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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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132/276

[行政不服審査法9条・審理員]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より静かです。


 電話が鳴らない。


 来客もない。


 煙草の煙だけが、相馬先輩の机の上をだらだら漂っています。


 そして。


 私の机の上には、大崎さんが作ってくれた八角形の鍋敷き。


 中央には、


 ――片桐行政書士事務所。


 の焼き印。


「……先輩」


「何だ」


「これ、いいですよね」


「鍋敷きか」


「はい」


「食えねえ」


「まだ言います?」


「事実だ」


「先輩の価値基準、食用か非食用しかないんですか」


「使えるからいい」


「一歩進歩した」


 私は鍋敷きを机の端へ置きました。


 その横にはノート。


 今日の見出しは、大きく。


 ――行政不服審査法第九条 審理員。


 そして、その横へ。


 ――ただし、昭和六十三年にはいない。


 と書き足しました。


「そこからか」


 相馬先輩が言います。


「そこからです」


 これを忘れると事故ります。


 今。


 私がいるのは昭和六十三年。


 旧行政不服審査法の時代です。


 異議申立てと審査請求が併存。


 審査請求期間は原則六十日。


 そして。


 現代のような審理員制度は、まだありません。


「昨日は危なかったな」


 相馬先輩が笑います。


「何がです?」


「大崎さんの前で『審理員を指名してください』って言いかけてただろ」


「言いかけじゃなくて言いました」


「もっと悪いじゃねえか」


「反省してます」


 未来知識。


 便利そうで、


 施行前には何の武器にもなりません。


 令和の行政不服審査法を昭和の役所へ持っていったところで、


 沢渡課長に、


 「その制度はありません」


 で終了です。


 でも。


 大崎さんの件を見たあとでは。


 なぜ未来に審理員という仕組みが作られるのか。


 それが、よく分かります。


 私はノートの最初に書きました。


 ――審理員とは何か。


「言ってみろ」


 相馬先輩。


「現代法では、審査請求がされた場合、原則として審査庁が所属職員の中から、審理手続を行う人を指名します」


「それが審理員」


「はい」


「裁判官か?」


「違います」


「外部の第三者か?」


「原則として、それも違います」


「じゃあ役所の人間じゃねえか」


「そうです」


 ここ。


 受験生だったころの私は、


 ちょっと引っかかりました。


 公正な審理のための制度。


 なのに。


 審理員は原則として、


 審査庁に所属する職員。


「同じ役所なら意味ないんじゃないか」


 相馬先輩が言います。


「そこなんですよ」


 審理員は、


 裁判所の裁判官ではありません。


 行政組織の外へ完全に切り離された人でもない。


 あくまで行政内部。


 でも。


「誰でもいいわけじゃありません」


「昨日の話か」


「はい」


 現代法では。


 審査請求に係る処分に関与した人は、


 審理員になれません。


 私は二重線を引きました。


「ここが大崎さんの事件そのものです」


 大崎木工。


 道路占用許可の取消し。


 その取消し方針を作った全庁調整会議に、


 沢渡課長も参加していた。


 そして。


 大崎さんが不服を申し立てれば、


 その処理にも総務課の沢渡課長が関わる。


「昭和では制度上、それ自体が直ちにおかしいとは言えなかった」


「ああ」


「でも現代法なら」


「処分に関わった沢渡は審理員になれない?」


「原則、その整理です」


 私は頷きました。


 もちろん。


 現代でも、


 審査庁そのものが処分庁と同じことはあります。


 行政内部で見直す制度である以上、


 役所という組織から完全に外へ出るわけではありません。


 でも。


 少なくとも。


 最初の処分を作った人が、


 今度は審理を仕切る。


 という形は避ける。


「昨日、別担当に資料見せてもらったでしょう」


「ああ」


「開口一番、『何で大崎だけ取消したんですか』って」


「言ったらしいな」


「それです」


 同じ資料。


 同じ役所。


 でも。


 最初の判断に参加していない人が見ると、


 最初の人には見えなくなっていた疑問が出る。


「人間って」


 私は言いました。


「一回決めると、その結論を守る方向に頭が動くんでしょうね」


「お前もか」


「私もです」


「俺もだ」


「認めるんですね」


「人間だからな」


 そこです。


 審理員制度は、


 処分担当者が悪人だから作られた制度ではありません。


 むしろ逆。


 普通の人間だから。


 一度した判断に引っ張られる。


 自分の仕事を自分で否定するのは難しい。


 前に見た資料を、


 前と同じ読み方で見てしまう。


 だから。


 人柄ではなく。


 仕組みで距離を作る。


 私はノートに書きました。


 ――公平は「いい人が担当する」ではなく、「関与した人を外す」で作る。


「昨日も似たこと言ってたな」


「大事なので昇格しました」


「何に」


「こはるノート正式採用」


「知らん」


 私は次の見出しを書きます。


 ――誰が審理員を指名するのか。


「審査庁です」


「審査庁?」


「審査請求をされた行政庁」


「例えば」


「市町村長の処分について、都道府県知事が審査庁になる場合」


「うん」


「都道府県知事側が審理員を指名する」


「誰から」


「原則として審査庁に所属する職員からです」


 さらに。


 審理員となるべき者の名簿を作っている場合は、


 その名簿に載っている人から指名します。


「名簿まであるのか」


「あります」


「未来、細けえな」


「そこが試験に出るんですよ」


 私は赤線を引きました。


 審理員。


 原則、


 審査庁所属の職員。


 名簿があれば、


 名簿記載者から。


「でも」


 相馬先輩が言います。


「審理員って役所の裏方だろ」


「はい」


「申立人からしたら、誰が担当してるか分からねえんじゃねえのか」


「そこも条文があります」


「出たな」


 審理員を指名したら。


 審査庁は原則として、


 その旨を、


 審査請求人。


 そして、


 審査庁とは別に処分庁等がある場合には、その処分庁等。


 に通知しなければなりません。


「つまり」


 相馬先輩が言います。


「誰が審理するか、申立人に知らせる」


「はい」


「処分した役所と審査する役所が別なら、処分した側にも知らせる」


「そうです」


 私は昨日の大崎さんを思い出しました。


「もし現代だったら」


 私は言います。


「大崎さんにも、『今回の審理員はこの人です』って通知が来る」


「それ、大事か?」


「私は大事だと思います」


「なぜ」


「誰が見てるか分からないより、分かったほうが安心できるから」


 審理が公平です。


 と言われるだけでは。


 住民からすれば、


 誰が読んでいるのか。


 処分を決めた人がそのまま見ているのか。


 分かりません。


 でも。


 担当者を明らかにする。


 そして。


 その担当者について、


 この人は審理員になれない。


 という除外ルールを置く。


「透明性ですね」


「大げさじゃねえか」


「でもそういうことです」


 公平であること。


 そして。


 公平に見えること。


 両方大事です。


 私は次の欄へ進みました。


 ――審理員になれない人。


「ここは試験重要です」


「暗記か」


「暗記です」


「嫌そうな顔するな」


「昔の私ならここで寝てました」


 審理員になれない人。


 まず。


 今回いちばん重要なのが、


 審査請求に係る処分や、


 その処分に係る再調査の請求についての決定に関与した者。


「処分関与者」


「そうです」


「沢渡みたいな?」


「現代法なら、まさに確認するところです」


 そして。


 審査請求人本人。


「本人が自分の審理員にはならんだろ」


「役所の職員本人が審査請求する場合も理屈上ありますから」


「なるほど」


 さらに。


 審査請求人の配偶者。


 四親等内の親族。


 同居の親族。


「四親等」


 相馬先輩が顔をしかめます。


「出た、受験生が嫌がる数字」


「嫌です」


「覚えろ」


「はい」


 さらに。


 審査請求人の代理人。


 配偶者や一定の親族であった者。


 元代理人。


 後見人。


 後見監督人。


 保佐人。


 保佐監督人。


 補助人。


 補助監督人。


 そして。


 利害関係人。


「多いな」


「多いです」


「要するに?」


「申立人側に近すぎる人や、事件そのものに関わりすぎている人は外す」


「それで覚えろ」


「雑!」


「試験では条文覚えろ」


「結局それ!」


 ただ。


 一覧だけ見ると多いけれど。


 考え方は分かります。


 審査請求人本人。


 その家族。


 代理人。


 後見人。


 利害関係人。


 そんな人が審理を担当したら、


 今度は申立人側に寄りすぎる。


 一方。


 処分をした側に関与した人も外す。


「両側から距離を取るんですね」


「そういうことだろ」


「処分庁側だけ警戒するわけじゃない」


「公平ってのは片側だけ離せばいい話じゃねえからな」


 なるほど。


 私は丸を付けます。


 ――審理員は、処分側からも申立人側からも距離を置く。


 ここ。


 かなり大事です。


「昨日の私」


 私は言いました。


「沢渡課長が処分に関わってるってことばっかり気にしてました」


「まあな」


「でも逆に、大崎さんの弟さんとか、大崎さんの代理人が審理員になっても駄目」


「当たり前だ」


「公平って両側に冷たいんですね」


 そこまで言って。


 私は少し止まりました。


 そう。


 法律の冷たさ。


 このシリーズで何度も感じるものです。


 この人は善人だから。


 この人なら信用できるから。


 そんな曖昧な基準では決めない。


 関与した?


 なら外す。


 親族?


 なら外す。


 代理人?


 外す。


 利害関係人?


 外す。


 冷たい。


 でも。


 その冷たさが、


 「あの人は信用できるから特別」


 を許さない。


「人を疑ってる制度ですね」


 私が言うと、


 片桐所長が奥から言いました。


「違う」


「え?」


「人を疑うんじゃない」


「じゃあ?」


「立場を疑う」


 私は止まりました。


 相馬先輩も黙っています。


「立場」


 私は繰り返します。


「そうだ」


 所長が帳簿から顔を上げました。


「人間が公正かどうかを審査するんじゃない」


「その人の立場が、判断に影響しうるかを見る」


「そうだ」


 あ。


 それ。


 すごく分かりやすい。


 私は急いでノートに書きました。


 ――人柄ではなく、立場を外す。


「これ今日の一行候補です」


「最後にしろ」


「はい」


 次。


 審理員を指名しなくていい場合。


「例外があります」


「また例外か」


「行政法なので」


「免罪符みたいに言うな」


 原則。


 審査庁は審理員を指名する。


 でも。


 一定の機関が審査庁の場合は、


 審理員の指名が不要になります。


「例えば?」


「各種の委員会や審議会型の機関、それから地方公共団体の行政委員会など」


「何で」


「もともと複数の委員や有識者で、公正かつ慎重に審理できる仕組みだから」


「わざわざ別に審理員を立てなくてもいい」


「そういう考え方です」


 私はノートへ簡単に書きました。


 審査庁自体が合議制などの公正・慎重な審理に適した機関。


 →審理員を別に置かない場合あり。


「ここ、試験だと」


 私は言いました。


「審査請求があれば必ず審理員を指名する、って出されたら」


「誤り」


「はい」


「原則だが例外あり」


「そうです」


 さらに。


 形式的に明らかに不適法で、


 審査請求を却下するような場合などにも、


 審理員指名を要しない例外があります。


「そこまで細かく出るのか」


「出てもおかしくないです」


「面倒だな」


「受験生の気持ちが分かってきました?」


「受けねえから関係ない」


「冷たい」


 私はページを一枚めくりました。


 ここからが。


 私にはいちばん面白いところです。


 ――なぜ審理員制度が作られたのか。


 昨日の大崎さんの事件。


 旧法では。


 異議申立てという制度がありました。


 処分庁自身に、


 自分がした処分を見直してもらう。


「答案を採点した先生に」


 私が言います。


「もう一回自分の採点を見直してくださいって頼む」


「また学校か」


「分かりやすいので」


 もちろん。


 利点もあります。


 処分庁自身なら、


 事実関係をよく知っている。


 資料もある。


 間違いがあれば早く修正できる。


 昨日の沢渡課長も。


 新しい資料を見せたら、


 処分を撤回する方向へ動いた。


「だから全部駄目だったわけじゃない」


「そうです」


 でも。


 制度全体で見ると。


 処分した側が、


 自分の判断を自分で審査する。


 公平性に疑問を持たれやすい。


 しかも。


 旧法では、


 異議申立て。


 審査請求。


 という二本立て。


「申立人からしたら分かりにくいな」


「はい」


 どこへ出すのか。


 どちらを使うのか。


 上級行政庁はあるのか。


 個別法に特則はないか。


 受験生ですら混乱する。


 住民ならなおさらです。


「そこで現代法では」


 私は線を引きました。


 原則、


 審査請求へ一本化。


 そして。


 審理員制度を導入。


「つまり」


 相馬先輩が言います。


「入口を整理して」


「はい」


「中の審理も、最初の処分担当者とは少し切り離す」


「はい」


「さらに誰が審理するか知らせる」


「そうです」


 ああ。


 つながりました。


 制度改正が、


 ただの新旧比較表ではなくなります。


 旧法。


 異議申立てと審査請求。


 処分庁自身が見直す構造。


 現代法。


 審査請求へ原則一本化。


 審理員。


 処分関与者を除外。


 審査請求人等へ通知。


「改正って」


 私は呟きました。


「旧法の嫌だったところを、一個ずつ制度にした感じですね」


「全部解決したのか」


「そこまでは言えません」


「だろうな」


 審理員だって、


 行政庁所属の職員です。


 完全な外部第三者ではない。


 それだけで絶対に公平になるわけではありません。


 でも。


 少なくとも。


 処分を作った人と、


 審理を進める人を分ける。


 申立人側の関係者も外す。


 担当者を知らせる。


「ゼロか百かじゃないんですよね」


「何が」


「公正さ」


「うん」


「完璧に独立した外部裁判所じゃない。でも、旧法より一歩距離を取る」


「そういう制度なんだろ」


 私は頷きました。


 ここで。


 大崎さんの事件が、


 もう一度頭に浮かびます。


 市は。


 大崎木工だけ道路占用許可を取り消した。


 理由。


 歩行者安全。


 景観整備。


 でも。


 近くの金物屋の商品台は残っていた。


 旅館の看板も残っていた。


 事故は十四年間なし。


 搬入は朝の短時間。


 しかも。


 市自身の観光パンフレットが、


 大崎木工を伝統産業として紹介していた。


「最初の会議にいた人たちは」


 私は言いました。


「景観整備って目的に頭が寄りすぎてたのかもしれません」


「ああ」


「一回『整理対象』って決めたあとだと」


「その結論を前提に資料を見る」


「でも別担当が見たら」


「何で大崎だけ、となった」


「はい」


 審理員制度というのは。


 あの、


 「何でこの人だけ?」


 を、


 制度的に出しやすくする仕掛けなのかもしれません。


「先輩」


「何だ」


「審理員って、答えを出す人っていうより」


「うん」


「一回、話を机に戻す人なんですね」


「どういう意味だ」


「処分庁の結論を、そのまま前提にしないで」


 審査請求人。


 処分庁。


 参加人。


 それぞれから主張や資料を集める。


 必要な審理を進める。


 そして。


 審査庁が最終的に判断できるよう、


 審理を整理していく。


「裁判官そのものじゃない」


「そうです」


「最終決定者でもない」


「そこ重要です」


 審理員。


 という名前から、


 その人が最終的に審査請求を認容したり棄却したりするように思う。


 でも。


 最終的な裁決をするのは審査庁です。


「審理員は」


 私はノートに書きます。


 ――審理手続を担当する人。


「裁決者と混同するな」


「試験に出そうだな」


「出そうです」


 私はさらに丸をつけます。


 審理員=審査庁そのもの。


 ではない。


 審理員=裁決をする最終決定者。


 でもない。


「こういう名前の似た役割」


「嫌いか」


「行政法で一番嫌いです」


「覚えろ」


「はい」


 次。


 試験で混同しやすいところ。


 私はページの端に、


 注意。


 と書きました。


「一つ目」


 審理員は、


 外部の第三者から選ぶ。


「誤り」


 相馬先輩が即答。


「そうです。原則として審査庁所属の職員」


「二つ目」


 処分に関与した職員でも、


 専門知識があれば審理員になれる。


「駄目」


「はい」


 処分関与者は除外。


「三つ目」


 審理員を指名したことは、


 審査請求人には知らせなくてよい。


「違う」


「原則、通知が必要」


「四つ目」


 審査請求人の代理人だった人でも、


 今代理人じゃなければ審理員になれる。


 相馬先輩が少し止まります。


「……駄目だったか?」


「はい。元代理人も除外対象です」


「細けえ」


「試験ですね」


「五つ目」


 すべての審査請求で、


 必ず審理員を指名する。


「例外がある」


「正解」


「委員会なんかが審査庁なら不要な場合がある」


「はい」


「俺、受かるんじゃねえか」


「受けます?」


「嫌だ」


「即答」


 でも。


 こうやって会話にすると、


 覚えやすい。


 昨夜までなら、


 審理員になれない人一覧。


 というページを見た瞬間、


 脳が閉店準備を始めていました。


 でも今は。


 全部、


 公平な距離を作るため。


 と分かります。


 私はノートの中央に、


 大きく三つ書きました。


 処分から距離。


 申立人から距離。


 利害関係から距離。


「これが審理員の核心ですね」


 片桐所長が言いました。


「距離だけか」


「え」


「それだけなら、遠くの人間を置けばいい」


「じゃあ」


「手続を進める能力も要る」


 なるほど。


 審理員は、


 単に無関係な人を置けばいいわけじゃない。


 審査庁の職員として、


 審理手続を適切に進める。


 主張を整理する。


 資料を見る。


 必要な手続を行う。


「だから原則、審査庁の職員なんですね」


「そういう面もある」


 公平性だけなら外部。


 実務理解だけなら内部。


 その間で。


 内部職員を使いながら、


 処分関与者などを外す。


「制度って折衷案なんですね」


「たいていそうだ」


「完璧な正義の仕組みじゃない」


「そんなものはない」


 所長は短く言いました。


 その一言が、


 妙に残りました。


 法律というと。


 正しい仕組みと、


 間違った仕組みがあるように思ってしまいます。


 でも実際は。


 早さ。


 専門性。


 公平性。


 行政の負担。


 住民の使いやすさ。


 いろんなものの間で、


 少しずつましな形を作る。


 審理員制度も、


 たぶんそうです。


「じゃあ」


 私は言いました。


「旧法は駄目で、現代法は完璧、じゃない」


「当たり前だ」


「旧法の弱点を見て、現代法が少し仕組みを増やした」


「そうだな」


「だから改正理由まで分かると、条文覚えやすい」


「最初からそう勉強しろ」


「受験生時代の私に言ってください」


「知らん」


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行の覚え書き。


「候補、一個あります」


「書け」


 ペンを置く。


 少し考える。


 そして。


 ――審理員は、人柄ではなく立場を外して、公平な距離をつくる。


 書きました。


「どうです?」


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあいい」


「珍しく素直」


「ただし」


「はい」


「処分側だけじゃねえぞ」


「あ」


 そうでした。


 私は少し直しました。


 ――審理員は、処分側にも申立人側にも近すぎない距離を、制度でつくる。


「長くなったな」


「正確性が上がりました」


「覚えにくい」


「じゃあ超短縮」


 さらに下。


 ――公平は、人柄ではなく距離でつくる。


 相馬先輩が少し黙りました。


「それでいいんじゃねえか」


「採用」


 私は四角で囲みました。


 窓の外。


 旧街道のほうへ夕日が沈んでいます。


 あの道で。


 大崎さんは明日の朝も、


 長い木材を店へ運び込むのでしょう。


 午前八時まで。


 誘導する人を置いて。


 材料台をすぐ片付けて。


 完全に自由になったわけではありません。


 条件があります。


 手間も増えます。


 でも。


 仕事は続けられる。


 それで十分だと、


 大崎さんは言いました。


 今回。


 昭和六十三年の制度に、


 審理員はいませんでした。


 だから。


 私たちは別の方法で、


 最初の判断と距離を作りました。


 別担当にも資料を見てもらう。


 比較対象を出す。


 写真を出す。


 事故歴を出す。


 市自身の観光パンフレットまで出す。


 同じ結論へ戻らないように、


 見る材料を変えた。


 未来なら。


 その「距離」の一部を、


 法律が最初から作ってくれる。


 処分に関与した人は審理員になれない。


 申立人本人も駄目。


 親族も。


 代理人も。


 利害関係人も。


 法律は、


 誰かの人格を判定しません。


 あなたは公平な人ですね。


 あなたは偏りそうですね。


 そんなことは言わない。


 ただ。


 この事件に関わったか。


 この人と近すぎないか。


 利害がないか。


 そこだけを見る。


 冷たい仕組みです。


 でも。


 人の善意に頼らないぶん、


 優しいところもある。


 沢渡課長が、


 ものすごく公平な人格者でなければ救われない。


 そんな制度では困ります。


 誰が座っても。


 なるべく同じように、


 判断する人と、


 最初に決めた人との距離が確保される。


 制度の冷たさが、


 人を救う。


 たぶん。


 審理員という言葉の中には、


 そういう発想が入っています。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩が言います。


「終わりました」


「じゃあ帰るぞ」


「はい」


 立ち上がって。


 私はふと、


 机の引き出しを見ました。


「……先輩」


「何だ」


「焼きそばパン事件」


「まだ言ってんのか」


「現代法なら、審理員を指名します」


「好きにしろ」


「ただし」


 私は相馬先輩を指差しました。


「先輩は被疑者なので審理員になれません」


「行政事件じゃねえ」


「所長も」


「何だ」


「食べたと自白済みなので除外です」


「そうか」


「つまり」


 事務所を見回します。


 私。


 相馬先輩。


 片桐所長。


 以上。


「審理員候補がいません!」


「困ったな」


 相馬先輩が全然困っていない顔で言いました。


「外部から呼びます」


「誰を」


「沢渡課長」


 相馬先輩が吹き出しました。


 所長が眉を上げます。


「公平か?」


「少なくとも焼きそばパン事件には関与してません」


「利害関係は」


「ありません」


「じゃあ呼べ」


「本当に!?」


 私は想像しました。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 机の向こうに沢渡課長。


 焼きそばパン半分消失事件の資料を読み、


 細い眼鏡を上げて。


『朝比奈さん』


『はい』


『この程度の事件で私を呼ばないでください』


 絶対言う。


「やっぱりやめます」


「何でだ」


「却下される未来が見えました」


「未来人は便利だな」


「そういう能力じゃありません!」


 相馬先輩が笑います。


 片桐所長は、


 大崎さんの鍋敷きを一度手に取って、


 机の中央へ置き直しました。


「こはる」


「はい」


「明日は何だ」


「まだ決めてません」


「なら今日は帰れ」


「はい」


 私は鞄にノートを入れました。


 最後に。


 もう一度だけ表紙を開く。


 今日の一行。


 ――公平は、人柄ではなく距離でつくる。


 うん。


 今度こそ、


 たぶん忘れません。


 昭和六十三年。


 審理員制度が生まれるのは、


 まだずっと先です。


 でも。


 制度ができる前の不便さを一度見てしまうと。


 九条の眠そうな条文が、


 もう眠そうには見えませんでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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