[行政不服審査法12条・代理人]現場編 「本人が来られないなら申し立てできません」の嘘。手続きを託せる代理人と、“勝手に終わらせる権限”を分ける委任の一線
役所に不服を言いたくても。
本人が病院のベッドにいたら。
本人が字を書けなかったら。
本人が窓口へ行けなかったら。
それだけで、
「では、諦めてください」
になるのでしょうか。
――なりません。
法律は、
本人の代わりに歩いてくれる人を、
ちゃんと用意できます。
ただし。
代わりに歩けることと、
本人の道そのものを勝手に閉じられることは、
別の話です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の午後。
私は封筒に糊を塗っていました。
「先輩」
「何だ」
「舐めないんですか」
「何を」
「封筒」
「何で俺が舐める」
「昔の事務所って、そういうものかと」
「お前、昭和を何だと思ってんだ」
「糊があるなら糊使え」
片桐所長が言いました。
「はい」
正論。
転生者、
昭和に対する雑な偏見を一つ修正。
そのとき。
引き戸が開きました。
「すみません」
入ってきたのは、
三十代半ばくらいの女性でした。
白いブラウス。
髪を後ろで束ねている。
手には、
市役所の封筒と、
病院の名前が入った紙袋。
「片桐先生でしょうか」
「はい」
所長が答えます。
「母のことで相談したいんです」
女性は、
佐伯奈津子さん。
駅西口近くで、
母親の佐伯文江さんと二人暮らし。
文江さんは六十八歳。
駅前の古い共同市場で、
四十年以上、
惣菜屋を営んでいました。
「お母さまは?」
私が聞くと。
奈津子さんは病院の紙袋を膝へ置きました。
「入院してます」
「ご病気ですか」
「転びまして」
「骨折?」
「大腿骨です」
痛そう。
しかも。
悪いことは、
重なるときには律儀に重なります。
文江さんが入院した三日後。
市から通知が届いた。
――市場内営業区画使用許可取消通知。
「取消し?」
「はい」
理由。
駅前再整備事業に伴い、
共同市場を年度末で閉鎖するため。
しかし。
取消しの日付は、
年度末ではありません。
「来月末?」
「そうなんです」
奈津子さんが言いました。
「市場そのものは来年三月まで使えるって聞いてました」
今は十月。
文江さんの区画だけ、
十一月末で取消し。
「どうしてお母さまだけ?」
「役所では」
奈津子さんは通知を握りました。
「長期休業状態だからって」
「長期?」
「入院して一週間です」
私は止まりました。
「一週間?」
「はい」
「それで長期休業?」
「営業再開の見込みが不明だから、と」
なるほど。
嫌な匂いがしてきました。
文江さんは、
医師から、
二か月程度で退院できる見込み。
リハビリ次第では、
年明けから店に立てる可能性もある。
その間、
奈津子さんが惣菜づくりを手伝うことも考えていた。
「営業許可とか名義の問題は別として」
私は言いました。
「少なくとも、店を畳むと決めたわけじゃない」
「全然です」
「お母さま自身は?」
「やるって言ってます」
奈津子さんは少し笑いました。
「病室でも、『煮物は奈津子じゃ味が濃い』って」
「元気ですね」
「口だけは」
でも。
笑った顔はすぐ消えました。
「役所へ行って、不服申立てしたいって言ったんです」
「それで?」
「本人が来てくださいって」
私は眉を寄せました。
「本人?」
「母は入院中ですって言ったら」
「はい」
「『原則ご本人の手続ですから』って」
相馬先輩が、
煙草を灰皿へ押しつけました。
「誰が言った」
「市場管理課の人です」
「総務には?」
「行ってません」
「じゃあまず」
相馬先輩が立ち上がります。
「本人じゃないと駄目、って話から片付けるか」
「先輩」
「何だ」
「早いですね」
「本人が骨折してんのに、本人連れてこいって言われたんだろ」
「はい」
「車椅子ごと行政法やらせる気か」
言い方。
でも。
気持ちは分かります。
私は頭の中で、
現代の条文を探しました。
代理人。
審査請求。
一切の行為。
取下げ。
特別の委任。
「あ」
「何だ」
相馬先輩。
「代理人」
「当たり前だろ」
「ですよね」
そして。
また来ます。
未来の法律。
現代法第十二条。
審査請求は代理人によってすることができる。
でも。
昭和六十三年。
ここは旧法。
「待て」
私は旧法集へ手を伸ばしました。
「また未来か」
「確認です」
「先に確認しろ」
「はい」
ページをめくる。
ありました。
旧法にも、
代理人による不服申立ての仕組みがあります。
よし。
「奈津子さん」
「はい」
「お母さま本人が窓口へ来られなくても、それだけで不服申立てができなくなるわけじゃありません」
「本当ですか」
「代理人を立てられます」
「私でも?」
「お母さまから委任を受ければ」
「私、資格ないですよ」
「資格?」
「弁護士さんとか行政書士さんじゃないと駄目なのかと」
そこ。
私は一瞬、
教材の文字を思い出しました。
代理人に特別な資格は必要ない。
「代理人になること自体に」
私は言いました。
「特別な資格が必要という仕組みではありません」
「じゃあ私でも」
「はい。ただし」
片桐所長が口を開きました。
「権限を証明する書面を用意する」
「委任状ですか」
「そうだ」
奈津子さんの顔が、
少しだけ明るくなりました。
「母は字は書けます」
「意思確認もできます?」
「もちろん」
「なら進めましょう」
まず。
処分日。
通知到達日。
「十日前です」
期間。
旧法。
原則六十日。
まだ間に合う。
「ここは大丈夫ですね」
「何が」
「相馬先輩」
「期間だろ」
「はい」
「三か月って言うなよ」
「もう言いません!」
たぶん。
たぶん。
市役所。
市場管理課。
担当者は、
私たちを見るなり少し困った顔をしました。
「佐伯文江さんの件ですか」
「はい」
相馬先輩が通知を置きます。
「本人が来ないと不服申立てできないって説明した?」
「いえ、そこまでは」
「じゃあ何て」
「原則として本人の手続ですので、ご本人の意思確認が必要だと」
奈津子さんが言いました。
「『本人が来てください』って言いましたよね」
「窓口では、そのほうが確実だと」
「入院してるって言ったのに」
「その点は」
担当者が言葉に詰まりました。
そこへ。
「何でしょう」
聞き慣れた声。
沢渡課長。
今日も現れました。
総務課の人なのに、
最近は町の行政トラブルのあるところへ行くと、
だいたいいます。
「沢渡課長」
「朝比奈さん」
「よく会いますね」
「こちらの台詞です」
相馬先輩が事情を説明します。
沢渡課長は最後まで聞いてから、
担当者を見ました。
「代理人による不服申立てについて説明しましたか」
「……していません」
「なぜ」
「ご本人が入院中と聞き、まず意思確認が必要と」
「それと、本人が窓口へ来なければならないことは同じですか」
「……違います」
はい。
静かに刺しました。
沢渡課長、
味方に回ると怖い。
「奈津子さん」
沢渡課長が向き直ります。
「お母さまがあなたを代理人として選任し、その権限を確認できる書面があれば、不服申立ての手続を進めることは可能です」
「よかった……」
「ただし」
来ました。
「代理人であるからといって、何でも本人の意思と無関係にできるわけではありません」
「はい」
「その点は後で確認してください」
後で?
私は少し引っかかりました。
でも。
今は本題です。
「取消理由」
片桐所長。
「長期休業とは」
市場管理課の担当者が資料を出します。
「再整備事業の移転調整に伴い、営業実態がない区画について順次整理しています」
「何日休んだら?」
「明確な日数基準はありません」
「佐伯さんは?」
「通知時点で七日程度」
「七日」
相馬先輩が繰り返しました。
「それを長期休業?」
「営業再開の見込みも含めて判断しました」
「誰に聞いた」
「え?」
「再開見込み」
担当者が止まりました。
「本人には?」
「……直接は」
「娘さんには?」
「聞いていません」
「病院には?」
「それは個人情報がありますので」
「じゃあ何を見て、再開見込みなしって判断した」
沈黙。
来ました。
行政法で、
いちばん空気が変わる瞬間。
立派な理由の下に、
確認していない事実が出てくる。
「同じ市場で」
私は聞きました。
「ほかに休業中のお店あります?」
「あります」
「何軒」
「三軒ほど」
「取消しは?」
「一軒はまだです」
「なぜ」
「店主が療養中ですが、親族が営業再開の準備をしているので」
奈津子さんが、
「うちもです」
と言いました。
「私も手伝って、母が戻るまで何とかするつもりです」
担当者が奈津子さんを見る。
「それは初めて聞きました」
「聞かれませんでしたから!」
当然です。
「課長」
私は言いました。
「これ、本人が入院したって情報だけで、店を畳む方向に先回りしてません?」
沢渡課長は資料を見ます。
「その可能性はあります」
あっさり。
「取消し自体を今ここで撤回します?」
「しません」
「ですよね」
「不服申立てをされるなら、正式に再検討します」
壁。
さすがです。
一歩は譲る。
でも。
手続を飛ばしては譲らない。
「奈津子さん」
片桐所長が言いました。
「代理人で申し立てる」
「はい」
「病院で母親の意思を確認する」
「はい」
「委任状を取る」
「はい」
「退院見込みも資料にする」
「診断書ですか」
「必要な範囲で」
「分かりました」
事務所へ戻る途中。
私は相馬先輩へ言いました。
「代理人って便利ですね」
「何が」
「本人が動けなくても、手続は止まらない」
「ああ」
「しかも資格いらない」
「それで?」
「家族でもできる」
「そうだな」
私は少し考えます。
「総代と似てません?」
「どこが」
「本人の代わりに手続するところ」
「似てるようで違うだろ」
「ですよね」
前回。
十九人の共同申立て。
その中から、
三人の総代を互選した。
総代。
多数人を束ねる。
今回。
文江さん一人。
その本人から権限をもらって、
奈津子さんが代理人になる。
「中から選ぶのが総代」
私は言いました。
「本人の外にいる人でもなれるのが代理人」
「まあな」
「資格も原則いらない」
「うん」
「でも委任が要る」
「そうだ」
頭の中で、
比較表ができ始めます。
受験生の血が騒ぎます。
「法理編でやれ」
相馬先輩が言いました。
翌日。
病院。
文江さんは、
思っていたより元気でした。
「先生?」
「片桐です」
「若い先生ねえ」
「私は見習いです」
「あら」
病室のベッド。
文江さんは足を固定されています。
でも。
声は強い。
「店はやめません」
第一声がそれでした。
「奈津子が何て言ったか知らないけど」
「同じこと言ってました」
「あらそう」
親子です。
「不服申立てをします」
片桐所長が言いました。
「その手続を奈津子さんに任せますか」
「任せます」
「役所への書類提出」
「はい」
「必要な説明」
「はい」
「資料の提出」
「はい」
「連絡を受けること」
「はい」
文江さんは即答します。
「じゃあ、ここに」
委任状。
私は内容を読み上げます。
文江さんが確認。
署名。
押印。
「これで奈津子が私になるの?」
文江さんが聞きました。
「お母さま本人になるわけじゃありません」
私は言いました。
「お母さまのために、手続をする代理人です」
「ふうん」
「大事なところです」
「じゃあ、奈津子が役所で腹立てて机叩いても、私が叩いたことにはならない?」
「叩かないよ!」
奈津子さんが即座に突っ込みました。
親子の空気が少し和らぎます。
そのとき。
片桐所長が言いました。
「もう一つ」
「何?」
「不服申立てを取り下げる権限まで与えるか」
空気が変わりました。
奈津子さんが、
「取り下げ?」
と聞きます。
「途中で」
私は言いました。
「もうこの不服申立てはやめます、と手続を終わらせることです」
「そんなの」
文江さんは即答しました。
「奈津子に勝手にやらせません」
「母さん!」
「だってあんた、役所に『代わりの場所あげます』って言われたら、すぐ分かりましたって言いそうだもの」
「言わないよ!」
「小学校のときも――」
「昔の話はいい!」
片桐所長は淡々としています。
「では、取下げについての特別な委任は付けない」
「それでお願いします」
私は。
そこで。
急に分かりました。
代理人。
審査請求に関する一切の行為。
でも。
取下げだけは。
特別の委任が必要。
なぜ?
教材では。
例外。
特別の委任。
暗記。
それだけでした。
でも。
今。
分かる。
不服申立てを進めることと。
その道を閉じること。
重さが違う。
三日後。
異議申立書が完成しました。
申立人。
佐伯文江。
代理人。
佐伯奈津子。
添付。
委任状。
診断書。
退院見込みに関する医師の書面。
営業再開計画。
過去の営業実績。
市場内の他の休業店舗の状況。
「ここ」
片桐所長。
――四十年以上真面目に営業してきた店主に対する非情な処分である。
「削る」
「はい」
「こっち」
――通知時点の休業期間は約七日であり、本人又は家族に営業再開予定を確認した事実がない。
「残す」
「はい」
――退院後の営業再開を予定しており、その間も家族による準備継続が可能である。
「残す」
「はい」
――他の療養休業店舗については親族の再開準備を理由に取消しを見送っている。
「残す」
「はい」
法律書類。
今日も感情を削って。
事実を尖らせます。
提出日。
市役所。
奈津子さんが、
代理人として書類を出しました。
「委任状を確認します」
沢渡課長。
一枚目。
二枚目。
「問題ありません」
奈津子さんが息を吐きます。
「私が窓口に来てもいいんですよね」
「代理人としてなら」
「よかった」
「ただ」
沢渡課長。
「本人の意思が必要になる場面があれば、確認を求めることはあります」
「はい」
そこで。
市場管理課の担当者が言いました。
「一つ提案があります」
「何でしょう」
奈津子さん。
「市場北側に、仮設店舗を一つ確保できる可能性があります」
「え」
「現在の区画より小さいですが」
「母の店を?」
「はい。その代わり」
担当者が一枚の紙を出しました。
――異議申立取下書。
私は。
紙を見た瞬間。
嫌な予感がしました。
「仮設店舗の割当てを受けるなら、今回の異議申立ては取り下げていただければと」
奈津子さんが紙を受け取ります。
「ここに私が署名すれば?」
「代理人ですよね」
「はい」
「でしたら――」
「待ってください」
私は遮りました。
担当者が私を見る。
「奈津子さん」
「はい」
「委任状」
私は言いました。
「取下げの特別委任、付けてません」
「あ」
奈津子さんの手が止まりました。
沢渡課長も。
取下書へ目を落とします。
「確認します」
委任状。
沢渡課長が読む。
「……ありませんね」
「じゃあ」
奈津子さん。
「私は取り下げられない?」
「そういうことです」
私は言いました。
市場管理課の担当者が困った顔になります。
「でも、代理人なら手続全般を」
「全般と、全部は違います」
自分で言って。
ちょっと気持ちよかった。
「代理人は不服申立てに関する手続を広くできます」
「はい」
「でも、取下げは別」
「……」
「本人から、その取下げまで任せるって特別に委任されてないとできない」
沢渡課長が静かに頷きました。
「そのとおりです」
担当者が、
「では、お母さまに確認を」
と言います。
「確認はします」
奈津子さんが答えました。
「でも」
取下書を机へ戻します。
「私の判断だけでは決めません」
その声。
少しだけ強くなっていました。
私は。
胸の中で、
小さくガッツポーズしました。
法律知識で、
空気がひっくり返る。
こういう瞬間です。
代理人だから。
全部任されている。
ではない。
何を任されたか。
どこまで任されたか。
そこを委任状で切る。
役所も。
家族も。
雰囲気で越えられない線を、
紙一枚が引いてくれる。
「仮設店舗の話自体は」
片桐所長が言いました。
「検討する」
「はい」
奈津子さん。
「ただし」
「取下げと交換条件にする前に」
所長は沢渡課長を見ました。
「現在の取消処分が妥当だったかを確認する」
沢渡課長が頷きます。
「当然です」
「市場管理課」
「はい」
「代理人との交渉と、本人の救済手続を混ぜるな」
一言。
重い。
担当者は、
「分かりました」
と頭を下げました。
一週間後。
市から連絡がありました。
取消処分。
見直し。
結論。
文江さんの区画について、
今年度末まで使用を認める。
退院後、
本人が営業再開できるなら、
市場閉鎖まで現在地で営業可。
その後は、
駅前再整備に伴う仮設店舗への移転を協議。
「取消し撤回?」
私が聞くと。
相馬先輩が言いました。
「実質的にはそういう扱いだ」
「理由は?」
「休業七日で長期休業扱いしたのは早すぎた」
「やっぱり」
「再開見込みも確認してなかった」
「やっぱり!」
「うるせえ」
さらに。
他の休業店舗と取扱いが揃っていなかった。
市場管理課は、
休業店舗の整理基準そのものを見直すことになった。
その日の午後。
奈津子さんが事務所へ来ました。
「母、喜んでます」
「よかった」
「病院で、『ほら見なさい、店はまだ私のものよ』って」
「元気ですね」
「あと」
奈津子さんが紙袋を出します。
「母から」
「何です?」
「煮物」
私は固まりました。
「また煮物!」
「何でまたなんですか」
奈津子さんが笑います。
「最近多いんです」
相馬先輩が紙袋を覗きます。
「うまそうだな」
「まだ見ただけでしょう」
「見れば分かる」
この人、
煮物鑑定士に転職したほうがいいかもしれません。
「母が作ったんですか」
「病院で作れるわけないでしょう」
「ですよね」
「私です」
「味は?」
「母より濃いです」
みんな笑いました。
「こはるさん」
「はい」
奈津子さんが、
少し真面目な顔になります。
「代理人って」
「はい」
「母の代わりになるってことだと思ってました」
「私も最初、そういう感じで考えました」
「でも違うんですね」
私は頷きました。
「お母さまそのものになるわけじゃない」
「はい」
「お母さまから、何を任されたか。その範囲で動く」
「そうですよね」
「だから」
私は言いました。
「任せることと、手放すことは別なんだと思います」
奈津子さんが少し笑いました。
「それ、母に言ったら喜びそう」
「どうして?」
「『奈津子にはまだ店は手放さない』って」
「そこ!?」
強いお母さまです。
そのとき。
電話が鳴ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「今日は何です?」
『佐伯さんの件です』
「はい」
『市場管理課の窓口対応を修正します』
「また?」
『「本人が来てください」で終わらせず、代理人による不服申立てが可能であることも案内するようにします』
「いいですね」
『それと』
「はい」
『委任状の確認を徹底します』
「取下げ?」
『ええ。通常の代理権があるからといって、取下げ権限まで当然にあると扱わない』
「今日の事件そのままですね」
『制度どおりです』
「課長」
『何でしょう』
「もし奈津子さんが、あそこで取下書に署名してたら?」
『特別の委任がなければ、その取下げを有効なものとして処理すべきではありません』
「ですよね」
『朝比奈さん』
「はい」
『委任状は、代理人を縛る紙ではありません』
「え?」
『本人の意思を守る紙です』
私は。
一瞬。
何も言えませんでした。
「……それ、今日の教訓にしていいですか」
『勝手にしてください』
切られました。
「何だって?」
相馬先輩。
「委任状は、代理人を縛る紙じゃなくて、本人の意思を守る紙だって」
「沢渡が?」
「はい」
「珍しくいいこと言うな」
「課長に失礼ですよ」
「お前が言うな」
私はノートを開きました。
まだ法理編じゃない。
だから。
今日の教訓は一行だけ。
――代理人は、本人の代わりに歩ける。でも、本人の道を勝手に閉じることはできない。
「長い」
相馬先輩。
「またですか」
「短くしろ」
私は考えます。
そして。
――任せられる。でも、勝手に終われない。
「それだな」
「採用」
片桐所長が、
奈津子さんの煮物を一つ取ります。
「所長」
「何だ」
「それ、代理権あります?」
「ない」
「じゃあ取らないでください!」
「一個だけだ」
「権限の範囲を自分で決めない!」
相馬先輩も箸を伸ばします。
「俺も一個」
「代理人増えた!」
「誰の代理だ」
「知りませんよ!」
奈津子さんが笑っています。
昭和六十三年。
文江さんは、
病院のベッドから市役所へ行けません。
でも。
そのために、
不服を言う道まで消えるわけではありません。
自分の足で歩けないなら。
手続を歩いてくれる人を選べばいい。
ただし。
その人が、
どこまで歩いていいのか。
最後の扉まで閉めていいのか。
そこは、
本人が決める。
法律の冷たい委任状は。
案外、
その当たり前を守るためにあるのかもしれません。
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