じゃない。


 でも。


 明日も店を開けられる。


 それは大きい。


「これ」


 朝倉さんが足元の買い物籠を持ち上げました。


「持ってきたんです」


「長葱ですか?」


「違います」


 新聞紙を開く。


 中から出てきたのは。


 コロッケ。


 大量のコロッケ。


「うわ」


「朝揚げたやつ」


「これ全部?」


「二十個」


 相馬先輩の顔が一瞬で明るくなりました。


「朝倉さん」


「はい」


「法律相談ならいつでも来てください」


「先輩」


「何だ」


「相談料がコロッケで買収されてます」


「人聞きの悪いこと言うな」


「今、二十個で職業倫理が揺れましたよね」


「揺れてねえ。腹が減っただけだ」


 朝倉さんが笑いました。


 最初に来たときより。


 ずっと普通に。


 店のおばちゃんらしい顔で笑いました。


「先生たち」


「はい」


「本当に六十日過ぎてたら、どうなってたんです?」


 私は答えかけて止まりました。


 簡単じゃない。


 旧法では、六十日を過ぎても、やむを得ない理由がある場合の扱いがある。


 客観的な一年にも例外がある。


 そして誤った教示があれば、また別の救済が問題になることもある。


 でも。


 そこを今、一気に講義する必要はありません。


「まず」


 片桐所長が言いました。


「六十日を過ぎたかどうかを、正確に調べます」


「役所の日付を見るだけじゃなく?」


「そうです」


「知った日も?」


「そうです」


 朝倉さんは頷きました。


「知らなかったのに、時間だけ過ぎたことにされたら困りますもんね」


「はい」


 私は笑いました。


 それで十分です。


 今日いちばん大事なところを、


 相談者本人が一番簡単に言ってくれました。


    ◇


 夕方。


 コロッケは残り三個になりました。


「先輩」


「何だ」


「十五個食べました?」


「食ってねえ」


「じゃあ十二個?」


「数えるな」


「期間計算は正確にって今日やったじゃないですか」


「コロッケに行政不服審査法を適用するな」


 私は机のカレンダーを見ました。


 六月二十七日。


 九月十二日。


 九月二十八日。


 同じ事件の中に、


 三つの日付がある。


 処分の日。


 知った日。


 申立ての日。


 昨日までなら。


 私はたぶん、


 六十日。


 一年。


 三か月。


 そんな数字だけを覚えていた。


 でも今は違います。


 期間の問題で大切なのは、


 数字より先に、


 何の日から数えるのか。


 です。


 処分があった日。


 処分があったことを知った日。


 似ています。


 でも。


 法律はわざわざ言葉を分けています。


 分ける理由があるからです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今日の教訓は」


 私は少し考えました。


「役所の日付を、そのまま期限の始まりだと思わない」


「もう一つ」


「誰が、いつ、何を知ったかを確認する」


「それでいい」


 私は頷きました。


 期間制限は冷たい。


 六十日を過ぎた。


 一年を過ぎた。


 原則として、それで道が閉じることがある。


 でも。


 だからこそ。


 法律は、


 いつから時計を動かすのか。


 そこまで決めている。


 役所の都合で早めてもいけない。


 本人の都合で永遠に止めてもいけない。


 その間に一本の線を引く。


 冷たい線です。


 けれど。


 誰かの気分ではなく、


 事実に沿って線を引くから。


 今日の朝倉さんは、


「もう遅い人」


 ではなくなりました。


 審理してもらえる人に戻れた。


 それだけで。


 店の前にコロッケを並べる明日が戻ってきた。


「ところで」


 私は言いました。


「先輩」


「何だ」


「最後のコロッケ、三個あります」


「ああ」


「所長、私、先輩で一個ずつですね」


「そうだな」


 私はお茶を入れました。


 戻ってきました。


 皿を見る。


 二個。


「……先輩」


「何だ」


「一個減ってます」


「知らん」


「処分があったことを知りました」


「何の処分だ」


「コロッケ一個の消失処分」


「行政庁は誰だ」


「先輩です」


「証拠は」


「口の横に衣ついてます」


 相馬先輩が口元を拭いました。


「期間は?」


「今知ったので、明日から六十日」


「長えよ」


「異議申立てします」


「却下」


「まだ期間内です!」


 奥から片桐所長の声がしました。


「こはる」


「はい」


「申立先を間違えるな」


「え?」


「コロッケを取ったのは俺だ」


 私は固まりました。


 相馬先輩も固まりました。


「所長?」


「何だ」


「食べたんですか」


「食べた」


「私の分を?」


「名前は書いてなかった」


「そういう問題ですか!」


 片桐所長は平然と帳簿をめくりました。


「不服があるなら申し立てろ」


「あります!」


「申立期間は」


「今知った日の翌日から六十日!」


「よく覚えた」


「教育目的でコロッケ取ったんですか!?」


 所長は答えませんでした。


 相馬先輩が腹を抱えて笑っています。


 私は残った一個のコロッケを確保しました。


 法律関係の早期安定。


 大事です。


 だから私は。


 最後の一個については、


 不服申立ての余地が生じる前に、


 その場で食べて法律関係を確定させました。

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