[行政不服審査法14条・審査庁の権限消滅と引継ぎ]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、鰻の匂いが残っていました。
正確には。
法律事務所として、かなりよろしくない程度に残っていました。
「先輩」
「何だ」
「書類から鰻の蒲焼きの匂いがします」
「気のせいだ」
「昨日、裏庭で焼き直しましたよね」
「それは事実だ」
「じゃあ気のせいじゃないでしょう」
相馬先輩は煙草をくわえながら、知らん顔をしました。
大橋征一さんが持ってきてくれた鰻の白焼き。
昨日のうちに、ほぼ全滅。
主に相馬先輩の胃袋へ。
そして今日。
私の机には別のものが広がっています。
行政不服審査法。
ノート。
大橋さんの審査請求書の控え。
県から届いた、
――審査庁変更に伴う引継ぎについて。
という通知書。
私はノートの上に大きく書きました。
――審査庁が途中で変わったら、どうなるか。
「地味ですねえ」
「自分で言うな」
「だって試験で見たら、たぶん後回しにする条文ですよ」
「だからお前は行政法が苦手なんだ」
「否定できない」
昨日までの私なら。
審査庁が裁決権限を失った場合。
新しい審査庁へ書類を引き継ぐ。
本人へ通知。
はい終わり。
赤ペンで三行。
それで済ませていました。
でも。
大橋さんの、
「私の審査請求は、消えたんですか」
という顔を見てしまった。
そうなると。
もう三行では済みません。
私はノートに、
大橋事件。
と書きました。
「勝手に事件名つけんな」
「分かりやすいでしょう」
「刑事事件みたいだ」
「じゃあ、大橋さん審査庁迷子事件」
「もっと悪い」
却下されました。
仕方なく、
大橋さんの件。
と書き直します。
「まず事実関係」
私は指を折りました。
「大橋さんは、養鰻場に関する不許可処分について、一月十二日に審査請求をした」
「ああ」
「その時点では、ちゃんと権限のある審査庁だった」
「ああ」
「ところが、そのあと法令改正と組織改編があって、四月一日から別の行政庁が裁決権限を持つことになった」
「そうだ」
「旧審査庁には、もう裁決する権限がない」
「うん」
「でも書類は旧審査庁に残っていた」
「昨日まではな」
「新審査庁に電話したら、『まだ書類がありません』」
「うん」
「しかも担当者から、『必要ならもう一度申し立ててください』」
「そこが一番まずかった」
はい。
私はそこを二重丸で囲みました。
なぜまずいのか。
答えは単純です。
「もう審査請求してるから」
「そうだ」
「しかも期間内に」
「そうだ」
「行政側の事情で審査庁が変わったのに、審査請求人へ最初からやり直させる必要はない」
「そこだ」
片桐所長が奥の机から言いました。
私はノートに書きます。
――審査庁の変更は、審査請求人の再スタートではない。
ここ。
今日の一番大事なところです。
「で」
相馬先輩が私のノートを覗き込みました。
「何条だ」
「第十四条です」
「違う」
「え?」
即答されました。
「第十四条ですよ」
「今はな」
「……あ」
嫌な予感。
私は本棚から六法を引っ張りました。
昭和六十三年。
つまり。
旧行政不服審査法。
ページをめくる。
第十四条。
そこに書かれていたのは。
審査請求期間。
「うわあ」
「何だ」
「第十四条、六十日です」
「そうだ」
ここで転生者の脳内に、
盛大な事故が起きました。
現代。
行政不服審査法第十四条。
行政庁が裁決をする権限を有しなくなった場合の措置。
ところが。
昭和六十三年の旧法第十四条。
審査請求期間。
原則六十日。
同じ法律。
同じ条文番号。
中身がまるで違います。
私は額を押さえました。
「行政法、時間旅行との相性が悪すぎません?」
「法律はお前が未来から来ることを想定してねえ」
「少しくらい想定してください」
「無茶言うな」
では。
昭和六十三年では、
昨日の引継ぎの規定はどこにあるのか。
ページを追う。
手続の承継。
その次。
ありました。
第三十八条。
――審査庁が裁決をする権限を有しなくなった場合の措置。
旧法では、審査庁が審査請求を受理したあと、法令の改廃によって裁決権限を失った場合、新たに裁決権限を持つ行政庁へ、審査請求書や関係書類などを引き継がなければならない。そして引継ぎを受けた行政庁は、そのことを速やかに審査請求人と参加人へ通知する仕組みでした。
「三十八条……」
私はノートの一番上を訂正しました。
――昭和六十三年・旧法第三十八条。
その横に。
――現行法では第十四条。
と書く。
「危なかった」
「何がだ」
「昨日、『第十四条です!』とか県庁で言わなくて本当に良かった」
「言ってたら?」
「旧法第十四条を開かれて、六十日って書いてありますね、って」
「帰りたくなるな」
「その場で転生前に戻りたいです」
ちなみに現行法では、この引継ぎ規定が第十四条に置かれています。審査請求後、法令の改廃によって元の行政庁が裁決権限を失った場合、書類等を新たな審査庁へ引き継ぎ、新審査庁が審査請求人と参加人へ速やかに通知する構造は、現在も明文で定められています。
「つまり」
私は言いました。
「制度の基本的な考え方自体は、旧法にもあった」
「そうだ」
「現行法で突然できた制度じゃない」
「そういうことだ」
ここは大事です。
今回のテーマ。
現代教材では、
行政不服審査法第十四条。
でも。
物語の舞台は昭和六十三年。
だから、
作中人物が使うのは旧法第三十八条。
現代の受験生である私の頭の中だけ、
「十四条!」
となる。
そして相馬先輩に、
「違う」
と殴られる。
物理的には殴られません。
行政法的に殴られます。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「三十八条の条件を分けろ」
「はい」
来ました。
論点整理。
昨日までは眠かったところ。
今日なら、いけます。
私は番号を振りました。
一。
審査請求がすでにされていること。
二。
その後に、法令の改廃があること。
三。
そのため、元の審査庁がその審査請求について裁決権限を失うこと。
四。
新たに裁決権限を持つ行政庁があること。
「そうなったら?」
「元の審査庁が、審査請求書や関係書類、その他の物件を新審査庁へ引き継ぐ」
「そのあと」
「引継ぎを受けた新審査庁が、速やかに審査請求人と参加人へ通知する」
「よし」
簡単です。
簡単なんですが。
私はペンを止めました。
「所長」
「何だ」
「なんで、わざわざ法律に書く必要があるんですかね」
「昨日、見ただろ」
「ですよね」
一日で答えが出ています。
旧部署。
もう権限ありません。
新部署。
まだ資料がありません。
申立人。
じゃあ私はどうしたら?
これです。
権限が移る。
行政組織から見れば、
組織改編。
法令改正。
担当事務の変更。
そういう話です。
でも住民から見れば。
「私が出した審査請求、どこへ行ったんですか」
という話になる。
だから法律は、
勝手に探してください。
とは言わない。
元の行政庁に、
引き継げ。
と言う。
新しい行政庁には、
本人へ知らせろ。
と言う。
「昨日の大橋さん」
私は言いました。
「まさに、そこでしたよね」
「ああ」
「書類がなくなったわけじゃなかった」
「旧部署にあった」
「でも本人には、どこにあるか分からない」
「そうだ」
「新しい審査庁にも届いてない」
「そうだ」
「だから実質的には、手続が止まって見えた」
その不安を消すためにも、
通知が要る。
ただ書類を運ぶだけでは足りない。
申立人に、
あなたの審査請求は、
今ここで続いています。
と伝える。
「通知って」
私は言いました。
「地味だけど、大事ですね」
「行政法の半分は地味だ」
「そんなこと言ったら受験生が逃げます」
「逃げても試験には出る」
「恐ろしい」
私は次に、
――出し直し不要。
と書きました。
「ここ、試験ならどう聞かれます?」
「例えば」
相馬先輩が煙草を指で回します。
「審査庁が権限を失ったら、審査請求人は新しい審査庁に改めて審査請求をしなければならない」
「誤り」
「なぜ」
「引継ぎが予定されているから」
「それだけか」
「それだけです」
これが気持ちいい。
行政法には、ときどき、
長い問題文を一刀で切れる条文があります。
元の行政庁が権限を失った。
だから。
本人がもう一度請求。
ではない。
行政側で引き継ぐ。
終わり。
「大橋さんが昨日、本当に出し直してたらどうなってました?」
私が聞くと、相馬先輩が眉を寄せました。
「面倒になってただろうな」
そうです。
大橋さんは一月十二日に、
期間内に審査請求している。
旧法の原則的な審査請求期間は、処分を知った日の翌日から六十日でした。昭和六十三年では旧法第十四条がこの期間を定めています。
ところが。
四月になってから、
「新しい審査庁にもう一回出してください」
とやれば。
新しい紙だけ見れば、
「これ、六十日を過ぎてませんか」
という余計な問題を生みかねない。
「行政側の組織変更で」
私は言いました。
「期間内だった審査請求が期間外みたいな形になったら、本末転倒ですよね」
「だから引き継ぐ」
片桐所長が言いました。
「最初の請求を生かしたままな」
そう。
大橋さんをスタート地点へ戻さない。
ここが、この条文の一番大事な感覚です。
私はノートに大きく書きます。
――審査庁が変わるだけ。審査請求までやり直さない。
「ところで」
私はページをめくりました。
「これ、何でも引継ぎになるわけじゃないですよね」
「何を見つけた」
「法令の改廃です」
そこです。
旧法第三十八条も、
現行法第十四条も。
単に担当者が異動した。
課長が定年退職した。
担当部署の机が三階から四階へ移った。
というだけの話をしているわけではない。
法令の改廃によって、
その行政庁自体が、
その審査請求について裁決する権限を失った。
そこが条件です。
「昨日の県の件は?」
「法令改正に伴って、裁決権限そのものが新しい行政庁へ移った」
「だから三十八条の問題になる」
「はい」
私はノートの端に、
×担当者交代
○裁決権限の移動
と書きました。
「試験でここ、引っかけられそうですね」
「何でも役所が変われば三十八条、と覚えるなよ」
「はい」
「行政庁が裁決権限を失ったのかを見る」
「はい」
「理由も法令の改廃か」
「はい」
「そこまで見る」
なるほど。
昨日の現場でも、
片桐所長が最初に確認したのは、
本当に裁決権限が移ったのか。
いつ移ったのか。
どの行政庁へ移ったのか。
でした。
ただ、
課名が変わりました。
だけでは足りない。
法律上の権限の所在を見る。
役所の看板ではなく、
権限。
行政法らしい話です。
「じゃあ次」
相馬先輩が言いました。
「何を引き継ぐ」
「審査請求書」
「だけか」
「違います」
私は昨日見た段ボール箱を思い出しました。
申立書だけ一枚届けても、
審理はできません。
それまで出された関係書類。
証拠。
記録。
その他必要な物件。
つまり、
審査請求の続きができるように、
一式を渡す。
「リレーで言えば」
私は言いました。
「バトンだけ渡すんじゃなくて、走ってきた記録ごと渡す感じ」
「競技が変わってるぞ」
「雰囲気です」
「法律に雰囲気を持ち込むな」
「でも読者には分かりやすいでしょう」
片桐所長が言いました。
「途中まで積み上げた手続を落とさないためだ」
「それです」
私は丸をつけました。
そう。
新審査庁が、
「初めまして。では最初から事情を説明してください」
では困る。
すでに提出した主張。
資料。
参加人がいれば、その関係。
そういうものを承継して、
途中から続ける。
だから、
引継ぎ。
なのです。
「参加人にも通知するんですよね」
「ああ」
「本人だけじゃない」
「審理に参加している利害関係人にも、審査庁が変わったことは関係するからな」
「なるほど」
審査請求人。
参加人。
この二者へ通知。
ここも試験で、
処分庁に通知する。
とか、
審査請求人だけに通知する。
とか、
微妙に変えてきそうです。
「行政書士試験って」
私は呟きました。
「人間の『まあこの辺でいいだろう』を狙ってきますよね」
「試験だからな」
「性格悪い」
「試験に人格を求めるな」
次。
私はページの半分に線を引きました。
左。
昭和六十三年・旧法。
右。
現代法。
「比較します」
「好きだな、お前」
「転生者の特権です」
左。
旧法。
審査請求と異議申立てが併存。
審査請求について、裁決権限を失った場合の引継ぎは第三十八条。
旧法第十四条は、審査請求期間六十日の規定。
右。
現行法。
原則として審査請求へ一本化。
裁決権限を失った場合の引継ぎは第十四条。
審査請求期間は第十八条で、原則三か月。
さらに。
現代には審理員制度がある。
行政不服審査会等への諮問という仕組みもある。
昭和六十三年には、
どちらもない。
「数字だけ見ても」
私は言いました。
「全然違いますね」
「だから時代を間違えるな」
「はい」
旧法では、審査請求と異議申立てが別の制度として存在し、審査請求は処分庁以外の行政庁に、異議申立ては処分庁等に対してするという基本構造でした。
現代法は、
原則として審査請求へ一本化。
制度を分かりやすくし、
審理の公正性を高める方向へ大きく組み替えられています。
「でも」
私は昨日の県庁を思い浮かべます。
「今回みたいな引継ぎの必要性は、旧法でも現代法でも変わらないんですね」
「組織はどの時代でも変わる」
所長が言いました。
「法令も変わる」
「だから、人の手続をつなぐ仕組みが要る」
「そうだ」
制度全体は変わった。
不服申立ての種類も変わった。
期間も変わった。
審理の仕組みも変わった。
でも。
途中で審査庁が変わったからといって、
住民に最初からやり直させない。
その発想は変わっていない。
私はそこに、ちょっと安心しました。
「所長」
「何だ」
「これって、行政の継続性って言っていいですか」
「大げさに言えばな」
「大げさなんですか」
「試験で余計な言葉を足すな」
「はい」
怒られました。
でも。
感覚としては、
かなり近いと思います。
役所の組織は変わっても、
住民が適法に始めた手続まで断絶させない。
行政側の内部事情によって、
住民の救済の道を細くしない。
そのための継ぎ目。
それがこの規定です。
「昨日」
私は言いました。
「大橋さん、『ちゃんと続いてるって分かれば待てます』って言ってましたよね」
「ああ」
「あれが通知の意味なのかもしれない」
相馬先輩がこちらを見ました。
「どういう意味だ」
「書類だけ引き継いでも、本人が知らなかったら不安は消えない」
「うん」
「だから新審査庁は、『こちらで引き継ぎました』って通知する」
「そうだ」
「手続が存在してるだけじゃなくて、本人にも見えるようにする」
制度の透明性。
なんて言うと、
また少し大げさかもしれない。
でも。
人にとっては重要です。
結果はまだ出ていない。
勝つか負けるか分からない。
それでも。
自分の申立てが、
机と机の間で消えていない。
それだけで、
次の結果を待てる。
「行政法って」
私は言いました。
「結果だけじゃないんですね」
「今さらか」
「いや、分かってたつもりなんですけど」
誰が処分した。
どこへ申し立てる。
期限はいつ。
誰が審理する。
どこへ書類を送る。
誰に通知する。
そういう手続ばかり。
受験生だった私は、
「細かい!」
と何度も思いました。
でも。
細かいのには理由がある。
一つ飛ばすだけで。
大橋さんみたいに、
「私の審査請求は消えたんですか」
という人が出る。
「条文は冷たいですけど」
私は言いました。
「冷たいから、『忙しかったので引継ぎが遅れました』で終わらせないんですね」
片桐所長が頷きました。
「行政の都合と、住民の権利は分けろ」
「はい」
そこです。
昨日のカタルシスは、
誰かを言い負かしたことではない。
旧部署の人を悪人にしたことでもない。
ただ。
行政内部の事情。
組織改編。
引越し。
書類整理。
それと。
大橋さんが適法に行った審査請求。
この二つを切り分けた。
行政が忙しい。
だから住民がやり直す。
ではない。
行政が変わる。
なら行政が引き継ぐ。
それだけ。
法律の線を一本引いただけで、
責任の向きが変わった。
「じゃあ試験用にまとめます」
私はノートを整理しました。
旧法第三十八条。
審査庁が審査請求受理後、
法令改廃により裁決権限を失った。
↓
旧審査庁。
審査請求書・関係書類・物件を新審査庁へ引継ぎ。
↓
新審査庁。
速やかに審査請求人・参加人へ通知。
「注意点」
私はその下に書きます。
一。
審査請求人が新たに審査請求をやり直す制度ではない。
二。
単なる担当者変更ではなく、法令改廃による裁決権限の移動。
三。
旧法では第三十八条。現行法では第十四条。
四。
旧法第十四条は審査請求期間なので混同注意。
五。
昭和六十三年には審理員制度も行政不服審査会への諮問制度もない。
「よし」
「まだだ」
相馬先輩。
「え?」
「現代の十四条と旧法三十八条。微妙に文言が違うだろ」
「……本当だ」
また来た。
試験の沼。
旧法第三十八条は、
審査庁が審査請求を「受理した後」。
現行法第十四条は、
行政庁が「審査請求がされた後」。
言い回しが変わっています。旧法第三十八条の原文と、現行第十四条の原文を並べると、この差も確認できます。
「こんなのまで覚えるんですか」
「今回の本筋じゃねえ」
「よかった」
「だが条文を読むなら、同じだと思って雑に写すな」
「はい」
このシリーズを始めてから。
私は、
昔の法律と今の法律は、
同じ名前でも同じ文章じゃない。
という当たり前を嫌というほど学んでいます。
異議申立て。
審査請求。
六十日。
三か月。
審理員。
審査会。
そして今回。
三十八条と十四条。
「転生先が昭和六十三年じゃなくて、改正直後とかだったらもっと地獄ですね」
「何の話だ」
「独り言です」
私は最後のページを開きました。
一行の覚え書き。
さて。
どうする。
昨日の所長の言葉が浮かびます。
人にやり直させるな。
短い。
強い。
でも試験用としては、もう少し情報が欲しい。
私は書きました。
――審査庁が変わったら、請求をやり直すな。行政が書類をつなぎ、新庁が本人へ知らせる。
「長い」
相馬先輩。
「一行です」
「文字数の話だ」
「じゃあ短くします」
少し考える。
そして。
――権限が移れば、請求ではなく書類を引き継ぐ。
「どうです?」
「まあいい」
「通知が抜けました」
「自分で気づいたなら直せ」
ぐぬぬ。
もう一度。
――権限が移れば書類を引き継ぎ、新審査庁が本人へ知らせる。
「これで」
「いいんじゃねえか」
「よし」
私は四角で囲みました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『大橋です』
「あ、大橋さん」
『今日、県から書面が届きました』
「引継ぎの通知ですね」
『はい』
電話の向こうで、
少し照れたような声がしました。
『紙一枚なんですけどね』
「はい」
『でも、安心しました』
私は窓の外を見ました。
もう夕方です。
『新しい部署の名前も、担当も書いてあって』
「よかったです」
『まだ許可が戻るって決まったわけじゃないんですけどね』
「そうですね」
『でも、どこで見てもらってるのか分かったから』
昨日と同じです。
ちゃんと続いている。
それが分かるだけで、
人は少し前へ進める。
『また結果が出たら相談します』
「はい。待ってます」
電話を切りました。
相馬先輩が聞きます。
「大橋さんか」
「はい」
「何だって」
「通知が届いたそうです」
「そうか」
それだけ。
でも。
今度は、そのそっけなさがちょうどいい。
大逆転ではありません。
不許可が取り消されたわけでもない。
審査請求で勝ったわけでもない。
ただ。
一月十二日に出した一枚の審査請求書が、
役所の組織改編を越えて、
ちゃんと四月の続きへ届いた。
それだけです。
けれど。
法律には、
その「それだけ」を守る条文がある。
審査庁がなくなる。
権限が移る。
担当が変わる。
そんな行政側の事情で、
住民の手続まで消してはいけない。
だから。
引き継げ。
そして。
知らせろ。
法律は相変わらず冷たい言い方をします。
けれど。
人情で、
「かわいそうだから何とかしましょう」
と言うより。
法律で、
「これは行政側で引き継ぐべき手続です」
と言えるほうが、
ずっと強いことがある。
誰が担当でも。
機嫌が悪くても。
組織が変わっても。
そこに書いてある義務は変わらないから。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が言います。
「はい」
「じゃあ帰るぞ」
「あ」
「何だ」
「昨日の鰻の白焼き、一枚残ってましたよね」
「知らん」
「冷蔵庫に入れたでしょう」
「知らん」
「先輩」
「何だ」
「管理権限、誰にあります?」
「俺だ」
「じゃあ私に引き継いでください」
「却下」
「権限を失ってください」
「失ってねえ」
「法令改廃します」
「お前にそんな権限はない」
片桐所長が奥から言いました。
「鰻ならないぞ」
私と相馬先輩が同時に振り返りました。
「え?」
「昼に食った」
「所長!」
「何だ」
「私の鰻!」
「所有権は確認したのか」
「そこ民法で来ます!?」
相馬先輩が吹き出しました。
「こはる」
「何です!」
「審査請求するか」
「します!」
「誰にだ」
「所長に!」
「裁決権限は?」
「……所長本人?」
「じゃあ異議申立てじゃねえのか」
「昭和法で混ぜないでください!」
片桐所長が静かに湯呑みを置きました。
「結論」
「はい」
「棄却」
「だから早い!」
「簡易迅速だ」
「またそれ!」
私はため息をつきました。
どうやら。
行政庁の裁決権限はきちんと引き継げても、
片桐事務所の鰻を食べる権限だけは、
今後も極めて不透明な運用が続きそうです。
それでも。
今日のノートには、もう迷いません。
昭和六十三年。
旧法第三十八条。
現代なら第十四条。
役所の権限が途中で移っても、
人の審査請求まで最初からにはしない。
権限を渡すなら。
書類も渡す。
そして本人に、
ちゃんと続きを知らせる。
制度の冷たさは、
人を置き去りにするためにあるんじゃない。
置き去りにしないために、
ときどき必要になるのです。
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