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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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121/274

[行政不服審査法4条・審査請求先]現場編 「県庁に出せば、どこかには届くでしょう」の罠。処分した役所と争う相手を切り分け、六十日の時計を止める申立先の見つけ方

挿絵(By みてみん)

 役所と争うとき、一番怖いのは、負けることではありません。


 戦う場所を間違えることです。


 言い分は合っている。


 証拠もある。


 期限にも間に合った。


 それなのに。


 ――提出先が違います。


 そんな理由で入口にすら立てないのだとしたら。


 法律という迷路は、かなり性格が悪いと思います。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その朝、私は封筒を一枚、光に透かしていました。


「何してる」


 相馬先輩が言いました。


「透かしがあるかと思って」


「札じゃねえぞ」


「じゃあ、裏に正解が書いてないかなと」


「試験問題でもねえ」


 ですよね。


 分かっています。


 でも、そうしたくなるくらい、その紙はややこしかったのです。


 机の向かいには、四十代半ばの男性が座っていました。


 名前は、


 西村達夫さん。


 市の外れで、小さな木工所を営んでいます。


 父親の代から続く工場。


 従業員は本人を含めて四人。


 家具屋から頼まれた棚板を切ったり、


 建具の枠を作ったり、


 たまに商店街の看板の土台を削ったり。


 町工場という言葉を、そのまま木で作ったような仕事場です。


 その西村さんが持ってきたのは、


 県の東部生活環境事務所長名で出された一枚の通知でした。


 ――木材乾燥設備設置許可申請について、不許可とする。


「乾燥設備って?」


 私が聞くと、西村さんは両手を膝に置きました。


「木を乾かす窯です」


「窯」


「はい。今までは自然乾燥でやってたんですけど、大きな仕事をもらえそうでして」


「設備を入れれば受けられる?」


「そうです」


 家具メーカーから、まとまった注文の話が来ている。


 ただし条件が一つ。


 納期。


 自然乾燥では間に合わない。


 だから銀行から金を借りて、小型の乾燥設備を導入することにした。


 機械はもう発注寸前。


 取引先には、


 「許可が取れたら始めます」


 と答えてある。


「それが不許可」


「はい」


「理由は?」


「これです」


 西村さんが通知の一か所を指しました。


 ――周辺生活環境への影響を考慮したため。


 私は黙りました。


 相馬先輩も黙りました。


「……便利ですね」


「何がだ」


「『影響を考慮したため』」


「便利だな」


「何をどう考慮したのか、一文字も分からない」


「そこは役所に聞いたんです」


 西村さんが言いました。


「何て?」


「近くに住宅があるからって」


「工場はいつからそこに?」


「親父の代からだから、三十年以上です」


「設備を入れる場所は?」


「工場の奥です。音も外へ出にくいようにするつもりでした」


「排気は?」


「業者に対策してもらってます」


「図面は出しました?」


「全部」


 そこまで聞いて、片桐所長が通知を手に取りました。


「不許可になったのはいつです」


「届いたのが五十二日前です」


 私は顔を上げました。


「五十二日?」


「はい」


「今日で?」


「たぶん」


 頭の中で何かが鳴りました。


 警報。


 かなり大きめの。


「先輩」


「分かってる」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


 昭和六十三年。


 旧行政不服審査法。


 不服申立期間。


 原則六十日。


 つまり。


 あと八日。


「どうして今まで?」


 責める言い方にならないよう、私は聞きました。


 西村さんは少し俯きました。


「県と喧嘩したくなかったんです」


 その一言で、責める気持ちは完全に消えました。


「最初は担当の人にお願いしてました」


「はい」


「もう一回見てもらえませんかって」


「はい」


「図面を直します。防音も追加します。何なら煙突の位置も変えますって」


「それで?」


「『処分は出ていますから』って」


 また出た。


 役所の鋼鉄フレーズ。


 処分は出ていますから。


 決定済みですから。


 もう決まりましたから。


 日本語としては柔らかいのに、


 扉を閉める力だけは金庫並みです。


「それでも何度か行ったんです」


「県の生活環境事務所へ?」


「はい。でも昨日、担当の人に言われました」


 西村さんは通知書とは別の紙を取り出しました。


 メモです。


 鉛筆で走り書きしてあります。


 県庁に不服申立てをするなら、そちらで聞いてください。


「県庁に?」


「はい」


「誰宛てです?」


「それが分からなくて」


「聞かなかったんですか」


「聞きました」


「何て?」


「『総務のほうじゃないですか』って」


 私は額を押さえました。


 総務のほう。


 すごい。


 行政法で最も信用してはいけない方角です。


 北。


 南。


 東。


 西。


 総務のほう。


「それで県庁へ電話したら」


「はい」


「今度は『処分した事務所へお問い合わせください』って」


「戻された」


「はい」


 見事な往復運動です。


 西村さんが役所の卓球球になっています。


「私、こういうことに慣れてなくて」


 西村さんが言いました。


「県庁なら県庁でいいんでしょうか」


 私はすぐには答えられませんでした。


 なぜなら。


 頭の中にいる現代の私が、


 盛大に邪魔をしてきたからです。


 行政不服審査法第四条。


 審査請求先。


 処分庁等に上級行政庁がない場合。


 当該処分庁等。


 上級行政庁がある場合。


 原則、最上級行政庁。


 主任大臣。


 外局の長。


 例外。


 ――待った。


 私はペンを止めました。


 違う。


 ここは昭和六十三年です。


 それ、


 未来の条文です。


「どうした」


 相馬先輩が言いました。


「頭の中で平成が暴れています」


「追い出せ」


「簡単に言わないでください」


 危ない。


 現代の第四条の整理を、そのまま昭和に持ち込むところでした。


 現代なら、


 誰に審査請求するか。


 上級行政庁があるのか。


 最上級行政庁はどこか。


 そこを第四条で整理する。


 でも。


 旧法は同じ仕組みではありません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「まず何を見る」


「処分庁です」


「そうだ」


 私は通知を見直しました。


 処分庁。


 県東部生活環境事務所長。


 市役所ではない。


 県知事名でもない。


 県の出先機関の長。


「次は?」


「この処分庁に、上級行政庁があるか」


「うん」


 そこで。


 頭の中の霧が少し晴れました。


 誰に不服を申し立てるか。


 その前に、


 誰が処分したのか。


 そこを見なければならない。


 当たり前です。


 でも当たり前すぎて、


 通知に『県』と書いてあれば、


 人は全部まとめて『県庁』だと思ってしまいます。


「西村さん」


「はい」


「昨日まで話していた担当者は、この東部生活環境事務所の職員ですよね」


「はい」


「県庁本庁ではなく」


「そうです」


「不許可を決めた名義も、知事ではなく事務所長」


「はい」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「県庁行くぞ」


「やっぱり県庁なんですね」


「まだ決めてねえ」


「え?」


 西村さんが不安そうな顔になります。


 相馬先輩は上着を取って言いました。


「だから調べに行くんだよ」


 県庁。


 旧い庁舎の長い廊下を歩きながら、私は何度も頭の中を整理しました。


 処分庁。


 上級行政庁。


 審査請求。


 異議申立て。


 直近上級行政庁。


 そして現代法の、


 最上級行政庁。


「先輩」


「何だ」


「似た単語なのに、全然違いますね」


「何が」


「直近と最上級」


「近所と頂上くらい違うだろ」


「雑だけど分かりやすい」


 旧法では、


 審査請求は基本的に、


 処分庁以外の行政庁へする不服申立てです。


 そして処分庁に上級行政庁がある場合、


 原則として、


 その直近上級行政庁が審査庁になる。


 現代法の、


 上級行政庁があるなら最上級行政庁へ、


 という整理とは違う。


 私は受験時代の知識を頭の中で引っ張り直しました。


 新旧を混ぜるな。


 新旧を混ぜるな。


 未来人の行政法事故原因、たぶん第一位です。


 県庁の生活環境部。


 応対に出てきた職員に事情を説明すると、


 数分後。


 奥から見覚えのある灰色の背広が現れました。


「またですか」


「またですね」


 沢渡課長でした。


「課長、ここにいたんですか」


「総務から法務関係の打合せに来ています」


「便利ですね」


「何がです」


「どこへ行ってもいる」


「妖怪みたいに言わないでください」


 行動範囲が広い。


「西村木工所の件だ」


 片桐所長が通知を出しました。


 沢渡課長が眼鏡を上げます。


「ああ。乾燥設備の不許可」


「知ってるんですか」


「相談が回ってきています」


「なら早い」


 相馬先輩が言いました。


「誰に不服を出す」


 沢渡課長は通知を見ました。


「東部生活環境事務所長の処分ですね」


「そうだ」


「県の内部規程と根拠条例を確認しないと断定はできません」


 私は少し身を乗り出しました。


「ですよね」


 沢渡課長がこちらを見る。


「何か嬉しそうですね」


「行政法で『誰に出すか』を即答しない人を見ると安心するんです」


「妙な安心の仕方をしますね」


「だって、そこが今日の地雷なので」


 沢渡課長は気にせず続けました。


「この事務は知事の権限が事務所長へ委任されています」


「はい」


「事務所長には上級行政庁があります」


「知事ですか」


「この関係では、そう整理します」


 私は一瞬だけ頭の中で確認しました。


 処分庁。


 東部生活環境事務所長。


 その直近上級行政庁。


 知事。


「では」


 私は言いました。


「旧法上、知事に審査請求」


「原則としては」


 沢渡課長が答えました。


 西村さんが口を挟みます。


「じゃあ県庁でよかったんですか」


「半分正解です」


 私が言いました。


「半分?」


「建物として県庁へ来る、という意味では近いです。でも『県庁に出す』だけじゃ足りません」


「どういうことです?」


「誰が審査庁なのかを特定する必要があります」


 県庁というのは建物です。


 行政庁ではありません。


 総務課も建物の一室。


 生活環境部も組織の一部。


 でも不服申立ては、


 「県庁さんへ」


 では済まない。


 処分をした行政庁が誰か。


 その上級行政庁が誰か。


 そして法律や条例に特別の定めがないか。


 そこまで切り分けて、


 ようやく相手が決まります。


「朝比奈さん」


 沢渡課長が言いました。


「少し分かってきましたね」


「少しって何ですか」


「この前までは『行政庁って役所のことでしょ』という顔をしていました」


「そんな顔してません!」


 たぶん。


 していたかもしれません。


 昔の私は、


 行政庁。


 行政主体。


 行政機関。


 行政官庁。


 この辺りを見るだけで、


 教科書を閉じたくなる病気にかかっていました。


 でも。


 西村さんの六十日が減っていると思うと、


 急に話が変わります。


 誰が処分したのか。


 誰が見直すのか。


 それを間違えれば、


 ただの用語問題では済まない。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「教示はどうなっている」


 沢渡課長が通知の裏面を見ました。


 そして。


 止まりました。


「……これは」


 相馬先輩が覗き込みます。


「何だ」


 通知の裏。


 不服申立てについての記載。


 そこには、


 こうありました。


 ――この処分に不服がある場合は、処分庁に対し不服を申し立てることができます。


 私は二度読みました。


 三度目は読まなかった。


 腹が立ったので。


「処分庁に?」


 私は言いました。


「これ」


 沢渡課長は答えません。


「東部生活環境事務所長に出せって読めますよね」


「そうですね」


「でも今、知事への審査請求だと」


「そうですね」


 相馬先輩の声が低くなりました。


「おい、沢渡」


「私が作った書式ではありません」


「逃げるの早えな」


「事実です」


「誰が作った」


「確認します」


 出ました。


 確認します。


 役所語の中では比較的まともな言葉ですが、


 今日は悠長に待てません。


「あと八日です」


 私は言いました。


 沢渡課長がこちらを見ます。


「何が」


「六十日」


 一瞬。


 部屋の空気が変わりました。


「処分を知った日から五十二日経っています」


「到達日は確認しましたか」


「本人申告ですが、封筒の消印と日付は合っています」


「申立期間の計算は慎重にしてください」


「もちろんします。でも少なくとも、のんびり書式改定会議をしている時間はありません」


 沢渡課長は黙りました。


 私は続けました。


「西村さんは、この教示を見て、処分庁にお願いし続けていました」


「正式な異議申立てをしたわけではないでしょう」


「そこです」


 私は通知を指しました。


「本人は制度を知らないんです」


「……」


「だから教示があるんですよね」


 西村さんは法律家ではない。


 審査請求と異議申立ての違いなど知らない。


 直近上級行政庁などという言葉は、


 普通に暮らしていれば一生使わない可能性があります。


 だから処分通知に、


 不服があるなら、


 誰に、


 いつまでに、


 どういう方法で申し立てるのか。


 その道しるべを書く。


 それが間違っていたら。


 入口の標識が逆向きです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「感情で攻めるな」


「はい」


 そうでした。


 怒るのは簡単。


 整理する。


 まず。


 処分庁は誰か。


 東部生活環境事務所長。


 次。


 上級行政庁はあるか。


 ある。


 この件では知事。


 次。


 旧法上の不服申立ては何か。


 処分庁自身への異議申立てではなく、


 上級行政庁への審査請求。


 次。


 申立期間。


 原則六十日。


 残りわずか。


 そして。


 通知の教示。


 申立先を誤解させる記載。


「課長」


 私は言いました。


「今日、審査請求書を提出します」


「まだ内容ができていないでしょう」


「最低限の必要事項を整えます」


「理由は?」


「詳細は補充します」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「お前」


「はい」


「ようやく実務屋みたいな顔になったな」


「褒めてます?」


「期限切らしてから立派な理由書作っても紙くずだ」


「ですよね」


 そう。


 今必要なのは、


 百点満点の美しい主張書面ではありません。


 入口に間に合うこと。


 論点を落とさないこと。


 誰に出すのかを間違えないこと。


「今日出します」


 私がもう一度言うと、


 沢渡課長は短く息を吐きました。


「分かりました」


「受け取ってもらえますね」


「知事宛ての審査請求として、担当へ回します」


「『県庁の総務のほう』じゃなく?」


「そこは忘れてください」


「忘れません」


 沢渡課長の眉間がほんの少し動きました。


「朝比奈さん」


「はい」


「役所の案内が曖昧だった点は認めます」


 お。


「珍しい」


「余計な一言を足さない」


「はい」


「ただし、審査請求先が正しいからといって、西村さんの処分が取り消されるわけではありません」


「分かっています」


「入口と中身は別です」


「それも分かっています」


 私は頷きました。


「今日はまず、入口を閉めさせない」


 沢渡課長がこちらを見ました。


 そして。


 少しだけ口元を緩めました。


「それなら結構です」


 県庁の小さな会議机を借りて、


 私たちは書類を作りました。


 処分。


 木材乾燥設備設置許可申請に対する不許可処分。


 処分庁。


 東部生活環境事務所長。


 処分を知った日。


 審査請求の趣旨。


 不許可処分の取消しを求める。


 理由。


 周辺生活環境への影響について、


 提出済みの防音・排気対策がどのように評価されたか明らかでない。


 近隣状況についても、


 どの範囲、どの基準で判断したのか示されていない。


 詳細な主張と資料は追って整理する。


「これで出すんですか」


 西村さんが不安そうに聞きました。


「出します」


「もっとちゃんと書いたほうが」


「ちゃんと書きます」


「じゃあ」


「でも、ちゃんと書き終わるまで待って、六十日を過ぎたら意味がありません」


 西村さんが黙りました。


「今日まず出します」


「はい」


「そのあと、理由を詰めます」


「はい」


「設備業者さんの騒音資料もください」


「あります」


「周辺住宅との距離が分かる図面も」


「持ってきます」


「工場が昔からそこにあることが分かる資料も」


「探します」


 相馬先輩が言いました。


「取引先の納期も出せ」


「それもですか?」


「処分の違法不当そのものとは別でも、急ぐ理由にはなる」


「分かりました」


 西村さんの顔が、


 ほんの少しだけ仕事をしている人の顔に戻りました。


 さっきまでは、


 処分された人。


 役所に断られた人。


 だったのに。


 今は、


 自分で資料を集めて、


 自分の処分を争う人。


 同じ人なのに。


 道筋が見えるだけで、表情は変わります。


 申立書を提出すると、


 受付の職員が日付印を押しました。


 ゴン。


 たった一回。


 でも私は、


 その音を妙に大きく感じました。


「これで?」


 西村さんが聞きます。


「これで、審査が始まる入口には立てました」


「勝ったんですか」


「全然」


「朝比奈」


 相馬先輩が睨みます。


「言い方」


「でも本当に全然ですよ」


「そこまで正直に言わなくていい」


 私は少し笑いました。


「処分が正しかったかどうかは、これからです。でも」


 受付印を見ます。


「『もう処分は出ましたから』だけで終わる段階ではなくなりました」


 西村さんは、


 しばらくその印を見ていました。


「それで十分です」


 小さく言いました。


「今日のところは」


 その日の夕方。


 事務所へ戻ると、


 相馬先輩が机の上へ一冊の六法を置きました。


「読め」


「何です」


「旧法」


「分かってます」


「本当に?」


「何ですか、その目」


「県庁で一瞬、『最上級行政庁』って顔してたぞ」


「顔で条文読まないでください!」


「未来じゃそうなんだろ」


「……はい」


 悔しい。


 完全に見抜かれています。


 現代法なら。


 原則として審査請求へ一本化。


 そして現行法第四条では、


 処分庁等に上級行政庁がある場合、


 一定の例外を除いて、


 最上級行政庁へ審査請求する仕組みになっています。


 でも昭和六十三年の旧法は違う。


 異議申立てと審査請求が併存。


 審査請求先の基本は、


 処分庁の直近上級行政庁。


「ややこしい……」


 私が呟くと、


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「だから見る順番を決めろ」


「順番」


「誰が処分した」


「処分庁」


「上に誰かいるか」


「上級行政庁」


「いれば」


「旧法では原則、その直近上級行政庁へ審査請求」


「いなければ」


 私は少し考えました。


「処分庁に対する異議申立てを検討する」


「そうだ」


 所長はそれだけ言って、帳簿へ戻りました。


 短い。


 でも。


 頭の中のごちゃごちゃが、


 一気に四段の階段になりました。


 誰がやった。


 上はいるか。


 いるならどこ。


 いないならどうする。


「所長」


「何だ」


「行政法って、結局『誰が何した』なんですね」


「大体そうだ」


「もっと早く教えてくださいよ」


「聞かなかった」


「受験生はそこに気づくまで百ページくらいかかるんです!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「知らねえよ」


 三日後。


 沢渡課長から電話がありました。


「片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「はい」


『西村さんの件ですが』


「もう決まりました?」


『そんなに早く決まりません』


「ですよね」


『ただ』


 沢渡課長の声が少し変わりました。


『教示の書式については、こちらで誤りを確認しました』


「やっぱり」


『東部生活環境事務所で使っていた古いひな型です』


「古い?」


『処分庁自身に申し立てる類型と、上級行政庁へ審査請求する類型を区別せず、一律の文章になっていました』


 私は思わず椅子から身を起こしました。


「ほかの通知も?」


『点検します』


「何件くらい」


『朝比奈さん』


「はい」


『役所には、聞かないほうが幸せな数字もあります』


「怖いこと言わないでください」


『ともかく』


 沢渡課長が続けます。


『書式は直します』


「西村さんの審査請求は?」


『受理されています。処分理由についても担当部局へ説明を求めています』


「分かりました」


『それから』


「はい」


『今回はこちらの負けです』


 私は瞬きをしました。


「まだ審査結果出てませんよ」


『処分の中身の話ではありません』


「あ」


『入口の案内です』


 なるほど。


「そこは?」


『こちらの負けです』


 この人。


 こういうところは本当に潔い。


「珍しいですね」


『切りますよ』


「すみません」


『では』


 電話が切れました。


 私は受話器を置きました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「不服申立ての教示書式、間違ってたそうです」


「直すって?」


「はい」


「西村の件は」


「審査続行」


「そうか」


 片桐所長が奥から言いました。


「それでいい」


 完全勝利ではありません。


 乾燥設備の許可が出たわけでもない。


 取引先が待ってくれる保証もない。


 審査の結果、


 結局不許可が維持される可能性だってある。


 でも。


 少なくとも、


 違う扉の前で六十日を使い切ることは避けられました。


 そして。


 一人が迷ったことで、


 役所の道しるべそのものが直される。


 法律の制度というのは、


 こういうところが少し面白い。


 誰に申し立てるか。


 受験テキストでは、


 表にして覚えるだけでした。


 処分庁等に上級行政庁がある。


 ない。


 原則。


 例外。


 旧法。


 現行法。


 正直、


 眠くなる単元ランキングならかなり上位です。


 でも。


 今日の西村さんにとって、


 申立先は表の一行ではありません。


 仕事を続けられるかもしれない入口でした。


 夕方。


 西村さんが事務所へ来ました。


「これ、皆さんで」


 大きな紙袋。


 相馬先輩が素早く反応します。


「食い物か」


「先輩、学習しませんね」


 中から出てきたのは、


 小さな木製の箱でした。


「何ですか、これ」


「端材で作った書類入れです」


「うわ」


 きれいでした。


 木目が細かい。


 机の上に置くと、


 ちょうど申請書や通知を立てられる幅になっています。


「売り物じゃないですよ」


「いいんですか?」


「皆さん、紙が多い仕事だから」


 西村さんが笑いました。


「紙に助けられることもあるんですね」


 私は一瞬、言葉に詰まりました。


 紙一枚で困る。


 紙一枚で断られる。


 紙一枚で期限が始まる。


 でも。


 紙一枚を正しい相手に出すことで、


 閉じかけた道が開くこともある。


「西村さん」


「はい」


「まだ結果は出てませんからね」


「分かってます」


「設備が入れられるかも」


「分かってます」


「だから」


「朝比奈さん」


 西村さんが笑いました。


「今日すぐ工場を畳まなくていいって分かっただけで、だいぶ違いますよ」


 そういうものなのかもしれません。


 人は、


 必ず勝てると言われなくても。


 まだ争える。


 まだ間に合う。


 次に何をすればいい。


 それが分かるだけで、


 少し立て直せることがあります。


 相馬先輩が木箱を持ち上げました。


「丈夫だな」


「楢です」


「重い」


「丈夫ですよ」


「灰皿置きにするか」


「書類入れです!」


 私と西村さんの声が揃いました。


 片桐所長が木箱を受け取り、


 自分の机の端へ置きました。


「ここで使う」


「あ、所長ずるい」


「事務所への差し入れだ」


「一番いい机に置いてるじゃないですか」


「不服か」


「あります」


「誰に申し立てる」


 来た。


 今日の復習問題です。


「まず処分庁を確認します」


「誰だ」


「木箱を独占した片桐所長」


「上級行政庁は?」


 私は事務所を見回しました。


 相馬先輩。


 私。


 西村さん。


 誰も所長の上には見えません。


「……いません」


「なら?」


「所長本人に異議申立て」


「棄却」


「早い!」


 相馬先輩が笑いました。


「簡易迅速だな」


「公正が毎回行方不明なんですよ!」


 西村さんまで笑っていました。


 私も笑いました。


 そして。


 机の上の通知を、もう一度見ました。


 誰に申し立てるか。


 たったそれだけの話に見える。


 でも。


 不服申立ては、


 怒りを役所へ投げる制度ではありません。


 正しい相手に、


 正しい手続で、


 期限内に、


 判断の見直しを求める制度です。


 だから今日の教訓は、たぶんこれです。


 ――役所に不服があるなら、まず「誰が処分したか」を見ろ。


 戦う相手が分からなければ、


 どれだけ正しい言い分も、


 届きません。


 そして。


 法律の冷たさは、


 「かわいそうだから何とかして」ではなく、


 処分庁は誰か。


 上級行政庁はあるか。


 申立先はどこか。


 期限はいつまでか。


 と、一つずつ感情を切り離します。


 冷たい。


 でも。


 西村さんのように、


 役所の窓口を行ったり来たりして、


 声の大きい人に言われた方向へ進むしかない人にとっては。


 その冷たさこそが、


 迷路の中に引かれた一本の線になるのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「その書類」


「何です?」


「木箱へ入れろ」


「所長の机じゃないですか」


「事務所の箱だ」


「だったら私の机でも」


「却下」


「異議申立てします」


「棄却」


「まだ理由言ってない!」


 相馬先輩が煙草に火をつけます。


「申立先は合ってても、中身で負けることはあるんだよ」


「今日一番嫌なまとめ方しないでください!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやら不服申立てというものは、


 正しい相手を見つけたところから、


 ようやく始まるらしいです。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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