↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
123/284

[行政不服審査法5条・再調査の請求]現場編 「まず同じ役所に再調査してもらえばいい」の罠。未来の救済制度と昭和の異議申立てを切り分け、使える道だけを選び直す

挿絵(By みてみん)

 一度決めた役所に、


 「もう一度ちゃんと調べてください」


 と言う。


 言葉だけ聞けば、とても単純です。


 ところが法律になると、


 その「もう一度」にまで名前と条件がつきます。


 しかも。


 時代が変わると、その名前まで変わる。


 行政法。


 人を救う前に、まず受験生を迷子にする気でしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は一枚の写真を見つめていました。


「先輩」


「何だ」


「これ、どう見えます?」


「犬」


「そこじゃないです」


 写真には、


 小さなクリーニング店。


 その店先。


 そして入り口脇に置かれた、


 木製の看板。


 看板の横では、


 柴犬らしき犬がこちらを見ています。


「犬かわいいですね」


「仕事しろ」


「してます」


「犬見てただろ」


「資料確認です」


「犬が何の資料なんだ」


 そこは私にも分かりません。


 向かいの椅子に座っているのは、


 藤井春江さん。


 五十八歳。


 駅から少し離れた古い商店街で、


 「藤井クリーニング店」を営んでいます。


 ご主人を亡くしてから十二年。


 一人娘は嫁いだ。


 今は春江さん一人で、


 受け付けとアイロン仕事を続けているそうです。


 写真に写る看板には、


 大きく、


 ――しみ抜き承ります。


 とあります。


「この看板が?」


 私が聞きました。


「撤去しろって」


「市から?」


「はい」


 春江さんが鞄から封筒を出しました。


 中には通知書。


 ――道路占用許可更新申請を不許可とする。


 処分庁は市長。


 理由。


 ――駅前周辺環境整備方針に適合しないため。


 私は通知を見て、


 写真を見て、


 もう一度通知を見ました。


「駅前?」


「うち、駅から十分以上歩きます」


「ですよね」


「商店街の名前に『駅前』って入ってるだけで」


 あります。


 地方都市あるあるです。


 駅から結構離れているのに、


 駅前商店街。


 駅前通り。


 駅前旅館。


 駅前の概念が、


 都市計画よりだいぶ広い。


「看板はずっとここに?」


「二十一年です」


「毎年許可を?」


「はい」


「今年初めて不許可?」


「そうなんです」


 問題は、


 看板そのものより、


 その後でした。


「役所へ行ったんです」


「何て言われました?」


「商店街の景観を統一するから、今後は立て看板を減らすって」


「他のお店も?」


 春江さんは首を振りました。


「隣の靴屋さんは、そのままなんです」


 はい。


 また来ました。


 同じように見えるのに、


 一人だけ違う。


 行政法が眠気覚ましになる瞬間です。


「靴屋さんの看板も道路に?」


「たぶん同じくらい出てます」


「新しい許可は?」


「今年も出たって」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「理由聞いたか」


「聞きました」


「何て?」


「『総合的に判断しています』って」


 便利。


 役所の言葉として、


 非常に便利です。


 総合的。


 適切に。


 必要に応じて。


 諸般の事情。


 文章は立派なのに、


 具体的なことが何一つ増えない四天王です。


「それで」


 春江さんが言いました。


「昨日、もう一回行ったんです」


「はい」


「怒るつもりじゃなかったんです」


「分かります」


「ただ、もう一度調べてもらえませんかって」


「そう言ったんですね」


「はい」


 春江さんは通知書を見ました。


「そしたら」


 少し声が小さくなります。


「『処分はもう出ていますので、同じことを何度言われても変わりません』って」


 その言葉。


 何度聞いても、


 腹の奥に小さな石が落ちます。


 処分は出ています。


 決定済みです。


 もう変わりません。


 役所側からすれば、


 毎日同じ人の話を何度も聞くわけにもいかない。


 それは分かる。


 でも。


 だからこそ。


 正式に、


 「もう一度見直してください」


 と求める制度がある。


 私は通知書の裏を見ました。


 教示。


 不服がある場合。


 処分庁に対して異議申立てをすることができる旨。


 期間。


 六十日。


「届いたのは?」


「十二日前です」


 よし。


 期間はまだある。


 私は少し肩の力を抜きました。


 そして。


 その瞬間。


 頭の中に、


 未来の行政不服審査法が割り込んできました。


 ――再調査の請求。


 処分庁に、


 もう一度調べてください、


 と求める制度。


「……あ」


「何だ」


 相馬先輩が私を見る。


「今、ものすごく似たものが頭に浮かびました」


「何が」


「未来の制度です」


「捨てろ」


「まだ何も言ってません!」


「どうせ今使えねえんだろ」


「……使えません」


「じゃあ捨てろ」


 ひどい。


 正しい。


 だから余計にひどい。


 現代の行政不服審査法には、


 再調査の請求という制度があります。


 処分した行政庁自身に、


 もう一度調べ直してもらう。


 言葉だけ聞けば、


 いま春江さんが求めていることにぴったりです。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 そんな名前の一般的制度を、


 未来から勝手に持ち込むわけにはいきません。


 この時代には、


 異議申立て。


 審査請求。


 そして一定の場合の再審査請求。


 別の仕組みで動いています。


 私は額を押さえました。


 似ている。


 似ているから危ない。


 行政法で一番事故が起きるタイプです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「未来の名前は忘れろ」


「はい」


「今、何ができる」


 私は通知を見ました。


「処分庁は市長です」


「上級行政庁は」


「ありません」


「なら」


「旧法上は、処分庁への異議申立て」


「そうだ」


 短い。


 実に短い。


 未来の制度が頭の中で騒いでいたのに、


 昭和の所長は四往復で片付けました。


「春江さん」


 私は言いました。


「もう一度見直してもらう道はあります」


 春江さんが顔を上げました。


「本当ですか」


「はい」


「さっきは『変わりません』って」


「窓口でお願いするのと、正式に不服を申し立てるのは別なんです」


「別?」


「はい」


 お願い。


 陳情。


 もう一回考えてください。


 そう頼むことと。


 法律上の手続として、


 この処分には不服があります。


 見直してください。


 と申し立てること。


 見た目は似ていても、


 同じではありません。


「じゃあ」


 春江さんが聞きました。


「それを出せば、市役所とは別のところが見てくれるんですか」


 私は止まりました。


「……今回は」


「はい」


「市長に対する異議申立てです」


「同じ市長さん?」


「同じ処分庁です」


 春江さんの顔に、


 ものすごく正直な疑問が浮かびました。


「それ、意味あるんですか?」


 ですよね。


 私も最初、


 そう思いました。


 答案を採点した先生に、


 「もう一回その答案見てください」


 と返す。


 少し不安です。


「あります」


 片桐所長が答えました。


 春江さんが所長を見る。


「自分の判断でも」


 所長は言いました。


「正式に見直させる意味はある」


「でも、同じ人なんでしょう?」


「市長本人が最初から最後まで一枚ずつ見ているわけじゃない」


 相馬先輩が口を挟みます。


「担当課が作って、内部で決裁して処分が出る。異議申立てになりゃ、処分の根拠も記録も、もう一度表に出る」


「表に?」


「『担当がそう言ったから』では済まなくなるってことだ」


 なるほど。


 先輩。


 今日は翻訳が上手です。


 私の仕事を取らないでください。


「じゃあ」


 春江さんが少し考えました。


「その異議申立てをして、それでも駄目だったら」


「はい」


「県に持っていけます?」


 来ました。


 私は思わず息を止めました。


 未来の私が、


 また立ち上がります。


 再調査の請求。


 そのあと審査請求。


 原則として再調査の決定を経てから。


 三か月たっても決まらなければ例外的に先へ。


 正当な理由があれば先へ。


 そして、その場合は――


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「今だぞ」


「何がです」


「また未来に行きかけてるぞ」


「顔に出ます?」


「ものすごく」


 危ない。


 現代の「再調査の請求をした後の審査請求」という仕組みを、


 そのまま重ねるところでした。


「今回は」


 片桐所長が答えました。


「一般的に、異議申立ての次は必ず県への審査請求、とはならない」


「そうなんですか」


「制度は処分ごとに確認する」


「……ややこしいですね」


「はい」


 私と春江さんの声が揃いました。


 相馬先輩が呆れます。


「見習いまで一緒になってどうする」


「いや、ややこしいものはややこしいですよ」


 私はノートを引き寄せました。


 ここで、


 未来の制度と昭和の制度を、


 似た言葉だからという理由で重ねると危険です。


 未来の再調査の請求は、


 単に、


 「処分庁に一回見直してもらいたい」


 と思えば自由に選べる制度ではない。


 法律に、


 再調査の請求ができる。


 と定めがある場合に限る。


 しかも、


 審査請求を先にしたあとで、


 やっぱり再調査に戻ります、


 とはできない。


 そして再調査を選んだなら、


 原則としてその決定を待ってから次へ進む。


 ただし、


 いつまでも待たされ続けるわけでもない。


 未来ではそこにも逃げ道が用意されている。


 ――でも。


 今それを講義する場面ではありません。


 昭和六十三年の春江さんに必要なのは、


 昭和六十三年に使える制度です。


「まず」


 片桐所長が言いました。


「現場を見る」


「はい」


 相馬先輩が立ち上がります。


「市役所の前に商店街だ」


「市役所じゃないんですか」


「比較するんだろ」


「あ」


 隣の靴屋。


 他の立て看板。


 距離。


 道路への出幅。


 形。


 更新状況。


「紙だけ見て『不公平です』って言っても弱い」


「そういうことだ」


 現場。


 行政法の教科書には載っていない、


 でも実務では一番先に見るページです。


 商店街。


 午前十一時。


 アーケードの屋根は古く、


 ところどころ陽が差しています。


 八百屋。


 時計店。


 文具店。


 クリーニング店。


 そして問題の看板。


「幅四十五センチくらいですね」


 私は巻尺を当てました。


「出幅は?」


「道路端から三十八」


 相馬先輩が答えます。


「隣」


 靴屋の看板。


 幅六十センチ。


 出幅四十四センチ。


「……こっちのほうが大きい」


「ああ」


「道路への出方も」


「ああ」


「デザインは?」


「見りゃ分かる」


 赤。


 黄色。


 大きな靴の絵。


 景観統一という言葉から、


 かなり自由です。


「先輩」


「何だ」


「これで春江さんの看板だけ『景観方針に合わない』って言われても」


「理由は聞く価値あるな」


 さらに三軒先。


 薬局の立て看板。


 更新済み。


 向かいの写真店。


 更新済み。


 ただし。


 全部が同じ条件ではありません。


 場所も違う。


 設置時期も違う。


 道路幅も少し違う。


 ここで、


 全部一緒だ!


 差別だ!


 と決めつけるのは早い。


「行政法って」


 私は呟きました。


「気持ちよく怒ろうとすると止めてきますね」


「仕事だからな」


「先輩、夢がない」


「夢で処分はひっくり返らん」


 正論。


 今日二回目。


 市役所。


 都市整備課。


 総務課から呼ばれてきた沢渡課長は、


 私たちの顔を見るなり眼鏡を少し上げました。


「今週三回目ですか」


「数えてるんですか」


「こちらも業務ですから」


「スタンプカード作ります?」


「満了しても何も出ません」


「役所らしい」


 相馬先輩が通知を机へ置きました。


「藤井春江さん。道路占用の更新不許可」


「ああ」


 沢渡課長はすぐ分かりました。


「駅前商店街の件ですね」


「理由聞きに来た」


「通知にあります」


「駅前周辺環境整備方針に適合しないため」


「はい」


「具体的に」


 沢渡課長は少し間を置きました。


「今後、駅前から旧商店街までの歩行空間を整理します。立て看板についても順次縮小していく方針です」


「順次」


 私が聞き返します。


「ええ」


「藤井さんが最初?」


「必ずしも最初ではありません」


「隣の靴屋は更新されてます」


「確認しています」


「薬局も」


「はい」


「写真店も」


「はい」


「藤井さんだけ何が違うんです?」


「個別に判断しています」


「だから、その個別事情を聞いてます」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「少し言い方が上手くなりましたね」


「そこ評価するところですか」


 でも。


 沢渡課長は答えました。


「藤井さんの店舗前は、将来の歩道拡幅予定区間に含まれています」


「いつ拡幅するんです?」


「時期は未定です」


「未定」


「はい」


「工事設計は?」


「まだです」


「用地確保は?」


「進行中です」


「その看板、今あると何か工事に支障が?」


「現時点ではありません」


 相馬先輩の眉が動きます。


「じゃあ何で今年から駄目なんだ」


「事前に整理を進めています」


「何年前から?」


「今年度からです」


「何で藤井さんだけ先なんだ」


「ですから個別判断です」


「その中身を聞いてる」


 会話が一周しました。


 役所のメリーゴーラウンドです。


 私は資料を一枚出しました。


 商店街で測った一覧。


 看板の幅。


 道路への出幅。


 位置。


 更新の有無。


「課長」


「何でしょう」


「これ、現場で測ってきました」


「行かれたんですか」


「はい」


「暇ですね」


「仕事です!」


 地味に腹が立つ。


「藤井さんの看板より大きく道路へ出ているものが、少なくとも三つあります」


「それぞれ条件が違います」


「分かっています」


「なら」


「だから条件を教えてください」


 沢渡課長が黙りました。


「藤井さんだけ先に更新不許可にした具体的な判断基準」


「……」


「歩道拡幅予定だから?」


「それも一つです」


「工事時期未定なのに?」


「将来計画があります」


「他の看板との違いは?」


 沈黙。


 私は息を吸いました。


「分からないなら」


「何です」


「異議申立てで確認します」


 沢渡課長の目が、


 ほんの少しだけ変わりました。


「されますか」


「必要なら」


「処分庁は市長です」


「はい」


「上級行政庁はない」


「はい」


「この時代なら」


「市長に異議申立て」


 言えた。


 未来を持ち込まずに言えました。


 ちょっと嬉しい。


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「顔に出すな」


「何がです」


「正解した受験生みたいな顔」


「してません」


 たぶんしていました。


 沢渡課長が椅子に背を預けます。


「申立てをしても、必ず処分が変わるわけではありません」


「分かっています」


「同じ処分庁が判断します」


「それも」


「では?」


「窓口で『もう決まっています』と言われるのと、正式に異議申立てをして処分の妥当性を判断し直してもらうのは違います」


 沢渡課長は何も言いません。


「そのときには」


 私は一覧表を指しました。


「なぜ藤井さんだけ先なのか。将来計画だけで今すぐ不許可にする必要があるのか。他の看板との違いは何なのか。そこを記録に基づいて確認してもらいます」


「感情論ではなく?」


「感情論ではなく」


「二十一年営業してかわいそうだからでもなく?」


「違います」


「商店街のおばちゃんをいじめるな、でもなく?」


「誰がおばちゃんですか」


 春江さんが後ろから言いました。


 全員が止まりました。


「沢渡さん」


「……失礼しました」


「まだ五十八です」


「申し訳ありません」


 強い。


 今日一番沢渡課長を動かしたの、


 行政法じゃありませんでした。


「でも」


 春江さんが続けました。


「私は、看板を永遠に置かせろって言ってるんじゃないんです」


 部屋が静かになります。


「工事が始まるなら、どかします」


「はい」


「道が狭くなって危ないなら、それも分かります」


「はい」


「でも」


 春江さんは写真を机に置きました。


「今までずっと許可されてて。今年急に、私だけ駄目って言われて。理由を聞いても『総合的に』って」


 沢渡課長は聞いています。


「それじゃ、何を直せばいいのかも分からないんです」


 そう。


 そこです。


 不服申立ては、


 単に結果をひっくり返すためだけではない。


 自分がなぜ駄目だったのか。


 何が判断されたのか。


 それを、


 制度の上で表に出させる意味がある。


 片桐所長が初めて口を開きました。


「課長」


「はい」


「処分記録を確認してくれ」


「異議申立ての前に?」


「今なら役所で直せる」


 沢渡課長が所長を見る。


「処分を撤回しろ、と?」


「言っていない」


「では」


「根拠を確認しろ、と言っている」


 短い。


「異議申立てを出してから調べてもいい。今調べてもいい」


「……」


「どちらにしても、調べることになる」


 沢渡課長は数秒黙りました。


 そして。


「分かりました」


 言いました。


「担当課の決裁記録を確認します」


 相馬先輩が私を見る。


 私は何も言わず、


 小さく頷きました。


 まだ勝っていません。


 でも。


 さっきまで、


 「もう処分は出ています」


 だった。


 それが。


 「記録を確認します」


 に変わった。


 この差は大きい。


 三日後。


 片桐事務所に、


 沢渡課長から電話がありました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「お疲れさまです」


『藤井さんの件』


「はい」


『確認しました』


 私は受話器を握り直しました。


「どうでした?」


『歩道拡幅予定区間に入っているのは事実です』


「はい」


『ただ』


 来た。


『今年度から一律に更新を認めないという基準までは決まっていませんでした』


「……はい」


『担当課が、将来の撤去対象になる可能性が高い店舗から先に更新を止めていました』


「その選び方は?」


『担当者判断です』


 私は目を閉じました。


 総合的判断。


 個別判断。


 その中身。


 担当者判断。


 行政法のロシア人形みたいです。


「統一基準は?」


『ありません』


「他店との比較記録は?」


『ありません』


「なるほど」


『朝比奈さん』


「はい」


『嬉しそうに言わないでください』


「嬉しくないです」


 ちょっとだけ嬉しい。


 論点が見えたから。


『結果として』


 沢渡課長が続けました。


『藤井さんの更新不許可については、いったん取り消して再検討することになりました』


「え」


『今回は一年更新します』


「一年?」


『ただし、今後、道路整備の具体化に伴って、立て看板全体の取扱基準を作る予定です』


「藤井さんだけじゃなく?」


『商店街全体です』


「基準を?」


『ええ』


 一瞬、


 何も言えませんでした。


「課長」


『何でしょう』


「異議申立て、まだ出してませんよ」


『知っています』


「じゃあ」


『出されてから負けるより、その前に直したほうが早いでしょう』


 この人。


 本当に合理主義です。


「なるほど」


『今回は』


 少し間。


『こちらの負けですね』


「まだ何も戦ってません」


『記録を見れば分かります』


「潔いなあ」


『では』


 電話が切れました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「一年更新」


「お」


「処分はいったん取り消して再検討」


「理由は?」


「統一基準がなかったそうです」


「だろうな」


「商店街全体の基準も作るって」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「そうか」


「異議申立て、出さずに済みました」


「それでいい」


「いいんですか?」


「不服申立ては、出すのが目的じゃない」


 私は止まりました。


「処分が直るなら」


 所長は言いました。


「それでいい」


 なるほど。


 法律を知っていると、


 つい制度を使いたくなります。


 異議申立書を作る。


 審査請求をする。


 条文を並べる。


 論点を書く。


 でも。


 相談者が欲しいのは、


 行政法の答案ではありません。


 困りごとが一歩動くことです。


 その日の午後。


 春江さんが事務所へ来ました。


「一年、いいって?」


「はい」


「本当に?」


「本当に」


「看板、置いていいの?」


「一年間は」


 春江さんは、


 しばらく黙っていました。


「よかった」


 それだけでした。


 大声も出ない。


 泣きもしない。


 でも。


 その「よかった」が、


 思ったより深かった。


「来年は?」


「その頃には商店街全体の基準を作るそうです」


「じゃあ、私だけ急に駄目ってことには?」


「少なくとも、今回みたいな決め方はしにくくなると思います」


「そう」


 春江さんは笑いました。


「それならいいです」


「看板、大事なんですね」


 私が聞くと、


 春江さんは少し照れた顔をしました。


「あれね」


「はい」


「主人が作ったんです」


「あ」


「店を改装したときに」


 写真の木製看板。


 しみ抜き承ります。


 手書きの文字。


 二十一年。


「だからって」


 春江さんはすぐ続けました。


「法律的に特別扱いしろって話じゃないですよ」


「分かってます」


「道の邪魔なら、いつかは片付けます」


「はい」


「ただ」


 春江さんは写真を撫でました。


「理由くらい、ちゃんと聞きたかった」


 それだけだったのです。


 永遠に守れ。


 道路整備をやめろ。


 自分だけ特別にしろ。


 ではない。


 なぜ自分だけなのか。


 いつまでなのか。


 何を基準に決めたのか。


 それを知りたい。


 制度は、


 こういう小さな問いのためにもあります。


「これ」


 春江さんが紙袋を机に置きました。


「差し入れです」


 相馬先輩が顔を上げました。


「食い物か」


「先輩、それしかないんですか」


「クッキー」


「よし」


「即答」


 春江さんが笑います。


「店のお客さんが焼いたの。缶でもらったから」


 袋を開く。


 丸いクッキー。


 少し形が不揃いです。


「犬の分は?」


 私は聞きました。


「ポチ?」


「写真に写ってた柴犬」


「あの子は靴屋さんの犬です」


「藤井さんの犬じゃなかったんですか!」


「何でうちの犬だと思ったの」


 最初の資料確認、


 完全に無意味でした。


 相馬先輩が吹き出します。


「仕事しろ」


「してました!」


「犬見てただけだろ」


「事件の全体像を!」


「犬は全体像に入らねえ」


 片桐所長がクッキーを一つ取りました。


「所長、甘いもの食べるんですね」


「悪いか」


「いえ」


「こはる」


「はい」


「今日の教訓」


 来ました。


 私は少し考えました。


 未来の再調査の請求。


 昭和の異議申立て。


 どちらも、


 処分庁にもう一度見直しを求めるように見える。


 でも。


 同じではありません。


 時代が違う。


 要件が違う。


 その後の手続も違う。


 似た名前や似た機能だけで、


 勝手に重ねてはいけない。


 そして。


 何より。


「『もう一回見てください』にも、使える制度と使えない制度がある」


 私は言いました。


 所長が頷きます。


「そうだ」


「まず時代と、処分庁と、使える不服申立てを確認する」


「うん」


「未来の便利そうな制度を勝手に持ってこない」


 相馬先輩が笑いました。


「それ、お前だけの教訓じゃねえか」


「大事なんです!」


 現代なら。


 再調査の請求という制度がある。


 でも。


 いつでも自由に使えるわけではない。


 法律が特に認めた場合だけ。


 しかも、


 審査請求との順番にもルールがある。


 一方。


 昭和六十三年には、


 別の制度として異議申立てがある。


 似ています。


 本当に似ています。


 だから。


 混ぜると危ない。


 昨夜までなら、


 旧法の異議申立て。


 現行法の再調査の請求。


 そんなものは、


 比較表の左右に並んだ眠い単語でした。


 でも今日。


 春江さんが、


 「もう一度調べてもらえませんか」


 と言った瞬間。


 二つの制度が、


 全然違う顔をして見えました。


 法律は冷たい。


 あなたが困っているから、


 では動かない。


 もう一度見てほしいから、


 という気持ちだけでも動かない。


 この制度が使えるか。


 誰に出すか。


 どういう順番か。


 期限はどうか。


 一つずつ条件を確認する。


 面倒です。


 でも。


 その冷たさがあるから、


 窓口で、


 「もう決まっています」


 と言われた人にも、


 正式に見直しを求める道が残る。


 曖昧なお願いではなく。


 声の大きさでもなく。


 担当者の親切心でもなく。


 制度として。


 そこが、


 法律の冷たさの、


 たぶん一番優しいところです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「何です?」


「そのクッキー」


「はい」


「最後の一枚」


 見る。


 本当に一枚。


「半分ずつにしましょう」


「嫌だ」


「公平に」


「先に取った者勝ちだ」


「行政の適正な運営は?」


「ここは役所じゃねえ」


「異議があります」


「誰に申し立てる」


 私は片桐所長を見ました。


「所長」


「却下」


「まだ何も言ってない!」


「簡易迅速だ」


「またそれ!」


 相馬先輩が最後のクッキーを取ります。


「あっ!」


「審査請求するか?」


「上級行政庁は誰ですか!」


「いねえな」


「じゃあ異議申立て!」


「俺に?」


「返してください!」


「棄却」


「処分庁本人が即決しないでください!」


 春江さんが声を立てて笑いました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら、


 「もう一度考えてください」


 という願いは、


 法律の世界でも、


 おやつの世界でも、


 正しい制度を選ぶところから始まるようです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。