[行政不服審査法9条・審理員]現場編 「不服申立ても、同じ担当で見ますから」の罠。自分の答案を自分で採点する昭和と、“処分に関わった人を審理から外す”未来の仕切り
一度決めた人に、「その決め方、本当に正しかったですか」と聞く。
それ自体は、別におかしくありません。
人間なら、間違える。
役所だって、間違える。
だから見直す。
問題は。
その見直しを、
最初に決めた人が、
ほとんど同じ机で、
ほとんど同じ資料を使って、
ほとんど同じ顔ぶれでやるときです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は焼きそばパンを守っていました。
「先輩」
「何だ」
「それ、私のです」
「名前が書いてねえ」
「買ってきたの私です」
「証拠は」
「今の会話そのものが証拠です!」
相馬先輩の手から紙袋を奪い返します。
油断も隙もありません。
法律事務所ならぬ行政書士事務所ですが、
ここでは財産権の防衛は自己責任です。
「朝からうるさい」
奥から片桐所長の声。
「先輩が窃盗未遂を」
「民事でやれ」
「刑事では!?」
「仕事しろ」
所長は今日も容赦がありません。
私は焼きそばパンを机の引き出しに避難させました。
そのとき。
引き戸が開きました。
「すみません」
入ってきたのは、四十代くらいの男性でした。
紺色の作業着。
胸元には、
――大崎木工。
と刺繍されています。
手には茶封筒。
「片桐先生は」
「私です」
所長が顔を上げました。
男性は一礼して、封筒を机に置きました。
「これ、もうどうにもならないんでしょうか」
出てきた紙には、
――道路占用許可取消通知書。
とありました。
私は眉を寄せます。
「道路占用?」
「店の前です」
男性は大崎修一さんと名乗りました。
駅から少し離れた旧街道沿いで、
父親の代から木工所を営んでいるそうです。
椅子。
棚。
建具。
ときどき寺の欄間。
そういうものを作る。
ところが。
店の前には大きな問題がありました。
「材料を入れるときだけ、歩道の端を使うんです」
「トラックですか」
「はい」
店の間口が狭い。
道路と建物の間に余裕がない。
長い木材を搬入するとき、
一時的に歩道上へ荷受け用の台を出す。
そのために道路占用関係の許可を受けていた。
ところが先月。
駅前から続く旧街道の「景観整備重点路線」指定を理由に、
許可が取り消された。
「これまではずっと認められてたんですか?」
「十四年です」
「事故は?」
「ありません」
「苦情は?」
「去年、一件」
相馬先輩が顔を上げました。
「どんな」
「観光客が歩きにくいって」
「それだけか?」
「私が知ってるのは」
通知書の理由欄には、
こうありました。
――歩行者の安全及び景観整備事業の円滑な推進を図るため。
また来ました。
円滑な推進。
円滑という言葉、
役所では潤滑油くらい万能です。
「取消しはいつ?」
「十二日前です」
相馬先輩が私を見る。
「期間」
「分かってます」
私は反射的に頭の中で、
三か月。
と言いかけます。
危ない。
現在ではありません。
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
「六十日」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「未来人、今日は事故らなかったな」
「誰が未来人ですか」
「お前だろ」
「設定を口に出さないでください」
大崎さんが怪訝そうにしています。
「何の話です?」
「何でもありません」
私は笑って誤魔化しました。
しかし。
大崎さんは通知書を見つめたまま、
ぽつりと言いました。
「もう役所には行ったんです」
「何て?」
「納得できないから、やり直してくれって」
「それで?」
「不服があるなら、正式に申し立ててください、と」
「それはまあ」
「でも」
大崎さんは一度言葉を切りました。
「その申立てを担当するのも、同じ総務の人だって」
私は止まりました。
「同じ人?」
「取消しを決めた人です」
「本人が?」
「名前は沢渡さんって」
私は相馬先輩を見ました。
相馬先輩も私を見ました。
「……またか」
「またですね」
沢渡課長。
総務課。
行政不服申立て関係の番人。
そして今回は。
処分そのものにも関わっているらしい。
「詳しく聞きましょう」
片桐所長が言いました。
大崎さんによると。
道路担当課が許可取消しを検討したとき、
駅前・旧街道整備の全庁調整会議が開かれた。
その会議に総務課の沢渡課長も入り、
「景観整備路線では道路上の営業関連物件を整理する」
という方針を取りまとめたという。
その後。
道路担当課が大崎さんの許可を取り消した。
「つまり」
私は言いました。
「沢渡課長は、取消処分を出した担当課そのものじゃないけど」
「ああ」
相馬先輩が頷きます。
「方針を決める側にはいた」
「それで不服申立ての処理にも?」
「総務が見るそうです」
大崎さんが苦い顔をしました。
「昨日、市役所で言われました」
「何て?」
「『正式に異議申立てをしていただければ、総務課で内容を確認します』って」
私は額を押さえました。
未来の知識が、
頭の中で全力疾走を始めます。
審理員。
処分に関与した者はなれない。
審査庁所属の職員から指名。
審査請求人等へ通知。
処分庁等との間に立って審理を進める。
「……指名は?」
思わず口から出ました。
「何の?」
大崎さんが聞きます。
「審理員です」
沈黙。
相馬先輩が私を見る。
片桐所長も見る。
「あ」
やってしまいました。
「すみません」
「何だ、そのシンリインって」
大崎さんが聞きました。
「未来の制度です」
「は?」
「違います、何でもありません!」
相馬先輩がため息をつきます。
「朝比奈」
「はい」
「今、昭和何年だ」
「六十三年です」
「審理員は?」
「いません」
「じゃあ黙れ」
「はい」
転生者、
未来の手続保障を昭和に召喚しようとして失敗。
行政法にタイムマシン持ち込み禁止。
私は椅子に座り直しました。
でも。
違和感は消えません。
むしろ。
現代法を知っているからこそ、
目の前の昭和の制度が、
急にむき出しに見えてきます。
「所長」
「何だ」
「この時代だと、本当に同じ役所が、そのまま見るんですよね」
「異議申立てならな」
「処分庁自身が?」
「そうだ」
「それって」
言いかけて。
所長が遮りました。
「制度批判は後だ」
「はい」
「まず、この事件だ」
そうでした。
未来の法律が立派だろうが何だろうが。
大崎さんが困っているのは昭和六十三年です。
今使えない法律は、
今の依頼人を救いません。
「取消理由を見よう」
相馬先輩が言いました。
通知書。
歩行者の安全。
景観整備事業の円滑な推進。
「現場、見に行きますか」
「その前に」
片桐所長が言いました。
「大崎さん。近所で、同じように道路を使っている店はありますか」
「あ……」
大崎さんが少し考えます。
「あります」
「どこ」
「二軒隣の金物屋」
「何を置く」
「店先に商品台を出してます」
「許可は」
「今年も取ったって言ってました」
私は顔を上げました。
「ほかには?」
「向かいの旅館」
「旅館?」
「送迎用の看板を道路際に出してます」
「景観整備重点路線の中?」
「同じ通りです」
相馬先輩が立ち上がりました。
「行くぞ」
「市役所?」
「先に現場だ」
「なるほど」
「役所の紙より、道路のほうが嘘つかねえ」
今日も教科書より刺さります。
旧街道。
午後一番。
私たちは大崎木工の前に立ちました。
古い瓦屋根。
木の看板。
店の奥には、
削りかけの木材と鉋。
木の匂いがしました。
「ここです」
大崎さんが指します。
歩道は狭い。
確かに材料台を出せば、
通行幅はさらに狭くなる。
「危なくないとは言えませんね」
「ああ」
相馬先輩も否定しません。
大崎さんが慌てます。
「でも搬入の十五分くらいです」
「毎日?」
「週に二、三回」
「時間帯は」
「朝八時前です」
私は周囲を見る。
観光客が歩くのは、
主に昼。
駅前再整備に合わせて、
この通りも町並み保存と観光振興の対象に入っている。
そして二軒隣。
「あれですね」
金物屋の前。
歩道上へ、
バケツ。
箒。
脚立。
きれいに並んでいます。
「……大崎さんの材料台より長時間ですよね」
「朝から夕方まで」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「景観って便利だな」
「言いたいことは分かります」
さらに向かいの旅館。
木製の案内看板。
こちらも道路際。
駅前観光案内図には、
その旅館が大きく掲載されています。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「違いは何だ」
「大崎木工だけ危険度が高い可能性」
「ほか」
「占用物の種類」
「ほか」
「使用時間」
「ほか」
「……景観整備事業との関係」
「そこだ」
私は見回しました。
大崎木工。
金物屋。
旅館。
同じ通り。
同じ景観整備路線。
なのに。
大崎木工だけ許可取消し。
「何かありますね」
相馬先輩が言いました。
「役所行くぞ」
市役所二階。
総務課。
沢渡課長は、
私たちを見るなり眼鏡を上げました。
「今日は大崎木工ですか」
「知ってたんですか」
「昨日来られましたから」
机の横には、
大崎さんの相談記録らしい紙が置かれています。
「取消しに関わった?」
相馬先輩が単刀直入に聞きました。
「何の話でしょう」
「道路占用許可」
「全庁調整には参加しました」
「方針も決めた?」
「私一人で決めたものではありません」
「聞き方変える」
相馬先輩が通知を机に置きます。
「大崎木工の占用を整理対象に入れることに、あんたは関わったか」
沢渡課長は一拍置きました。
「関与はしています」
私は思わず、
やっぱり。
と思いました。
「そして異議申立てを出したら」
私は言いました。
「総務課が見る」
「事務処理は当課です」
「課長も?」
「最終的には処分庁として判断します」
「それ、変じゃないですか」
言った瞬間。
沢渡課長の眉が少し動きました。
「制度上、何が変なのです?」
来た。
強い。
感情論では動かない人。
「だって」
私は言いかけます。
自分で決めて、
自分で見直す。
公平じゃない。
でも。
ここは昭和六十三年。
現代法の審理員制度を持ち出して、
「処分に関与した人は外してください」
とは言えません。
そんな条文は、
まだこの時代には存在しない。
悔しい。
未来を知っているのに、
未来の武器を使えない。
相馬先輩が横から言いました。
「制度論はいい」
「先輩」
「今の法律で違反じゃないなら、そこを殴っても仕方ねえ」
ぐう。
また正論。
「それより課長」
「はい」
「大崎木工だけ取消した理由を聞きたい」
「通知書に記載しています」
「歩行者安全と景観整備」
「ええ」
「金物屋は?」
一瞬。
沢渡課長が黙りました。
「何でしょう」
「二軒隣だ。道路に商品台出してる」
「個別事情があります」
「旅館の看板」
「それも個別事情です」
「じゃあ大崎木工の個別事情を言え」
乾いた空気が流れました。
この部屋。
冬になる前から湿度が低い。
「道路担当課では、資材搬入に伴う占用が歩行者の安全上支障になると判断しています」
「何時の話だ」
「何時?」
「搬入」
沢渡課長が資料を見ます。
「そこまでは」
「朝八時前」
私が言いました。
「観光客が増える時間帯より前です」
「時間帯だけで安全性は判断できません」
「もちろんです」
そこは否定しません。
「じゃあ事故歴は?」
「把握している限りありません」
「苦情は?」
「一件」
「十四年で?」
「ええ」
相馬先輩が続けます。
「金物屋の商品台は一日中」
「はい」
「旅館の看板も長時間」
「はい」
「大崎だけ取消す違いは?」
「道路担当課が総合的に判断した結果です」
便利な言葉。
総合的判断。
役所用語界のラスボス候補です。
「その総合の中身を聞いてる」
相馬先輩が言いました。
沢渡課長は黙ります。
片桐所長が初めて口を開きました。
「課長」
「はい」
「大崎木工について、個別の安全性評価はあるか」
「あります」
「見せられる範囲で確認したい」
「内部資料です」
「なら聞くだけでいい」
所長の声は低い。
「歩道幅」
「確認しています」
「占用時間」
「……資料にあるはずです」
「時間帯」
「確認します」
「過去の事故」
「確認します」
「他の占用者との比較」
沈黙。
「比較したか」
沢渡課長が資料をめくりました。
一枚。
二枚。
三枚。
「個別案件ごとの審査です」
「比較は」
「……明示的にはしていません」
そこ。
私は息を吸いました。
「じゃあ」
沢渡課長がこちらを見る。
「大崎さんだけ取消すことが、本当に必要だったか」
私は言いました。
「他の占用は残す。大崎さんは十四年間事故なし。搬入は朝の短時間。それでも取消す。その違いを比較していない」
「道路占用は、それぞれの許可条件が違います」
「だから違いを見ればいいじゃないですか」
声が少し強くなりました。
「同じだって言ってるんじゃありません」
「では?」
「違うなら、その違いが取消しを正当化するほど大きいのか。それを見てください」
沢渡課長が黙りました。
相馬先輩も口を挟みません。
私は続けます。
「しかも」
一瞬。
迷います。
でも言う。
「この取消し方針に課長自身も関わってる」
「ええ」
「その課長が、今度は不服申立ての処理にも関わる」
沢渡課長の目が細くなりました。
「制度上認められていない、という指摘ですか」
「……違います」
そこは正直に言うしかない。
「今の法律に、現代みたいな審理員制度はありません」
「現代?」
「何でもありません」
危ない。
「でも」
私は言いました。
「だからこそ、申立てを受けたときくらい、最初の判断を前提にせずに見てください」
「それは当然です」
「本当に?」
「朝比奈さん」
沢渡課長の声は冷静でした。
「私が処分方針に関与したからといって、提出された事実まで無視すると思いますか」
「思ってません」
「なら」
「でも、人って自分の決めたことには引っ張られます」
言ってしまいました。
部屋が静かになります。
制度論ではない。
人間論です。
「だから」
私は続けました。
「不服申立書には、最初の判断と別の材料を出します」
「別の材料?」
「他の占用者との比較。時間帯。事故歴。苦情件数。道路幅。搬入方法。必要なら写真も」
「なるほど」
「同じ紙をもう一回読むんじゃなくて、判断の土台そのものを増やす」
沢渡課長の口元がほんの少し動きました。
「まともですね」
「それ褒めてます?」
「評価です」
やっぱりこの人、
敵なのか先生なのか分かりません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「申立書を作れ」
「はい」
「公平性への不満は一行でいい」
「一行?」
「中心にするな」
「でも」
「今ない制度を要求しても通らん」
ぐさっ。
「書くのは」
所長が続けます。
「なぜ処分を見直すべきかだ」
「……はい」
「未来ではなく、今の事実を書け」
完全敗北。
でも。
妙に納得しました。
未来法は、
昭和の役所を殴る棒ではない。
昭和の制度の弱いところを見抜く、
虫眼鏡です。
弱点が分かったなら。
その弱点を補うように、
今ある手続を使えばいい。
事務所へ戻る途中。
私は相馬先輩に言いました。
「やっぱり変ですよね」
「何が」
「処分に関わった人が、不服申立ても見るの」
「変かどうかと、今そういう制度かは別だ」
「分かってます」
「未来じゃ違うんだろ」
「はい」
「どうなる」
珍しい。
先輩のほうから聞きました。
「審理員って人を指名します」
「誰を」
「原則、審査庁に所属する職員の中から」
「役所の人間じゃねえか」
「そうです」
「じゃあ同じだろ」
「違います」
私は少し力が入りました。
「処分に関与した人は、審理員になれないんです」
相馬先輩が一瞬黙りました。
「へえ」
「利害関係人も駄目。審査請求人本人や、その配偶者とか一定の親族、代理人なんかも駄目」
「つまり」
「少なくとも」
私は言いました。
「最初の処分を決めた人が、そのまま審理を仕切るのは避ける」
「なるほどな」
「しかも、審理員を指名したら、原則として審査請求人や処分庁等に通知する」
「誰が見るか分かるのか」
「はい」
話していて。
自分でも気づきました。
審理員。
昨夜まで。
行政書士試験の、
「誰がなれる・誰がなれない」
を暗記するだけの単元でした。
四親等。
代理人。
利害関係人。
処分関与者。
名簿。
通知。
正直。
眠い。
ものすごく眠い。
でも。
今。
沢渡課長が、
自分も関わった取消処分の申立てを受ける姿を見たあとでは。
全部意味がある。
「そういうことか」
私は呟きました。
「何が」
「何で処分に関わった人を外すのか」
「当たり前じゃねえのか」
「テキストだと当たり前すぎて、逆に分からないんですよ」
処分した人が悪人だからではない。
沢渡課長だって、
事実を出せば見る。
でも。
公平な審理というのは、
その人が善人かどうかに頼る仕組みではない。
人間は、
自分の判断を正しいと思いたくなる。
だから。
最初の判断から距離を置く人を、
制度として置く。
「未来の制度」
相馬先輩が言いました。
「昭和よりましなのか」
「完璧ではないです」
「そうか」
「同じ行政庁の職員から選ぶのが原則ですし」
「じゃあ独立した裁判官じゃねえ」
「はい」
「でも処分した本人は外す」
「そうです」
「その差はでかいかもな」
私は頷きました。
その日の夕方。
申立書作りが始まりました。
片桐所長が言います。
「まず時系列」
許可取得。
十四年間継続。
事故なし。
前年、歩行者から苦情一件。
景観整備重点路線の方針策定。
許可取消し。
通知到達。
「次」
相馬先輩が現場写真を机に並べます。
大崎木工。
金物屋。
旅館。
「同じ通りで、他の占用が残っている」
「はい」
「ただし」
「同じ条件とは書かない」
「分かってきたな」
「成長してます」
「自分で言うな」
私は文章を整えます。
他の占用物とは、
目的。
形状。
使用時間。
安全性。
許可条件。
が異なる可能性がある。
だからこそ。
それらの違いを比較せず、
大崎木工のみを取消対象とした判断が妥当だったのか。
再検討を求める。
「景観の話は?」
相馬先輩が聞きます。
「木工所そのものは旧街道の町並みと矛盾してない」
「主観だな」
「ですよね」
消す。
「じゃあ、市の観光パンフレット」
「何だ」
「大崎木工、載ってます」
「は?」
私は一冊取り出しました。
先ほど観光案内所でもらってきたもの。
旧街道の伝統産業。
その欄。
――昔ながらの木工技術を守る大崎木工。
写真付き。
相馬先輩が黙りました。
「……役所、こいつを観光資源にしてるのか」
「みたいですね」
「で、景観整備の邪魔だから占用取消し?」
「木工所を追い出すわけじゃないですけど」
「皮肉は効いてるな」
片桐所長がパンフレットを見ました。
「使える」
「ですよね」
「感情ではなく」
「市自身が木工所を地域資源として位置づけている事実」
「そうだ」
入れます。
少し気持ちいい。
法律のカタルシスって、
たぶんこういう瞬間です。
怒鳴るんじゃない。
相手の資料を、
相手の理屈に置く。
そして。
矛盾を静かに見せる。
三日後。
異議申立書を提出しました。
市役所。
総務課。
沢渡課長は一ページ目から黙って読みます。
二ページ。
三ページ。
写真。
比較表。
観光パンフレットの写し。
「……ずいぶん揃えましたね」
「同じ材料だけで見直したら」
私は言いました。
「同じ結論になりやすいでしょうから」
沢渡課長が私を見る。
「嫌味ですか」
「半分くらい」
「正直ですね」
「もう半分は本気です」
沢渡課長は比較表へ戻りました。
「大崎木工。占用時間は午前七時四十分から八時までを中心」
「はい」
「金物店の商品台は営業時間中」
「はい」
「旅館看板は常時に近い」
「はい」
「事故歴なし」
「確認できる範囲では」
「市の観光パンフレット掲載」
「課長、それ知ってました?」
「知りませんでした」
初めて。
沢渡課長が少し苦い顔をしました。
「観光課ですね、これは」
「縦割り行政って便利ですね」
「便利ではありません」
「珍しく認めた」
「朝比奈さん」
「はい」
「この件」
沢渡課長が書類を閉じました。
「道路担当課にも改めて意見を出させます」
「課長の意見だけで決めない?」
「それでは不満ですか」
「むしろ逆です」
「なら」
「あと」
私は言いました。
「できれば、最初の調整会議に入っていなかった人にも資料を見てもらえませんか」
沢渡課長の目が止まりました。
「法的義務として要求している?」
「いいえ」
そこははっきり答えます。
「この時代の行政不服審査法に、今の審理員制度はありません」
「この時代?」
「言葉の綾です」
「最近、朝比奈さんは時代をよく気にしますね」
「趣味です」
危ない。
「義務じゃありません。でも」
私は続けました。
「最初の判断に関わってない人が一度読むだけでも、違う見え方があると思います」
沢渡課長は少し考えました。
「分かりました」
「え」
「総務の別担当にも記録を確認させます」
「いいんですか」
「拒む理由もありません」
「意外と柔軟ですね」
「失礼ですね」
「褒めてます」
「そうは聞こえません」
相馬先輩が横でぼそっと言いました。
「お前、役所で喧嘩売る才能あるな」
「売ってません」
「値札ついてるぞ」
二週間後。
電話が鳴りました。
「片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
来た。
「はい」
『大崎木工の件です』
「どうなりました?」
『取消処分を撤回する方向で調整します』
私は椅子から半分立ちました。
「本当ですか」
『ただし』
「条件付き?」
『ええ』
やっぱり。
『材料搬入は午前八時までを原則とする。誘導員を一名置く。搬入時以外は台を道路上に置かない。これらを条件として、改めて占用を認める方向です』
「十分です」
『大崎さんが納得すればですが』
「確認します」
『それと』
「はい」
『道路担当課の判断記録も見直しました』
沢渡課長の声が少し低くなります。
『景観整備対象路線の占用物について、一律整理を念頭に置きすぎていました』
「つまり?」
『個別の危険性評価が薄かった』
「……認めるんですね」
『事実ですから』
この人は。
本当にここだけは潔い。
「こちらの負けですね」
さらっと言いました。
「え?」
『比較されると、説明がつきません』
「金物屋と旅館?」
『それもあります。それ以上に、市自身が大崎木工を伝統産業として観光案内に掲載しておきながら、その営業に必要な搬入方法を代替案なく切った』
「はい」
『整合しません』
私は少し笑いました。
「課長」
『何でしょう』
「別担当にも見てもらいました?」
『見せました』
「どうでした」
『開口一番、「これ、何で大崎だけ取消したんですか」と言われました』
私は黙りました。
そして。
笑いました。
「課長」
『何です』
「それ、ちょっと未来っぽいですね」
『意味が分かりません』
「こっちの話です」
電話を切ったあと。
私はしばらく受話器を見ていました。
最初の判断に関わっていない人が、
同じ資料を見る。
たったそれだけで。
「なぜこの人だけ?」
という疑問が出る。
審理員制度が、
急に。
条文ではなくなりました。
その日の午後。
大崎さんが来ました。
結果を伝えると、
しばらく黙っていました。
「また材料、入れられるんですね」
「条件付きです」
「朝八時まで」
「はい」
「誘導する人を付ける」
「はい」
「台はすぐ片付ける」
「はい」
大崎さんは頷きました。
「できます」
「よかった」
「弟を叩き起こします」
「そこは家族会議で」
大崎さんが笑いました。
初めて見る笑顔でした。
「俺」
大崎さんは言いました。
「役所に嫌われたんだと思ってました」
「え?」
「だから俺だけ切られたんだって」
「違いました」
「そうみたいですね」
悪意ではなかった。
誰かが大崎さんを狙ったわけでもない。
景観整備。
道路安全。
観光振興。
それぞれ正しそうな目的があり。
その中で。
個別に見る作業だけが、
少し雑になった。
それだけです。
でも。
その「少し」で、
一軒の木工所は材料を入れられなくなるところだった。
制度の怖さは、
悪人がいることではありません。
善人しかいなくても、
雑な仕組みなら人を困らせられることです。
「これ」
大崎さんが紙包みを出しました。
「差し入れ?」
「いえ」
包みを開く。
木。
「……板?」
「鍋敷きです」
「おお」
八角形の木製鍋敷き。
中央に小さく、
片桐行政書士事務所。
と焼き印。
「作ったんですか」
「端材で」
「格好いい」
相馬先輩が手に取ります。
「食えねえな」
「先輩!」
「でも使える」
「評価基準が原始時代から一歩進んだ!」
大崎さんが笑いました。
「今度は食えるもの持ってきますよ」
「お願いします」
「また即答!」
片桐所長は鍋敷きを受け取り、
裏までじっと見ました。
「いい仕事だ」
大崎さんの顔が少し変わりました。
職人の顔です。
「ありがとうございます」
「仕事を続けろ」
「はい」
短い。
でも。
大崎さんは深く頭を下げました。
夕方。
私は窓際で鍋敷きを眺めていました。
「こはる」
「はい」
「何を考えてる」
片桐所長です。
「審理員です」
「また未来か」
「はい」
「使えない制度だぞ」
「今は」
「そうだ」
私は鍋敷きを指で回しました。
「でも、何でああいう制度ができたか、今日ちょっと分かりました」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「自分で自分の答案を採点するな、って話か」
「それだけじゃないです」
「じゃあ何だ」
「人を信用しない制度なんだなって」
相馬先輩が眉を上げました。
「嫌な言い方だな」
「逆です」
私は言いました。
「人は、自分が一度決めたことに引っ張られる。悪人じゃなくても」
「うん」
「だから、『公平にやってください』ってお願いするだけじゃなくて」
言葉を探します。
「最初の処分に関わった人を、審理する役から外す」
「仕組みにする」
片桐所長が言いました。
「はい」
お願いではなく。
仕組み。
善意ではなく。
手続。
誰が担当しても、
なるべく同じように公平さを確保する。
条文は冷たい。
処分に関与した者。
審査請求人。
配偶者。
親族。
代理人。
利害関係人。
該当すれば外す。
そこに、
「この人なら公平そうだから」
は入りません。
だから冷たい。
でも。
その冷たさが、
人の善意だけに頼らなくて済む仕組みを作る。
「今日の教訓」
私は言いました。
「公平は、人柄じゃなくて、距離で作る」
相馬先輩が少し黙りました。
「珍しく短いな」
「いいでしょう」
「まあな」
「褒めた」
「気のせいだ」
またそれです。
私は鍋敷きを机に置きました。
「ところで」
「何だ」
「朝の焼きそばパン」
「ああ」
「半分なくなってました」
相馬先輩が目を逸らしました。
「知りません?」
「知らん」
「審理員を指名します」
「何のだ」
「焼きそばパン消失事件です」
「勝手にしろ」
「先輩は関係者なので審理員になれません」
「誰が関係者だ」
「最有力です」
「証拠は」
私は片桐所長を見ました。
「所長、審理員お願いします」
「断る」
「なぜ!」
「俺も食った」
「関与者が増えた!」
半分どころか、
共同正犯の疑いまで出てきました。
「じゃあ公平な第三者は!?」
相馬先輩が煙を吐きます。
「この事務所にはいねえな」
「終わってる!」
片桐所長が言いました。
「現行制度で処理しろ」
「現行制度って昭和六十三年ですよ!」
「なら異議申立てだ」
「誰に!?」
「俺に」
「処分した側じゃないですか!」
「そういう時代だ」
「審理員制度、早く来てー!」
私の叫びに。
大崎さんの作った鍋敷きだけが、
机の上で静かに転がりました。
昭和六十三年。
審理員は、
まだいません。
でも。
いないからこそ。
なぜ未来の法律が、
「処分に関わった人とは、少し距離を置こう」
と決めることになるのか。
今日だけは、
教科書よりずっとよく分かりました。
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