[行政不服審査法10条・法人でない社団の不服申立て]現場編 「法人じゃない町内会では申し立てできません」の嘘。名前だけの集まりと、“団体として動く住民”を分ける代表者という鍵
役所の窓口で、
「法人ですか」
と聞かれると。
法人ではありません。
と答えた瞬間に、自分たちの存在まで薄くなったような気がすることがあります。
会社ではない。
財団法人でもない。
登記もない。
ただの町内会。
ただの商店会。
ただの保存会。
だから。
法律の前では「誰でもない」。
――とは限りません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は五十八枚の署名用紙を数えていました。
「五十三、五十四、五十五……」
「遅え」
相馬先輩が煙草をくわえたまま言います。
「数えてるんですから話しかけないでください」
「五十六」
「今の誰の数字です?」
「知らん」
「やめて!」
最初からです。
「一、二、三……」
「四十一」
「先輩!」
「暇そうだったから」
「人間関係を壊す遊びを覚えないでください!」
片桐所長は奥で新聞を読んでいます。
助ける気配はありません。
「所長」
「何だ」
「職場環境の改善を求めます」
「却下」
「まだ内容言ってません!」
「相馬絡みだろ」
「先読みがひどい」
私は署名用紙を揃え直しました。
駅前再整備についての住民説明会開催を求める署名。
最近、この手の紙が事務所へよく持ち込まれます。
駅前。
旧街道。
観光整備。
道路拡幅。
駐車場。
一つずつなら別件に見える。
でも。
町のあちこちに同じ色の糸が伸びている。
そんな感じがしていました。
そのとき。
引き戸が勢いよく開きました。
「片桐先生!」
入ってきたのは、小柄な女性でした。
六十代。
割烹着。
片手に茶色い封筒。
もう片方には、
なぜか大きなタッパー。
「お邪魔します!」
声が大きい。
「はい」
片桐所長が新聞を畳みました。
女性は椅子に座る前に、
タッパーを机へ置きました。
「まずこれ」
「何です?」
私が聞きます。
「煮豆」
「まず相談じゃないんですか」
「相談は逃げないけど、煮豆は悪くなるでしょ」
強い。
生活者の優先順位が法律を超えている。
「北町のみつ子さん」
相馬先輩が言いました。
「知ってるんですか」
「北町環境を守る会の会長」
「会長じゃありません」
女性が即座に訂正しました。
「代表です」
「同じようなもんだろ」
「違います」
妙にそこを強調します。
女性は、
木戸みつ子さん。
駅の北側にある北町地区で、
「北町の暮らしと水路を守る会」
という住民団体の代表をしていました。
「それで、今日は?」
片桐所長が聞きます。
みつ子さんは茶封筒から紙を出しました。
「これです」
通知書。
市長名。
内容は、
駅北側の市有地に設けられていた共同利用の資材置場について、
使用許可を更新しない。
というもの。
「資材置場?」
私は聞きました。
「農具とか祭りの道具とか、みんなで置いてるところです」
北町の外れ。
古い用水路の横。
市有地の一角に小屋がある。
地区の住民が共同で、
草刈り機。
水路掃除の道具。
祭りの提灯。
防災用の縄。
折り畳み机。
そういうものを保管してきた。
「誰が借りてたんです?」
「守る会です」
「契約書は?」
「使用許可ですよ」
みつ子さんが封筒から古い書類を何枚も出します。
確かに。
申請者欄には、
――北町の暮らしと水路を守る会 代表 木戸みつ子。
とある。
「何年くらい?」
「七年」
「今年だけ更新しない?」
「そうです」
理由。
私は通知を読みました。
――駅北地区土地利用計画の推進に伴い、市有地の利用関係を整理する必要があるため。
またです。
土地利用計画。
駅前再整備。
この町最近、
「整理」という言葉を使えば何でも片付くと思ってませんか。
「小屋はいつまでに?」
「三週間以内に撤去してくださいって」
「中身は?」
「公民館に入れろって」
「入るんですか」
「入りません!」
即答。
「祭りの山車の飾りだけで押入れ二つ分あります」
「それは無理ですね」
「でしょう?」
しかも。
問題は単なる物置ではありませんでした。
守る会は毎年、
地区の水路掃除をしている。
大雨の前には土嚢を置く。
草刈りをする。
高齢者宅の側溝も手伝う。
防災訓練もする。
「小屋がなくなると」
みつ子さんが言いました。
「道具を各家に分けることになります」
「はい」
「そうしたら、誰が何持ってるか分からなくなる」
「なるほど」
「去年の大雨のときだって、あそこから土嚢袋出したんですよ」
ただの便利な物置。
ではない。
地区が自分たちで暮らしを維持するための、
小さな拠点でした。
「不服申立ては?」
相馬先輩が聞きます。
「それで昨日、市役所へ行ったんです」
「何て?」
みつ子さんの顔が露骨に曇りました。
「『どなたが申し立てるんですか』って」
「代表の木戸さんでは?」
「そう言ったんです」
「それで?」
「『守る会は法人じゃありませんよね』って」
私は眉を寄せました。
「はい」
「『法人格のない団体では、こういう不服申立ては難しいです』って」
「難しい?」
「『個人としてなら相談できます』とも言われました」
相馬先輩の煙草が止まりました。
「誰にだ」
「管財課の若い人」
「総務じゃないのか」
「最初は管財課です」
「それで総務には?」
「行きましたよ」
「何て言われた」
みつ子さんが口を尖らせます。
「沢渡さんが出てきました」
はい。
出ました。
今日もいました。
行政法の関所。
「それで?」
「『団体として申し立てるなら、団体の実体を確認します』って」
私は一瞬止まりました。
「……あれ?」
相馬先輩も気づいたらしい。
「申し立てられねえとは言ってないな」
「そうなんです」
みつ子さんが身を乗り出しました。
「管財課では法人じゃないから無理みたいに言うし、沢渡さんは確認するって言うし。どっちなのよ!」
なるほど。
今日の敵は悪意ではありません。
窓口説明の雑さです。
私は通知を見ました。
申請者。
北町の暮らしと水路を守る会。
代表者。
木戸みつ子。
「会って」
私は聞きました。
「何人くらいですか」
「四十三世帯」
「全員会員?」
「加入してる家は三十八」
「規約は?」
「あります」
「え」
「ありますよ」
みつ子さんはタッパーの下から紙束を出しました。
「なぜ煮豆の下に規約が」
「重し」
「実務的!」
見る。
北町の暮らしと水路を守る会規約。
目的。
地区内の生活環境保全。
用水路の維持。
防災活動。
会員資格。
役員。
総会。
会費。
会計。
代表者の選任。
重要事項は総会で決める。
「ちゃんとしてますね」
「当たり前です」
「会費も?」
「月二百円」
「通帳は?」
「あります」
「名義は?」
「北町の暮らしと水路を守る会 代表 木戸みつ子」
「会計係は?」
「野口さん」
「総会は?」
「年一回。臨時もやります」
「議事録」
「あります」
出てくる。
出てくる。
煮豆のタッパーより書類が出てくる。
この人、
強い。
「これ」
私は言いました。
「ただの仲良しグループじゃありませんね」
「そうですよ」
みつ子さんが胸を張ります。
「北町を守るための会ですから」
その言い方には、
見栄ではなく。
七年間、自分たちで動いてきた人の重さがありました。
頭の中で。
眠かった単語が、
むくりと起き上がります。
法人でない社団。
権利能力なき社団。
代表者。
団体としての組織。
多数決。
財産管理。
継続性。
そして。
――その名で審査請求。
「あ」
私は声を出しました。
「何だ」
相馬先輩。
「これ、できる」
「何が」
「団体名で」
「朝比奈」
片桐所長が言いました。
「まだ結論を急ぐな」
「はい」
「何を見る」
私は規約を持ち直しました。
「団体としての実体です」
「そうだ」
法人格がない。
それだけでは終わらない。
逆に。
看板に「○○会」と書いてあるだけで、
何でも団体として扱われるわけでもない。
問題は、
本当に一つの団体として動いているか。
「役員は何人です?」
「代表、副代表、会計、監査」
「代表はどうやって決めます?」
「総会で」
「会員が入れ替わっても、会そのものは続きます?」
「続きますよ」
「財産は?」
「会費で買った草刈り機とか、机とか」
「個人のもの?」
「違います」
「代表が代わったら?」
「次の代表が管理します」
そこです。
個人が集まっただけではない。
団体自身のルールがある。
代表者がいる。
財産も団体として管理している。
個々の会員が入れ替わっても、
会は続く。
「所長」
「行くぞ」
「どこへ」
「市役所」
「早い!」
「書類は揃ってる」
相馬先輩が立ち上がります。
「煮豆は?」
「置いとけ」
「先輩、そこだけ確認早いですね」
「帰ったら食う」
「人の相談より楽しみにしてません?」
市役所二階。
総務課。
「またですか」
沢渡課長は、
私たちを見るなり言いました。
「今日の第一声、それなんですね」
「最近よく会いますから」
「そちらが処分をたくさん出すからでは」
「行政ですから」
「理由になってない」
みつ子さんも一緒です。
相馬先輩が通知書を置きました。
「北町の暮らしと水路を守る会」
「はい」
「昨日来たな」
「来られました」
「管財課で、法人じゃないから団体として不服申立てできないみたいな説明されたらしいぞ」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「『できない』とは?」
「私はそう聞きました!」
みつ子さんが即答します。
沢渡課長は少し考えて。
「確認します」
否定しない。
こういうところは妙に公平です。
「で」
相馬先輩が言いました。
「総務としてはどうなんだ」
「先ほど申し上げたとおりです」
「団体としての実体を確認する?」
「ええ」
「法人格がないこと自体は?」
「直ちに不服申立てを妨げる理由にはなりません」
私は、
ほら!
と言いそうになりました。
危ない。
勝負はまだです。
「ただし」
沢渡課長が続けます。
「単に住民が何人か集まって、便宜上名前を付けたというだけでは困ります」
「そこですよね」
私が言いました。
「代表者か管理人がいて」
「それだけでも足りません」
「あ」
「朝比奈さん」
「はい」
「代表者を置けば、どんな集団でも自動的に一つの団体になる、と?」
「……なりません」
「でしょう」
くっ。
先回りされました。
「団体としての組織」
沢渡課長が言います。
「意思決定の方法」
「はい」
「構成員が変わっても団体として存続する仕組み」
「はい」
「財産管理」
「はい」
「代表者の権限」
「はい」
「そうした事情を確認します」
私はみつ子さんの持ってきた紙束を机へ置きました。
「あります」
「何が」
「全部」
沢渡課長の目が、
少しだけ細くなりました。
規約。
役員名簿。
前年度総会議事録。
会計報告。
通帳の写し。
資材置場使用許可申請書。
備品台帳。
さらに。
今回の不服申立てを行うことについての、
臨時総会議事録。
「……用意がいいですね」
「昨日から集めました」
みつ子さんが胸を張ります。
「電話しまくりました」
「昨日の今日で?」
「北町のおばちゃんを舐めないでください」
強い。
沢渡課長が議事録を見ます。
「出席二十九世帯。委任九。賛成三十七、反対一」
「その一人は?」
「主人です」
私は吹き出しそうになりました。
「ご主人、反対なんですか?」
「『役所と喧嘩するな』って」
「なるほど」
「だから夕飯のおかず一品減らしました」
「私的制裁!」
相馬先輩が笑います。
沢渡課長だけは真顔です。
「代表者として異議申立てを行う旨の決議もありますね」
「はい」
「規約では、行政庁への申立てまで代表者が単独でできるとは明記されていない」
みつ子さんが少し固まりました。
「駄目ですか」
「いえ」
沢渡課長は議事録を指しました。
「だから総会決議を付けたのでしょう」
「そうです」
相馬先輩が言います。
「問題あるか」
「現時点では、その点はありません」
空気が変わりました。
最初は。
法人ではない。
だから駄目かもしれない。
という話だった。
でも。
一枚ずつ整理すると。
問題はそこではない。
団体としての実体があるか。
誰が代表して動くか。
今回の申立てについて、
団体として意思決定しているか。
そこです。
「じゃあ」
みつ子さんが言いました。
「守る会として、申し立てできるんですか」
沢渡課長は書類を閉じました。
「その前提で扱います」
みつ子さんが息を吐きました。
「よかった……」
私は、
その一言で。
少しだけ胸が熱くなりました。
まだ何も勝っていません。
小屋の使用許可が戻ったわけでもない。
土地利用計画が変わったわけでもない。
ただ。
誰が争えるのか。
その入口が開いただけ。
でも。
入口で追い返された人にとって、
それは大きい。
「じゃあ次だ」
相馬先輩が言いました。
「許可を更新しない理由」
「駅北地区土地利用計画です」
沢渡課長が答えます。
「具体的には?」
「市有地を再配置し、将来の公共駐車場及び観光案内施設の用地として確保する方針です」
「いつ工事する」
「未定です」
「また未定か」
相馬先輩の眉が上がります。
「基本計画の段階です」
「小屋、三週間でどかす必要あるか」
「土地利用関係を整理しておく必要があります」
出ました。
整理。
「課長」
私は言いました。
「今の資材置場って、駅北の土地利用計画に具体的な支障があります?」
「将来用地です」
「将来は分かります」
「では?」
「今です」
一瞬。
沢渡課長が私を見る。
「三週間後に空けないと困る具体的な事情がありますか」
「現時点では工事はありません」
「代替場所は?」
「公民館を案内しています」
みつ子さんが即座に言いました。
「入らないって昨日言いました!」
「収納量については確認していません」
「確認してないんですか」
私の声が出ました。
「代替場所として案内したのに?」
「使用可能な公共施設として示したものです」
「草刈り機と土嚢と祭り道具が全部入るかは」
「確認していません」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「便利だな。代替って言っといて、代わりになるかは知らねえのか」
「相馬さん」
「何だ」
「言葉が悪い」
「事実は合ってるだろ」
「……否定はしません」
珍しく押しました。
「もう一つ」
片桐所長が言いました。
「北町の水路管理は、市の業務と関係ないのか」
「関係ない、とは?」
「守る会は水路清掃をしている」
「自主活動です」
「市は助成してるな」
沢渡課長が止まりました。
「……しています」
「防災訓練にも参加」
「ええ」
「資材置場の中に、市から配られた土嚢袋がある」
「確認します」
みつ子さんが言いました。
「ありますよ」
「つまり」
片桐所長の声は静かでした。
「市が地域活動に使わせている物資を、市有地の小屋に置かせている。その小屋を撤去させる。代替場所は容量未確認」
「はい」
「工事予定は未定」
「はい」
「それでも三週間で空ける必要がある理由を、申立ての中で確認する」
沢渡課長は少し黙りました。
「分かりました」
みつ子さんが私を見ます。
「これ、勝てます?」
来ました。
難しい質問。
「まだ分かりません」
私は答えました。
「でも」
一度息を吸います。
「さっきまでの『法人じゃないから入口にも立てない』とは違います」
「はい」
「今は、守る会として市に答えを求められます」
みつ子さんは頷きました。
「それで十分」
またです。
このシリーズで何度も聞く言葉。
それで十分。
もちろん。
本当は十分ではありません。
小屋を残したい。
道具を置く場所も必要。
地域活動も続けたい。
でも。
まず。
自分たちの名前で、
正式に話を聞いてもらえる。
そこからです。
帰り道。
私は相馬先輩に言いました。
「先輩」
「何だ」
「団体って、不思議ですね」
「何が」
「人じゃないのに、人みたいに動く」
「法人ならな」
「でも今回は法人じゃない」
「だから?」
「なのに、団体として意思決定して、財産持って、代表が動いて、不服申立てもする」
「そういう集まりもある」
私は頭の中で、
現代の条文を思い出していました。
法人でない社団又は財団。
代表者又は管理人の定めがあるもの。
その名で審査請求をすることができる。
昨夜までなら。
行政書士試験で出題可能性低め。
まあ後回し。
そう思っていた条文です。
でも。
北町の人たちが、
自分たちの小屋を守るために、
「木戸みつ子個人」ではなく、
「北町の暮らしと水路を守る会」
として立とうとしている。
それを見ると。
急に意味が分かる。
「もし個人名でしか申し立てられなかったら」
私は言いました。
「変ですよね」
「何が」
「小屋は木戸さん個人のためじゃない」
「ああ」
「水路も、祭り道具も、防災用品も、みんなのもの」
「そうだな」
「それなのに代表者個人の問題にしちゃったら、実態とずれる」
相馬先輩が煙草を消します。
「だから団体の名前で扱える必要があるんだろ」
「ですよね」
条文の一行。
その名で審査請求をすることができる。
ただそれだけ。
でも。
その一行がなければ。
団体として生きている人たちを、
法律の入口で、
無理やり一人の個人へ分解することになる。
制度の冷たい分類が、
逆に現実を守っている。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「何でも団体って名乗ればいいわけじゃねえ」
「はい」
「今日、沢渡もそこ見てただろ」
「規約」
「役員」
「総会」
「財産」
「代表者」
「意思決定」
「そういうのが必要になる」
「はい」
私は頷きます。
ただの寄せ集めではない。
誰が誰だか分からない。
誰が代表なのか分からない。
決め方もない。
財産の帰属も分からない。
それでは。
行政側だって、
誰と話せばいいのか分からない。
権利を認めるなら、
責任の所在も必要。
「冷たいですね」
私が言いました。
「何が」
「『みんな困ってるんです』だけじゃ駄目」
「当たり前だ」
「でも」
私は少し笑いました。
「ちゃんと『私たちはこういう団体です』って示せば、法人じゃなくても入口に立てる」
「ああ」
「そこは優しい」
「法律を優しいとか冷たいとかで測るな」
「でも感じるものはありますよ」
「勝手にしろ」
三日後。
異議申立書が完成しました。
申立人。
北町の暮らしと水路を守る会。
代表者。
木戸みつ子。
添付。
規約。
役員名簿。
総会議事録。
資材置場に関する過去の許可書。
備品一覧。
市の防災用品配布記録。
公民館収納場所の写真。
「写真まで?」
みつ子さんが言いました。
「はい」
私は並べました。
公民館の倉庫。
既に椅子と机でいっぱい。
そこへ草刈り機や土嚢袋を入れる余裕はほとんどない。
「これなら『代わりに使える』って簡単には言えません」
「なるほど」
「それと」
私は申立書を指します。
「守る会の実体が分かる資料も付けます」
「そこまでいる?」
「入口で揉める時間、もったいないので」
片桐所長が頷きます。
「そうだ」
「所長」
「何だ」
「今日は修正ないですか」
「ある」
「やっぱり!」
「ここ」
赤鉛筆。
――北町住民一同の切実な願いを踏みにじるものであり、
線。
「消す」
「はい」
「こっち」
――資材置場を撤去した場合、用水路清掃及び防災活動に用いる共同備品の保管場所が失われる。
「残す」
「はい」
相変わらずです。
感情を消す。
ではない。
感情の奥にある事実を残す。
「これなら役所が答えられる」
所長が言いました。
提出日。
総務課。
沢渡課長が書類を受け取ります。
一枚目。
二枚目。
添付資料。
規約。
議事録。
「団体性については」
沢渡課長が言いました。
「これで問題ないでしょう」
みつ子さんが少し笑いました。
「昨日まで法人じゃないから駄目かと思ってました」
「その説明については」
沢渡課長が眼鏡を上げます。
「管財課へ確認しました」
「どうでした?」
「担当者が『法人格がない場合は代表者等の確認が必要です』と言うべきところを、かなり省略したようです」
「省略?」
私は思わず言いました。
「重要部分を全部!」
「そのようですね」
「それ省略じゃなくて別の意味になってますよ」
「指導します」
あっさり。
この人、
こういうときだけ処理が速い。
「それと」
沢渡課長が申立書を軽く叩きます。
「本件の異議申立ては受理します」
みつ子さんが、
小さく息を吐きました。
「お願いします」
「取消しになるとは限りません」
「知ってます」
「公民館以外の代替場所も含めて確認します」
「そこまで?」
「申立理由に、地域防災活動への影響が具体的に書かれていますから」
私は思わず沢渡課長を見ました。
「課長」
「何でしょう」
「ちゃんと読むんですね」
「失礼ですね」
「褒めてます」
「そうは聞こえません」
十日後。
市役所から電話がありました。
相馬先輩が受話器を取ります。
「はい。……ああ。……分かった」
切る。
この人の電話は毎回短い。
「どうでした?」
「撤去、いったん止めるってよ」
「本当ですか」
「異議申立ての結論が出るまで」
私は立ち上がりました。
「三週間以内の撤去は?」
「保留」
「よかった……」
「まだ終わってねえぞ」
「分かってます」
でも。
大きい。
三週間。
あの小屋を空にする期限が、
ひとまず止まった。
「それと」
相馬先輩が続けます。
「市有地の計画、工事着手が早くても二年後らしい」
「二年!?」
「担当部署に確認したってよ」
「三週間で撤去させる意味は?」
「だから見直してんだろ」
なるほど。
不服申立てを出す。
すると。
今まで一枚の通知の裏に隠れていた事実が、
一つずつ出てくる。
工事は二年後。
代替場所は容量未確認。
小屋には、市の防災事業に関わる物資もある。
団体として七年間管理してきた。
「整理する必要がある」
という一言だけでは、
もう押し切れない。
一週間後。
みつ子さんが事務所へ来ました。
今日はタッパーが二つです。
「増えた」
「片方は煮物」
「もう片方は?」
「おはぎ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「先輩、相談者より先に反応しない!」
みつ子さんは笑ってから、
市役所から届いた紙を出しました。
市は。
現在の資材置場について、
次年度末までは使用を認める。
その間に、
北町地区内の別の市有地を、
共同倉庫の代替候補として協議する。
という方針を示していました。
「完全に残せるわけじゃありません」
私は言いました。
「分かってます」
「一年ちょっとあります」
「十分よ」
みつ子さんが笑いました。
「その間に、みんなで次を探せるもの」
「はい」
「三週間で全部出せって言われたときは」
彼女は少しだけ黙りました。
「七年やってきたことが、紙一枚で無かったことにされたみたいだった」
その言葉は。
ちょっと痛かった。
法人ではない。
登記もない。
会社でもない。
立派な事務所もない。
集まるのは公民館。
会費は月二百円。
代表者は割烹着で煮豆を持ってくる。
でも。
七年間。
水路を掃除した。
草を刈った。
祭りを支えた。
大雨の日には土嚢を運んだ。
それは。
「法人ではありません」
の一言で消えるものではない。
法律は、
法人格という大きな箱を持たない集団にも、
条件を満たせば、
団体として入口へ立つ道を残している。
「こはるちゃん」
みつ子さんが言いました。
「はい」
「最初に、私個人で申し立てたらって言われたでしょう」
「はい」
「あれ、嫌だったのよ」
「どうしてです?」
「だって」
みつ子さんは少し笑いました。
「あの小屋、私のじゃないもの」
あ。
それです。
今日の全部が、
その一言に入っていました。
「みんなのものだから」
「はい」
「みんなで決めて、会の名前で言いたかった」
「はい」
「それができるなら、それでいい」
私は頷きました。
法律用語なら。
法人でない社団。
代表者の定め。
その名で不服申立て。
たったそれだけです。
でも。
現場では。
「これは私一人の問題ではありません」
を、
法律の言葉にした仕組みでした。
「これ」
みつ子さんがタッパーを開けます。
「おはぎ食べて」
相馬先輩が即座に一つ取ります。
「いただきます」
「早い!」
「これはうまい」
「まだ一口目でしょう!」
「見れば分かる」
「料理評論家みたいなこと言わないでください」
片桐所長も一つ取ります。
「あ」
「所長も食べるんですね」
「悪いか」
「いえ」
「こはるちゃんも」
「いただきます」
甘い。
少し塩が強い。
でも、
仕事のあとにはちょうどいい。
「所長」
私はおはぎを食べながら言いました。
「今日の教訓、できました」
「何だ」
「法人じゃないからって、誰でもないわけじゃない」
片桐所長が少し考えます。
「悪くない」
「おお」
「ただし」
「はい」
「団体を名乗れば何でもいいわけでもない」
「ですよね」
相馬先輩が二個目へ手を伸ばします。
「規約」
「はい」
「組織」
「はい」
「意思決定」
「はい」
「代表者」
「はい」
「財産管理」
「はい」
「そういう実体があるから、団体として扱える」
「そうです」
みつ子さんが首をかしげました。
「難しいこと言うわねえ」
「すみません」
「私はね」
みつ子さんが言いました。
「北町のみんなで七年やってきた。それだけよ」
「はい」
たぶん。
法律は、
その「それだけ」を、
確認できる形に分解しているのです。
誰が集まっている。
どう決める。
誰が代表する。
お金をどう管理する。
人が替わっても続くのか。
冷たい問いです。
でも。
その問いに答えられるなら、
法人登記がなくても、
「ちゃんとここにいる団体だ」
と扱える。
制度の冷たさが、
存在を消すためではなく、
存在を確認するために使われる。
それなら。
私は少し好きです。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「今日は何です?」
『その言い方は何ですか』
「最近よく電話が来るので」
『そちらがよく申し立てるからでしょう』
「行政ですから」
『使い方が違います』
一本取った。
「それで?」
『北町の件ですが』
「はい」
『管財課の窓口説明を改めるようにしました』
「法人格のない団体について?」
『ええ。法人ではないというだけで申立適格がないような説明をしないこと。代表者、規約その他団体の実体を確認すること』
「ちゃんと直したんですね」
『間違った説明を残す合理的理由がありません』
「課長らしい」
『それと朝比奈さん』
「はい」
『一つ覚えておいてください』
「何でしょう」
『「○○会」と書いてあれば何でも団体として申し立てられる、という話でもありません』
「分かってます」
『本当に?』
「分かってます!」
『なら結構です』
切られました。
「何だって?」
相馬先輩。
「窓口説明、直すそうです」
「へえ」
「法人じゃないから駄目、じゃなくて。団体の実体を確認するって」
片桐所長は、
おはぎを食べ終えてお茶を飲みました。
「それでいい」
小さな事件です。
北町の物置小屋。
おはぎ。
煮豆。
会費月二百円。
新聞には載りません。
でも。
一つの団体が、
役所の前で、
「お前たちは法人ではないから、ここには立てない」
と言われずに済む。
名前だけの集まりではなく。
実際に人が集まり。
決まりを作り。
代表を選び。
お金を管理し。
何年も活動を続けてきた。
なら。
その集団を、
一人一人の個人へ無理やり分解しない。
団体の名で、
不服を言える。
昨日までなら、
「法人でない社団又は財団」。
そんな言葉を見たら、
試験に出にくそう。
後回し。
そう思っていました。
でも今なら。
北町の人たちが浮かびます。
水路。
草刈り機。
土嚢。
祭り道具。
そして。
「あの小屋、私のじゃないもの」
という、
みつ子さんの言葉。
たぶん。
法律というのは。
たった一人では持てないものを、
みんなで持つための言葉も、
ちゃんと用意しているのです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「煮物」
「はい?」
「持って帰れ」
「え、私が?」
「余ってる」
見る。
大きなタッパー。
「これ全部ですか」
「そうだ」
「一人暮らしの量じゃないですよ!」
相馬先輩が言います。
「団体で処理しろ」
「法人でない社団を今ここで作れってことですか!?」
「代表者はお前」
「会員は?」
「俺は入らん」
「団体成立しない!」
みつ子さんが笑っています。
「明日まで置いとけばいいじゃない」
「冷蔵庫が小さいんです」
「じゃあ相馬さんにも分けて」
「嫌です」
「なぜ」
「煮物は昨日食った」
「先輩!」
私はタッパーを抱えました。
どうやら。
法人格のない団体には、
その名で不服を申し立てる道がありますが。
大量の煮物を団体名義で引き受けてくれる制度までは、
行政不服審査法にも用意されていないようでした。
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