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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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117/410

[行政不服審査法1条・目的]現場編 「違法じゃなければ、もう争えません」の嘘。裁判では拾えない“不当”をすくい上げる、不服申立てという二本目の道

挿絵(By みてみん)

 役所に「違法ではありません」と言われると、それだけで話が終わったような気がします。


 法律には違反していません。


 規則にも反していません。


 担当者にも権限があります。


 だから、問題ありません。


 ――いや。


 そこで終わるなら、たぶん「不当」という言葉は、法律の中にわざわざ置かれていません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の朝、私は一枚の紙を三回読みました。


 一回目。


 意味が分からなかった。


 二回目。


 意味は分かった。


 三回目。


 腹が立ちました。


「先輩」


「何だ」


「これ、感じ悪くないですか」


「役所の通知なんざ、だいたい感じ悪い」


「行政法への偏見が強い」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、私の手元を覗き込みました。


 紙には、こうあります。


 ――駅前公共用地使用許可更新申請について、不許可とする。


 申請者。


 川瀬千代。


 駅前で小さな花売り台を出している、六十七歳の女性でした。


 駅の西口。


 古いバス停の脇。


 幅一間もない木製の台に、季節の花を並べる。


 菊。


 カーネーション。


 仏花。


 ときどき鉢植え。


 三十年近くそこで商売してきたそうです。


 市の土地を使うため、毎年使用許可を取っていた。


 ところが今年。


 更新を申し込んだら、不許可。


 理由は一行だけでした。


 ――駅前環境整備事業の円滑な実施のため。


「これだけですか」


 私は聞きました。


 向かいの椅子に座った川瀬さんは、膝の上でハンカチをぎゅっと握りました。


「そうなんです」


「事前に、何か話は?」


「去年までは、今年も同じように申請してくださいって」


「今年になって急に?」


「はい」


「移転先とか、代わりの場所は」


「ありません」


 声は静かでした。


 怒鳴り込んできた人ではありません。


 むしろ、怒る体力さえ使い切ってしまったような声でした。


「花屋さんは店舗もあるんですか」


「ないんです。あそこだけ」


 その一言が重かった。


 駅前の台が、そのまま店なのです。


 川瀬さんは夫を亡くしてから、一人で花を売ってきた。


 朝、市場へ行く。


 昼まで駅前に立つ。


 夕方には片付ける。


 雨の日は休む。


 それで大きく儲かるわけではない。


 けれど生活費の足しにはなる。


 それ以上に。


「毎月二十五日にね」


 川瀬さんが少し笑いました。


「お寺へ行く人が仏花を買ってくれるんです。もう顔も覚えちゃって」


「……なるほど」


「『来月も頼むね』って言われてたんですけどねえ」


 だから困っている。


 でも。


 行政法というのは、困っているというだけでは動いてくれません。


 そこが冷たい。


 そして、その冷たさが必要でもある。


 私は通知をひっくり返しました。


 裏面。


 教示らしきものがあります。


 不服がある場合の申立てについて、短い記載。


 日付も確認する。


「届いたのはいつです?」


「五日前です」


 期間はまだ問題なさそう。


 私は少し安心しました。


 その瞬間、頭の中に現代の知識が顔を出します。


 審査請求。


 三か月。


 審理員。


 行政不服審査会。


 ――違う。


 私は額を押さえました。


「どうした」


 相馬先輩が言いました。


「また未来を見たみたいな顔してるぞ」


「気のせいです」


 危ない。


 ここは昭和六十三年です。


 現代の行政不服審査法をそのまま持ち込んだら、盛大に事故ります。


 今の制度なら、原則として審査請求に一本化されています。


 でも、この時代は違う。


 審査請求と異議申立て。


 二本立て。


 しかも期間も今の三か月じゃない。


 六十日。


 受験生の頭の中では一枚の表で済んでいた新旧比較が、現場に来ると急に地雷原になります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「何が気になる」


「理由です」


「そこか」


「はい」


 私は通知の一行を指しました。


「『駅前環境整備事業の円滑な実施のため』。これだけだと、川瀬さんだけ更新しない理由が分かりません」


 相馬先輩が腕を組みます。


「駅前から露店を全部どかすんじゃねえのか」


「それなら話は分かります」


「違うのか?」


 川瀬さんが顔を上げました。


「違います」


「え?」


「隣の新聞屋さんは、今年も置いていいそうです」


 私は止まりました。


「……新聞屋さん?」


「駅の向こうのたばこ屋さんも」


「許可、出たんですか」


「出たって」


 はい。


 来ました。


 行政法でいちばん嫌な感じがする瞬間。


 同じように見える人のうち、一人だけ扱いが違う。


「場所が違う可能性は?」


「すぐ近くです」


「面積は」


「うちより大きいです」


「期間は」


「ずっとです」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「市役所行くぞ」


「早いですね」


「こういうのは、紙見て唸ってても増えねえ」


「何がです?」


「情報だ」


 正論。


 口は悪いのに、ときどき教科書より良いことを言うから困ります。


 片桐所長が立ち上がりました。


「川瀬さん。今日は事情を確認してきます」


「許可、戻りますか」


 その質問に、所長はすぐ答えませんでした。


「まだ分かりません」


 ぬか喜びをさせない。


 でも、そのあと。


「ただし、『役所が決めたから終わり』ではありません」


 川瀬さんの指が、ハンカチから少し離れました。


 市役所の二階。


 総務課。


 駅前整備関係の書類が積まれた机の向こうにいたのは、見慣れた顔でした。


「また片桐先生ですか」


 沢渡課長。


 灰色の背広。


 細い眼鏡。


 感情という感情を役所の地下書庫へ保管してきたような人です。


「今度は何でしょう」


 相馬先輩が通知を置きました。


「川瀬千代さん。駅前の使用許可更新、不許可」


「ああ」


 知っていました。


「駅前整備の件ですね」


「不許可理由を聞きたい」


「通知にあります」


「『駅前環境整備事業の円滑な実施のため』だけだ」


「理由でしょう」


 会話が乾燥しています。


 冬場の静電気くらい乾燥しています。


 私は横から口を挟みました。


「川瀬さんの売り台が、具体的に何の支障になるんですか」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さんでしたね」


「覚えてたんですか」


「よく来るので」


 できれば行政書士見習いとしては、褒め言葉だと思いたい。


「駅前整備では、歩行者動線の確保、景観の統一、防災上の空間確保など、複数の事情があります」


「それなら、隣の新聞販売台は?」


 一瞬。


 沢渡課長の視線が止まりました。


「新聞販売台?」


「更新されたと聞きました」


「用途が違います」


「たばこ屋さんの外売り台も?」


「個別事情があります」


「どんな事情です?」


「個別案件については――」


「本人の案件だけでいい」


 相馬先輩が遮りました。


「川瀬さんの花売りが、なぜ駄目なのか」


 沢渡課長は少しだけ背もたれへ体重を預けました。


「行政財産に準じた管理上の判断です。更新が当然に認められる性質のものではありません」


 なるほど。


 そこを突いてきますか。


 川瀬さんに「ずっと使わせろ」という権利が当然にあるわけではない。


 毎年許可を受けていたからといって、来年も必ず許可されるとは限らない。


 そこは分かる。


 私は頭の中で整理しました。


 違法か。


 不当か。


 裁量。


 公平性。


 目的。


 判断過程。


 昨夜までだったら、この辺りで脳が「あとでやろう」と言い始めます。


 でも今、川瀬さんの花売り台が頭に浮かんでいる。


 不思議です。


 人が一人困っているだけで、眠かった単語が全員起きてくる。


「課長」


 私は言いました。


「じゃあ聞き方を変えます」


「どうぞ」


「この不許可は、法律に明確に違反している処分なんですか」


 沢渡課長が眉を上げました。


「こちらが自分で違法だと言うと思いますか」


「思いません」


「では?」


「違法じゃないとしても、適切だったかは別ですよね」


 相馬先輩が横で、ほんの少しこちらを見ました。


 沢渡課長も黙ります。


 私は続けました。


「行政不服審査って、違法な処分だけを見る制度じゃないですよね」


 部屋が少し静かになりました。


 そこです。


 今日、私の中で一番引っかかっていたもの。


 不当。


 裁判なら、「違法か」が中心になる。


 でも行政不服審査は違う。


 違法だけではない。


 不当な処分も対象になる。


 つまり、


 法令に真っ向から反しているとまでは言えない。


 役所に一定の裁量がある。


 だから裁判では簡単ではない。


 そんな場面でも。


 行政内部の不服申立てなら、


 その判断、本当に妥当だったのか。


 そこまで見直しを求められる余地がある。


「朝比奈」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「論点で喋るな」


「今かなり大事なところですよ」


「川瀬さんの話に戻せ」


「はい」


 翻訳しろ、ということですね。


 私は沢渡課長を見ました。


「花売り台だけ外す理由が、本当に駅前整備の目的と結びついているのか。ほかの売り台を残して、川瀬さんだけ不許可にする扱いが適切なのか。その判断をもう一度見てもらう余地はありますよね」


「不服申立てをする、と?」


「必要なら」


 沢渡課長は、驚きませんでした。


 むしろ少し面白そうに、通知書を見ました。


「申立てをすること自体は自由です」


「処分庁は市長名義です」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「上級行政庁はない」


「ええ」


「なら、この件で取るべき手続は分かるな」


「異議申立てですね」


 沢渡課長が答えました。


 私は心の中で「ああ、昭和!」と叫びました。


 出ました。


 異議申立て。


 現代のテキストでは、歴史のページに追いやられがちな言葉です。


 でも昭和六十三年では現役。


 しかも。


 この制度、冷静に考えると独特です。


 処分した側に、


 「あなたの処分、おかしくないですか」


 ともう一回見てもらう。


 本人に本人の答案を採点し直してもらう感じ。


 そりゃ旧法の課題にもなります。


 現代で原則として審査請求へ一本化され、審理員制度まで用意された理由の一端が、急に体感として分かる。


 でも。


 今は昭和です。


 昭和には昭和の武器で戦うしかありません。


「期間は」


 相馬先輩が私を見る。


「え」


「申立期間」


 反射的に、


 三か月。


 と答えそうになって飲み込みました。


「……六十日」


「そうだ」


 危なかった。


 未来人、一点失うところでした。


 沢渡課長の口元がほんの少し動きました。


「何です?」


「いえ」


「笑いました?」


「気のせいでしょう」


 絶対笑った。


 この人、そのうち私の時代錯誤を楽しみ始める気がします。


 片桐所長が通知書を指で軽く叩きました。


「課長。ひとつ確認したい」


「何でしょう」


「川瀬さんの不許可について、個別の検討記録はあるか」


「あります」


「他の使用者との比較は」


 少し間。


「担当課で判断しています」


「比較した記録は」


「……確認します」


「駅前整備計画上、川瀬さんの場所をいつから工事や通行空間として使う予定だ」


 また間。


「現時点では、具体的な工事着手日は確定していません」


 相馬先輩の眉が上がります。


「おい」


「何でしょう」


「工事日は決まってない。隣の台は残る。花屋だけ更新しない。で、理由が『事業の円滑な実施』?」


「計画は段階的に進めています」


「便利な言葉だな」


 相馬先輩の声が低くなりました。


「円滑な実施」


 沢渡課長は動じません。


「行政には一定の裁量があります」


「そこは否定してねえ」


 相馬先輩が身を乗り出します。


「裁量があるってのは、説明しなくていいって意味じゃねえだろ」


 おお。


 先輩。


 今日ちょっと格好いい。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「申立書を作れ」


「はい」


「感情は書くな」


「はい」


「『三十年やってきたのにかわいそうだ』でもない」


「はい」


「整理するのは事実だ」


 私は頷きました。


 三十年継続して許可されてきたこと。


 今回初めて更新不許可となったこと。


 理由は駅前環境整備事業の円滑な実施とされていること。


 しかし具体的な工事時期は未確定。


 近接する他の使用者には更新が認められていること。


 川瀬さんだけを不許可とする事情が通知から明らかでないこと。


 駅前整備という目的に照らして、その差異ある取扱いに合理的な理由があるのか。


 そして。


 仮に直ちに違法とまでは断定できなくても、


 不当な判断ではないか。


 そこを行政自身に見直させる。


 なるほど。


 これが不服審査か。


 市役所から戻る途中、相馬先輩が言いました。


「お前、さっき妙な顔してたな」


「いつです?」


「異議申立てって聞いたとき」


「現代では消えた制度なので」


「また訳分からんこと言ってるな」


「未来では、原則として審査請求に一本化されるんですよ」


「へえ」


「しかも、審理員っていう、処分に関与してない職員が審理する仕組みが――」


「待て」


「はい」


「俺は未来の試験を受けねえ」


「そうでした」


「今使える制度で仕事しろ」


「はい」


 ぐうの音も出ません。


 転生者、制度改正の知識があっても施行前には無力。


 行政法はタイムトラベラーにも容赦がない。


 事務所へ戻ると、川瀬さんがまだ待っていました。


「どうでした」


「不服申立てをします」


 私が言うと、川瀬さんは不安そうな顔になりました。


「裁判ですか」


「いえ」


「裁判所へ?」


「行きません」


「弁護士さんを頼まないと?」


「今回は、まず行政の中で見直しを求めます」


「役所に?」


「はい」


 川瀬さんは、ぽかんとしました。


「役所が、自分で出したものを見直すんですか」


「そこなんですよね」


 思わず本音が漏れました。


 片桐所長がこちらを見ます。


「こはる」


「すみません」


 でも、川瀬さんは少し笑いました。


「変な仕組みねえ」


「私もそう思います」


「おい」


 相馬先輩が睨みます。


「でも」


 私は続けました。


「裁判より身近で、早く、役所自身に判断を見直してもらうための仕組みなんです」


「私みたいなのでも使えるんですか」


「使えます」


「法律なんて、何にも分からないけど」


「だから私たちがいます」


 言ってから、ちょっと格好つけすぎた気がしました。


 相馬先輩を見る。


「何ですか、その顔」


「別に」


「笑いました?」


「気のせいだ」


 今日みんな気のせいで逃げすぎです。


 三日後。


 異議申立書は完成しました。


 片桐所長が余計な形容詞を全部削り、


 相馬先輩が現場の位置関係を確認し、


 私は処分日、到達日、対象となる許可、他の使用者の状況を一覧にしました。


 申立書に書いたのは、


 「川瀬さんはかわいそうです」


 ではありません。


 この不許可判断について、


 駅前環境整備事業との具体的関連性が明らかでない。


 近接する同種・類似の占用または使用について更新が認められている。


 それにもかかわらず川瀬さんのみ更新を認めない合理的理由が示されていない。


 したがって、処分の妥当性について再検討を求める。


 そんな内容でした。


 市役所へ提出すると、沢渡課長は黙って受け取りました。


「受理します」


「お願いします」


「取消しになるとは限りませんよ」


「分かっています」


「申立てをすれば役所が折れる、という制度ではありません」


「それも分かってます」


 私は一度息を吸いました。


「でも、申立てをした以上、今までみたいに『もう決まりました』だけでは済みませんよね」


 沢渡課長が私を見る。


「……そうですね」


「なぜこの人だけ駄目なのか。処分が適切だったのか。記録を見て、もう一回判断してもらう」


「それが不服申立てですから」


 この人。


 敵なのか先生なのか、たまに分からなくなります。


 それから十日ほど後。


 片桐事務所へ、市役所から電話がありました。


 相馬先輩が出ます。


「はい。……ああ。……分かった」


 短い。


 切る。


「どうでした?」


「処分、見直すってよ」


「え?」


「全面取消しじゃねえ」


 私の浮きかけた気持ちを、先輩が先に止めました。


「駅前整備が始まるまでの期間限定。半年更新」


「半年」


「その間に代替場所を協議する」


 私は椅子から立ち上がりました。


「つまり、少なくとも今すぐ廃業しなくていい」


「そういうことだ」


 そこへ、所長が奥から出てきます。


「理由は」


「内部で再確認したら、川瀬さんの場所は第一期工事区域から外れてたらしいです」


「……え?」


「担当課が将来の整備区域までまとめて整理しようとしてた」


 私は数秒黙りました。


「つまり」


「ああ」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「法律に明確に違反してたとは言い切れんかもしれん。だが、急いで排除する必要まではなかった」


 不当。


 その二文字が、頭の中ではっきり形になりました。


 違法かどうかだけなら、見落としていたかもしれない。


 権限はある。


 許可更新が当然の権利でもない。


 駅前整備という行政目的も存在する。


 それでも。


 本当に今、不許可にする必要があったのか。


 他の人を残して、この人だけ外すことが妥当なのか。


 そこをもう一度見れば、


 役所自身が、


 ちょっとやりすぎた。


 と戻れる。


「行政不服審査って」


 私は呟きました。


「間違った行政を叩くためだけじゃないんですね」


 片桐所長が私を見る。


「どういう意味だ」


「行政が、自分で直すための仕組みでもある」


 所長は少しだけ頷きました。


「そうだ」


 その日の午後。


 川瀬さんが事務所へ来ました。


 結果を伝えると、しばらく何も言いませんでした。


「半年だけです」


 私は言いました。


「その先は、まだ分かりません」


「いいんです」


 川瀬さんは笑いました。


「春のお彼岸までは、あそこで花を売れるんでしょう?」


「はい」


「じゃあ十分です」


 十分。


 本当は十分じゃないかもしれません。


 半年後にはまた問題が来る。


 代替場所が見つからないかもしれない。


 駅前整備だって止まらない。


 でも。


 昨日まで、


 「不許可です」


 の一言で閉じていた扉が、


 半年分だけ開いた。


 その半年で、次の場所を探せる。


 客にも説明できる。


 商売を畳むにしても、明日突然ではない。


 人は、時間があるだけで救われることがあります。


「これ」


 川瀬さんが大きな紙包みを机に置きました。


「何です?」


「売れ残り」


 開く。


 色とりどりの小さな花束。


「いや、これ高くないですか」


「商品にならない半端ばっかりよ」


「十分きれいです」


「事務所に飾って」


 相馬先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。


「花か」


「何ですか」


「食い物じゃねえのか」


「最低」


「差し入れは腹に入るものだろ」


「先輩の差し入れ観が原始的すぎます」


 川瀬さんが笑いました。


「じゃあ今度、おはぎ持ってきます」


「お願いします」


「即答しないでください!」


 片桐所長は、花束の中から黄色い菊を一本取りました。


 窓際の空き瓶に差す。


「所長、飾るんですね」


「悪いか」


「いえ。ちょっと意外で」


「水を替えろ」


「私ですか」


「見習いだろ」


 行政書士見習いの職務範囲が今日も広い。


 川瀬さんが帰ったあと。


 私は机に戻って、通知書の写しをもう一度見ました。


 不許可。


 たった三文字。


 行政処分は、紙の上では短い。


 でも、その三文字の向こう側には、


 明日の仕入れ。


 来月の家賃。


 馴染みの客。


 春のお彼岸。


 そういう生活がぶら下がっています。


 そして、不服申立てという制度もまた、


 条文の上ではひどく無機質です。


 違法又は不当な処分。


 簡易迅速。


 権利利益の救済。


 行政の適正な運営。


 受験テキストで見たときには、


 暗記してください。


 はいはい。


 赤線引きます。


 くらいの気持ちでした。


 でも今日。


 「不当」という言葉がなかったら。


 川瀬さんの話は、


 明確な法律違反ではありませんね。


 で終わっていたかもしれない。


 私はノートを開きました。


 ――行政不服審査法第一条。


 そこまで書いて、止める。


「何だ」


 相馬先輩が聞きます。


「続き書かねえのか」


「今日はまだいいです」


「珍しいな」


「目的条文って、今まで暗記するだけだと思ってました」


「違うのか」


「今日ちょっとだけ分かりました」


 私は窓際の菊を見ました。


「違法を直すだけじゃないんですよ」


「うん」


「不当まで拾う」


「うん」


「本人を救うだけでもない」


 相馬先輩がこちらを見る。


「役所の処分を、役所自身にもう一度見直させる」


「そうだな」


「だから、権利利益の救済と、行政の適正な運営」


「急に教科書みたいになったな」


「今、そこに感動してるんですよ」


「安い感動だな」


「行政法受験生にとっては大事件です」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「目的を忘れるな」


「はい?」


「手続を覚えると、手続そのものが目的に見えてくる」


 短い言葉でした。


「異議申立てか、審査請求か。何日以内か。どこへ出すか。全部大事だ」


「はい」


「だが、そのために制度があるわけじゃない」


 私はノートを見ます。


「人を救うため」


「それだけでもない」


 少し考えました。


「あ」


「行政を、ちゃんと運営させるため」


「そうだ」


 なるほど。


 片方だけじゃない。


 国民の権利利益を救う。


 同時に、


 行政自身の間違いも正す。


 一件の不服申立てが、


 一人を救うだけじゃなく、


 次の処分を少しまともにするかもしれない。


 制度の冷たさが、そこで初めて少し温かく見えました。


 窓の外では、駅の方へ向かうバスが走っていました。


 その先で明日の朝も、


 川瀬さんは花を並べるのでしょう。


 少なくとも、あと半年。


 私はノートの端に、一行だけ書きました。


 ――「違法じゃない」で終わらない。不服審査は“不当”まで拾う。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓です」


「聞いてねえ」


「役所に『違法じゃありません』と言われたら?」


「帰る」


「帰っちゃ駄目です!」


「じゃあ何だ」


「『では、その判断は本当に妥当ですか』」


 相馬先輩が少し笑いました。


「面倒な女になったな」


「行政法に育てられました」


「ろくな育ち方じゃねえ」


 そのとき電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 来た。


「はい」


『川瀬さんの件ですが、一つ伝えておきます』


「何でしょう」


『今回、駅前整備関係の更新判断を全部点検し直すことになりました』


 私は一瞬、黙りました。


「全部?」


『ええ。基準が課内で統一されていない部分がありましたので』


「……そうですか」


『朝比奈さん』


「はい」


『行政に不服を申し立てる人というのは、役所からすると面倒です』


「いきなり本音ですね」


『ですが』


 沢渡課長が続けました。


『面倒だからこそ、見落としが見つかることもあります』


「課長がそれ言うんですね」


『私は合理的なだけです』


「知ってます」


『では』


 電話が切れました。


 受話器を置く。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きました。


「駅前の更新判断、全部見直すそうです」


「へえ」


「川瀬さん一人の申立てで」


 所長が窓際の花を見ました。


「それでいい」


 たった一件。


 花売り台ひとつ。


 半年間。


 大事件ではありません。


 新聞にも載らないでしょう。


 でも。


 一人が「おかしい」と言ったことで、


 役所がほかの処分まで見直す。


 それが、


 行政の適正な運営を確保する。


 という言葉の正体なのかもしれません。


 私はまだ、一条をちゃんと整理できてはいません。


 旧法と現代法の違いもある。


 異議申立て。


 審査請求。


 六十日。


 現代なら三か月。


 そして未来には、


 処分した側だけで話を閉じないようにする仕組みも増えていく。


 どうして変わったのか。


 何が問題だったのか。


 今日の沢渡課長とのやり取りを思い出すと、何となく輪郭だけは見えてきます。


 でも、それは次にノートを開くときに整理すればいい。


 今日覚えたのは、もっと単純なことでした。


 行政不服審査法は、


 役所を責めるためだけの法律じゃない。


 間違えた行政に、


 もう一度考える機会を与える法律でもある。


 そして、その見直しの範囲は、


 「違法ですか」


 だけでは終わらない。


 「それ、本当に妥当ですか」


 まで届く。


 法律の言葉は冷たいです。


 違法。


 不当。


 処分。


 不服申立て。


 権利利益。


 適正な運営。


 どれも花の名前には向きません。


 でも、その冷たい言葉があったから、


 明日の朝も駅前に花が並びます。


 窓際の黄色い菊が、西日を受けて少しだけ明るく見えました。


「こはる」


「はい」


「水」


 所長が言いました。


「花の?」


「そうだ」


「今替えたばっかりですよ」


「少ない」


「細かいなあ」


 相馬先輩が笑います。


「不服があるなら申し立てろ」


「誰にですか」


「所長に」


「本人じゃないですか!」


 処分庁へ本人が申し立てる。


 昭和六十三年。


 どうやら、うちの事務所にも異議申立て制度はしっかり根付いているようです。


 ただし。


「所長。異議があります」


「却下」


「早い!」


「簡易迅速だ」


「公正が抜けてます!」


 窓際の菊だけが、何も言わずに揺れていました。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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