[行政不服審査法17条・審理員となるべき者の名簿]現場編 「名簿がないなら公正じゃないでしょう」の罠。未来の審理員名簿と、昭和の“誰が見直すのか”を切り分ける一枚の通知
誰が決めるのか分からない。
それだけで、人はずいぶん不安になります。
役所に不服を申し立てる。
もう一度、判断してもらう。
そう言われても。
――その「もう一度」は、いったい誰がやるのか。
そこが見えなければ、
同じ人が同じ机で同じ答えを出すだけじゃないの?
と思うのは、たぶん自然なことです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、コピー機の前で紙詰まりと戦っていました。
「先輩」
「何だ」
「この機械、私のこと嫌いですよね」
「機械に好かれようとするな」
「三枚コピーしただけで二回詰まったんですよ」
「お前の入れ方が悪い」
「機械側の裁量権の逸脱・濫用だと思います」
「紙詰まりに行政法を持ち込むな」
相馬先輩は煙草をくわえたまま、新聞をめくりました。
私はコピー機の蓋を開けます。
紙が蛇腹になっています。
「ほら。こんなに苦しそうに」
「紙に感情移入する前に取れ」
「はい」
そのときでした。
事務所の引き戸が、少し強く開きました。
「あの」
四十代くらいの男性が立っていました。
作業着。
日焼けした顔。
脇に茶封筒を抱えています。
「片桐先生はいらっしゃいますか」
声が固い。
怒っているというより。
ずっと我慢してきた人の声でした。
片桐所長が奥から出てきます。
「どうぞ」
男性は椅子に座ると、茶封筒から一枚の通知書を出しました。
「これなんです」
私は机越しに覗き込みます。
――道路占用許可取消通知書。
申請者ではない。
すでに出ていた許可を取り消す通知です。
「お名前を」
「高木修一です」
高木さんは、駅から少し離れた商店街で自転車店を営んでいました。
店の前には細い市道があります。
その道路上に、修理した自転車を一時的に置くための小さな木製台を出していた。
もちろん勝手に出したものではありません。
市から道路占用許可を取っていた。
毎年更新。
ところが二週間前。
突然、許可を取り消すという通知が来た。
「理由は?」
相馬先輩が聞きます。
高木さんが通知を指しました。
「ここです」
――駅前周辺交通環境整備事業との整合を図る必要があるため。
私は数秒、黙りました。
「……また整備事業」
「何だ」
「いえ」
この町。
最近、「整備」という言葉が便利な万能調味料になりつつあります。
駅前整備。
交通環境整備。
景観整備。
観光振興。
だいたい「整備」が付くと、誰かの生活が少しずつ押し動かされる。
「でも」
高木さんが言いました。
「取り消されたこと自体も困ってるんですが、それだけじゃないんです」
「ほかに?」
「市役所に行って、不服がありますって言ったんです」
「はい」
「そしたら、審査請求をしてくださいって」
私は反射的に顔を上げました。
審査請求。
この時代なら、あり得る。
「どこにです?」
片桐所長が聞きました。
「県です」
なるほど。
処分庁は市の道路管理担当。
その処分について、法令上、上級行政庁への審査請求となる構造らしい。
そこまではいい。
問題は次でした。
「それで俺、聞いたんです」
高木さんが言います。
「誰が審査するんですか、って」
「はい」
「そしたら、『県で適切に処理します』って」
乾いた答えです。
「担当者の名前は?」
「まだ決まってないって」
「部署は?」
「それも、正式に申し立ててからだって」
高木さんは唇を噛みました。
「変じゃないですか」
「何がです?」
「だって、市役所が出した処分ですよ」
「はい」
「それを県に見直してくれって言うんでしょう」
「そうですね」
「だったら、誰が見るのかくらい、先に分かってもいいじゃないですか」
もっともです。
気持ちとしては。
高木さんは続けました。
「しかも、市の道路課の人が言ったんです。『県とも事前に話は通っていますから』って」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「何て?」
「県とも話は通ってるって」
「誰が言った」
「道路課の主任です」
空気が一段、変わりました。
それは嫌な言い方です。
処分庁が、
上級行政庁とも話は済んでいる。
と申立人に言う。
もちろん、本当に審査結果まで決まっているという意味とは限りません。
事業の方針を共有している。
計画について協議済み。
そういう意味かもしれない。
でも。
不服申立てをしようとしている人に、
「上とも話は通っています」
は、よろしくない。
ものすごくよろしくない。
「だから俺」
高木さんは茶封筒からもう一枚、紙を出しました。
「これを書いて持っていったんです」
手書きの文書。
私は読みました。
――審査担当者名簿の開示申出。
「……名簿?」
「はい」
「どんな名簿です?」
「審査する人の名簿です」
私の頭の中で。
何かが、
カチッ。
と鳴りました。
審査する人。
名簿。
審理員となるべき者の名簿。
行政不服審査法十七条。
現代法。
審査庁となるべき行政庁は、
審理員となるべき者の名簿を作成するよう努め、
作成したときは、
審査庁となるべき行政庁や関係処分庁の事務所への備付けその他適当な方法で公にしておかなければならない。
そうです。
私は知っています。
「それなら――」
言いかけて。
止まりました。
待って。
待ってください。
今。
何年?
昭和六十三年。
「うわ」
「何だ」
相馬先輩がこちらを見る。
「未来法が出ました」
「引っ込めろ」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる」
私は両手で頬を押さえました。
危ない。
とても危ない。
現代の行政不服審査法なら。
審理員。
審理員候補者の名簿。
名簿作成は努力義務。
作ったなら公表義務。
そういう仕組みがあります。
でも。
昭和六十三年には。
そもそも今の意味での審理員制度がありません。
当然、
現行法十七条の「審理員となるべき者の名簿」もありません。
ここで、
「名簿を公開していないのは十七条違反です!」
などと叫んだら。
行政書士見習いではなく、
未来から来た不審者になります。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何を考えた」
「……審査を担当する人が、あらかじめ分かる仕組みです」
「今の制度にあるのか」
「未来にです」
高木さんが私を見る。
「未来?」
「こっちの話です!」
危ない。
転生者、守秘義務以前の問題です。
相馬先輩がため息をつきました。
「今ある制度で見ろ」
「はい」
最近こればっかり言われている気がします。
でも正しい。
私は高木さんの文書を見ました。
「市役所は、これに何て答えたんですか」
「そんな名簿はありませんって」
「そうでしょうね」
「でも、おかしくないですか」
高木さんの顔が少し赤くなりました。
「誰が審査するかも分からない。市は県とも話が通ってるって言う。そんなところに申し立てたって、最初から結論が決まってるんじゃないですか」
そこです。
問題は。
名簿がないこと。
ではない。
少なくとも昭和六十三年の今は。
問題は、高木さんが、
審査請求という制度そのものを信用できなくなっていることです。
そして、その原因が。
市側の、
「県とも話が通っています」
という一言にある。
「所長」
私は言いました。
「市役所へ確認したいです」
「何を」
「『話が通っている』の中身です」
相馬先輩が頷きました。
「そこだな」
「審査の結論まで調整済みなのか。それとも、整備事業そのものについて協議してるだけなのか」
「同じ『話してる』でも全然違う」
「はい」
片桐所長が高木さんを見ました。
「高木さん」
「はい」
「名簿のことはいったん置きます」
高木さんの眉が寄りました。
「でも」
「今の法律には、その名簿を作って公表しろという制度はありません」
「……じゃあ、やっぱり誰が見るか分からないんですか」
「そこも確認します」
「え?」
「名簿がないことと、審査請求が最初から無意味なことは別です」
所長の声は短い。
でも。
こういうとき。
短い言葉のほうが、不思議と安心します。
「市が県と何を協議したのか」
「……はい」
「誰が処分を決めたのか」
「はい」
「審査請求の窓口がどこで、提出後どう扱われるのか」
「はい」
「一つずつ分けます」
高木さんは、少しだけ肩を落としました。
緊張が一枚剥がれたように見えました。
市役所。
道路管理課。
私たちを迎えたのは。
もちろん。
「また来ましたね」
沢渡課長でした。
「課長、総務じゃなかったんですか」
「今日は調整でこちらにいます」
「役所の人って、どこにでも出ますね」
「朝比奈さんほどではありません」
返された。
最近この人、私への処理速度が上がっています。
高木さんの取消通知を机に置きます。
沢渡課長は眼鏡の位置を直しました。
「ああ。自転車店の」
「知ってます?」
「駅周辺整備に関係する案件ですから」
相馬先輩がすぐ聞きました。
「道路課の主任が、高木さんに『県とも話は通ってる』って言ったらしいな」
沢渡課長の動きが止まりました。
「誰がですか」
「大西主任」
「……なるほど」
「知ってるのか」
「本人に確認します」
「その前に」
片桐所長が言いました。
「県とは何を協議している」
沢渡課長は少し考えてから答えました。
「駅前周辺交通環境整備事業については、県とも協議しています」
「高木さんの処分については」
「事業に関連する個別処分が発生することは説明しています」
「取消しが妥当かどうかまで?」
「そこまでは協議していません」
「審査請求が来た場合の結論は」
「当然、決まっていません」
私は思わず口を挟みました。
「じゃあ『話が通ってる』って何ですか」
「言葉が雑だったのでしょう」
「雑で済みます?」
「済まないから確認すると言っています」
強い。
打たれ強い。
でも逃げない。
沢渡課長はこういうところがあります。
「高木さんは」
私は言いました。
「その一言を聞いて、県に審査請求しても無駄だと思っています」
沢渡課長の表情が少し変わりました。
「無駄ではありません」
「でも市の担当者が、県とも話がついてるみたいな言い方をした」
「それが事実なら適切ではないですね」
「審査担当者の名簿を見せてくれって言ったら、『そんなものはありません』だけだったそうです」
「ありませんから」
「それで終わり?」
沢渡課長は私を見ました。
「何が言いたいんです」
「名簿がないのは、この時代の制度なら仕方ない」
口から出して。
相馬先輩が横目で私を見る。
この時代。
ちょっと怪しい言い方でした。
「でも」
私は続けます。
「だからって、『誰がどう見直すのか知らなくていい』にはならないでしょう」
沢渡課長が黙りました。
「審査請求先は県なんですよね」
「ええ」
「提出先は」
「処分庁を経由する方法もありますし、審査庁へ直接提出することもできます」
「じゃあ、少なくともその案内はできた」
「できます」
「期間は」
「処分を知った日の翌日から起算して六十日です」
危ない。
頭の中から、
三か月。
が飛び出しかけました。
昭和。
六十日。
昭和。
六十日。
脳内で二回唱えて固定します。
「高木さんは通知を受け取ってから二週間」
片桐所長が言いました。
「期間はまだある」
「はい」
「教示は」
通知書の裏を見る。
審査請求についての記載があります。
ただ。
細かい説明まではない。
「課長」
相馬先輩が言いました。
「審査請求する相手が、処分を出した市とは別だってことくらい、もっとちゃんと説明できねえのか」
「通知上の教示はしています」
「紙の話じゃねえ」
「では何の話です」
「人の話だ」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「高木さんは、『県とも話が通ってる』って言われて、県も市と同じ側だと思ってる」
「……」
「そのまま六十日過ぎたらどうする」
沢渡課長は答えません。
「制度があっても」
私は言いました。
「使う前に諦めさせたら、ないのと同じじゃないですか」
少し言いすぎたかな。
と思いました。
でも。
沢渡課長は怒りませんでした。
机の上の通知書を見て、
ゆっくり息を吐きます。
「大西主任を呼びます」
数分後。
道路管理課の主任が来ました。
五十代。
人の良さそうな丸顔。
いかにも悪意で人を追い詰めるタイプには見えません。
「高木さんに、県とも話が通っていると言いましたか」
沢渡課長が聞きます。
「ああ、はい」
「どういう意味で」
「駅前整備の方針は県とも調整済みだという意味です」
「高木さんの許可取消しについて、県が妥当だと了承していると?」
「いや、そこまでは」
「審査請求した場合も結果は変わらないと?」
「そんなことは言ってません」
「相手には、そう聞こえています」
主任が黙りました。
「あの人、かなり怒ってたから」
私は眉をひそめました。
「怒ってたから?」
「いや、こちらとしても事業全体の説明をしただけで」
「主任」
沢渡課長が遮りました。
「怒っているかどうかは関係ありません」
静かな声でした。
「不服申立てを考えている人に、『上とも話が通っている』と伝えれば、審査請求の結論まで決まっていると受け取られる可能性がある」
「……はい」
「今後、その言い方はやめてください」
「分かりました」
私は少し驚きました。
もっと役所同士でかばうかと思った。
でも。
沢渡課長は法理と証拠で仕事をする人です。
役所側でも雑なら切る。
「それと」
片桐所長が言いました。
「取消処分そのものを確認したい」
「何をです?」
「必要性だ」
来ました。
本丸。
審査担当者が誰かという不安から始まりましたが。
不服申立てで本当に争うのは、
処分そのものです。
「高木さんの木製台が、具体的に何の支障になる」
沢渡課長が資料をめくります。
「道路環境整備の一環として、歩道部分の整理を進めています」
「工事はいつから」
「来年春の予定です」
「今は秋だ」
「ええ」
「木製台は固定物か」
「簡易なものです」
「営業時間外は」
「店内にしまっています」
「通行幅は」
資料を確認する。
「現況で二・四メートル程度」
「台を置いた状態で?」
「はい」
「整備計画上、必要な幅は」
間がありました。
「……現段階では、当該区間について具体的な施工図は確定していません」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「またか」
「何です」
「先に人だけどかす癖でもあんのか、この役所は」
「言い方に気をつけてください」
「じゃあ丁寧に言う。工事の内容も確定してねえのに、何で今取り消した?」
道路課主任が答えました。
「整備対象区間について、占用物を順次整理していく方針で」
「順次?」
私は聞きました。
「高木さんの隣の八百屋さん、看板出してますよね」
主任の顔が止まりました。
高木さんから事前に聞いていた話です。
「……あれは占用許可ではなく」
「では、向かいの時計店の袖看板は?」
「別の形態です」
「同じものだとは言ってません」
私は言いました。
「高木さんの木製台だけ、今すぐ取り消す必要がある理由を聞いてます」
昨夜までの私は、
処分。
審査庁。
審理員。
除斥。
名簿。
そういう言葉を見たら、
五分で眠くなれた自信があります。
でも。
今は違う。
高木さんの自転車店がある。
店先の小さな台がある。
修理を終えた自転車を夕方まで置いておく場所がある。
その生活を、
「整備のため」
の一言で消していいのか。
言葉が急に人間の大きさになります。
「取消しの対象を選ぶ基準は?」
片桐所長。
「整備上の支障を踏まえて個別に」
「文書化されているか」
「内部資料はあります」
「高木さんに当てはめた記録は」
道路課主任が答えません。
沢渡課長が主任を見る。
「ありますか」
「……簡単な決裁理由は」
「見せられる範囲で確認してください」
「はい」
そこから。
話は一気に変わりました。
名簿を出せ。
誰が審査するんだ。
県もどうせ仲間だろう。
そういう不信の塊だったものが。
一つずつ。
事実に分かれていく。
誰が処分したか。
誰に不服を申し立てるか。
県との事前協議は何についてだったか。
処分の必要性は何か。
今すぐ取り消す必要があるか。
他の占用物との違いは何か。
判断記録はあるか。
空気ではなく。
項目になる。
私は、この瞬間が好きなのかもしれません。
ぐちゃぐちゃだった「納得できない」が、
法律の棚に一つずつ収まっていく瞬間。
法律は冷たい。
でも。
冷たい棚には、怒鳴り声も役所の肩書も関係ありません。
置く場所が違えば、
「それは別の話です」
と言える。
「課長」
私は言いました。
「高木さん、審査請求します」
「本人の意思なら」
「はい」
「止めません」
「それと」
私は少し迷いました。
「審査を誰が担当するか、決まった段階で高木さんに説明できませんか」
沢渡課長がこちらを見ました。
「法定の名簿を出せ、という意味ですか」
「違います」
即答しました。
そこは違う。
昭和六十三年。
未来の十七条を召喚してはいけません。
「高木さんが気にしてるのは、名簿そのものじゃないんです」
「では?」
「処分した側の言い分を、そのまま同じ人たちが繰り返すだけじゃないって分かる材料です」
「……」
「誰に出すのか。どこが審査するのか。どういう手続になるのか。今説明できる範囲で、ちゃんと説明してほしいんです」
沢渡課長は数秒黙りました。
「県の担当部署については確認します」
「お願いします」
「ただし」
「はい」
「誰が担当するか分からないからといって、処分が直ちに違法になるわけではありません」
「分かってます」
「名簿がないから、審査請求が無効になるわけでもない」
「それも分かってます」
「では結構です」
何でしょう。
この人と話していると、
たまに口頭試験を受けている気分になります。
市役所を出たあと。
相馬先輩が言いました。
「お前、今日は珍しく未来法を振り回さなかったな」
「危なかったです」
「何があるんだ、未来には」
「審理員って制度ができるんです」
「審理員?」
「審査請求の審理を担当する人です。原処分に関与した人なんかは除かれて――」
「待て」
「はい」
「それ、今使えるか」
「使えません」
「じゃあ帰れ」
「もう少し興味持ってくださいよ」
「三十年後の役所の人事なんか知らん」
「人事じゃないです!」
私は歩きながらぶつぶつ言いました。
「しかも未来では、審理員となるべき人の名簿を作るよう努めるって条文があるんですよ」
「作らなきゃならんのか」
「そこが面白いんです」
「何が」
「作ること自体は義務じゃないんです」
「は?」
「努力義務です」
「じゃあ作らなくてもいいじゃねえか」
「そうなんです」
「名簿の意味ねえだろ」
「でも作ったら公にしておかなきゃいけない」
「面倒くせえな未来」
「行政法ってそういうところあります」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「じゃあ未来でも、『名簿がない、違法だ』とはならねえのか」
私は止まりました。
「……そうです」
「今日の高木さんと同じじゃねえか」
「え?」
「名簿って言葉に引っ張られて、本当に見るところ間違えるなって話だろ」
私はしばらく黙りました。
「先輩」
「何だ」
「未来の行政書士試験、受けます?」
「嫌だ」
「向いてますよ」
「もっと嫌になった」
事務所へ戻ると。
高木さんが待っていました。
「どうでした」
「県とも話が通っている、という意味は確認できました」
「やっぱり決まってるんですか」
「違います」
私ははっきり言いました。
「駅周辺整備の計画について、市と県で話をしていたという意味です」
「じゃあ、俺の取消しが正しいって県が認めたわけじゃない?」
「そこまでは協議していませんでした」
高木さんの目が少し開きました。
「本当に?」
「はい」
「審査請求しても、最初から駄目って決まってるわけじゃない?」
「決まっていません」
それだけで。
高木さんの背中が少し伸びました。
勝ったわけじゃありません。
取消処分が覆ったわけでもない。
木製台を置き続けられると決まったわけでもない。
でも。
最初から無駄だ。
という思い込みが取れた。
それは大きい。
「それから」
片桐所長が言いました。
「取消処分の理由も洗います」
「理由?」
「工事は来春予定。施工内容はまだ確定していない」
「はい」
「それなのに、なぜ今の時点で高木さんだけ占用許可を取り消す必要があったのか」
「……」
「そこは審査請求で問える」
高木さんは通知書を見ました。
「俺」
ぽつりと言いました。
「名簿が欲しかったわけじゃなかったんですかね」
私は少し考えました。
「たぶん」
「じゃあ何が欲しかったんだろう」
「ちゃんと別の人が、もう一回見てくれるって分かる材料じゃないですか」
高木さんは苦笑しました。
「同じか」
「似てますけど、少し違います」
名簿がある。
だから公正。
名簿がない。
だから不公正。
そんなに単純ではありません。
制度には、
作る義務があるもの。
作るよう努めればいいもの。
作ったなら公表しなければならないもの。
そもそも、その時代には存在しないもの。
いろいろあります。
そして。
紙の有無だけでは、
本当に争うべきところを見失うこともある。
三日後。
高木さんの審査請求書が完成しました。
片桐所長が赤ペンで感情的な表現を消し、
相馬先輩が道路幅と木製台の寸法を測り直し、
私は取消処分から現在までの日付を一覧にしました。
書いたのは、
――県も市の味方だから信用できない。
ではありません。
駅周辺交通環境整備事業が存在すること自体は争わない。
しかし。
当該区間の具体的施工内容及び工事時期が確定していない段階で、
従前認められてきた占用許可を直ちに取り消す必要性がどこにあるのか。
他の道路上工作物等との取扱いの差異に合理性があるのか。
取消しという手段を採る必要性及び相当性について、
改めて審査を求める。
そう整理しました。
「名簿の話、書かないんですね」
高木さんが言いました。
「今回の中心じゃありませんから」
「でも最初は、それで相談に来たんですよ」
「はい」
「変な話ですね」
「行政法ではよくあります」
「そうなんですか」
「入口と出口が違います」
相馬先輩が横から言います。
「こいつの場合、入口でよく道に迷うけどな」
「余計です」
審査請求書を提出して。
一週間ほど経ったころ。
県から受理の連絡がありました。
そして。
市側にも動きがありました。
道路管理課が、高木さんの占用許可取消しについて、
執行上の取扱いを改めて検討するというのです。
取消処分そのものを直ちに撤回する。
という話ではありません。
ただ。
来春の工事計画が具体化するまで、
木製台の使用について事実上の猶予措置を検討する。
さらに。
同じ整備区域内の既存占用物について、
取消し・更新拒否の基準を統一する。
という話になりました。
「また全部見直しですか」
私は沢渡課長からの電話に言いました。
『全部というほどではありません』
「でも基準を点検するんですよね」
『ええ』
「高木さん一人の審査請求で」
『一件で矛盾が見つかれば、他にもないか確認するのは普通です』
「それを普通にやってくれるなら、みんな苦労しない気がします」
『朝比奈さん』
「はい」
『役所は無謬ではありません』
「……」
『だから不服申立てがある』
少し意外でした。
「課長が言うと重いですね」
『褒めていますか』
「半分くらい」
『残り半分は不要です』
電話は切れました。
夕方。
高木さんが事務所へやって来ました。
手には紙袋。
「まだ処分が取り消されたわけじゃないですけど」
「はい」
「春までは、店の前で今までどおり修理品を受け渡しできそうです」
「よかったです」
「それで」
紙袋を置きます。
「これ」
「何です?」
「たい焼き」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「高木さん」
「はい」
「あなたは分かってる」
「何がですか」
「差し入れというものを」
「先輩」
私は睨みます。
「何だ」
「花を持ってきてくださる人に失礼です」
「花は食えねえ」
「価値基準が胃袋一個しかない」
高木さんが笑いました。
最初に来たときとは全然違う顔です。
「朝比奈さん」
「はい」
「俺、あの日」
「はい」
「名簿を見せろって怒ってたでしょう」
「そうですね」
「今思うと、変なところにこだわってました」
「変ではないですよ」
私は言いました。
「誰が見直すのか分からないって、不安ですから」
「でも」
「はい」
「本当に知りたかったのは、名前じゃなかった」
「そうかもしれません」
「ちゃんと見直してもらえる道が残ってるか。それが知りたかったんですね」
私は頷きました。
たぶん。
現代の制度で、
審理員となるべき者の名簿が作られ、
作ったなら公にすることになっているのも。
根っこには、
そういう不安への答えがあるのかもしれません。
誰が審理を担うのか。
どういう人が候補になるのか。
行政の内部で行う不服審査だからこそ。
見えないより、
見えるほうがいい。
ただし。
未来の十七条ですら、
名簿を作ることそのものは、
「必ず作れ」
ではない。
努力義務。
ここ、絶対試験に出そう。
というか出ます。
受験生を一文字で落とすタイプです。
作成するよう努める。
作成したときは、公にしておかなければならない。
――「努める」と「ならない」。
この差。
行政法は助動詞まで刃物です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何をにやにやしてる」
「未来の試験問題を想像してました」
「暇だな」
「大事なんですよ」
「今の仕事をしろ」
「はい」
私はたい焼きの袋を開けました。
「あ」
「何だ」
「三つしかない」
相馬先輩が一個取ります。
片桐所長が一個取ります。
残り一個。
私は手を伸ばしました。
その瞬間。
所長が言います。
「高木さんの控えを整理してからだ」
「え」
「仕事が先だ」
「でも冷めます」
「たい焼きは逃げん」
相馬先輩が私の分に手を伸ばします。
「先輩」
「何だ」
「それは私のです」
「誰が決めた」
「三人で三個なら一人一個でしょう!」
「その基準は公表されてない」
「今公表しました!」
「名簿は?」
「何の名簿ですか!」
「たい焼きを食うべき者の名簿」
「作成は努力義務です!」
言ってから。
私は固まりました。
相馬先輩が眉を上げます。
「努力義務?」
「……未来の話です」
「またか」
片桐所長が静かに私の分のたい焼きを紙袋から取り、
私の机の上に置きました。
「所長?」
「作業しながら食え」
「いいんですか」
「冷める」
私はたい焼きを見ました。
少しだけ笑ってしまいます。
今日の教訓。
名簿があるかないかだけで、公正さは決まりません。
大事なのは、
何が義務で、
何が努力義務で、
何をしたら次の義務が生まれるのか。
そして。
制度が違う時代なら、
そもそもその条文が存在するのか。
そこから確認すること。
条文は冷たい。
「努める」。
「しなければならない」。
たったそれだけの言葉の違いで、
役所に要求できることと、
要求できないことを容赦なく分けます。
でも。
その冷たさがあるから。
怒っている人に、
「名簿がないから全部おかしい」
とも言わなくていい。
役所に、
「名簿がないから何も説明しなくていい」
とも言わせなくていい。
違うものは、
違う。
争えるところは、
争える。
今日、高木さんを少し救ったのは、
名簿ではありませんでした。
「誰が悪い」
を探す前に。
「何を見直してもらえるのか」
を整理したことでした。
「こはる」
「はい」
「食いながら書類触るな」
相馬先輩が言いました。
「先輩が作業しながら食えって」
「言ったのは所長だ」
「責任転嫁!」
「たい焼きのあんこを高木さんの審査請求書につけたら、お前が責任取れ」
「そういうときだけ個人責任!」
片桐所長が一言。
「こはる」
「はい」
「口より手を動かせ」
「……異議があります」
「申立先が違う」
「え?」
「今日は審査請求だろ」
一秒。
相馬先輩が吹き出しました。
「所長まで乗らないでください!」
窓の外では、
駅前へ続く道を自転車が一台、
ゆっくり走っていきました。
この町の整備は、これからも進みます。
処分も増える。
不服も増える。
きっと、
「誰が決めたんだ」
と怒る人も増える。
そのたびに。
私は一つずつ確認するのだと思います。
誰が処分した。
誰に申し立てる。
どの制度を使う。
その制度は、
いつの法律なのか。
そして。
未来の条文を昭和に持ち込まない。
――最後の一つだけは。
行政書士試験より、
転生者にとって切実な注意事項でした。
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