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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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129/278

[行政不服審査法8条・特別の不服申立て制度]現場編 「行審法では争えません」の罠。閉じた一般ルートと、個別法が残した“専用の入口”

挿絵(By みてみん)

 法律に「この方法では争えません」と書いてあると、普通はそこで帰りたくなります。


 争えません。


 対象外です。


 この法律の不服申立ては使えません。


 ――はい、終了。


 とは限りません。


 法律というものは、ときどき正面玄関を閉めた横に、ものすごく小さい字で勝手口を作っています。


 しかも。


 その勝手口の場所を教えてくれない。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は一本の大根を抱えていました。


「……先輩」


「何だ」


「行政書士事務所に大根って、業務上必要ですか」


「知らん」


「じゃあ、どうして私が持ってるんです」


「客が置いてった」


「なぜ一本だけ」


「二本あった」


「一本どこ行ったんです?」


「所長が持って帰った」


 奥を見る。


 片桐所長は帳簿から顔も上げません。


 どうやら本当らしい。


 行政書士事務所。


 書類作成。


 官公署への提出。


 相談業務。


 そして大根の分配。


 昭和の士業は職域が広い。


 私は大根を新聞紙で包み直していると、入口の引き戸が開きました。


「片桐先生、いますか」


 入ってきたのは、五十代半ばくらいの女性でした。


 日に焼けた顔。


 手には茶封筒。


 その後ろから、作業服の若い男性がついてきます。


「どうぞ」


 片桐所長が言いました。


 女性は椅子に座るなり、封筒から一枚の紙を出しました。


「これ、どういう意味でしょうか」


 紙の上には、


 ――農用地利用計画案の縦覧について。


 とあります。


 私は一瞬、固まりました。


 農用地。


 利用計画。


 縦覧。


 行政法受験生を眠らせるために選抜されたような単語が三つ並んでいる。


 ですが。


 女性の顔は、眠そうではありません。


 むしろ切実でした。


「うちの畑が、また農用地区域に入るって言われたんです」


 女性は名乗りました。


 野中房江さん。


 市の東外れで畑をしている。


 後ろの男性は息子の正志さん。


「また、というのは?」


 私が尋ねると、房江さんは紙の一点を指しました。


「今までも畑だったんです。でも、ここ」


 地図を広げます。


 駅から東へ二キロほど。


 県道沿い。


 駅前再整備の影響で、最近少しずつ倉庫や店舗の話が出始めている一帯です。


「この一枚だけ、息子に使わせたいんです」


「何をするんです?」


 正志さんが答えました。


「農機具の修理場です」


「修理場?」


「はい。今は勤め先の工場で旋盤や溶接やってます。でも来年には独立したくて」


 農家の納屋に持ち込まれる耕運機。


 草刈り機。


 ポンプ。


 小型トラクター。


 そういうものを直す小さな工場を建てたいのだという。


「農家相手の仕事なんです」


 正志さんは言いました。


「だから親父が生きてた頃から、この畑の端を使おうって話してたんです」


 けれど。


 市が農業振興地域整備計画を見直すことになった。


 その中の農用地利用計画案で、問題の土地は農用地区域に含まれたまま。


「市役所で聞いたら」


 房江さんが言いました。


「『計画ですから、もう仕方ありません』って」


 来ました。


 役所の便利な日本語。


 仕方ありません。


 決まっています。


 制度です。


 この三つを並べると、大抵の住民は三歩くらい後ろへ下がります。


「もう決まったんですか?」


 私は紙の日付を見ました。


「いや」


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「案って書いてあるだろ」


「ですよね」


 しかも。


 縦覧期間。


 その終了日が――。


「明後日?」


 私は声を上げました。


「はい」


 房江さんが小さく頷きました。


「昨日、近所の人に聞いて、役所へ行ったんです」


「公告は?」


「掲示板に出してあるって」


「見ました?」


「見てません。市役所の掲示板なんて、毎日見に行かないでしょう」


 それはそうです。


 役所の掲示板を毎朝確認する一般家庭。


 かなり行政法に仕上がっています。


「それで窓口では何て?」


 相馬先輩が聞きます。


「この計画が決まったら、普通の不服申立てはできないって」


「誰が言った」


「農政課の若い人です」


「ほかには」


「納得できないなら早く相談してください、と」


 相馬先輩が紙の日付を見る。


「明後日までって知ってて言ったのか?」


「たぶん」


「親切なんだか不親切なんだか分かんねえな」


 本当に。


 法律の世界では、


 「争えません」


 と、


 「今なら別の手続があります」


 が同じ窓口から出てくることがあります。


 私は頭の中で検索しました。


 農業振興地域。


 農用地利用計画。


 農用地区域。


 農振除外。


 異議。


 審査。


 現代知識がわらわら出てきます。


 そして同時に、


 行政不服審査法。


 審査請求。


 現代は原則一本化。


 審理員。


 行政不服審査会。


 ――待って。


 私はこめかみを押さえました。


「またか」


 相馬先輩が言いました。


「何がです」


「お前、その顔するとき大抵、未来の法律で迷子になってる」


「失礼な」


「当たってるだろ」


「……当たってます」


 ここは昭和六十三年。


 現代の行政不服審査法ではありません。


 旧法です。


 異議申立てと審査請求が併存。


 しかも。


 今回の論点は、それだけではなさそう。


 片桐所長が紙を手に取りました。


「こはる」


「はい」


「一般の不服申立てができない。だから終わりか」


「……違う気がします」


「気じゃなく言え」


 厳しい。


 私は資料棚を振り返りました。


「個別法に、別の手続がないか確認します」


 片桐所長が紙を置きました。


「そうだ」


 その一言で。


 昨夜まで教材で見たはずの言葉が、急に顔を上げました。


 特別の不服申立て。


 一般法で道が塞がれていても。


 その処分や制度の性質に合わせて、


 別の法律が独自の救済手続を置くことがある。


「相馬先輩」


「何だ」


「農業振興地域の法律、あります?」


「棚の下」


「どれです?」


「緑の背表紙」


「全部緑です」


「農政だからな」


「色分けの意味!」


 私はしゃがみ込みました。


 三冊目。


 違う。


 五冊目。


 農地法。


 惜しい。


 七冊目。


「あった」


 農業振興地域の整備に関する法律。


 ページをめくります。


 農用地利用計画。


 公告。


 縦覧。


 そして。


「あ」


「何だ」


「ありました」


 私は指を止めました。


 土地の所有者などは、


 農用地利用計画案に異議があるとき、


 縦覧期間満了後の一定期間内に、


 市町村へ異議を申し出ることができる。


 その異議の申出について市町村が決定する。


 さらに。


 その決定に不服がある申出人は、


 都道府県知事へ審査を申し立てる道がある。


「先輩」


「読め」


「普通の行審法の異議申立てじゃありません」


「そうだ」


「こっちの法律が、専用の手続を作ってる」


「そういうことだ」


 私はもう一度、房江さんの紙を見ました。


 明後日。


 縦覧期間終了。


 そのあと。


 異議を申し出る期間がある。


 扉。


 閉まっていません。


 入口が違っただけです。


「野中さん」


 私は顔を上げました。


「まだ終わってません」


 房江さんがこちらを見る。


「でも、市役所では不服申立てはできないって」


「一般の行政不服審査法での不服申立ては、できない場面があります」


「じゃあ」


「でも、この計画には、この計画専用の異議の手続があります」


「専用?」


「はい」


 房江さんは眉を寄せました。


「同じ異議じゃないんですか」


「名前が似てるんです」


「同じ?」


「違います」


「……?」


 ですよね。


 私も書いてて腹が立つタイプの制度です。


 旧行政不服審査法にも、


 異議申立て。


 個別の法律にも、


 異議の申出。


 似すぎです。


 法律用語というのは、ときどき受験生の注意力を測るためだけに存在しているのではないかと思います。


「相馬」


 片桐所長が言いました。


「市役所へ行くぞ」


「はいよ」


「こはるも来い」


「はい」


 房江さんが立ち上がりかけました。


「私も?」


「今日は待っていてください」


 所長が言います。


「まず、計画の資料と手続を確認します」


「間に合いますか」


 所長は時計を見ました。


「間に合わせる」


 短い。


 でも。


 こういうときの片桐所長の短い言葉は、妙に安心します。


 市役所。


 農政課。


 壁には、


 農業振興地域整備計画変更案縦覧中。


 という紙が貼られていました。


「これですか」


 私は立ち止まりました。


「見事に地味だな」


 相馬先輩が言います。


「重要度と紙の地味さが釣り合ってません」


 白紙。


 黒文字。


 以上。


 人の土地利用に関わる話なのに、町内会の廃品回収のお知らせより控えめです。


「何か?」


 奥から声がしました。


 農政課の係長が来ます。


 事情を説明すると、


「野中さんの件ですか」


 すぐ分かりました。


「昨日来られました」


「どう説明した」


 相馬先輩が聞きます。


「計画が決定した後に、行政不服審査法による通常の不服申立てをすることはできない旨を」


「それだけか?」


「異議の申出についても説明しました」


「本人、分かってなかったぞ」


「説明はしました」


 出た。


 行政実務の名物。


 説明した。


 相手が理解したかどうかとは別です。


「係長」


 私が言いました。


「縦覧資料を見せてもらえますか」


「もちろん」


 地図。


 計画書。


 農用地区域。


 土地の区分。


 私は野中さんの筆を探しました。


「あった」


 県道沿い。


 周囲には水田。


 でも問題の土地の北側には資材置場。


 東側には住宅が数軒。


 完全な田園の真ん中という感じではありません。


「この土地を農用地区域から外さなかった理由は?」


 相馬先輩が聞きました。


「一団の農用地として確保する必要があると判断しています」


「誰が?」


「市です」


「何を見て?」


「土地の状況、農業上の利用状況、周辺農地との連続性などです」


 お手本のような答え。


 間違ってはいません。


 でも。


 私は別の紙を見ました。


「この北側」


「はい」


「資材置場になってますよね」


「ええ」


「東側に住宅もあります」


「あります」


「野中さんの土地は今、何を作ってます?」


「……確認します」


 係長が資料をめくりました。


「休耕地ですね」


 相馬先輩の眉が上がります。


「何年?」


「そこまでは」


「市が農業利用確保が必要だって計画に入れるなら、現況くらい見てるんじゃねえのか」


「現地調査は行っています」


「いつだ」


 係長が黙りました。


 少し離れた机から、


「四月です」


 声がしました。


 私は振り返ります。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


「沢渡課長」


「また皆さんですか」


 今日も安定して嫌そうではない。


 喜んでもいない。


 行政法を人間にしたら、だいたいこうなる。


「今回は農政課まで出張か」


 相馬先輩が言いました。


「計画変更の法務確認を総務でも見ています」


 沢渡課長は地図を覗き込みました。


「野中房江さんの土地ですね」


「知ってるんですか」


 私が聞くと、


「昨日相談記録が回ってきました」


「仕事早いですね」


「役所ですから」


「役所への評価を上げる自画自賛」


「事実です」


 強い。


「課長」


 私は言いました。


「昨日、『行政不服審査法の不服申立てはできない』と説明したそうですね」


「その点は間違っていません」


「はい」


「ですが?」


「その言い方だけだと、もう争う方法がないように聞こえます」


「異議の申出も説明しています」


「本人は区別できてませんでした」


「法律上の制度が複雑なのは、私の責任ではありません」


「そこまで開き直ります?」


「事実です」


 また正論。


 この人は感情で殴ると全部すり抜けます。


 だから。


 論点で行くしかない。


「では確認します」


 私は地図を指しました。


「この計画案に異議がある土地所有者には、個別法上の異議の申出の道がある」


「あります」


「市がそれを退けた場合、さらに県知事へ審査の申立てができる」


「できます」


「つまり」


 私は一度区切りました。


「行政不服審査法の一般的な不服申立てから外れているからといって、救済手段が全部なくなるわけじゃない」


 沢渡課長が私を見る。


「そのとおりです」


「じゃあ最初からそう言ってください」


「言っています」


「伝わるようにです!」


 相馬先輩が横で鼻を鳴らしました。


「朝比奈」


「はい」


「役所に国語教育を求めるな」


「でも大事ですよ」


「大事だが今日はそこじゃねえ」


 ぐぬ。


「論点で喋るなって言うくせに」


「今日は論点で喋れ」


「どっちなんですか!」


「使い分けろ」


 理不尽。


 しかし今回の相手は制度です。


 私は地図に戻りました。


「この土地が本当に農業上の利用を確保する必要がある土地なのか。それを異議の申出で出します」


「どうぞ」


 沢渡課長は淡々と答えました。


「ただし」


「はい」


「息子さんが工場を建てたい。それだけでは計画から外す理由にはなりません」


「分かっています」


「個人の希望と、地域全体の農地保全は別問題です」


「それも分かってます」


 確かに。


 役所が嫌がらせで農用地区域に入れているわけではありません。


 農地をまとまりとして守る。


 農業振興を図る。


 それには行政側の理由がある。


 個人的に使いたいから外せ。


 では弱い。


 必要なのは。


 その土地を、


 本当に今後も農業上確保する必要があるのか。


 周辺状況。


 現況。


 農地のまとまり。


 利用実態。


 市が何を見て判断したのか。


 そこを切り分けること。


「現地へ行きます」


 相馬先輩が言いました。


 沢渡課長が眼鏡を上げます。


「どうぞ」


「市も来るか」


「必要ですか」


「同じ地面見て話したほうが早い」


 少し間があって。


「分かりました」


 午後。


 私たちは野中さんの土地に立っていました。


「……畑?」


 私は言いました。


「元、畑だな」


 相馬先輩が訂正しました。


 草。


 草。


 草。


 そして錆びた一輪車。


 南側だけ、近所の農家が一部耕しています。


 北側には砕石を敷いた資材置場。


 東側には住宅。


 西側には細い水路。


「父が倒れてから」


 正志さんが言いました。


「五年くらい、ちゃんとは作ってません」


「貸したりは?」


「南の端だけ、隣の人に使ってもらってます」


 市の農政課係長が地図と現地を見比べます。


 沢渡課長は黙っています。


 相馬先輩が水路を覗き込みました。


「機械、入れにくいな」


「昔は向こうから入れたんです」


 房江さんが言いました。


「あっち?」


「今、資材置場になってるところです」


 私は顔を上げました。


「昔は同じように畑だった?」


「そう」


「いつ変わったんです?」


「三年くらい前」


 係長が資料をめくる。


「……確かに」


 相馬先輩が振り返りました。


「一団の農地として確保するって話だったな」


「はい」


「北が資材置場。東が住宅。五年休耕。農機の進入路も昔と条件が変わった」


「だから直ちに農用地区域から外れるという話ではありません」


 係長が言います。


「分かってる」


 相馬先輩は即答しました。


「だが、昔と同じ図面だけ見て同じ判断していいとも限らねえ」


 沢渡課長が初めて口を開きました。


「現地調査は四月でしたね」


「はい」


「この資材置場は確認記録に?」


 係長が黙る。


 紙をめくる。


 さらにめくる。


「記載がありません」


「住宅化は」


「地図上では……」


「現況確認としては?」


「……十分ではなかったかもしれません」


 空気が少し変わりました。


 ここです。


 役所を打ち負かしたわけじゃない。


 計画が違法だと決まったわけでもない。


 野中さんの土地が外れると決まったわけでもない。


 でも。


 「もう計画ですから」


 という大きな壁に、


 現況確認不足。


 という具体的な亀裂が入った。


「異議の申出」


 私は言いました。


「出します」


 沢渡課長がこちらを見る。


「何を書くつもりです?」


「息子さんが工場をやりたいから外してくれ、だけじゃありません」


「では?」


「計画案が前提にした土地状況が、現在の状況を十分反映しているか」


「はい」


「周辺土地の非農業利用が進んでいること」


「はい」


「長期間休耕状態にあること」


「はい」


「従前の進入条件が変わっていること」


「はい」


「それでもなお、農業振興のためにこの土地を農用地区域として確保する必要があるのか」


 沢渡課長の口元が少し動きました。


「まともですね」


「褒めました?」


「事実を述べただけです」


 この人からの最大級の褒め言葉だと思っておきます。


 事務所へ戻る車の中。


 私は助手席でメモを見ていました。


「しかし変ですよね」


「何が」


「相馬先輩」


「だから何がだ」


「行政不服審査法では普通の不服申立てを認めない。でも別の法律では専用の手続を置いてる」


「変か?」


「最初は変だと思いました」


「今は?」


 私は少し考えました。


「その問題専用に作ったほうがいい場合もあるのかなって」


「そういうことだ」


 一般の不服申立て制度。


 何にでも同じ形で当てはめれば便利です。


 でも。


 農用地利用計画には、


 農用地利用計画なりの事情がある。


 計画を決める前の縦覧。


 土地所有者などからの異議。


 市の決定。


 さらに県への審査。


 一般の行政処分と全く同じ順序ではありません。


「だから」


 私は呟きました。


「一般法の適用除外と、救済なしは同じじゃない」


「やっと分かったか」


「テキストで読んだときは、八条って地味だったんですよ」


「八条?」


 相馬先輩が眉を寄せます。


 しまった。


 未来。


「……未来の話です」


「またか」


「今の法律だと、こういう考え方が八条に明文で出てくるんです」


「今は?」


 私は手元の旧法集を開きました。


「旧法だと、同じような考え方は第四条第二項です」


「じゃあ今使うのは?」


「第四条第二項」


「それでいい」


 厳しい。


 でも、その通り。


 現代の条文番号を知っていても、


 昭和六十三年の依頼人は救えません。


 未来知識は答えじゃない。


 比較表です。


「ところで先輩」


「何だ」


「現代だと行政不服審査法の一般制度は審査請求に原則一本化されるんですよ」


「また始まった」


「審理員制度もできます」


「知らん」


「処分に関与してない職員が――」


「朝比奈」


「はい」


「今、野中さんに必要なのは何だ」


「個別法の異議の申出です」


「じゃあそれ書け」


「はい」


 一刀両断。


 法改正史に浸る未来人、現場へ強制送還。


 正しい指導です。


 三日後。


 野中房江さん名義の異議の申出書ができました。


 片桐所長は、


 「息子の夢」


 という表現を消しました。


「冷たいですね」


 私が言うと、


「夢は理由にならん」


「分かってますけど」


「夢を書くなとは言ってない」


「え?」


「事実にしろ」


 私は黙りました。


 なるほど。


 息子が独立したい。


 ではなく。


 農機具修理業を営む具体的な計画がある。


 現地は長期間休耕。


 周辺には非農業的利用が存在。


 農作業上の進入条件も変化。


 農用地区域として今後確保する必要性について、現況を踏まえ再検討を求める。


 夢を消すのではない。


 夢を、


 役所が読める言葉へ変える。


 それが書類なのかもしれません。


「できました」


 私は所長へ差し出しました。


 所長は読む。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


「長い」


「え」


「二割削れ」


「またですか!」


「同じことを二度書くな」


「強調です」


「重複だ」


 相馬先輩が横から笑います。


「役所は小説じゃねえぞ」


「私、普段小説書いてません!」


「気分の問題だ」


 結局。


 二割削りました。


 読みやすくなりました。


 悔しい。


 提出日。


 市役所の農政課。


 房江さん本人も一緒です。


 窓口で書面を出すと、係長が受け取りました。


「異議の申出として受け付けます」


 房江さんが不安そうに聞きました。


「これで、外してもらえるんでしょうか」


 私は答えようとして。


 止まりました。


 代わりに片桐所長が言いました。


「まだです」


「そうですか」


「ただ」


 所長が続けます。


「あなたの土地について、市は答えなければならなくなった」


 房江さんが顔を上げました。


「答える?」


「なぜ農用地区域として残すのか。あなたが出した異議を踏まえて、判断する」


「無視はできない?」


「手続に乗りましたから」


 その瞬間。


 房江さんの肩が少し下がりました。


 勝ってはいません。


 土地もまだ外れていません。


 息子さんの修理場が建つとも決まっていません。


 それでも。


 昨日までは、


 「計画ですから」


 で終わっていた。


 今日は、


 「あなたの異議について決めます」


 に変わった。


 この差は大きい。


 それから一月ほどして。


 市から片桐事務所へ電話がありました。


「はい。……ええ。……分かりました」


 相馬先輩が受話器を置きます。


「どうでした?」


「野中さんの土地」


「はい」


「計画案、再検討するってよ」


「外れるんですか?」


「まだ決定じゃねえ」


「ですよね」


 分かっていても、ちょっと前のめりになります。


「周辺の三筆も含めて、区域設定を再確認する」


「三筆?」


「ああ。現況と図面が合ってねえところがあったらしい」


 まただ。


 一人の異議から、


 周りまで点検が始まる。


「沢渡課長は?」


「総務から農政に『現況確認やり直せ』って」


「意外と働きますね」


「本人に言うなよ」


「言いません」


 その日の夕方。


 野中さん親子が来ました。


 結果を伝えると、


「じゃあ、工場が建てられるんですね」


 正志さんが身を乗り出しました。


「そこまではまだです」


 私は言いました。


「農用地区域の話が一つ。そこを外れたとしても、ほかの農地関係の手続や土地利用の問題があります」


「まだあるんですか」


「あります」


 正志さんが天井を見ました。


「土地一枚使うのに、何枚扉があるんだよ」


「行政法って、そういうところあります」


「慰めになってない」


「すみません」


 でも。


 房江さんは笑いました。


「いいじゃない」


「母さん」


「昨日までは、一枚目の扉も開かないと思ってたんだから」


 その言葉に。


 私は少し黙りました。


 そう。


 全部を一度に開けなくていい。


 一枚目を開ける。


 次の扉を見る。


 法律は面倒です。


 冷たいです。


 手続の名前も似ています。


 期間も短い。


 入口も分かりにくい。


 でも。


 どの扉を開ければいいかさえ分かれば、


 「もう無理です」


 を、


 「ここからなら話せます」


 に変えられる。


「これ」


 房江さんが紙袋を机に置きました。


「またですか」


 私は覗き込みます。


 大根。


 二本。


「立派ですね」


「うちで採れた最後のほう」


 相馬先輩が一本持ち上げました。


「いい大根だな」


「先輩、差し入れ評価が食べ物だと急に具体的ですね」


「大根は食える」


「花も鑑賞できます」


「腹には入らん」


 房江さんが笑います。


「先生たちで一本ずつ」


「ありがとうございます」


 私は二本を並べました。


「今回は所長が先に選ぶんですか」


「何の話だ」


 奥から片桐所長。


「前回、大根一本持って帰ったじゃないですか」


「鍋にした」


「食べた報告まで!」


「うまかった」


 思ったより生活感がある。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


 はい。


 行政法の妖怪からです。


「お疲れさまです」


『妖怪を見るような声を出さないでください』


「出してません!」


 勘が鋭い。


『野中さんの件ですが』


「はい」


『現地再確認の結果、計画案の区域設定を一部修正する方向になりました』


「本当ですか」


『まだ案の段階です』


「分かってます」


『野中さんの土地についても、農用地区域から外す方向で検討しています』


 私は受話器を握り直しました。


「……よかった」


『ただし』


「はいはい、工場が建つとは限らない」


『理解が早いですね』


「鍛えられました」


『農地関係の別の手続は別問題です』


「本人にも説明します」


 一度、会話が途切れました。


 私は言いました。


「課長」


『何でしょう』


「今回、最初に窓口で『行政不服審査法では不服申立てできません』って説明したじゃないですか」


『ええ』


「やっぱり、あれ怖いですよ」


『何がです』


「そこで帰ったら終わりだと思う人、いますよ」


 少し沈黙。


『でしょうね』


「認めるんですか」


『制度を知っている側と知らない側では、同じ説明でも受け取り方が違います』


「じゃあ今度から」


『農政課には、特別の異議手続まで一続きで説明するよう伝えました』


 私は目を瞬きました。


「……仕事早いですね」


『役所ですから』


「二回目」


『では』


「課長」


『まだ何か』


「一般の不服申立てがないからって、救済までないわけじゃないんですね」


『当たり前でしょう』


「言い方!」


『朝比奈さん』


「はい」


『法律が一般の手続を外すときには、その問題に合った別の手続を置いている場合があります』


「はい」


『だから条文は最後まで読んでください』


「先生みたいに言わないでください」


『受験生みたいな間違いをするからです』


「ぐっ」


 切られました。


 悔しい。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「野中さんの土地、区域から外す方向で再検討だそうです」


 房江さんが両手を膝の上で握りました。


「ほんとに?」


「まだ最終決定ではありません」


「それでいいです」


 また。


 この言葉です。


 それでいい。


 完全勝利ではない。


 許可が出たわけでもない。


 工場が建つ保証もない。


 でも。


 決める前に、


 自分の土地について話を聞いてもらえた。


 市が現場を見直した。


 判断の前提まで点検した。


 それで一歩進んだ。


 法律が冷たいから、


 「かわいそうだから」


 では動きません。


 でも。


 冷たいからこそ、


 誰の土地でも同じように、


 決められた入口から、


 決められた理由を示して、


 判断を求められる。


 感情の強い人だけが勝つ仕組みではない。


 声の大きい人だけが役所を動かすわけでもない。


 そこは。


 私は少し好きになってきました。


「今日の教訓」


 私は大根を一本持ち上げました。


「正面玄関に『閉鎖』って書いてあっても、裏口を探す」


 相馬先輩が眉をしかめます。


「泥棒みたいに言うな」


「じゃあ」


 考え直す。


「一般の不服申立てが使えなくても、個別法の専用ルートを確認する」


「最初からそう言え」


「味気ないですよ」


「法律だぞ」


 片桐所長が大根を一本取ります。


「あ」


「これはもらう」


「また所長が先なんですか」


「不服か」


「あります」


「申立先は?」


 私は一瞬考えます。


「……今回は一般ルートじゃなくて、大根配分特別法です」


 相馬先輩が吹き出しました。


「何だそれ」


「個別法です」


「誰が作った」


「今です」


 所長が大根を抱えたまま言いました。


「却下」


「まだ申立ててません!」


「適用除外だ」


「じゃあ特別の不服申立て制度を設けてください!」


「ない」


「救済なし!?」


 房江さん親子が笑っています。


 窓の外では、秋の風が駅のほうから吹いてきました。


 行政不服審査法で争えない。


 その一文は、


 終点ではないことがあります。


 一般の道を閉じたあとに、


 その問題の形に合わせた、


 別の細い道が残されている。


 法律は、ときどき不親切です。


 でも。


 不親切な地図でも、


 道そのものまで消えているとは限りません。


 私は机の上に残った一本の大根を見ました。


「これ、私がもらっていいんですよね」


「駄目だ」


 相馬先輩が言いました。


「何でですか」


「俺のだ」


「所有権争いが始まった!」


「行政法じゃねえぞ」


「じゃあ所長!」


「民事は知らん」


「逃げた!」


 特別の不服申立て制度より先に。


 片桐行政書士事務所には、


 大根一本の紛争解決制度が必要なようでした。

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