[行政不服審査法14条・審査庁の権限消滅と引継ぎ]現場編 「担当が変わったので、最初からです」の嘘。消える役所の看板と、消してはいけない審査請求の続き
役所の名前が変わったからといって、出した書類まで蒸発していいわけではありません。
課が変わった。
担当が変わった。
権限が移った。
だから、もう一度最初からお願いします。
――役所では、ときどき恐ろしく自然な顔でそんな言葉が出てきます。
でも。
人の権利は、組織図の引っ越し荷物ではありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の午前十時。
私は、一枚の葉書と、一枚の新聞切り抜きと、三冊の分厚いファイルを前にしていました。
「……先輩」
「何だ」
「嫌な予感がします」
「朝からお前がそう言う日は、だいたい役所が絡んでるな」
「ここ行政書士事務所ですよ」
「だからだ」
相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。
向かいの椅子には、五十代半ばくらいの男性。
日に焼けた顔。
作業着。
膝の上には、擦り切れた帽子。
名前は、
大橋征一さん。
浜名湖に近い湖西市の一角で、小さな養鰻場を営んでいる人でした。
四角い養鰻池がいくつか並び、その中で鰻を育てている。
規模は大きくない。
父親の代から四十年。
大橋さん自身も若いころから、池の水温を見て、餌をやり、鰻の具合を確かめてきたそうです。
ところが半年前。
県の出先機関から、養鰻場に関係するある許可の更新について、不許可処分を受けた。
理由は、
周辺水域の水質保全上、支障のおそれがあるため。
大橋さんは納得できなかった。
近隣のほかの養鰻業者には、更新が認められている。
排水設備も前年に改修した。
検査結果にも、重大な数値超過は見当たらない。
「鰻って、水が悪くなったら駄目なんでしょう?」
私が聞くと、大橋さんは頷きました。
「こっちだって水は商売道具です。汚して平気なわけじゃない」
なるほど。
水質を守りたい行政と、
水がなければ商売にならない養鰻業者。
最初から敵同士という話でもないらしい。
だから余計に、
なぜ大橋さんだけが駄目なのか。
そこが引っかかる。
そこで。
大橋さんは、県の担当部署が行った処分について、その上級行政庁に審査請求をしていました。
ここまではいい。
問題は。
「それが、これです」
大橋さんが葉書を差し出しました。
私は読みます。
――組織改編に伴い、当該事務の所管が変更となりました。
以上。
「……以上?」
「はい」
「続きは?」
「ありません」
「審査請求がどうなるかは?」
「書いてありません」
私は裏返しました。
白。
もう一度表。
やっぱり白。
「潔いほど説明がないですね」
「褒めるな」
「褒めてません」
大橋さんが、新聞の切り抜きを広げました。
四月から県の行政組織が再編される。
旧水産管理部の一部業務が、新設された環境資源部へ移管。
それに伴って、審査関係の権限も変更されるらしい。
「それで昨日、電話したんです」
大橋さんが言いました。
「前の担当へ?」
「はい。審査請求はどうなってますかって」
「何と?」
「もう、うちでは扱えません、と」
そこまでは分かる。
権限が移ったなら、旧担当庁では裁決できない。
「それで新しいところへ電話したら」
「はい」
「『こちらではまだ書類を受け取っていません』って」
私は黙りました。
「もう一度、審査請求を出したほうがいいんでしょうか」
「え?」
「新しい役所へ」
「待ってください」
私は椅子から少し身を乗り出しました。
「最初に審査請求したの、いつです?」
「一月十二日です」
「不許可処分を知ったのは?」
「十二月二十八日」
期間内。
ちゃんと申し立てている。
「受理された書類はあります?」
「これです」
ファイルから一枚。
受付印。
日付。
審査請求書の控え。
私はそれを見て、少し安心しました。
少なくとも、
出した。
という事実は残っている。
「なのに、新しい担当にはまだ書類が来てない」
「はい」
「前の担当は、もう自分たちには権限がないと言う」
「はい」
「それで大橋さんだけが、その真ん中に落っこちてる」
「……そんな感じです」
嫌な感じでした。
とても役所っぽい穴です。
旧部署。
もう権限がない。
新部署。
まだ書類がない。
その二つの間に、
人間だけが置き去り。
「新しいところからは」
大橋さんが続けました。
「『必要なら改めて申立てをしてください』とも言われました」
私は止まりました。
「改めて?」
「はい」
「最初から?」
「そういう意味だと思います」
そこで相馬先輩が、煙草を灰皿へ強く押しつけました。
「誰が言った」
「県の新しい部署の人です」
「名前は」
「ええと……」
大橋さんが手帳を開きます。
「竹原さん、です」
相馬先輩が私を見る。
「こはる」
「はい」
「期間」
来た。
行政不服審査あるある。
とりあえず期間を確認しろ。
「最初の審査請求は期間内です」
「もう一回出すなら?」
私はカレンダーを見ました。
一月。
二月。
三月。
四月。
「……危ない」
「だろ」
旧法では、現代みたいに原則三か月ではありません。
六十日。
現代の感覚で、
まだ三か月くらいなら。
なんてやったら爆発します。
というか今回は、もう一度出せと言われた時点で、その期間自体が問題になり得る。
「でも」
私は言いました。
「これ、おかしくないですか」
「何が」
「大橋さんは期間内に、ちゃんと審査請求してるんですよね」
「ああ」
「それが途中で役所の組織が変わった」
「ああ」
「だから最初から出し直してくださいって……」
私は机の上の受付印を指しました。
「それ、行政側の事情ですよね」
片桐所長が奥の机から顔を上げました。
「続けろ」
「はい」
ちょっと怖い。
でも、頭の中で何かが引っかかっていました。
昨夜までの私なら。
行政庁が裁決権限を失った場合。
書類を新しい行政庁へ引き継ぐ。
通知。
――みたいな単語を見たら。
たぶん、
ああ、細かい条文ね。
出ない出ない。
くらいの扱いをしていたと思います。
ところが。
今、目の前にいる大橋さんは、
「役所の都合で担当が変わったら、私がやった審査請求は消えるんですか」
と聞いている。
消えるわけがない。
いや。
消えてもらっては困る。
急に条文の地味な部分に血が通いました。
「所長」
「何だ」
「審査する権限が途中で別の行政庁へ移った場合って」
「うん」
「事件ごと引き継ぐんですよね」
「事件じゃない」
相馬先輩が横から言います。
「審査請求だ」
「分かってます。気持ちの話です」
「法律で気持ちを足すな」
「でも意味は合ってますよね」
片桐所長が言いました。
「書類を捨てて終わりにはならん」
その一言で。
空気が少し変わりました。
大橋さんが顔を上げます。
「じゃあ、もう一回出さなくていいんですか」
「少なくとも」
所長が受付印のある控えを見ました。
「組織改編だけを理由に、最初からやり直せという話ではない」
大橋さんの肩が、ほんの少し下がりました。
「ただし確認は要る」
所長が続けます。
「本当に裁決権限が法令改正で移ったのか」
「はい」
「いつ移ったのか」
「はい」
「新しい審査庁はどこか」
「はい」
「書類はどこにある」
最後だけ、ちょっと怖い。
相馬先輩が立ち上がりました。
「行くぞ」
「県庁ですか」
「他にどこ行く」
「できれば喫茶店」
「帰れ」
「冗談です」
大橋さんが、少しだけ笑いました。
その笑いを見たとき。
私は、この件をただの事務引継ぎにしてはいけないと思いました。
書類が一冊移動するだけ。
役所側から見れば、そうかもしれない。
でも。
そのファイルの中には、
一人の人が期限内に出した審査請求が入っている。
養鰻場を続けられるかどうか。
次の池入れをできるのか。
育てている鰻を出荷まで持っていけるのか。
従業員二人の仕事が残るのか。
そういうものまで挟まっている。
県庁。
旧水産管理部の事務室は、引っ越しの途中でした。
段ボール。
紐で括られたファイル。
外された課名札。
廊下の端に積まれた机。
役所の組織改編というのは、法律上は権限の移動ですが、
現場で見ると、だいたい大掃除です。
「大橋征一さんの審査請求」
相馬先輩が受付で言いました。
「一月十二日受理」
奥から出てきたのは、四十代くらいの職員でした。
「大橋さん……」
ファイルをめくる。
「ああ」
「ああ、じゃねえ。今どこにある」
「こちらで保管しています」
「は?」
私は思わず声を出しました。
「あるんですか?」
「あります」
「新しい部署には、ないと言われたんですけど」
「移管作業がまだ完了していませんので」
相馬先輩の眉が動きました。
「裁決権限は?」
「四月一日付で環境資源部へ移っています」
「今日は?」
「四月八日です」
「一週間、権限のねえところで抱えてるのか」
「順次引継ぎを行っています」
順次。
出ました。
役所語の万能調味料。
何でも少し薄味にしてくれる言葉です。
「じゃあ」
私は聞きました。
「今、大橋さんの審査請求は誰が判断できるんですか」
「新しい部署になります」
「でも書類はここにある」
「現在整理中です」
「旧部署では裁決できない」
「そうです」
「新部署は書類を持っていない」
「現時点では」
「それ」
私は思わず言いました。
「誰も審査できない状態じゃないですか」
職員が困った顔をしました。
「一時的には、そう見えるかもしれませんが」
「見えるんじゃなくて、そうですよね」
「こはる」
相馬先輩。
「はい」
「喧嘩すんな」
「してません」
「顔がしてる」
私は口を閉じました。
すると。
後ろから聞き慣れた声がしました。
「相変わらず賑やかですね」
振り返る。
「沢渡課長」
市役所の人がなぜ県庁に。
と思ったら。
「今日は県との再整備協議です」
灰色の背広。
細い眼鏡。
いつもの無表情。
駅前再整備の関係で、県庁へ来ていたらしい。
「それより」
沢渡課長がこちらの机を見ました。
「何か揉めていますか」
「揉めてません」
「朝比奈さんがいると、大体揉めています」
「風評被害です」
「大橋さんの審査請求だ」
相馬先輩が説明しました。
「権限は新部署へ移った。書類は旧部署に残ってる」
「なるほど」
沢渡課長は一秒で理解しました。
こういうとき、この人は腹立たしいほど早い。
「引継ぎですね」
さらっと言います。
私は沢渡課長を見ました。
「やっぱりそうですよね」
「何がです?」
「大橋さんに出し直させる話じゃない」
「法令改廃によって審査庁が裁決権限を失ったのなら、通常考えるべきは審査請求そのものの消滅ではありません」
県の職員が、少し姿勢を直しました。
沢渡課長は続けます。
「新たに権限を持つ行政庁への引継ぎでしょう」
ほら。
私は心の中で机を叩きました。
やっぱり。
組織が変わった。
看板が変わった。
だから申立人が最初からやり直す。
ではない。
行政側が、
続きの手続を落とさないように渡す。
そっちです。
「大橋さんには」
私は言いました。
「新しい審査庁へ引き継いだことも知らせる必要があるんじゃないですか」
職員が私を見る。
「通知については、新部署側で――」
「まだ新部署は受け取ってませんよね」
「……はい」
「だから大橋さん、今、自分の審査請求がどこにあるのかも分からないんです」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「それが一番まずい」
「ですが、書類自体は保管しております」
「保管の話じゃねえ」
先輩の声が低くなりました。
「本人から見れば、消えたのと同じだろ」
その言葉で。
私は、はっとしました。
そうです。
制度上残っている。
ファイルもある。
受付印もある。
でも。
本人に何も知らされず、
旧部署では扱えない。
新部署では分からない。
電話をすれば、
出し直したほうがいいかもしれない。
と言われる。
それでは。
制度が存在しているだけで、人は救われません。
「大橋さんは」
私は言いました。
「期間内にちゃんと審査請求しました」
職員がこちらを見る。
「行政側の組織変更は、大橋さんの責任じゃない」
「はい」
「だったら」
私は一枚の受付控えを机へ置きました。
「ここから先をつなぐのは、行政側の仕事ですよね」
しん。
としました。
たぶん。
言っていることは、とても地味です。
派手な違法もない。
賄賂もない。
隠蔽もない。
ただの引継ぎ遅れ。
でも。
こういう地味な穴から、人の手続は簡単に落ちます。
片桐所長が、初めて口を開きました。
「今日中に移せるか」
県の職員が答えます。
「関係書類を確認して、新部署と調整します」
「今日中か」
所長がもう一度聞きました。
「……できると思います」
「思います、じゃねえ」
相馬先輩が言います。
「何時だ」
「午後三時までには」
「よし」
私は横目で先輩を見ました。
圧が強い。
行政法の条文には書いてありませんが、相馬先輩という制度は、期限設定に非常に強い。
沢渡課長が淡々と言いました。
「引継ぎが終わったら、新しい審査庁から大橋さんに連絡を入れたほうがいいでしょう」
「はい」
「審査請求は継続していることも明確に」
「分かりました」
「それから」
私は言いました。
「出し直せと言った人にも、お願いします」
「朝比奈」
相馬先輩。
「はい」
「欲張るな」
「でもまた同じこと言ったら困ります」
「それはそうだ」
沢渡課長が少しだけ笑いました。
「そこは私も同意します」
「課長が味方した」
「珍獣を見る顔をしないでください」
「すみません」
「組織改編で権限が移ること自体はあります」
沢渡課長が言いました。
「ですが、それで係属中の手続が宙に浮いてよいわけではありません」
係属中。
難しい言葉です。
でも今なら分かる。
もう始まっている。
まだ終わっていない。
その途中にある手続。
だから、
その途中ごと渡す。
申立人をスタート地点へ戻すのではない。
市役所へ帰る沢渡課長と県庁の廊下で別れるとき、私は聞きました。
「課長」
「何です」
「役所って、組織が変わるとこんなに大変なんですね」
「人も書類も権限も動きますから」
「じゃあ、こういう引継ぎの規定って地味ですけど大事ですね」
沢渡課長が足を止めました。
「法律は」
「はい」
「大事件だけを想定しているわけではありません」
「……はい」
「担当が変わった。書類を渡し忘れた。本人に知らせなかった。そういうつまらないことで権利が失われないようにする規定も必要です」
それだけ言って歩いていく。
相馬先輩が私の横で言いました。
「何だ」
「何がです?」
「妙に感心した顔してるぞ」
「沢渡課長、たまにすごく先生っぽいんですよ」
「本人に言うな」
「言いません」
「面倒になる」
「何がです?」
「機嫌が良くなる」
それはちょっと見たい。
午後三時十分。
片桐行政書士事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『県環境資源部です』
来た。
私は背筋を伸ばしました。
『大橋征一様の審査請求について、旧水産管理部から関係書類一式の引継ぎを受けました』
「はい」
『審査請求は、一月十二日にされたものとして引き続き取り扱います』
「出し直しは?」
『必要ありません』
よし。
『先ほど、ご本人にもその旨を通知しました』
「通知?」
『ひとまず電話でお伝えし、書面も発送します』
「分かりました。ありがとうございます」
受話器を置く。
「どうだ」
相馬先輩が聞きました。
「引継ぎ完了です」
「審査請求は」
「そのまま続きます」
「出し直し」
「不要」
「ならいい」
それだけ。
相馬先輩は書類へ戻りました。
「反応薄くないですか」
「当たり前のことが当たり前に戻っただけだ」
その言い方が。
妙に良かった。
勝った。
という話ではありません。
まだ審査請求そのものの結論は出ていない。
大橋さんの不許可処分が取り消されるかどうかも分からない。
養鰻場の排水の問題も、
近隣の養鰻業者との扱いの違いも、
これから審査される。
今日やったのは、
その入口を塞がせなかっただけ。
でも。
入口が消えたままなら、
中身について争うことすらできません。
夕方。
大橋さんが事務所へやって来ました。
手には、大きな発泡スチロールの箱。
「ありがとうございました」
「まだ結果は出てませんよ」
私は言いました。
「分かってます」
「審査請求が引き継がれただけです」
「それで十分です」
大橋さんは笑いました。
「昨日は、もう一回出せと言われて、期限も過ぎてるんじゃないかと思って」
「その点は、最初の審査請求が消えたわけじゃありませんから」
「それを聞けただけでも」
大橋さんは、ほっと息を吐きました。
「ちゃんと続いてるって分かれば、待てます」
その言葉が残りました。
ちゃんと続いている。
たったそれだけ。
でも。
人は、自分の申立てがどこへ行ったのか分からない状態が一番怖い。
棄却されるかもしれない。
負けるかもしれない。
それでも、
見てもらえている。
手続が生きている。
その確信があるだけで違う。
「ところで」
相馬先輩が、発泡スチロール箱を見ました。
「それ何だ」
「鰻です」
「えっ」
私は思わず箱を見ました。
「まさか生きてませんよね?」
「白焼きにしてあります」
「よかった」
「何を想像した」
相馬先輩が言います。
「箱を開けた瞬間、鰻が事務所中を逃げ回る光景です」
「漫画か」
大橋さんが蓋を開けました。
氷の上に包まれた白焼きの鰻が並んでいます。
「朝、うちで焼いたやつです」
相馬先輩の目が露骨に輝きました。
「炭で炙り直すぞ」
「先輩、さっきまで行政不服審査の顔してたのに」
「行政不服審査の顔って何だ」
「眉間に皺です」
「お前にもあるぞ」
「ありません」
片桐所長が箱を覗きました。
「大橋さん」
「はい」
「これは受け取りすぎだ」
「小ぶりのやつですから」
「だが」
「じゃあ」
大橋さんが笑います。
「審査請求の結果が出るまでの預かりものってことで」
「鰻を?」
「はい」
私は吹き出しました。
「生ものを長期預かりは無理ですよ」
「じゃあ食べてください」
「結局そうなるんですね」
相馬先輩がすでに新聞紙を広げています。
「七輪どこだ」
「事務所で鰻を焼く気ですか!」
「裏庭」
「書類に匂いつきますよ」
「行政法より鰻の匂いのほうがましだろ」
「比較対象がおかしい」
大橋さんが笑いました。
来たときより、ずっと大きな笑いでした。
私は机の上に残った一月十二日付の審査請求書控えを見ました。
あの日。
大橋さんは期限内に申し立てた。
そのあと。
法律が変わった。
組織が変わった。
権限を持つ行政庁も変わった。
でも。
だからといって、
大橋さんまで一月十二日に戻る必要はない。
行政の側が変わるなら。
行政の側が、きちんと続きを渡す。
書類を渡す。
記録を渡す。
そして、
あなたの申立ては、ここで続いています。
そう本人に知らせる。
地味です。
驚くほど地味。
行政書士試験なら、
ひょっとすると一度も正面から問われずに終わるかもしれません。
でも。
現場では。
その地味な規定がないと、
一人の審査請求が段ボール箱の底へ沈む。
法律は冷たい。
誰が困っているかに関係なく、
引き継げ。
知らせろ。
そう命じる。
でも。
その冷たさがあるから、
「担当が変わりましたので」
という人間くさい都合で、
一度始めた救済手続を消されずに済む。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今日の教訓は」
「はい」
私は少し考えました。
「役所が変わっても、審査請求を迷子にするな」
相馬先輩が鼻で笑います。
「雑だな」
「じゃあ先輩は?」
「権限が移ったら、書類も移せ」
「もっと雑!」
「分かりゃいいんだ」
片桐所長が一言。
「人にやり直させるな」
私は黙りました。
短い。
そして、一番いい。
制度を変えたのは行政。
権限を動かしたのも行政。
なら。
その都合で、
期限内に正しく申し立てた人へ、
もう一度最初からやれ。
と押し返してはいけない。
「それ、今日の一行にします」
「勝手にしろ」
「所長、著作権主張します?」
「いらん」
「太っ腹」
裏庭から、相馬先輩の声がしました。
「おい!」
「何です?」
「火がつかねえ!」
「行政書士事務所に七輪の専門家はいません!」
「見習い!」
「職務範囲じゃありません!」
大橋さんがまた笑いました。
私は仕方なく立ち上がります。
どうやら。
審査請求の引継ぎは無事に終わりましたが、
鰻を炙る権限だけは、
なぜか私に引き継がれたようです。
「先輩」
「何だ」
「その権限、返上します」
「却下」
「審査請求しますよ」
「誰にだ」
「所長に」
奥から片桐所長の声。
「棄却」
「まだ申し立ててません!」
「結果は同じだ」
「手続を飛ばさないでください!」
大橋さんの笑い声が、夕方の事務所に広がりました。
外へ出れば、
浜名湖から来る風が、少し湿っている。
この町では、
水は景色であると同時に、
誰かの仕事そのものでもあります。
役所の組織は変わる。
課の名前も変わる。
担当者も変わる。
権限さえ動く。
でも。
だからこそ。
人の申立てだけは、
途中で置いていかない。
今日、私が覚えたのは、
そんな当たり前を、
わざわざ法律にしておく意味でした。
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