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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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146/394

[行政不服審査法16条・標準審理期間]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所には、甘い匂いが残っていました。


 正確には。


 法律事務所としては、かなり場違いなほど残っていました。


「先輩」


「何だ」


「書類から生クリームの匂いがします」


「気のせいだ」


「さっきケーキ食べましたよね」


「それは事実だ」


「じゃあ気のせいじゃないでしょう」


 相馬先輩は煙草をくわえながら、知らん顔をしました。


 水野さんが持ってきてくれた、


 クリスマス用の試作品。


 苺のショートケーキ。


 四つ。


 すでに全滅。


 主に相馬先輩の処理速度が異常でした。


 行政の審理より、圧倒的に早い。


 そして今。


 私の机には、


 別のものが広がっています。


 ノート。


 現代の行政不服審査法。


 頭の中の条文。


 そして、


 水野さんの審査請求について書いた時系列表。


 私はノートの上に大きく書きました。


 ――行政不服審査法第十六条。


 標準審理期間。


「今日は未来法か」


 相馬先輩が言いました。


「未来法って言い方やめてください」


「昭和六十三年にない制度だろ」


「そうですけど」


「なら未来法だ」


 ぐう。


 正しい。


 今回ばかりは反論しにくい。


「でも」


 私はペンを握り直しました。


「水野さんの事件があったから、やっとこの条文の意味が分かった気がするんです」


「試験勉強じゃ分からなかったのか」


「分かったつもりでした」


「一番危ないやつだな」


「自覚してます」


 受験生の頃。


 第十六条。


 標準審理期間。


 覚えることは、三つくらいでした。


 一つ。


 起算点は、


 審査請求が審査庁の事務所に到達してから。


 二つ。


 標準審理期間を定めるのは努力義務。


 三つ。


 定めたなら、公にしておかなければならない。


「はいはい」


 当時の私はそう思っていました。


 到達。


 努力義務。


 公表義務。


 三点セット。


 暗記して終わり。


 でも。


 水野さんは四十六日待っていました。


 審査請求書は届いた。


 受付処理もされた。


 資料も集まった。


 それでも。


 いつ終わるのか分からない。


 どこまで進んでいるのかも分からない。


 ただ、


 審理中です。


 後日通知します。


 それだけ。


「標準審理期間って」


 私は呟きました。


「待つ人のための物差しなんですね」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「続けろ」


「はい」


 私は最初の見出しを書きました。


 ――標準審理期間とは何か。


「ざっくり言うと」


 私は相馬先輩のほうを向きます。


「審査請求が来てから裁決まで、通常どれくらいかかるかの目安です」


「期限か」


「違います」


「じゃあ守らなくていいのか」


「そう単純でもないです」


「面倒だな」


「行政法ですから」


「便利な逃げ文句にするな」


 はい。


 ではちゃんと整理します。


 行政不服審査法第十六条では、


 審査庁となるべき行政庁は、


 審査請求がその事務所に到達してから、


 その審査請求に対する裁決をするまでに、


 通常要すべき標準的な期間を定めるよう努める。


 そうされています。


「ここで一番大事なのは」


 私はノートに線を引きました。


 ――通常要すべき標準的な期間。


「個別事件の締切じゃありません」


「つまり、水野さんの件は四十五日で必ず裁決しろ、とかじゃない」


「そうです」


「じゃあ標準ってのは?」


「普通の案件なら、このくらいで裁決まで行くでしょう、という行政側の目安です」


「天気予報みてえだな」


「そこまで曖昧じゃないです」


「でも外れる」


「外れることはあります」


 相馬先輩がにやりとしました。


「天気予報じゃねえか」


「例えが雑なんですよ!」


 ただ。


 感覚としては少し近い。


 標準審理期間が三か月とされていても、


 すべての審査請求が必ず三か月以内に終わるわけではない。


 複雑な案件。


 証拠が多い案件。


 争点が多い案件。


 関係機関への照会が必要な案件。


 そういう事件なら長くなることもある。


 逆に。


 簡単な案件なら、


 もっと早く終わることもある。


「だから」


 私は書きました。


 標準審理期間


 イコール


 法定の裁決期限


 ではない。


「ここ、試験で引っかけやすそうですね」


「『標準審理期間内に必ず裁決しなければならない』」


「誤りです」


「『期間を過ぎたら当然に処分が取り消される』」


「もっと誤りです」


「『期間を過ぎたら審査請求が認容されたものとみなす』」


「そんな自動販売機みたいな制度じゃありません」


 期間超過。


 ガコン。


 取消し。


 だったら行政法受験生も実務家も苦労しません。


「所長」


「何だ」


「標準審理期間を一言で言うなら?」


「約束ではない。目安だ」


「やっぱり短い」


「足りんか」


「十分です」


 私は丸で囲みました。


 ――標準審理期間は、裁決の法定期限ではなく、通常要する期間の目安。


 次。


 ここが行政書士試験ではかなり大事です。


 ――起算点。


「水野さんの件で、県庁に書類が届いたのは?」


 私は相馬先輩へ聞きました。


「十月九日」


「受付処理は?」


「十三日」


「じゃあ現行法の標準審理期間を数えるとしたら、どっちから?」


「十三日」


「違います」


「引っかかった」


「わざとですか!」


「試験なんだろ」


「いや今は事務所です!」


 私は大きく、


 十月九日。


 と書きました。


 行政不服審査法第十六条。


 起算点は、


 審査請求が審査庁の事務所に到達してから。


「受理してから、じゃありません」


「受付印を押した日でもない」


「はい」


「中身を確認した日でもない」


「はい」


「担当者の机に乗った日でもない」


「それ全部役所側の事情です」


 ここです。


 水野さんの審査請求書。


 十月九日に県庁へ届いていた。


 受付処理は十月十三日。


 もし、


 受付処理の日を基準にしていいなら、


 役所内部の事務処理次第で、


 期間のスタートを後ろへずらせてしまう。


「住民からしたら」


 私は言いました。


「九日から待ってるんですよね」


「そうだな」


「十三日に受付印を押したから、その日まで時間が流れてませんでした、とはならない」


「当たり前だ」


「だから起算点が『事務所に到達してから』」


 この一言。


 受験生時代は、


 受理じゃなくて到達。


 丸暗記でした。


 でも現場を見れば、


 かなり合理的です。


 行政内部の処理の都合で、


 待っている人の時間を縮めない。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「到達したから、必ず適法な審査請求とは限らん」


「あ」


 大事です。


 私は書き足しました。


 事務所への到達。


 それは標準審理期間の起算点。


 でも。


 その審査請求が適法かどうか。


 補正が必要か。


 期間内か。


 審査請求できる処分か。


 そういう話とは別。


「つまり」


 私は整理します。


「『到達』を起算点とすることと、『適法な審査請求として受理された』ことは同じ意味じゃない」


「そうだ」


「ここも試験で混ぜてきそう」


「混ぜるだろうな」


 行政法の試験問題。


 混ぜられるものは、


 だいたい混ぜてきます。


 私は次の見出しを書きました。


 ――標準審理期間は必ず定めるのか。


「答えは?」


 相馬先輩。


「努力義務です」


「つまり?」


「定めるよう努める」


「定めなきゃ違法か」


「直ちにそうなるわけではありません」


「必ず定める義務ではない」


「はい」


 ここもポイントです。


 行政不服審査法第十六条は、


 標準審理期間を、


 定めなければならない。


 とはしていません。


 定めるよう努める。


「努力義務」


 私は二重線を引きました。


「だから」


 相馬先輩が言います。


「標準審理期間を定めてない審査庁もあり得る」


「はい」


「それ自体で即違法とは言えない」


「そうです」


「じゃあ意味ねえじゃん」


「そう言いたくなる気持ちは分かります」


 本当に。


 受験生時代の私は思いました。


 努力義務。


 努力してください。


 以上。


 何それ。


 だったら試験に出さないで。


 でも。


 今は少し違って見えます。


「全部の行政庁に」


 私は言いました。


「全部の審査請求について、全国一律の期間を法律で決めるのは難しいんですよね」


「なぜ」


「案件の重さが違うからです」


 免許。


 許可。


 税。


 福祉。


 公務員関係。


 情報公開。


 行政の仕事は広い。


 審査請求の内容も全然違う。


「じゃあ」


 相馬先輩が言います。


「各行政庁が、自分のところなら普通どれくらいかかるか考えろ」


「そういう仕組みです」


「それを定めるよう努めろ」


「はい」


「でも絶対義務にはしない」


「はい」


 柔らかい規定です。


 でも。


 定めれば次の義務が発生します。


 ここが面白い。


 私は次を書きました。


 ――定めたときは、公にしておかなければならない。


「こっちは?」


「義務です」


「努力じゃない?」


「違います」


「定めるのは努力義務」


「はい」


「定めたあとの公表は義務」


「そうです」


 相馬先輩が腕を組みました。


「面倒な条文だな」


「試験向きでしょう?」


「性格悪いな」


「条文に言ってください」


 私は整理します。


 一段目。


 標準審理期間を定めるか。


 ――努力義務。


 二段目。


 標準審理期間を実際に定めた。


 ――公にしておく義務。


「つまり」


 私は言いました。


「定めるかどうかは努力義務だけど、定めたのに役所の机の引き出しへ隠しておくのは駄目」


「誰のための期間か分からなくなるからな」


「そうです」


 そこです。


 標準審理期間が存在していても、


 住民が知らなければ、


 水野さんのような人は、


 いつまで待つのか分からない。


 目安は、


 見える場所にあって初めて目安になる。


「どうやって公にする」


 相馬先輩が聞きます。


「審査庁となるべき行政庁と、関係処分庁の事務所に備え付けるなど、適当な方法です」


「審査庁だけじゃない?」


「そこがポイントです」


 私はノートに二つ書きます。


 審査庁となるべき行政庁。


 関係処分庁。


「なぜ処分庁にも?」


「住民は最初に処分庁へ相談することが多いからか」


 片桐所長が言いました。


「そういう実益がありますよね」


 処分を受けた人。


 この不服申立て、


 どれくらいかかりますか。


 と聞く。


 そのとき、


 審査庁まで行かなければ標準期間が分からない。


 では不便です。


 だから。


 関係処分庁の事務所でも確認できるようにしておく。


「もちろん今なら」


 私は言いました。


「ホームページなんかで公表することも考えられます」


「ほーむ?」


「……未来の掲示板です」


「また雑な説明を」


 昭和六十三年にウェブサイトを説明するのは諦めました。


「でも」


 私は水野さんの葉書を思い出しました。


 ――後日通知します。


「今の制度なら、標準審理期間を定めて公表している審査庁なら、水野さんは『通常はこのくらい』って分かる可能性があるんですね」


「そうだな」


「もちろん、その期間どおりに絶対終わるわけじゃない」


「ああ」


「でも目安がある」


「それだけでも違う」


 片桐所長が言いました。


「はい」


 ここが、


 今回いちばん実感したところです。


 水野さんが求めていたのは、


 絶対に勝たせてくれ。


 ではありませんでした。


 明日までに裁決してくれ。


 でもありません。


 いつ頃なのか。


 それだけ。


 商売をしている人にとって、


 時間はただの日数ではありません。


 予約。


 仕入れ。


 人件費。


 営業時間。


 季節。


 売上。


 全部につながっています。


「だから標準審理期間って」


 私は言いました。


「審査請求人に予測可能性を与える制度でもあるんですね」


「難しい言葉に戻ったな」


「じゃあ」


 少し考える。


「待ち時間の見当をつける制度」


「そっちのほうが分かる」


「でも試験答案には書かないでください」


「俺は受けねえよ」


 次。


 私はページをめくりました。


 ここで、


 昭和六十三年と現代の違いです。


「今回、一番危なかったところ」


「お前が県庁で十六条を振り回しかけたところか」


「はい」


 昭和六十三年。


 旧行政不服審査法。


 現代の行政不服審査法第十六条にある、


 この標準審理期間の仕組みを、


 そのまま使うことはできません。


「だから水野さんの事件では」


 私は確認します。


「『第十六条に基づいて標準審理期間を公表してください』とは言えなかった」


「ああ」


「県庁が期間を決めていないから違法だ、とも言えない」


「そうだ」


「未来の条文で昭和の役所を殴ったら駄目」


「当たり前だ」


「転生者には重要なんです」


 でも。


 今回の事件は、


 むしろ逆に教えてくれました。


 なぜ現代法に、


 標準審理期間なんて規定が置かれているのか。


「旧法の課題って」


 私は言いました。


「不服申立ての公正さだけじゃないんですね」


「どういう意味だ」


「どれくらいかかるか分かりにくい、という問題もある」


 旧法の時代。


 異議申立て。


 審査請求。


 複雑な制度。


 処分庁自身が判断する場面。


 審理の進み方が外から見えにくい。


 そして。


 いつ終わるかも見えにくい。


「現代法の改正では」


 私は言いました。


「公正性だけじゃなくて、使いやすさとか透明性も意識されてるんですよね」


「標準審理期間もその一つか」


「そう考えると分かりやすいです」


 審査請求に原則一本化。


 審理員制度。


 行政不服審査会などへの諮問。


 そして、


 標準審理期間。


 制度は一個ずつ別々に見えます。


 でも。


 全部、


 審査請求する人から見て、


 何が起きているのか分かりやすくする。


 公正にする。


 利用しやすくする。


 そんな方向につながっている。


「昔の不便が」


 私は言いました。


「未来の条文を作ったんですね」


「法律はだいたいそうだ」


 所長が言いました。


「困りごとの跡だ」


 私はペンを止めました。


 困りごとの跡。


 いい言葉です。


 条文だけ読むと、


 どうしてこんな細かいことまで書いてあるんだろう。


 と思う。


 でも。


 その細かさの後ろには、


 誰かが待たされた。


 誰かが迷った。


 誰かがどこへ申し立てるか分からなかった。


 誰かが公平に扱われているか不安だった。


 そういう過去がある。


「所長、それ今日の締めに使いたいです」


「勝手にしろ」


「著作権料は?」


「栗羊羹」


「安い!」


 そうだ。


 水野さんの店には栗羊羹もありました。


 洋菓子屋なのに。


 制度改正より謎です。


 私は次の見出しを書きました。


 ――試験で混同しやすいポイント。


「来たな」


 相馬先輩が言います。


「ここから受験生殺しです」


「物騒だな」


「まず一つ目」


 私は指を立てました。


 標準審理期間を定めること。


 ――努力義務。


 定めた標準審理期間を公にすること。


 ――義務。


「ここ逆にされたら?」


「アウト」


「『標準審理期間は必ず定めなければならない』」


「誤り」


「『定めたとしても公表は努力義務である』」


「誤り」


「よし」


 二つ目。


 起算点。


 審査請求を受理した日。


 ではない。


 審査請求が事務所に到達した日。


「受付印の日に釣られるな」


「そうです」


 三つ目。


 標準審理期間は、


 個々の事件についての法定処理期限ではない。


「期間を過ぎたら裁決が違法になる」


「直ちにはそう言えません」


「期間を過ぎたら認容扱い」


「なりません」


「標準期間内に必ず裁決する義務」


「それも違います」


 四つ目。


 公にしておく場所。


 審査庁となるべき行政庁だけではない。


 関係処分庁の事務所でも、


 備付けその他の適当な方法によって公にしておく。


「ここは地味に出そうですね」


「地味なところほど出る」


「受験生の弱点を知り尽くしてる言い方やめてください」


 五つ目。


 これは今回の時代設定では特に大事。


 昭和六十三年には、


 現行法第十六条の標準審理期間制度を、


 現在と同じ形では使えない。


「お前の一番大事な試験範囲だな」


「何の試験です?」


「昭和で未来法を使わない試験」


「落ちたら世界観崩壊しますね」


 私は頭の中で整理しました。


 昭和六十三年。


 旧法。


 異議申立てと審査請求が併存。


 審査請求期間は原則六十日。


 現代。


 原則として審査請求へ一本化。


 審査請求期間は原則三か月。


 審理員制度。


 第三者機関への諮問。


 そして、


 標準審理期間。


「制度って」


 私は言いました。


「一個だけ覚えるより、改正前後を並べると意味が見えますね」


「お前は試験で旧法答えるなよ」


「今の行政書士試験なら現行法を答えます!」


「昭和では?」


「旧法です!」


「ようやく学習したな」


「毎回事故りかけてますからね」


 ここで片桐所長が言いました。


「朝比奈」


「はい」


「水野さんの件で、第十六条があったら何が変わった」


 私は考えました。


「標準審理期間が定められていたなら」


「うん」


「水野さんは最初から、通常どれくらいで裁決まで行くか知れたかもしれません」


「それだけか」


「……いや」


 もう少し。


「四十六日待った時点で」


 私は言いました。


「標準より早いのか、遅いのかも判断しやすくなる」


「そうだ」


「標準期間を超えていれば、何か事情があるのか確認するきっかけになる」


「うん」


「逆に、まだ標準期間内なら、ただ遅いと怒るんじゃなくて、通常の処理範囲かもしれないと分かる」


「そうだ」


 なるほど。


 標準審理期間は、


 行政だけを縛るための数字じゃない。


 住民側にも、


 待ち時間の尺度を渡す。


「感情を整理する物差しでもあるんですね」


「どういう意味だ」


 相馬先輩が聞きます。


「『遅い!』だけじゃなくなるんです」


 五十日経った。


 標準は九十日。


 なら、


 まだ通常の範囲かもしれない。


 百二十日経った。


 標準は六十日。


 なら、


 なぜ遅れているのか聞いてみよう。


 もちろん、


 標準を超えたから即違法ではない。


 でも。


 話すための基準になる。


「役所相手に一番困るのって」


 私は言いました。


「基準が何も見えないことなんですよね」


「だから数字を出す」


「はい」


「数字は冷たいからな」


 所長が言いました。


 私は少し笑いました。


「でも冷たいから、誰にでも同じように見える」


「そうだ」


 それです。


 法律の数字は、


 たぶん優しくありません。


 三か月。


 六十日。


 標準九十日。


 そんな数字に、


 水野さんのクリスマスケーキの予約事情までは書いていない。


 でも。


 数字があるから、


 今どの位置にいるのかを、


 誰でも同じ基準で確認できる。


 それは、


 かなり大きい。


「じゃあ」


 相馬先輩が言いました。


「水野さんみたいに、標準期間より早く結論が必要な事情がある場合はどうする」


「そこです」


 私はペンを置きました。


 標準審理期間は、


 普通の案件の目安。


 だから。


 個別事情が消えるわけではない。


 水野さんの場合。


 十二月二十五日を過ぎれば、


 救済効果が大きく減る。


「だから現場では」


 私は言いました。


「標準審理期間だけ見て、『まだ期間内だから黙って待て』では駄目なんですよね」


「うん」


「急ぐ事情は急ぐ事情として伝える」


「そうだ」


「標準期間と個別事情は別」


 ここ重要。


 標準。


 普通ならこれくらい。


 個別案件。


 この人にはこの人の事情がある。


 水野さんの事件では、


 その事情を、


 前年の売上。


 予約数。


 製造能力。


 十二月の季節性。


 という事実で示しました。


「かわいそうだから急いでください」


 ではない。


「クリスマス商戦があるから、判断時期によって損失額が変わる」


 そう整理した。


 だから県庁も、


 処理順を見直す材料にできた。


「感情を事実に翻訳する」


 私は呟きました。


「行政実務ではそれが要る」


 所長が言いました。


「はい」


 困っている。


 焦っている。


 生活が苦しい。


 それだけでは、


 役所は動きにくい。


 でも。


 何月何日。


 何件。


 何円。


 どの作業台。


 いつまでに。


 そうやって事実に変える。


 すると、


 相手も検討できる。


 法律の冷たさが、


 人の困りごとを切り捨てるのではなく。


 むしろ。


 扱える形に変えてくれることがある。


「今回」


 私は言いました。


「第十六条そのものは使えませんでした」


「昭和だからな」


「でも、考え方は役に立ちました」


「どういうところが」


「時間を論点にしたことです」


 いつ届いた。


 いつ受付処理した。


 いつ資料照会した。


 いつ資料が届いた。


 今どこで止まっている。


 次にいつ動く。


 全部、


 時間の話。


「『遅いです』じゃなくて」


 私は言いました。


「時系列にした」


「そうだな」


「それだけで、四十六日の中身が見えた」


 十月九日。


 審査請求到達。


 十月二十一日。


 資料照会。


 十一月四日。


 資料到着。


 十一月二十八日。


 まだ判断待ち。


 こうやって並べると。


 ずっと審理していた。


 ではなく。


 どこで時間を使っているかが見える。


「なるほど」


 私はノートに書きました。


 ――期間を問題にするときは、日数だけでなく、処理経過を分解する。


「それは条文じゃねえな」


 相馬先輩が言いました。


「実務メモです」


「ならいい」


 私は最後のページへ進みました。


 今日のまとめ。


 行政不服審査法第十六条。


 標準審理期間。


 審査庁となるべき行政庁は、


 審査請求が事務所に到達してから裁決までに通常要すべき標準的な期間を、


 定めるよう努める。


 定めたときは、


 審査庁となるべき行政庁と関係処分庁の事務所への備付けその他適当な方法によって、


 公にしておかなければならない。


 ポイント。


 到達から。


 受理からではない。


 設定は努力義務。


 公表は義務。


 標準期間は、


 個別事件の法定期限ではない。


「一行で」


 相馬先輩が言います。


「来た」


「お前いつも最後に一行書くだろ」


「今日は先輩が催促するんですか」


「早く帰りたい」


「動機が雑」


 私は考えました。


 到達。


 努力義務。


 公表義務。


 目安。


 待つ人の予測可能性。


 全部入れたい。


 でも一行。


 うーん。


 私は書きました。


 ――標準審理期間は、「届いてから裁決まで」の待ち時間を見える化する物差し。


「見える化って何だ」


「未来語です」


「やめろ」


「じゃあ書き直します」


 私は線を引きます。


 ――標準審理期間は、「届いてから裁決まで」の通常の待ち時間を示す物差し。


「それでいい」


 所長が言いました。


「ただし」


「はい」


「設定は努力義務」


「はい」


「決めたなら公にする」


「はい」


「受理からじゃない」


「到達から」


「期限そのものじゃない」


「標準です」


 よし。


 覚えた。


 たぶんもう忘れません。


 水野さんが待っていた四十六日。


 あの時間を思い出せば。


 標準審理期間。


 なんて眠そうな言葉も、


 ちゃんと人の生活に結びつきます。


 不服申立てという制度があっても。


 入口から入ったあと、


 出口がどこにあるのか分からなければ、


 人は不安になります。


 そこで。


 通常なら、


 これくらいです。


 という物差しを置く。


 絶対ではない。


 保証でもない。


 それでも。


 何も分からないよりずっといい。


 法律は、


 全部を救ってくれるわけではありません。


 標準審理期間を定めても、


 審査が早く終わる保証はない。


 期間を過ぎたら勝てるわけでもない。


 待ち時間そのものが消えるわけでもない。


 でも。


 行政が、


 通常どれくらい時間を必要とするのか。


 それを外へ示す。


 そして。


 住民も、


 その数字を見ながら、


 今は待つべきなのか。


 事情を確認すべきなのか。


 急ぐ理由を伝えるべきなのか。


 判断できる。


 制度の冷たさは、


 人の焦りを消してはくれません。


 でも。


 焦りの中に、


 一本の目盛りを引いてくれる。


 それだけで。


 待つことが、


 ただ放置されることとは少し違って見える。


 私はノートを閉じました。


「終わりました」


「じゃあ帰るぞ」


 相馬先輩が立ち上がります。


「あ」


「何だ」


「所長」


「何だ」


「昨日のケーキ、先輩だけ食べるの早すぎませんでした?」


「今さらか」


「標準ケーキ期間三分って言ってたじゃないですか」


「お前が決めたんじゃねえ」


「でも先輩、一分くらいでしたよ」


「早い分にはいいだろ」


「個別処理期間が標準を大幅に下回ってます」


「問題あるか?」


「ありません」


「なら帰るぞ」


「ただし」


 私は机の引き出しを開けました。


 水野さんが、


 ケーキとは別に置いていった包み。


 栗羊羹。


「残り一本です」


 相馬先輩が止まりました。


「何」


「栗羊羹」


「いつからあった」


「午後三時に事務所へ到達しました」


「受付は」


「私が即時処理しました」


「標準処理期間は」


「明日の朝までです」


「長え」


「努力義務です」


「今食う」


「駄目です」


「なぜ」


「公にしておきます」


 私は紙に書きました。


 ――栗羊羹の標準審理期間。


 到達から翌朝まで。


 片桐行政書士事務所。


 相馬先輩が紙を奪いました。


「こんなもん定めるな」


「定めるのは努力義務ですよ」


「じゃあ撤回する」


「でも一度定めたなら公に――」


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「はい」


「羊羹を出せ」


「所長まで!」


「三等分だ」


「公平!」


「俺の分が減るだろ!」


 相馬先輩が本気で嫌そうな顔をしました。


 私は笑いながら包みを開けました。


 昭和六十三年。


 現代の標準審理期間は、


 まだこの町にはありません。


 けれど。


 届いたときから、


 待っている人の時間は始まっている。


 そのことだけは。


 法律が条文に書くより前から、


 ずっと変わらなかったのだと思います。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
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コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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