[行政不服審査法2条〜3条・処分と不作為]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、まだ栗まんじゅうの匂いが残っていました。
十二個。
相談者三人。
事務所三人。
普通なら一人二個。
なのに。
「先輩」
「何だ」
「どうして箱が空なんです?」
「食ったからだろ」
「算数の問題を聞いてるんじゃありません」
「じゃあ何だ」
「私、一個しか食べてません」
「知らん」
「所長」
「一個だ」
「木下さんも一個でした」
「そうだな」
私は指を折りました。
木下さん、一個。
所長、一個。
私、一個。
残り九個。
視線を上げる。
相馬先輩。
「九個?」
「証拠はあるのか」
「口の中にありません?」
「もう飲み込んだ」
「自白した!」
行政法より簡単に立証できました。
私は空箱を取り上げ、その下に置いていたノートを開きました。
今日の見出し。
――処分と不作為。
その下に小さく、
木下和夫さん・菓子製造営業許可申請。
と書きます。
「昨日までだったら」
私は呟きました。
「処分は分かるんですよ」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「本当か?」
「そこ疑います?」
「じゃあ言え」
来ました。
抜き打ち口頭試問。
この事務所、予備校より油断できません。
「行政不服審査法でいう処分は」
私はノートを見ずに言いました。
「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」
「それで?」
「行政庁が、国民の権利義務や法的地位に、公権力として一方的に影響を与えるような行為」
「後半はお前の説明だな」
「はい。条文丸暗記だけだと眠くなるので」
「寝るな」
「受験生に言ってください」
処分。
たとえば、
営業許可。
不許可。
免許の取消し。
営業停止。
税の賦課処分。
そういうもの。
行政庁が、
公権力を使って、
相手の法的な立場を動かす。
「木下さんの件なら?」
相馬先輩が聞きました。
「もし保健所が『許可します』と正式に判断すれば、それが処分」
「不許可なら」
「それも処分」
「じゃあ途中の『検討中です』は」
「処分じゃない」
「現地確認は?」
「それ自体が直ちに処分になるとは限らない」
「電話で『もう少し待ってください』は」
「それも普通は処分じゃない」
「じゃあ昨日の保健所は?」
「そこが不作為です」
私はノートに線を引きました。
処分。
行政が動いて答えを出す。
不作為。
答えるべき申請に対して、相当期間、答えを出さない。
「でも」
私はペンを止めました。
「ここ、昔の私は雑に覚えてました」
「どう雑だった」
「役所が何もしなければ不作為」
「雑すぎる」
「ですよね」
不作為。
ただ役所が何もしていないこと全部ではありません。
重要なのは、
申請。
です。
しかも、
法令に基づく申請。
「たとえば」
私は言いました。
「私が市役所に突然、『駅前に噴水作ってください』って手紙を出します」
「迷惑だな」
「例ですよ」
「で?」
「市役所が四か月返事しなかった」
「不作為か?」
「原則として、それだけじゃ行政不服審査法上の不作為とは言えない」
「なぜだ」
「法令に基づいて、行政庁に処分を求める申請をしたわけじゃないから」
「そうだ」
ここ。
大事です。
お願い。
陳情。
要望。
相談。
申請。
見た目は全部、
役所へ何かを頼む。
でも法律上は同じではありません。
不作為を問題にするには、
法令に基づいて、
行政庁に対して、
処分を求める申請をしていること。
木下さんの場合は違いました。
営業許可を受けるため、
必要な申請書を正式に提出した。
受付印もある。
補正もした。
現地確認も終わった。
その申請に対して、
許可も、
不許可も、
四か月出なかった。
だから問題になる。
「申請したら、その瞬間に不作為?」
相馬先輩が聞きました。
「違います」
「三日?」
「とは限らない」
「一週間?」
「それも一律じゃない」
「じゃあ何日だ」
「そこですよ!」
私は机を軽く叩きました。
「受験生が一番数字を欲しがるところなのに、数字がない!」
「法律なんだから仕方ねえだろ」
「行政法、たまに受験生への配慮がゼロです」
「受験生のために作ってねえ」
「それを言われると全部終わります」
不作為になるのは、
申請から相当の期間が経過したのに、
何らの処分もしない場合。
相当の期間。
この言葉が曲者です。
「相当って、結局何です?」
私は片桐所長を見ました。
所長は帳簿から顔を上げました。
「必要な処理に通常要する時間だ」
「それだけ?」
「案件ごとに違う」
「ですよね」
「単純な申請と、専門的な調査が必要な申請を同じ日数では測れん」
私はノートに書きました。
相当期間は一律ではない。
申請内容。
審査の難易度。
必要な調査。
補正の有無。
行政側の処理状況。
そういう事情を見て判断する。
「木下さんの件では」
私は整理します。
「四か月という数字だけで即、不作為だと決めつけたわけじゃない」
「そうだ」
「補正済み」
「うん」
「現地確認済み」
「うん」
「追加資料なし」
「うん」
「しかも止まっていた理由が、営業許可そのものの審査じゃなくて、未確定の駅前再整備」
「そこだ」
つまり。
期間だけじゃない。
何を待っているのか。
それが合理的なのか。
そこまで見る。
「昨日、保健所の係長が言ってましたよね」
私は思い出しました。
――慎重に検討しています。
「慎重に検討って言えば、ずっと待たせていいわけじゃない」
「当たり前だ」
「行政法って、言葉を細かく切ると強いですね」
「何がだ」
「『時間がかかっている』と、『いつまででもいい』を別にできる」
所長が頷きました。
「そうだ」
私はノートに丸をつけます。
そこが今日の一個目。
――不作為は、単なる遅れではない。
では。
処分のほう。
「処分って」
私は言いました。
「紙が出てれば全部処分、でもないですよね」
「そうだ」
「役所がしたこと全部が処分でもない」
「そうだ」
ここも試験で危ない。
通知。
回答。
指導。
勧告。
事実上のお願い。
内部的な処理。
全部が行政不服審査法上の処分になるわけではありません。
見るのは名称じゃない。
実質。
「たとえば」
私はペンを走らせました。
「『お願い』って書いてある文書でも、実質的に公権力で相手の法的地位を直接変えるなら」
「名称だけで処分性を否定するな」
「逆に『決定通知』って書いてあっても」
「単なる事実通知なら、必ず処分とは限らん」
「はい」
行政法。
ラベル詐欺に厳しい。
「あと」
私は教材の記憶を引っ張り出しました。
「その他公権力の行使」
相馬先輩が煙を吐きます。
「説明しろ」
「処分だけじゃなくて、公権力の行使に当たる一定の事実行為も、不服申立ての対象に含まれることがある」
「具体的には」
「人の収容とか」
「うん」
「物の留置とか」
「うん」
「継続的な性質を持つもの」
たとえば。
強制退去までの収容。
検査のための物の留置。
形式上、
『許可する』『取り消す』という法律行為でなくても、
行政が公権力として、
現実に人の自由を拘束したり、
物を手元から離したままにしたりする。
そういう行為です。
「ここ、ちょっと面白いんですよ」
「面白いか?」
「処分って聞くと、紙の決定だけ想像するじゃないですか」
「まあな」
「でも行政は、紙じゃなく現実に手を出してくることもある」
「言い方が怖えな」
「事実行為です」
ただの事実行為なら何でもいいわけではない。
公権力の行使に当たるもの。
そして、不服申立ての対象として問題になるものとして、
継続的性質を持つ事実行為が典型になる。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「役所の職員が道路の穴を埋めた」
「普通は不服申立ての処分ではないでしょうね」
「公園の草を刈った」
「それも」
「お前の机の書類を片付けた」
「それは私への公権力の行使です」
「違う」
「精神的にはかなり強制です」
「片付けろ」
そこで所長が言いました。
「話を戻せ」
「はい」
強制力のある行政の行為だからといって、
何でも不服申立ての対象になるわけではない。
処分性。
ここは後で行政事件訴訟法へ行ったときにも、
また出てくる。
「処分性って行政法の常連ですよね」
「逃げても出てくる」
「ラスボスの側近くらいの頻度」
「例えがゲームだな」
処分かどうか。
ここを間違えると、
そもそも不服申立ての入口を外す。
木下さんの事件で、
最初に保健所側が言ったのは、
――まだ処分をしていないから、不服申立ての段階ではない。
でした。
「これ」
私は言いました。
「半分は正しいんですよね」
「処分について争うならな」
「はい」
許可も不許可も出ていない。
だから、
まだ『この不許可を取り消せ』とは言えない。
でも。
その申請を放置していること自体について、
別の救済問題が出る。
「入口が二個ある」
私はノートに書きました。
処分。
不作為。
行政が変なことをした。
行政が何もしない。
どちらも放置しない。
「ここで現代法なら」
私は言いかけて、
止まりました。
相馬先輩が睨みます。
「何だ」
「いや」
「言え」
「現代法なら、処分についての審査請求、不作為についての審査請求って整理が分かりやすいんです」
「今は?」
「昭和六十三年」
「そうだ」
「旧法です」
私はノートの左側に、
昭和六十三年。
と書きました。
右側に、
現代。
と書く。
来ました。
転生行政法最大の事故現場。
新旧制度比較。
「まず現代」
私は右側を指します。
「現在の行政不服審査法では、不服申立ては原則として審査請求に一本化」
「前にもやったな」
「はい」
「処分でも不作為でも」
「基本的に審査請求」
「で、昔は?」
「異議申立てと審査請求が併存」
ここまでは前回も出ました。
ただし。
不作為については、
旧法特有の扱いがあります。
「ここが今回の危険地帯です」
「大げさだな」
「転生者には大問題です」
私は慎重に書きます。
旧法の不服申立制度では、
処分に対する不服申立てと、
不作為に対する不服申立てで、
仕組みをきちんと旧法に沿って見る必要がある。
現代の条文二条・三条をそのまま昭和六十三年へ持っていって、
『二条の処分についての審査請求です』
なんて言ったら駄目です。
「昨日、所長が手続名を急ぐなって言ったの、そのためですよね」
「それもある」
片桐所長が言いました。
「まず事実を分けろ」
「処分が出ているのか」
「そうだ」
「それとも、申請に何も答えていないのか」
「そうだ」
「そのあとで、旧法上どの不服申立てを使うかを確認する」
「順番を逆にするな」
これ。
受験勉強でも実務でも強い考え方です。
制度名から事件を見るんじゃない。
事件を分類して、
制度へ当てる。
「未来知識持ってると」
私は言いました。
「すぐ『審査請求!』って飛びついちゃうんですよ」
「未来人が一番雑じゃねえか」
「知識が新しすぎる弊害です」
「胸張るな」
現代では、
平成二十六年の全面改正によって、
原則として審査請求へ一本化。
処分庁自身に申し立てる異議申立ては一般制度としてなくなりました。
そして、
審理員制度。
行政不服審査会等への諮問。
そうした仕組みが整備された。
「でも昭和六十三年には」
「ない」
「はい」
「審理員も」
「ない」
「行政不服審査会への諮問も」
「ない」
「三か月も」
「違う」
相馬先輩が言いました。
「期間は六十日」
「処分についての不服申立期間ですね」
「そうだ」
そこは混ぜない。
現代の三か月を持ってこない。
昭和の旧法では、
処分についての不服申立期間は原則六十日。
「不作為って」
私はそこで止まりました。
「処分が出てないわけですから、処分を知った日から六十日、みたいには単純に始まらないですよね」
「そうだ」
「だって知るべき処分がない」
「うん」
ここも大事。
処分に対する不服。
不作為に対する不服。
時間の考え方も同じではありません。
「不作為は」
私は書きます。
申請。
相当期間の経過。
それでも何らの処分がない。
この状態が問題になる。
だから、
処分が出た日を基準にする話とは構造が違う。
「木下さんの事件って」
私は言いました。
「不作為を理解する教材として、すごく嫌なほど分かりやすかったですね」
「本人に言うなよ」
「言いませんよ」
木下さんは、
不許可になったわけではありませんでした。
だから、
不許可処分の取消しを求めることもできない。
理由を読んで補正することもできない。
何が足りないのかも分からない。
ただ、
許可が出ない。
営業できない。
季節商品だけが時間切れに近づいていく。
「沈黙って」
私は言いました。
「処分より優しいように見えて、かなり残酷ですね」
片桐所長がこちらを見ました。
「なぜだ」
「答えがないと、争う対象すら見えにくいからです」
「そうだ」
「不許可なら、不許可という形がある」
「うん」
「でも放置されると、『まだ審査中だから』って言われ続ける」
「だから不作為という概念が要る」
名前をつける。
何もしないことを、
何もない状態にしない。
法律はそこを切り分ける。
「制度の冷たさって」
私は言いました。
「こういうとき役に立つんですね」
「また始まった」
相馬先輩が言います。
「いや本当に」
木下さんがかわいそう。
秋祭りに間に合わない。
材料費が無駄になる。
そういう話だけでは、
行政は動かないことがある。
でも。
法令に基づく申請がある。
補正済み。
調査済み。
相当期間が経過。
何らの処分もない。
この順番に置き直すと、
急に個人の泣き言ではなくなる。
行政法上の問題になる。
「感情を消すんじゃないんですよね」
私は言いました。
「どういう意味だ」
「木下さんが困ってることは大事。でも、困ってるから許可しろって言うと弱い」
「うん」
「困っている事実を、法律上の論点へ翻訳する」
「そうだ」
「それが行政書士の仕事」
片桐所長が少しだけ頷きました。
私は嬉しくなって、ノートに書きます。
――感情を捨てるのではなく、論点に変える。
「それ、試験知識か?」
相馬先輩が聞きました。
「私の覚え書きです」
「余白に書け」
「はい」
次。
審査請求。
現代の教材なら、
処分についての審査請求。
不作為についての審査請求。
と並べて覚える。
「現行法では」
私は言いました。
「処分に不服がある者は、審査請求ができる」
「うん」
「不作為については、法令に基づく申請をした者が、相当期間経過後も処分されない場合に審査請求できる」
「うん」
「この二つ、主体も違いますね」
相馬先輩がこちらを見る。
「説明しろ」
処分についての審査請求。
処分に不服がある者。
不作為についての審査請求。
法令に基づき申請をした者。
「つまり」
私は言いました。
「不作為は、誰でも『役所が遅い』って審査請求できるわけじゃない」
「申請した本人が基本だ」
「はい」
なぜなら、
不作為とは、
その申請に対して処分をしないことだから。
申請者との結びつきが強い。
「木下さんは」
「自分で申請してる」
「だから当事者」
「そうだ」
試験では、
処分についての審査請求人。
不作為についての審査請求人。
この書き分けも注意。
「あと」
私はペンを回しました。
「不作為について争ったら、必ず許可しろって命令してもらえる、と覚えるのも危険ですね」
「昨日も言われたな」
「はい」
不作為を争う。
これは、
『申請者の欲しい結論にしろ』
と同じではない。
行政に、
きちんと応答しろ。
判断すべきものを判断しろ。
と求める問題です。
もちろん現行法では、
不作為について理由があると認められる場合の裁決の仕組みがあります。
しかし、
不作為が問題だからといって、
申請が当然に認容されるわけではない。
「木下さんも」
私は言いました。
「最終的には許可が出たけど」
「結果論だ」
「はい」
「要件満たしてなけりゃ、不許可もあり得た」
「そうです」
大事なのは、
沈黙を終わらせること。
その先の結論は、
法令の要件に従って別に判断される。
「だから昨日」
私は思い出しました。
――不許可なら、不許可を争える。
自分でそう言った。
「これ、今考えると重要ですね」
「何が」
「人は、悪い答えより、答えがないほうが動けないことがある」
不許可。
つらい。
でも、
理由が分かる。
不服申立てができる。
補正できるかもしれない。
別の場所へ移る選択もできる。
沈黙。
それら全部が止まる。
時間だけが減る。
「行政法って」
私は言いました。
「時間を守る法律でもあるんですね」
「言いすぎだ」
「でも少しはそうでしょう?」
「少しはな」
相馬先輩はそう言って煙草を消しました。
私は次に、
行政事件訴訟法。
と小さく書きました。
「教材にもありましたけど」
「何が」
「この処分と不作為の定義って、あとで行政事件訴訟法にもつながります」
「そうだな」
取消訴訟。
処分性。
不作為の違法確認。
義務付け。
現代の行政事件訴訟では、
また別の訴訟類型として登場する。
でも今は深入りしません。
「今やると話が三倍になります」
「逃げたな」
「範囲管理です」
「前も言ってたな、それ」
行政法は、
一個理解すると隣の制度が手を挙げます。
処分。
不作為。
審査請求。
取消訴訟。
不作為の違法確認。
義務付け訴訟。
全部つながっている。
だからこそ、
最初の言葉を雑にしない。
「試験で一番危ない選択肢」
私は言いました。
「『行政庁が何もしない場合は、すべて不作為として審査請求できる』」
「×だ」
「はい」
「理由」
「法令に基づく申請が前提で、相当期間経過後も何らの処分をしない場合だから」
「次」
「『申請後ただちに何らの処分がなければ不作為となる』」
「×」
「相当期間が必要」
「次」
「『行政不服審査法上の処分は、行政庁の法的行為に限られ、事実行為は一切含まれない』」
「×」
「その他公権力の行使に当たる一定の継続的事実行為が含まれ得る」
「次」
「『不作為についての審査請求をした場合、申請どおりの処分をすることが当然に義務付けられる』」
「×」
「不作為を是正することと、申請を認めることは別」
「次」
「『現代の行政不服審査法では、処分庁への異議申立てが原則的な不服申立てである』」
「×!」
私は勢いよく答えました。
「現代は原則審査請求に一本化!」
「昭和六十三年は?」
「旧法!」
「期間は?」
「処分について原則六十日!」
「現代は?」
「原則三か月!」
「審理員は?」
「昭和にはいません!」
「行政不服審査会は?」
「この時代の制度として持ち込まない!」
「よし」
私は息を吐きました。
「何ですか、この予備校」
「無料だぞ」
「栗まんじゅう九個取られてます」
「授業料だ」
「高い!」
そこで片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「木下さんの件で、一番最初に確認すべきことは何だった」
「申請があるか」
「次」
「法令に基づく申請か」
「次」
「それに対して処分がされたか」
「次」
「されていないなら、どれくらい時間が経っているか」
「次」
「その期間が、審査内容や必要な調査から見て相当と言えるか」
「次」
「それでも何らの処分がないなら、不作為の問題として考える」
「それでいい」
短い。
でも。
これだけで、
昨日の事件が全部並び替わります。
私はノートに番号を書きました。
一、申請はあるか。
二、法令に基づく申請か。
三、処分は出たか。
四、出ていないなら、相当期間が経過したか。
五、不作為に対する救済手段を確認する。
「こうすると」
私は言いました。
「『まだ決めてません』って言葉が怖くなくなりますね」
「なぜだ」
「決めてないなら、その次に聞けばいいからです」
「何を」
「いつ申請した」
「うん」
「何が残ってる」
「うん」
「なぜ処分できない」
「うん」
「あとどれくらい必要」
「そうだ」
曖昧な言葉を、
事実に分解する。
これだけで、
役所の『検討中』は、
少し弱くなる。
「沢渡課長も言ってましたね」
私は思い出しました。
――何を待っているのか説明できない案件は、整理したほうがいい。
「敵なのに正論なんですよね」
「敵じゃねえだろ」
「壁です」
「もっと失礼だ」
でも沢渡課長は、
木下さんの味方になったわけではありません。
行政側の人間として、
説明できない保留があると、
行政側が不服申立てで苦しくなる。
だから整理した。
それでいいんだと思います。
誰かが善人にならなくても、
制度が正しい方向へ押せばいい。
「これ」
私は呟きました。
「制度の冷たさが人を救う、ってこういうことですね」
片桐所長が私を見る。
「どういう意味だ」
「沢渡課長は、木下さんがかわいそうだから動いたわけじゃない」
「そうだろうな」
「不作為として説明がつかないから動いた」
「そうだ」
「でも結果として、木下さんの申請は進んだ」
「それでいい」
所長が言いました。
その一言が、
妙に好きでした。
制度は、
優しい人が担当になることを前提に作るべきじゃない。
機嫌のいい人。
親切な人。
話を聞いてくれる人。
そういう人が担当なら助かる。
でも、
担当者が無愛想でも、
忙しくても、
面倒がっていても、
最低限ここまではやらなければならない。
そこを法律が決める。
だから冷たい。
そして、
その冷たさが、
人による差を少し減らす。
私はノートの最後のページへ進みました。
「一行の覚え書き」
「また長くするなよ」
相馬先輩が言います。
「考えてます」
処分。
不作為。
何をしたか。
何もしなかったか。
申請。
相当期間。
公権力の行使。
いっぱいあります。
私はペン先を止め、
やがて書きました。
――行政が答えたら処分を見ろ。答えないなら、申請と時間を見ろ。
「どうです?」
「まあまあ」
「褒めた」
「気のせいだ」
「ではもう一個」
「一行だろ」
「超短縮版です」
その下に書きます。
――『何をしたか』だけでなく、『なぜ何もしないか』も争える。
片桐所長がそれを見ました。
「後半は少し雑だな」
「ですよね」
「不作為なら何でも争えるように読める」
「あ」
「条件を書け」
厳しい。
でも正しい。
私は消しゴムをかけました。
そして書き直します。
――法令に基づく申請へ相当期間答えないなら、その沈黙も救済の対象になる。
所長が頷きました。
「それでいい」
よし。
今度こそ。
ノートを閉じようとしたところで。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「茶」
「またですか」
「申請する」
「法令に基づいてません」
「事務所慣行に基づいてる」
「そんな法源ありません」
「相当期間待った」
「今言ったばかりです」
「俺にとって一分は長い」
「主観で相当期間を作らないでください!」
片桐所長が新聞をめくりながら言います。
「こはる」
「はい」
「俺も茶」
「二件になった!」
「併合審理しろ」
「そんなところだけ行政法っぽくしないでください!」
「早くしろ」
私は立ち上がりました。
「分かりました。でも一つだけ」
「何だ」
「先輩が栗まんじゅう九個食べた件については、処分します」
「何の処分だ」
「明日のおやつ配給停止」
「不利益処分じゃねえか」
「弁明の機会を与えます」
「何言えばいい」
「九個食べてません、と」
「食った」
「終わりました」
「早えよ!」
所長の新聞の向こうから、
小さな笑い声が聞こえました。
私は急須に湯を注ぎながら、
今日のノートを思い返します。
行政法の世界では、
何かをしたことには名前がある。
許可。
不許可。
取消し。
命令。
処分。
そして。
何もしないことにも、
一定の場合には名前がある。
不作為。
何もしていないのに、
法律問題になる。
昔の私なら、
妙な話だと思ったでしょう。
でも今は違います。
何もしないことで、
人を止めることができるからです。
申請書を机の上に置いたままにする。
許可しない。
不許可にもしない。
そうすると、
行政は何も命じていないのに、
申請者の生活だけが止まる。
だから法律は、
沈黙にまで名前をつける。
それは役所を責めるためだけじゃない。
答えを出すべきときに、
答えを出すためです。
木下さんに必要だったのは、
特別扱いではありませんでした。
栗まんじゅう屋だから許可してほしい。
秋祭りだから急いでほしい。
生活がかかっているから見逃してほしい。
そういうことではない。
ただ、
出した申請を、
審査して、
答えてほしい。
それだけ。
その「それだけ」を守らせるために、
行政法はずいぶん細かい言葉を用意しています。
処分。
公権力の行使。
申請。
不作為。
相当期間。
冷たい言葉です。
でも。
冷たい言葉で整理できたから、
木下さんは、
「もう少し待ってください」
という終わりのない言葉から抜け出せました。
私は二つの湯飲みを机へ運びます。
「はい」
「遅い」
相馬先輩が言いました。
「三分です」
「不作為だ」
「違います」
「相当期間だ」
「お茶の申請に法令上の根拠がありません」
「じゃあ慣習法」
「成立してません」
「じゃあ信義則」
「行政不服審査法から離れてます!」
片桐所長がお茶を一口飲みました。
「こはる」
「はい」
「一つ覚えろ」
「何です?」
「答えがないときほど、何を待っているのか聞け」
私は少し黙りました。
そして頷きます。
「はい」
たぶん。
今日の一行は、
そっちでもいい。
答えがない。
だから諦める。
ではなく。
答えがない。
なら、
なぜないのかを確認する。
行政法は、
沈黙の前で黙るための法律ではありません。
その沈黙が、
本当に許される時間なのか。
そこを聞き返すための法律でもあるのです。
翌朝。
駅前を通ると、
土産物屋の店先に新しい札が掛かっていました。
――地元栗使用 木下菓子舗の栗まんじゅう。
私は少しだけ立ち止まりました。
法律の条文に、
栗の匂いはしません。
けれど。
相当期間という無機質な言葉が、
誰かの店の朝を動かすことはある。
そう思うと。
行政法も、
前より少しだけ、
眠くない法律になってきました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




