[行政不服審査法2条〜3条・処分と不作為・処分と不作為]現場編 「まだ何も決めていませんから、争えません」の嘘。拒否する処分と、黙って止める不作為を切り分ける二つの入口
役所から「駄目です」と言われるのも困ります。
でも。
もっと困るのは、
「まだ何も決めていません」
と言われ続けることです。
駄目なら、駄目。
いいなら、いい。
せめて答えてくれれば次へ進める。
ところが、
許可もしない。
不許可にもしない。
ただ書類だけが役所の机の上で熟成していく。
――行政法には、そういう「沈黙」を相手にするための言葉があります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝、私は一冊の電話帳と格闘していました。
「先輩」
「何だ」
「これ、武器になりますね」
「なるぞ」
「否定してくださいよ」
「角で殴ると痛え」
「用途の話じゃないです」
昭和の電話帳は厚い。
とにかく厚い。
現代なら検索窓に三文字入れて終わるところを、紙の海から一件ずつ拾っていかなければならない。
転生して初めて知りました。
インターネットがない時代では、情報検索だけで筋トレになります。
「東町食品加工……東町食品加工……」
「何探してんだ」
「保健所に出す書類の取引先確認です」
「さっきから同じページ見てるぞ」
「索引の罠にはまっています」
「お前、行政法だけじゃなく電話帳にも弱いのな」
「文明の差です」
「知らん」
そんなやり取りをしていたところへ、事務所の扉が開きました。
「あの……」
入ってきたのは、四十代半ばくらいの男性でした。
日に焼けた顔。
紺色の作業着。
右手には、くたびれた茶封筒。
左手には、小さな紙箱。
その紙箱を、まるで壊れ物のように抱えています。
「片桐先生はいらっしゃいますか」
奥から所長が顔を上げました。
「私です」
男性は椅子へ座ると、茶封筒から何枚かの紙を取り出しました。
「実は……許可が下りなくて」
相馬先輩が煙草を灰皿へ置きました。
「何の許可です」
「菓子の製造です」
「菓子?」
男性は紙箱を開きました。
中には、淡い茶色の丸い菓子が六個。
「栗まんじゅうです」
「おお」
相馬先輩の声が明らかに一段明るくなりました。
「先輩」
「何だ」
「相談内容より先に反応しないでください」
「食い物は重要だ」
「職業倫理が胃袋に負けてます」
男性が少しだけ笑いました。
「木下和夫といいます。駅の北で、小さい和菓子屋をやってます」
店は父親の代から続いているという。
これまでは仕入れた菓子を売るのが中心だった。
だが、半年前。
店の裏に小さな製造場を造った。
地元の栗を使った焼き菓子を、自分たちで作って売りたい。
そのため、必要な営業許可を取ろうとした。
「申請したのは、いつです?」
「四か月前です」
私は手を止めました。
「四か月?」
「はい」
「受付はされてます?」
「これが控えです」
日付。
受付印。
間違いなく提出されています。
「補正の連絡は?」
「一度ありました。手洗い場の位置を直せと」
「直した?」
「すぐ直しました」
「そのあと追加資料は?」
「出しました」
「現地確認は?」
「二か月前に来ました」
ここまで聞けば、
次は、
許可。
あるいは不許可。
そう思います。
ところが。
「それから、何もないんです」
「何も?」
「何度電話しても、『検討中です』って」
木下さんは膝の上で両手を握りました。
「材料も買ったんです。焼き型も入れた。包装紙も千枚刷りました」
「千枚……」
「駅前の土産物屋さんにも、秋から置いてもらう話になってて」
今は九月。
栗の季節です。
「で、今どうなってるんです?」
相馬先輩が聞きました。
「昨日、直接行きました」
「保健所へ?」
「はい」
「何て」
木下さんは少し迷ってから言いました。
「『まだ処分をしたわけではありませんから、不服を申し立てるような段階ではありません』って」
私は目を瞬きました。
「……そう言われたんですか」
「はい」
何も決めていない。
だから争えない。
なるほど。
一瞬だけ、筋が通っているように聞こえます。
処分がない。
なら、
「処分を取り消してください」
とは確かに言えない。
でも。
私は木下さんの申請書を見ました。
受付印。
四か月前。
補正済み。
現地確認済み。
それで、
まだ何もしません。
だから不服申立てもできません。
――いや。
待って。
頭の中で、昨夜読んでいた行政法のページが起き上がりました。
処分。
不作為。
二条。
三条。
いや。
違う。
「……あ」
「何だ」
相馬先輩が私を見る。
「また顔がおかしいぞ」
「現代法が出てきました」
「引っ込めろ」
「努力します」
危ない。
ここは昭和六十三年。
現代の行政不服審査法なら、
処分についての審査請求。
不作為についての審査請求。
そう整理するところです。
でも今は、全面改正前。
異議申立てと審査請求が並んでいた旧法の時代。
未来の条文番号で殴り込みに行ったら、私が一番先に退場します。
ただ。
名前や手続は違っても、
目の前で起きている問題の輪郭は同じです。
「所長」
「何だ」
「これって」
私は言いました。
「処分がないから何もできない、じゃなくて」
所長がこちらを見る。
「続けろ」
「処分をしないこと自体が問題になるんじゃないですか」
相馬先輩が少し目を細めました。
「不作為か」
「はい」
木下さんが首をかしげます。
「ふさくい?」
「役所が何もしないことです」
「何もしないことに、名前があるんですか」
「あります」
私は答えてから、自分でも少し不思議な気持ちになりました。
何もしていない。
それなのに法律では、
その「何もしない」に名前をつける。
冷たい制度語です。
でも。
名前がつけば、
問題として扱える。
名前のない我慢は、
名前がついた瞬間に論点になります。
「ただ」
私は申請書の日付を見ました。
「申請した翌日に返事がないから、すぐ不作為ってわけじゃないですよね」
片桐所長が頷きました。
「当然だ」
「処理には時間が必要だから」
「そうだ」
「じゃあ見るのは」
私は紙に指を置きました。
「相当な期間が経ってるかどうか」
「そこだ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「行くぞ」
「どこへ」
「保健所」
「また即日ですか」
「四か月待ってんだろ」
あ。
それは確かに。
「これ以上、うちで寝かせてどうする」
「行政書士事務所まで不作為になっちゃいますね」
「うるせえ。電話帳置いてこい」
「武器なのに」
「持ってくんな」
保健所は、市役所本庁から少し離れた古い建物にありました。
窓口で事情を話すと、
「担当は生活衛生課です」
と案内される。
そこで待つこと十五分。
現れた係長は、五十代くらいの男性でした。
「木下さんの営業許可申請ですね」
「はい」
片桐所長が申請控えを机に置きました。
「処理状況を確認したい」
「現在、審査中です」
「四か月」
「個別案件ですので」
「補正は終わっている」
「はい」
「現地確認も済んでいる」
「済んでいます」
「不足書類は」
「現時点では特にありません」
相馬先輩が腕を組みました。
「じゃあ何待ちだ」
係長は少し困った顔をしました。
「内部協議です」
「何の」
「駅前周辺の食品営業施設について、今後の再整備との関係もありまして」
来た。
駅前再整備。
この町で最近、
妙にいろんなところへ顔を出す言葉です。
「木下さんの店は駅の北側です」
私は言いました。
「はい」
「製造場も、今ある店舗の裏ですよね」
「そう伺っています」
「再整備区域に入るんですか」
「そこは現在、計画担当とも確認中です」
「四か月?」
思わず聞き返しました。
係長の眉が動きます。
「慎重に検討しています」
便利です。
行政界の万能調味料。
慎重に検討。
入れすぎると、何の味もしなくなります。
相馬先輩が言いました。
「許可要件は満たしてるのか」
「最終判断はまだです」
「だから何が足りねえ」
「不足というより――」
「じゃあ、何が問題だ」
「将来的に移転の可能性がある施設へ新規許可を出すことが適切かどうか」
私は止まりました。
「え?」
「再整備によって移転対象になる可能性があります」
「可能性」
「はい」
「決まってはいない」
「まだ確定ではありません」
「それで許可判断を止めてるんですか」
「止めているという表現は適切ではありません」
「じゃあ何です?」
「審査中です」
出ました。
行政日本語。
止めていません。
ただ進んでいません。
不許可ではありません。
ただ許可もしません。
時計だけが仕事をしています。
「一つ確認します」
私が言うと、相馬先輩が小さくため息をつきました。
「論点で喋るなよ」
「まだ喋ってません」
「顔がもう論点だ」
そんな顔あるんですか。
私は係長を見ました。
「木下さんの申請に対して、許可か不許可か、何らかの処分をする必要はありますよね」
「申請が適法にされていれば、最終的には判断します」
「いつです?」
「それは申し上げられません」
「一か月後?」
「分かりません」
「半年後?」
「分かりません」
「一年後?」
「そこまでは――」
「でも期限は決めてない」
係長が黙りました。
ここです。
不作為。
単に返事が遅い、ではない。
法令に基づいて申請した。
行政庁には、それに対して何らかの判断をすることが求められる。
それなのに、
相当な期間が過ぎても、
許可も、
不許可も、
何もしない。
「昨日」
片桐所長が口を開きました。
「木下さんに、不服申立ての対象になる処分はまだない、と説明した職員がいるそうだ」
係長が少し顔をしかめました。
「誰が言ったかは分かりませんが、処分はまだしていません」
「そこは正しい」
所長は言いました。
「だが」
一拍。
「処分がないことと、不服申立ての問題がないことは同じじゃない」
係長が黙りました。
私は心の中で、
来た。
と思いました。
片桐所長は声を荒らげない。
机も叩かない。
でも論点が一個定まると、
その周りの逃げ道が静かに消えていきます。
「木下さんは法令に基づいて申請している」
「はい」
「四か月経過している」
「はい」
「補正は終わった」
「はい」
「現地確認も終わった」
「はい」
「不足資料も、今のところない」
「……はい」
「それでも何らの判断もしない」
係長は眼鏡を直しました。
「再整備との調整があります」
「それが許可要件なのか」
短い。
でも鋭い。
「……直接の要件というわけでは」
「なら」
所長が言いました。
「再整備の話と、許可申請の審査を混ぜるな」
空気が変わりました。
あ。
これです。
カタルシスって、
怒鳴ることじゃない。
絡まった糸の中から、
別々の話を別々に戻すことなんです。
営業許可。
駅前再整備。
どちらも行政の仕事。
でも。
だからって、
Aの申請を、
Bの計画がどうなるか分からないから、
いつまでも放置していいとは限らない。
「仮に」
相馬先輩が言いました。
「許可要件満たしてねえなら、不許可にすりゃいいだろ」
「乱暴な言い方ですが」
私は横から言いました。
「方向はそうです」
「乱暴は余計だ」
「要件を満たしているなら許可する。満たしていないなら不許可にする。それを決めるための審査ですよね」
係長が言います。
「行政判断には一定の時間が必要です」
「それは分かります」
「慎重な判断も必要です」
「それも」
「では――」
「でも」
私は申請控えを指しました。
「『時間が必要』と『いつまでも答えなくていい』は別ですよね」
係長は私を見ました。
昨夜までテキストに書いてあった「相当の期間」という言葉。
正直、
曖昧だなあ。
と思っていました。
何日?
何週間?
何か月?
数字を書いてくれ。
受験生に優しくしてくれ。
そう思っていた。
でも今なら分かります。
申請の種類は全部違う。
審査の難しさも違う。
必要な調査も違う。
だから一律の日数では決められない。
でも逆に。
曖昧だからこそ、
役所が「検討中」の一言で永遠に逃げられるわけでもない。
何を審査しているのか。
何が残っているのか。
どれだけ時間がかかっているのか。
事情を積み上げて、
相当かどうかを見る。
「木下さんの件は」
私は言いました。
「もう現地確認から二か月です。補正も終わってる。それでも再整備の区域が決まるまで待つなら、いつ終わるのか分からない」
「……」
「その間、木下さんは商売を始められません」
「損害の問題と、許可審査は別です」
「はい」
そこは混ぜない。
だからこそ。
「商売が苦しいから許可してください、とは言ってません」
私は言いました。
「許可するか、不許可にするか。まず答えてください、という話です」
係長の表情が変わりました。
少しだけ。
役所相手で一番効くのは、
「かわいそうでしょう」
ではない。
何を求めているのかを狭くすることです。
許可しろ。
ではない。
答えろ。
そこです。
「片桐先生」
係長が所長を見る。
「不作為についての不服申立てを検討しているんですか」
「必要なら」
私はその言葉に反応しました。
現代の頭がまた出てきます。
不作為についての審査請求。
平成二十六年改正後なら――
いや、待て。
昭和。
旧法。
異議申立て。
審査請求。
「こはる」
相馬先輩がこちらを見る。
「はい」
「また未来行ってるぞ」
「戻りました」
危険。
行政法転生者の最大の敵は、
敵役ではなく法改正です。
「この保健所の上級行政庁は?」
相馬先輩が聞きます。
係長が答えました。
「県の機関ですから、上級行政庁はあります」
私は頭の中で旧法の整理を引っ張り出します。
処分についての異議申立てと審査請求。
不作為の場合の扱い。
現代法みたいに、
何でも「まず審査請求です」と反射で言ったら駄目。
片桐所長がこちらを見ました。
「今日は手続の名前を急ぐな」
「あ」
「まず何が起きているかを確定しろ」
「……はい」
刺さりました。
そうです。
処分か。
不作為か。
その前提を取り違えたまま、
申立先だの期間だのへ走っても仕方がない。
行政法って、
いきなり答えを覚えるより、
最初の分類を外さないほうが大事なんだ。
「木下さんに対して」
所長が係長へ言いました。
「書面で処理状況を説明してもらいたい」
「処理状況ですか」
「何の審査が残っているのか。判断できない理由は何か。いつまでに結論を出す見込みなのか」
「期限までは確約できません」
「確約しろとは言っていない」
所長は淡々と続けます。
「説明できる範囲で答えてくれ」
係長は少し考えました。
「……担当医師とも確認します」
「いつまでに」
「一週間いただけますか」
相馬先輩が口を開きかけます。
私は袖をつまみました。
「何だ」
「一週間なら」
「四か月待ってんだぞ」
「だからこそ、一週間って日付が出たのは前進です」
係長がこちらを見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「あなた、先ほどから不作為と言っていますが」
「はい」
「不作為だからといって、必ず申立人の希望する許可が出るわけではありませんよ」
「分かっています」
「不服申立てをしても、許可要件の判断そのものが変わるとは限らない」
「はい」
「場合によっては、不許可という結論が出ることもある」
「それも」
私は木下さんの顔を思い浮かべました。
欲しいのは、
都合のいい答えではない。
前へ進める答えです。
「でも」
私は言いました。
「不許可なら、不許可を争うことができます」
係長が黙りました。
「今は何もないから」
続けます。
「木下さん、次へ行けないんです」
許可なら、
菓子を作れる。
不許可なら、
理由を見て、
補正するのか、
不服申立てをするのか、
別の方法を考えるのか、
選べる。
でも沈黙は、
選択肢そのものを奪います。
係長は少し息を吐きました。
「……分かりました。一週間以内に、少なくとも今後の処理方針は連絡します」
「お願いします」
片桐所長が立ち上がりました。
そこで話は終わりかと思ったところで。
廊下の向こうから声がしました。
「片桐先生」
聞き覚えがあります。
振り返る。
灰色の背広。
細い眼鏡。
「沢渡課長」
「保健所まで何をしに」
「仕事です」
相馬先輩が答えます。
「それは見れば分かります」
沢渡課長は係長の机の上にある申請控えを見ました。
「駅北の製造許可ですか」
「ご存じで?」
「駅前再整備関連で照会が来ていますから」
私は嫌な予感がしました。
「課長」
「何でしょう」
「再整備が決まってないせいで、許可審査が止まってるみたいなんですけど」
沢渡課長は一瞬、係長を見ました。
「誰が止めろと言いました?」
「え?」
「総務からは、将来の事業予定について情報提供しただけです」
係長が顔を上げました。
「しかし、移転対象になる可能性が――」
「可能性でしょう」
沢渡課長は淡々と言いました。
「その可能性が、現在の営業許可の判断要件になるんですか」
あれ。
今日、
こちら側?
相馬先輩まで微妙な顔をしています。
「いや、将来すぐ廃止になる施設へ許可を出すのも」
「それは別途説明すればいい」
沢渡課長が言いました。
「再整備は再整備。許可は許可です」
片桐所長と、
同じことを言った。
「行政内部で」
沢渡課長は眼鏡を上げました。
「複数の仕事を関連づけることはあります。ただし、関連があることと、処分を保留してよいことは同じではない」
私は思わず言いました。
「沢渡課長、今日は味方なんですか」
「味方?」
「いえ」
「私はいつも行政側です」
「ですよね」
「だから困るんです」
「何がです?」
「理由のない保留をされると」
沢渡課長は係長に言いました。
「これ、不服申立てにされたら説明できますか」
「……」
「四か月。補正済み。現地確認済み。不足資料なし。止めている理由は未確定の再整備」
「……確認します」
「確認ではなく」
沢渡課長は言いました。
「処理してください」
短い。
重い。
敵役が別の役所職員を詰め始めると、
こちらも立ち位置が分からなくなります。
行政法、たまに人間関係まで論点整理が必要です。
帰り道。
相馬先輩が煙草をくわえながら言いました。
「今日は楽だったな」
「沢渡課長が途中から全部持っていきましたね」
「あいつは役所が負けるのが嫌なんじゃねえ」
「何が嫌なんです?」
「筋の悪い負け方だ」
「なるほど」
妙に納得します。
「でも」
私は言いました。
「今日、やっと分かった気がします」
「何が」
「処分と不作為の違い」
「教科書に書いてあるだろ」
「書いてありますけど」
私は歩きながら指を一本立てました。
「処分は、役所が何か決めた」
「うん」
「不作為は、申請に対して決めるべきなのに、相当期間、何も決めない」
「雑だが、まあいい」
「で、木下さんが最初に言われた『処分がないから争えない』は」
「半分しか見てねえ」
「そういうことですね」
処分がない。
そこまでは正しい。
でも。
だから不服申立て制度の外だ。
とは限らない。
行政不服審査は、
行政が動いたときだけを見る制度じゃない。
行政が動かなさすぎるときも見る。
「一番怖いの」
私は言いました。
「不許可じゃなくて、放置かもしれませんね」
「人によるだろ」
「でも不許可なら、少なくとも次の一手があります」
「そうだな」
「何も言われないと、ずっと待つしかない」
「だから制度がある」
相馬先輩が言いました。
珍しく。
本当に珍しく。
教科書みたいなことを言います。
「先輩」
「何だ」
「今日、格好いいですね」
「気持ち悪いからやめろ」
「平常運転に戻った」
一週間後。
本当に電話が来ました。
木下さんの件。
追加の立入確認を一度行ったうえで、
許可判断をする。
日程は三日後。
「結論じゃないんですね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「でも動いた」
「動いたな」
さらに十日後。
木下さんが事務所へ飛び込んできました。
「先生!」
手には、また紙箱。
そして一枚の書類。
「出ました!」
「何がです?」
「許可です!」
私は立ち上がりました。
「本当に?」
「はい!」
営業許可証。
正式に交付されていました。
「よかった……」
思わず声が出ます。
ただ。
片桐所長は書類を見てから言いました。
「再整備の件は」
「将来、移転が必要になる可能性は説明されました」
「納得したか」
「はい」
木下さんは頷きました。
「決まったら、そのとき考えます」
その言葉。
たぶん大事です。
将来の問題を、
今の沈黙の理由にしない。
将来、
本当に移転が必要になれば、
そのときの制度、
そのときの手続、
そのときの補償や条件を見ればいい。
まだ起きていない問題で、
今日の生活を止めなくていい。
「で」
相馬先輩が紙箱を見る。
「それは」
「試作品です」
箱を開けます。
栗まんじゅう。
今度は十二個。
「おお」
「先輩、相談者の顔より箱を見るのやめてください」
「許可が出た証拠だ」
「食欲を法理っぽく言い換えないでください」
木下さんが笑いました。
「皆さんで食べてください」
「いただきます」
先輩、早い。
私も一つ取ります。
まだ少し温かい。
「今朝焼いたんです」
「おいしい」
「本当ですか」
「はい。栗、大きい」
「地元の農家さんのです」
木下さんは嬉しそうでした。
「秋祭りに間に合いそうです」
「駅前の土産物屋さんも?」
「何とか待ってくれました」
所長が一つ取ります。
相馬先輩が驚いた顔をしました。
「所長、甘いもの食うんですね」
「悪いか」
「いや」
「茶」
「俺が?」
「見習いにやらせるな」
私は笑いました。
「珍しく所長がまともです」
「珍しくは余計だ」
そこへ電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
また来た。
「お疲れさまです」
『木下さん、許可が出たそうですね』
「知ってるんですか」
『こちらにも報告が来ました』
「早いですね」
『それで一つ』
「はい」
『駅前再整備関連というだけで処理を保留している申請が他にないか、庁内で調べることになりました』
私はまんじゅうを持ったまま止まりました。
「また全部ですか」
『全部というほどありません』
「何件?」
『現時点で六件です』
「十分ありますよ」
『未処理イコール不作為ではありません』
「分かってます」
『審査に必要な期間もあります』
「はい」
『ですが』
沢渡課長が少し間を置きました。
『何を待っているのか説明できない案件は、整理したほうがいい』
私は笑いました。
「課長、自分で言うと説得力ありますね」
『どういう意味です』
「いつも整理させられてるので」
『朝比奈さん』
「はい」
『行政は、何もしないことで問題を避けられるとは限りません』
そこで電話は切れました。
受話器を置く。
「何だって?」
相馬先輩がまんじゅうを食べながら聞きます。
「似たような保留案件を点検するそうです」
「へえ」
「六件」
「多いな」
私は椅子へ座りました。
机の上には、
木下さんの許可証。
その横には、
申請から四か月も動かなかった控え。
同じ行政でも。
一枚は、
動いた結果。
一枚は、
動かなかった時間の記録です。
行政法では、
何かをしたことだけが問題になるわけじゃない。
許可。
不許可。
取消し。
命令。
そういう目に見える「処分」だけではない。
法令に基づく申請を受けておきながら、
相当な期間、
何の答えも出さない。
そんな沈黙にも、
ちゃんと名前がある。
不作為。
何もないことを、
法律は、
「何もない」で終わらせない。
それが少し不思議で。
かなり頼もしい。
「こはる」
「はい」
「茶」
相馬先輩が言いました。
「自分で淹れてください」
「今まんじゅう食ってる」
「だから茶が欲しいんでしょう」
「早く」
「却下」
「何でだ」
「私、まだ処分してません」
「今、却下って言っただろ」
「あ」
「処分したな」
「しまった」
片桐所長が静かにお茶を飲んでいます。
「じゃあ撤回します。検討中です」
「いつまでだ」
「未定です」
「おい」
「慎重に審査します」
「何をだよ」
「先輩にお茶を淹れる必要性を」
「必要あるだろ」
「それ、申請ですか?」
「申請だ」
「では相当期間お待ちください」
相馬先輩が睨みます。
「何分だ」
「そうですねえ」
私は机の上の申請控えを見ました。
「四か月くらい」
「不作為で争うぞ」
「早い!」
「相当期間だろ」
「お茶で四か月は相当じゃないです!」
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「淹れろ」
「それは命令ですか」
「業務指示だ」
「不服申立ては」
「認めない」
「制度の壁が厚い!」
木下さんが声を出して笑いました。
私も笑います。
結局。
お茶は淹れました。
法律は、
役所を何でも思いどおりに動かす魔法ではありません。
申請したからといって、
必ず許可されるわけでもない。
不作為を争ったからといって、
欲しい結論がもらえるわけでもない。
ただ。
役所には、
駄目なら駄目と答えるべきときがある。
答えずに人の時間だけを止めることまで、
自由なわけではない。
条文は冷たい。
処分。
公権力の行使。
不作為。
相当の期間。
どれも栗まんじゅうほど親しみやすい言葉ではありません。
でも。
冷たいからこそ、
「かわいそうだから早くしてあげて」
ではなく、
「この申請に、いつまで答えないつもりですか」
と聞くことができる。
今日の教訓。
役所が動いたら、処分かどうかを見る。
役所が動かないなら、不作為かどうかを見る。
そして。
何も決めていないことは、
何も問題がないこととは違う。
私はお茶を相馬先輩の前に置きました。
「はい」
「遅い」
「三分ですよ」
「相当期間だ」
「短すぎます!」
「俺にとっては長い」
「主観で決めないでください!」
木下さんの栗まんじゅうは、
その日のうちに十二個全部なくなりました。
ちなみに。
処理時間は、
約七分。
こちらについては、
誰からも不作為の申立てはありませんでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




