[行政不服審査法1条・目的]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ法律が似合います。
電話が鳴らない。
来客も途切れる。
窓から差し込む西日が、書棚の背表紙を赤く染める。
そして窓際には、川瀬さんが置いていった黄色い菊。
花瓶代わりの空き瓶に一本だけ差さっています。
「……所長」
「何だ」
「これ、ちょっと曲がってません?」
「花は曲がる」
「そういう話じゃなくて」
「気になるなら直せ」
ですよね。
私は菊の向きを整えてから、自分の机へ戻りました。
目の前にはノート。
上には大きく、
――行政不服審査法第一条。
と書いてあります。
昨日までは、ここから先を書く気になれませんでした。
目的条文。
行政書士試験では重要。
穴埋め。
正誤問題。
キーワードを覚えましょう。
そういう単元です。
受験生だったころの私は、赤ペンを持って、
「はいはい、権利利益の救済ね」
と覚えていました。
でも。
川瀬さんの花売り台が不許可になり、
異議申立てをし、
市役所が判断を見直し、
さらに駅前整備関係の更新処分まで点検することになった。
そこまで見たあとでは。
一条が、もうただの暗記項目には見えません。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日は第一条です」
「勝手にやれ」
「付き合ってください」
「嫌だ」
「即答」
「俺は勉強会に参加する契約をしてない」
「では業務命令ということで」
「誰からだ」
私は奥を見ました。
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。
相馬先輩が黙りました。
強い。
これが行政庁なら、不服申立てを検討したいところです。
「じゃあまず」
私はノートに書きました。
行政不服審査法とは何か。
「行政庁の処分に不服がある人が、行政庁に対して見直しを求めるための制度」
「雑だな」
相馬先輩が言います。
「最初は雑でいいんです。あとで細かくします」
「試験でそれやると落ちるぞ」
「今から細かくします!」
嫌な先輩です。
でも、その指摘は正しい。
私は書き直しました。
行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為について、
違法又は不当だとして、
行政庁に不服申立てをするための制度。
「ここです」
私は『違法又は不当』のところに二重線を引きました。
「昨日、川瀬さんの件で一番大事だったところ」
相馬先輩が煙草を指に挟んだまま言います。
「違法だけじゃねえ、って話か」
「はい」
川瀬さんの駅前使用許可更新。
市は不許可にしました。
理由は、
駅前環境整備事業の円滑な実施のため。
けれど、具体的な工事時期は決まっていなかった。
しかも近くの新聞販売台や別の売り台は残る。
花売り台だけ更新しない。
ここで。
「この処分、明らかに法律違反でした、って簡単には言えませんでした」
「ああ」
「市に許可するかどうかの判断余地がある」
「毎年許可されてたからって、永久に使わせろとは言えねえ」
「そうです」
つまり。
違法か。
とだけ聞くと、少し難しい。
でも。
不当ではないか。
と聞くと、別の角度が出てくる。
「所長。不当って、どう説明するのが一番分かりやすいですか」
「適法かもしれないが、妥当ではない」
「短い」
「足りないか」
「いえ、むしろちょうどいいです」
私はノートに書きました。
違法。
法律に反する。
不当。
法律違反とまでは言えなくても、行政の判断として妥当性を欠く。
「ただし」
所長が続けました。
「不当という言葉を、単なる気に入らないと混同するな」
「はい」
「申立人が腹を立てているから不当になるわけではない」
「そこ大事ですね」
川瀬さんが、
三十年やってきたのにひどい。
常連客が困る。
生活が苦しい。
そう訴える。
もちろん切実です。
でも、それだけで処分が不当になるわけじゃない。
見るべきなのは、
行政目的。
判断に使った事情。
他の人との扱い。
必要性。
合理性。
そういうものです。
「川瀬さんの件なら」
私は整理しました。
「駅前整備のために本当に今すぐ花売り台を外す必要があったのか」
「うん」
「近くの他の売り台を残して、川瀬さんだけ不許可にする合理的理由があったのか」
「うん」
「処分自体が法令違反とまでは言えなくても、行政判断として行き過ぎていないか」
「そこだ」
所長が言いました。
私はノートに丸をつけました。
行政不服審査法。
対象は違法な処分だけではない。
不当な処分も対象。
ここは行政事件訴訟との大きな違い。
「裁判だと?」
相馬先輩が聞きます。
「基本的には違法性を争う」
「じゃあ不当だから取り消せ、って裁判所に言えばいいのか」
「それは駄目」
「なぜだ」
「裁判所は、行政判断が気に食わないから取り消すんじゃなくて、法的に違法かどうかを判断するから」
「そうだな」
そこです。
不服申立て。
行政内部の救済制度。
裁判。
司法による救済制度。
似ているようで役割が違う。
「じゃあ行政不服審査のほうが強いんですか?」
私は自分で言ってから、首をかしげました。
「違うな。強い弱いじゃない」
「そうだ」
所長が言います。
「見る範囲が違う」
なるほど。
裁判所は違法性を審査する。
行政不服審査では、違法だけでなく不当まで審査できる。
だから。
法律違反と断定できない行政判断でも、
行政自身に、
それ、本当に妥当だったのか。
と再考を求められる。
昨日の川瀬さんがまさにそれでした。
「だから、行政不服審査は行政内部の自己統制って意味もあるんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
私は次の見出しを書きます。
目的。
行政不服審査法の目的は、大きく二つ。
一つ。
国民の権利利益の救済。
二つ。
行政の適正な運営の確保。
「川瀬さんの件だと、前半は簡単ですね」
「言ってみろ」
「川瀬さんが半年間、花売りを続けられるようになった」
「うん」
「急に商売を止めずに済んだ」
「うん」
「代替場所を探す時間もできた」
「それが権利利益の救済」
「はい」
そして後半。
行政の適正な運営。
「昨日、沢渡課長から電話がありました」
私は思い出しました。
川瀬さんの申立てをきっかけに、
駅前整備関係の更新判断を全部点検し直すことになった。
課内で判断基準が統一されていなかったから。
「これが二つ目」
私は言いました。
「川瀬さん一人が救われて終わりじゃない」
「うん」
「その一件をきっかけに、役所の判断の仕方そのものが修正される」
「そうだ」
「それが行政の適正な運営」
私は思わずペンを止めました。
「第一条、ちゃんと二本立てなんですね」
相馬先輩が呆れた顔をします。
「当たり前だろ」
「受験生の頃は、二つとも暗記語句にしか見えなかったんですよ」
「かわいそうな頭だな」
「行政法受験生に謝ってください」
でも本当に。
権利利益の救済。
行政の適正な運営。
この二つは別々の綺麗事じゃない。
一件の不服申立てで、
一人の処分が見直される。
その過程で、
役所側の運用のまずさも見つかる。
そして次の処分が少しまともになる。
つながっています。
「だから不服申立てって」
私は言いました。
「行政と国民が殴り合う制度じゃないんですね」
「お前は何を想像してたんだ」
「もっと対決色が強いものを」
「現場はそんなに単純じゃねえ」
相馬先輩が煙草を消しました。
「役所の処分が全部悪意で出てくるなら楽なんだよ」
「そうですよね」
「大半は、担当者がそう判断した。前例がそうだった。忙しかった。基準が曖昧だった。誰も見直さなかった。そんなもんだ」
だからこそ。
見直す仕組みが必要になる。
行政不服審査制度は、
行政の敵を倒す剣というより、
行政の判断をもう一度机に戻す仕組み。
そんな感じです。
私はさらに書きます。
簡易迅速かつ公正な手続。
「ここも目的条文の重要語句ですね」
「試験に出るぞ」
相馬先輩が言います。
「急に受験指導っぽい」
「落ちたら面倒だからな」
「優しいのか雑なのか」
簡易。
迅速。
公正。
行政不服審査制度は、
裁判よりも簡易で迅速な救済を期待されている。
「川瀬さんも裁判所へ行ってません」
「弁護士を立てて訴訟したわけでもない」
「はい」
「行政庁に申立書を出して、行政の中で見直した」
「それが簡易迅速」
「ただし」
所長が口を挟みました。
「簡単という意味ではない」
「あ」
「書類も要る。期間もある。申立先も間違えられない」
「確かに」
制度として裁判より利用しやすい。
それと、
何も考えずに紙一枚出せば全部解決する。
は別です。
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
ここで、私の頭の中に再び未来の制度が出てきます。
審査請求。
三か月。
審理員。
行政不服審査会。
でも。
今は違う。
私はノートに大きく、
旧法。
と書きました。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「何がです?」
「お前がよく混乱するところ」
「否定できません」
旧法では。
異議申立て。
審査請求。
この二つが基本的な不服申立てとして併存していました。
「昨日の川瀬さんは異議申立てでした」
「ああ」
「なぜです?」
相馬先輩に振ります。
「俺に聞くのか」
「復習です」
「処分庁に上級行政庁がなかったからだろ」
「はい」
旧法では一般に、
処分庁に上級行政庁がある場合、
その上級行政庁に審査請求。
一方、
上級行政庁がない場合などには、
処分庁自身に異議申立て。
もちろん、個別法の特則などもあるので全部が単純ではありません。
でも基本像はそれです。
「昨日、私ちょっと思ったんですよ」
「何を」
「処分した本人に、『その処分おかしくないですか』って言うの、かなり独特だなって」
「異議申立てだからな」
「答案返した先生に、その答案もう一回採点してくださいって頼む感じ」
「お前の例えは学校から離れねえな」
でも。
ここが、現代制度を見ると面白いところです。
平成二十六年の全面改正後、
現在は原則として審査請求に一本化されています。
異議申立てという一般的な制度は廃止。
さらに。
審査請求の審理では、
原処分に関与していない職員を審理員として指名する仕組みが導入された。
行政不服審査会などへの諮問制度もある。
「昭和六十三年には、ありません」
私は念押しして言いました。
「何がだ」
「審理員制度」
「知らん」
「ですよね」
「存在しねえものを知らねえと言って何が悪い」
「正論です」
私はノートに書きます。
旧法。
異議申立てと審査請求が併存。
現代。
原則として審査請求へ一本化。
「これ、単に名称整理しただけじゃないんですよね」
「そうなのか?」
「はい」
私は昨日の沢渡課長の顔を思い浮かべます。
異議申立て。
処分庁自身が見直す。
もちろん、自己修正できるという利点はある。
現場事情を知っている。
処分の記録も近い。
迅速に是正できる場合もある。
でも一方で。
「自分で出した処分を、自分で審査する」
「まあな」
「申立人から見たら、本当に公平に見てもらえるのかって不安はあります」
「あるだろうな」
「昨日だって、もし沢渡課長が『うちは間違ってません』だけで固まる人だったら、もっと重かった」
「そうだな」
もちろん沢渡課長は、
感情論では動かない。
でも事実や法理が崩れれば、
そこは認める人です。
だから今回、見直しが進んだ。
でも制度全体として考えれば。
処分庁自身が審理する構造には、
公正さへの疑念がつきまといます。
「そこで現代法では」
私は言いました。
「審理員制度が入った」
「処分した担当本人が、そのまま審理するわけじゃないと」
「そうです」
「未来、細かいな」
「制度改正ってだいたい過去の困りごとから生まれますから」
ここで。
第一条の『公正』という言葉が、少し違って見えてきます。
簡易。
迅速。
そして公正。
単に早ければいいわけじゃない。
行政自身が判断し直す制度だからこそ、
公平な審理が重要になる。
「旧法の時代にも、公正は目的に含まれていました」
「でも制度としては今より弱かった」
「そういうことです」
だから後の改正で、
審理の公正性や透明性を高める仕組みが強化された。
私はノートに矢印を書きました。
旧法の課題。
不服申立ての種類が分かりにくい。
処分庁自身が判断する異議申立てがある。
公正性への不安。
現代法。
原則として審査請求へ一本化。
審理員制度。
行政不服審査会等への諮問。
「こうやって並べると」
私は言いました。
「改正理由が見えますね」
「単に受験生を苦しめるために制度変更したわけじゃねえと」
「当たり前です」
「お前はそう思ってそうだった」
「ちょっとだけ」
本当にちょっとだけです。
制度改正のたびに旧法と新法を両方覚える受験生には、そう思いたくなる夜もあります。
次。
申立期間。
「昨日、危なかったですね」
相馬先輩がにやりとします。
「何がです?」
「三か月って言いそうになってただろ」
「……見てました?」
「顔に書いてあった」
私はノートに大きく書きます。
昭和六十三年。
旧法。
原則六十日。
現代法。
原則三か月。
「ここ、転生者殺しですね」
「知らねえよ」
「現代知識で即答すると間違える」
「だから時代を見ろ」
「はい」
制度を学ぶとき。
条文だけじゃなく、
いつの法律か。
改正前か改正後か。
そこを確認しないと危険です。
行政法は特に。
制度名が似たまま、中身だけ変わっていることがあります。
「試験でも」
私は言いました。
「旧法知識と現行法知識をごちゃ混ぜにすると危ない」
「今の試験なら現行法を答えろ」
「もちろんです」
でもこの物語の私は昭和六十三年。
現場で使うのは旧法。
頭には未来法。
毎回、脳内で法改正年表が爆発します。
「所長」
「何だ」
「未来の法律知ってても、施行前なら役に立たないですね」
「当たり前だ」
「もう少し夢のある答えを」
「法律は施行されて初めて使える」
「はい」
夢がない。
でも正しい。
私は次の見出しを書きました。
行政不服審査法と行政事件訴訟法の違い。
「ここ、試験で混同しやすいです」
「言ってみろ」
行政不服審査法。
違法又は不当な処分。
行政事件訴訟法。
違法な処分。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「不当まで見るのが不服審査」
「はい」
「違法を見るのが訴訟」
「基本的な整理はそれです」
「だったら全部まず不服申立てすりゃいいのか」
「そこはまた別です」
「ほら来た」
行政法。
単純に言い切ると次の罠が来る。
不服申立てを経ないと裁判できない場合もあれば、
原則として直ちに取消訴訟を提起できる場合もある。
個別法によって例外もある。
でも今日は第一条。
深追いしません。
「今日覚えるのは対象の違いです」
「逃げたな」
「範囲管理です」
次。
行政手続法との目的の違い。
ここも試験では混ぜられやすい。
行政不服審査法。
処分が出たあと。
不服申立てによって、
権利利益を救済し、
行政の適正な運営を確保する。
一方。
行政手続法。
処分などをする手続について共通事項を定め、
行政運営における公正の確保と透明性の向上を図り、
国民の権利利益の保護に資する。
「似てます」
私は言いました。
「かなり似てます」
「だから試験に出る」
「ですよね」
私は線を引きました。
行政手続法。
主に行政が処分などをする『前後の手続』を整える。
行政不服審査法。
出された処分に不服がある場合の『事後救済』。
「雑に言えば」
相馬先輩が言いました。
「手続法は、最初からちゃんとやれ」
「はい」
「不服審査法は、やったあとおかしかったら見直せ」
「すごく雑ですけど、方向は合ってます」
「じゃあ使え」
私はノートの端に書きました。
行政手続法。
ちゃんと決めるためのルール。
行政不服審査法。
決めたあと、見直すためのルール。
「試験答案には書けませんけど、覚えるにはいいですね」
「俺の説明を馬鹿にすんな」
「褒めてます」
ここで。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「もう一つある」
「何です?」
「第一条二項」
私はページをめくりました。
行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為に関する不服申立てについては、
他の法律に特別の定めがある場合を除き、
行政不服審査法による。
「つまり一般法」
「そうだ」
行政不服審査法は、
行政処分への不服申立てについての一般的なルール。
ただし、
個別の法律に特別な不服申立ての仕組みがあれば、そちらが優先することがある。
「他の法律に特別の定めがある場合を除く」
私はそこに線を引きます。
「この一言、大事ですね」
「行政法は例外が多い」
「本当に多い」
一般法を覚えたあと、
特別法に殴られる。
受験生あるあるです。
でも実務ではもっと重要。
申立てをする前に、
その処分について特別な救済制度がないか。
個別法を確認しなければならない。
「川瀬さんの件では、特別法の不服申立てじゃなかった」
「だから一般法の仕組みを使った」
「はい」
私はノートを少し見直しました。
第一条。
思ったより情報量があります。
対象。
違法又は不当な処分。
制度の性格。
簡易迅速かつ公正。
目的。
国民の権利利益の救済。
行政の適正な運営の確保。
一般法としての位置づけ。
特別法優先。
「これ、ただの挨拶文じゃないんですね」
相馬先輩が呆れます。
「法律の第一条を挨拶文だと思ってたのか」
「目的条文って、昔は『はいはい理念ですね』って飛ばしがちだったので」
「受験生として最悪だな」
「反省してます」
でも。
今回の事件を経たあとなら。
第一条の言葉が全部、現場に置き換えられます。
違法又は不当。
川瀬さんの処分は、直ちに違法と断定しにくかった。
でも不当かもしれなかった。
簡易迅速。
裁判所へ行かず、行政内部で早期に見直しを求めた。
公正。
処分をした行政自身が判断し直すからこそ、公平な手続が重要になる。
権利利益の救済。
川瀬さんは半年間、商売を続けられることになった。
行政の適正な運営。
市役所は駅前整備関係の更新判断を全件点検することになった。
「所長」
「何だ」
「第一条って、川瀬さんの事件そのままですね」
「法律は、現場のためにある」
短い。
でも重い。
私は窓際の菊を見ました。
昨日までなら。
不服申立て。
行政内部救済。
違法又は不当。
権利利益の救済。
行政の適正な運営。
全部眠い言葉でした。
でも。
あの花売り台を思い出すと、
全部に顔がつく。
行政法って、
人の名前がつくと急に覚えられるんですね。
「じゃあ試験対策」
相馬先輩が言いました。
「突然やる気ありますね」
「暇だからな」
「言い方」
「第一問」
煙草の箱を机に置きます。
「行政不服審査法は、違法な処分だけを対象とする」
「誤り。不当な処分も対象」
「第二問。行政事件訴訟では、不当な処分も当然に取消しの対象となる」
「誤り。行政事件訴訟では違法性が問題になる」
「第三問。行政不服審査法の目的は、国民の権利利益の救済だけである」
「誤り。行政の適正な運営の確保も目的」
「第四問」
相馬先輩がにやっとしました。
「昭和六十三年の異議申立期間は三か月」
「誤り! 六十日!」
「勢いだけはいいな」
「昨日危なかったので、もう間違えません」
「第五問。昭和六十三年には審理員制度がある」
「ありません!」
「第六問。現代でも異議申立てと審査請求が一般的な二本柱だ」
「違います。現在は原則として審査請求に一本化」
「珍しく全部合ったな」
「珍しくは余計です」
片桐所長が静かに言いました。
「最後」
「はい?」
「目的を言え」
う。
条文問題。
これが一番怖い。
私は少し姿勢を正しました。
「行政庁の違法又は不当な処分その他公権力の行使に当たる行為について」
「うん」
「国民が、簡易迅速かつ公正な手続の下で、広く行政庁に対する不服申立てをすることができるための制度を定めることで」
「うん」
「国民の権利利益の救済を図るとともに」
「うん」
「行政の適正な運営を確保すること」
所長が頷きました。
「それでいい」
よし。
試験会場ではありませんが、ちょっと嬉しい。
「ただ」
所長が続けます。
「丸暗記だけするな」
「はい」
「なぜ不当まで見る」
「行政内部だから、適法性だけでなく妥当性まで見直せるから」
「なぜ簡易迅速が要る」
「裁判だけでは、住民にとって負担が大きいから」
「なぜ公正が要る」
少し考える。
「行政が行政自身の処分を見直す制度だからこそ、審理の公平さが必要」
「なぜ行政の適正な運営まで目的に入っている」
「一件の申立てが、本人の救済だけじゃなく、役所側の運用改善にもつながるから」
所長はもう一度頷きました。
「そこまで分かれば忘れん」
本当に。
たぶん忘れません。
私はノートの最後に、
大きく囲って書きました。
――違法だけを見るな。不当まで拾う。
その下にもう一行。
――一人を救って、行政も直す。それが不服審査。
「二行じゃねえか」
相馬先輩が言いました。
「どっちも捨てがたいんです」
「一行の覚え書きだろ」
「じゃあまとめます」
少し考えます。
そして書きました。
――不服審査は、「違法か」だけで終わらず、人を救い、行政も正す。
「長い」
「内容が大事です」
「試験直前に見ても覚えにくいぞ」
「では超短縮版」
その下に書き足します。
――違法・不当を見直して、人も役所も救う。
相馬先輩が黙りました。
「どうです?」
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めた」
「気のせいだ」
またそれです。
窓の外を見ると、駅前の灯りがつき始めていました。
あの先で。
明日の朝も川瀬さんは花を並べます。
半年後のことは、まだ分かりません。
駅前整備は進む。
代替場所も探さなければならない。
いつか、あの場所を離れる日は来るかもしれない。
でも。
行政不服審査法は、
永遠にあの場所を守る魔法ではありません。
理不尽な処分を全部消してくれる魔法でもない。
ただ。
一度出された処分に対して、
本当にこれでいいのか。
違法ではないか。
不当ではないか。
もう一度見直す道を残している。
役所が自分で出した答えを、
自分で修正する余地を制度として残している。
それだけです。
でも。
人が困ったとき、
「もう決まりました」
の一言で全部を終わらせない制度がある。
それは、たぶんかなり大きい。
法律の言葉は冷たい。
違法。
不当。
処分。
不服申立て。
どれも、やっぱり花の名前には向きません。
けれど。
冷たい言葉だからこそ、
誰が泣いたかだけではなく、
何が妥当だったかを冷静に見直せる。
そしてその冷たさが、
結果として誰かの生活に時間を返すことがある。
川瀬さんに返ったのは、
たった半年です。
でも。
明日店を畳むしかなかった人にとって、
半年は、
たった半年ではありません。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が言います。
「はい」
「じゃあ帰るぞ」
「待ってください」
「何だ」
私は窓際の菊を指しました。
「所長、水替えろって言ってましたよね」
「お前の仕事だろ」
「行政の適正な運営のために、業務分担を見直しません?」
「却下」
「不当です」
「違法じゃねえ」
「だから不当も争えるって今日やったでしょう!」
相馬先輩が吹き出しました。
奥で片桐所長まで、ほんの少し口元を緩めます。
「こはる」
「はい」
「異議申立てするか」
「します」
「申立先は?」
「所長です」
「結論は?」
「まだ聞いてません」
「棄却」
「早い!」
「簡易迅速だ」
「また公正が抜けてます!」
どうやら。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所では、
行政不服審査法第一条の理念が完全に浸透するまで、
もう少し時間がかかりそうです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




