[行政手続法46条・地方公共団体の措置]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ勉強に向いています。
電話が減る。
来客も途切れる。
タイプライターの音も止まる。
そして何より。
「……クッキーがありません」
「食った」
相馬先輩が言いました。
「全部?」
「全部じゃない。最後の一枚は所長だ」
「共犯が上司だった」
奥で新聞を読んでいた片桐所長が、顔も上げません。
「昨日の残りだ」
「私、昨日一枚しか食べてませんけど」
「知らん」
「公正の確保!」
「菓子の配分に行政法を持ち込むな」
はい。
今日のテーマにちょうどいいですね。
私は諦めて机に座り、昨日題名だけ書いたノートを開きました。
――地方公共団体の措置。
字面だけ見ると、ものすごく地味です。
行政主体。
行政行為。
取消訴訟。
国家賠償。
その辺にはまだ、事件の匂いがあります。
でも。
地方公共団体の措置。
急に役所の会議資料みたいになります。
受験生だったころの私なら、たぶん蛍光ペンを引いて、そのまま記憶から消していました。
ところが昨日。
水野さんの市民会館の件を経験したあとでは、そうもいきません。
申請書を受け取らない。
優先基準を見せない。
判断を書面にしない。
理由も説明しない。
なのに、
「市で決まったことです」
だけは妙に強い。
あれを見てしまうと、この単元が急に現場の顔を持ちます。
「相馬先輩」
「何だ」
「昨日の市民会館の件、整理していいですか」
「勝手にしろ」
「質問します」
「勝手にするんじゃなかったのか」
「一人だと寝るので」
「知らん」
私はペンを持ちました。
「まず、市民会館って市の施設ですよね」
「ああ」
「使用許可も、市の条例に基づいて市がする」
「そうだな」
「じゃあ国の法律は関係ないんですか」
相馬先輩がこちらを見ました。
「雑な聞き方するな」
「昨日、向こうがほぼそれを言ってたじゃないですか。“市のことは市で決める”って」
「市の条例に基づくからといって、国の法秩序から消えるわけじゃない」
「ですよね」
「憲法も法律もある。裁判にもなる」
「じゃあ何が問題なんでしょう」
「お前が説明しろ」
「やっぱりそう来ますか」
私はノートに大きく三つ書きました。
国。
地方公共団体。
手続。
そして、心の中で未来の条文を開きます。
行政手続法第三条第三項。
行政手続法第四十六条。
今はまだ存在しません。
昭和六十三年ですから。
でも、私は知っている。
数年後に作られる行政手続法では、地方公共団体の機関がする一定の行為について、国の行政手続法の規定をそのまま適用しない扱いが置かれます。
ただし。
そこで終わらない。
「所長」
「何だ」
「仮に、国が行政手続について一般的な法律を作ったとして」
「仮に、か」
「仮にです」
危ない。
未来人、設定管理が難しい。
「地方公共団体の手続について、その法律を全部そのまま当てるのって、やっぱり難しいんですか」
所長は新聞をたたみました。
「地方には地方の条例がある」
「はい」
「自治体ごとに制度も違う。国が細部まで一律に決めると、地方自治との調整が必要になる」
「なるほど」
「だから、地方の条例や規則に基づく手続については、地方で整える余地を残す考え方はあり得る」
やっぱり。
未来の制度を知らなくても、理屈はそこへ行くんです。
私はノートに書きました。
地方公共団体には、地方公共団体のルールがある。
だから国の行政手続のルールが、一律にそのままかからない場面がある。
「でも」
私は続けます。
「ここで、“国の手続ルールが直接かからないなら、何もしなくていい”にはならないですよね」
「ならん」
片桐所長が即答しました。
昨日と同じです。
私はその一言の横に、大きく丸を付けました。
「そこが昨日の事件ですね」
「何がだ」
「市民会館の使用許可について、市が独自の利用調整をしていた。でも、その手続が見えなかった」
「そうだ」
「申請すら受け取らない。優先基準も分からない。理由も出ない」
「だから揉めた」
「つまり」
私はペンを走らせます。
国の一般的な手続法が直接適用されない。
イコール。
手続不要。
ではない。
ここ。
試験でかなり大事です。
未来の私は知っています。
行政手続法四十六条。
地方公共団体は、行政手続法の規定が適用されない一定の手続についても、その法律の趣旨にのっとり、
行政運営における公正の確保。
透明性の向上。
そのために必要な措置を講ずるよう努めなければならない。
努力義務です。
私は思わず唸りました。
「何だ」
相馬先輩が聞きます。
「いや……未来って、ちゃんと昨日みたいな揉め方を想定してるんだなって」
「また未来か」
「独り言です」
「最近多いぞ」
私は咳払いしました。
「じゃあ先輩。もし国の行政手続に関する法律ができて、地方公共団体の一部の行為を適用除外にしたとします」
「妙に具体的だな」
「仮定が好きなんです」
「試験馬鹿だな」
「褒めてませんよね」
「一切」
私は続けました。
「その場合、地方公共団体は何もしなくてもいい?」
「今の話を聞いてたなら違うだろ」
「ですよね」
「自分たちで手続を整える必要がある」
「絶対ですか?」
相馬先輩が眉を上げます。
「何が」
「絶対に法律で義務付けられるんですか」
「そこは法文次第だ」
さすが実務派。
分からない未来法を、勝手に断言しない。
私は未来を知っているので、こっそり答え合わせします。
四十六条は、
必要な措置を講ずるよう努めなければならない。
努力義務。
「所長」
「何だ」
「“しなければならない”と、“努めなければならない”って、違いますよね」
「ああ」
「後者は努力義務」
「そうだ」
「じゃあ、“措置を取らなかったら直ちに違法”という話ではない」
「一般にはそう単純には言えん」
「ですよね」
ここ。
行政書士試験で狙われそうです。
いや、実際狙われます。
私は未来の受験生だから知っています。
行政手続法四十六条のポイントは、
地方公共団体に、行政手続法そのものを全部直接適用する。
ではない。
適用除外された領域についても、その趣旨に沿って必要な措置を講ずるよう努める。
です。
ここを雑に覚えると、
「地方公共団体にも行政手続法が全面適用される」
みたいな選択肢に引っかかる。
「何笑ってる」
相馬先輩が言いました。
「いえ、未来の受験生が引っかかる顔が見えて」
「怖いこと言うな」
私はノートに線を引きました。
では。
そもそも、どんな地方公共団体の行為が問題になるのか。
未来の行政手続法では、第三条第三項が関係します。
ここがややこしい。
「所長」
「何だ」
「地方公共団体の機関がすることって、全部国の手続法の外にしていいんでしょうか」
「全部同じ扱いになる理由はない」
「ですよね」
私は昨日の事件を思い出します。
市民会館の使用許可。
市の条例に基づいて行われる処分。
ここが大事です。
未来の行政手続法では、地方公共団体の機関がする処分について、
その根拠となる規定が条例または規則に置かれているものは、行政手続法の第二章から第六章までの規定が原則として適用されません。
行政指導も同じく、地方公共団体の機関がするものは、その範囲で適用除外があります。
届出についても、条例または規則を根拠とするものが対象になります。
さらに、地方公共団体の機関が命令等を定める行為についても、一定の適用除外があります。
私はそこまで頭の中で整理して、ペンを止めました。
現在の事務所でそんな条文番号を書けば、完全に怪文書です。
なので、今は考え方だけを書きます。
「市の条例に基づく市の処分なら」
私は呟きました。
「将来、国が一般的な行政手続法を作っても、地方側で手続を整える余地を残すかもしれない」
「そういう制度設計はあり得るな」
所長が言います。
「でも国の法律に基づいて地方公共団体が処分する場合は?」
私は聞きました。
「話が変わるだろう」
「ですよね」
ここも重要。
地方公共団体がする処分だから全部適用除外。
ではありません。
誰が処分するか。
だけでは足りない。
何を根拠にしているか。
そこまで見る。
昨日の市民会館なら、
市の条例が根拠。
だから将来の行政手続法の仕組みで考えると、国の行政手続法が直接全部かかる領域ではなく、地方側で公正・透明な手続を整えていく領域に入り得る。
「相馬先輩」
「何だ」
「昨日の件で、もし市民会館条例じゃなくて、国の法律が直接根拠だったら?」
「それなら国法の手続規定との関係を先に調べる」
「ですよね」
「だから根拠を見ろって何度も言ってるだろ」
「行政法、結局そこへ戻りますね」
「誰が、何の権限で、何をしてるか。それを見ないと始まらん」
この人、口は悪いけど時々きれいにまとめます。
私はノートに書きました。
地方公共団体だから外れる、ではない。
地方公共団体の機関が何をしているのか。
何を根拠にしているのか。
そこを見る。
「じゃあ昨日の水野さんの事件を使って整理します」
「勝手にしろ」
「まず最初」
私は昨日の窓口を思い出します。
水野さんは市民会館を借りたかった。
ところが、
今年は地域振興行事を優先します。
子ども会は対象外です。
申請しても同じです。
そう言われた。
「一番最初の問題って何だったんでしょう」
「申請書を受け取らなかったことだろ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「正式に申請させなければ、正式な判断も出ない」
「そうすると?」
「理由も残らん。争いようも見えにくくなる」
「そこです」
私は勢いよく丸を付けました。
昨日、一番怖かったのは、
不許可になったことではありません。
不許可になる前に終わらされそうだったこと。
窓口で、
どうせ駄目です。
と言われて申請自体を諦めさせられる。
そうすると、正式な行政判断が表に出てこない。
誰が決めたのか。
どの規定に基づくのか。
なぜ駄目なのか。
それが全部曖昧なまま終わります。
「透明性がないって、そういうことなんですね」
「何がだ」
「結果を公表するだけじゃない」
「当然だ」
「判断の過程が見えること」
「そうだな」
公正と透明性。
テキストだと、なんとなく似た立派な言葉が二つ並んでいるだけに見えます。
でも昨日の事件に置くと、少し違って見えました。
公正。
同じような人を、理由なく違う扱いにしない。
恣意的に決めない。
手続の入口を勝手に閉ざさない。
透明性。
どんな基準で判断するのか分かる。
どこへ申請すればいいのか分かる。
なぜその結果になったのか分かる。
役所の中だけで理由が消えない。
「先輩」
「何だ」
「公正と透明性って、別なんですね」
「当たり前だろ」
「いや、受験生にはわりとセット商品なんですよ」
「知らん」
「公正でも不透明ってあり得ますよね」
「あるだろうな」
「たまたま全員公平に扱ってても、基準が秘密とか」
「ああ」
「逆に、基準を全部公開してても、その基準自体が露骨にえこひいきなら公正じゃない」
「そうなるな」
なるほど。
未来の条文、よく二つ並べたものです。
私はノートに書きます。
公正=恣意的でないこと。
透明性=判断の仕組みが外から分かること。
「昨日は両方怪しかったですね」
「怪しいというか、整理されてなかったな」
相馬先輩が言いました。
「悪意というより?」
「面倒だったんだろ」
「一番ありがちなやつ」
倉田係長たちも、子ども会を潰そうとしていたわけではありません。
駅前再整備。
地域振興。
物産展。
市民会館。
あちこちを調整する中で、
今年は地域振興イベントを優先しよう。
そんな方針を作った。
そして現場が、
じゃあ対象外は最初から断ろう。
と省略した。
その省略が、水野さんにとっては入口の閉鎖になった。
行政の雑さは、こうして生まれるんでしょう。
「所長」
「何だ」
「努力義務って、弱くないですか」
思ったまま聞きました。
所長がこちらを見ます。
「何に比べてだ」
「だって、“必要な措置を講じなければならない”じゃなくて、“講ずるよう努めなければならない”でしょう」
「そうだな」
「努力してください、で終わったら、市民からすると頼りなくないですか」
「そういう面はある」
「じゃあ意味がない?」
「それも違う」
所長は少し考えてから言いました。
「法が行政に方向を示すことにも意味はある」
「方向」
「地方自治を尊重して、細部は地方に任せる。しかし、公正と透明性を確保するという目標まで捨てるわけではない」
私はペンを止めました。
「なるほど」
「細かい手続を国が全部決めるのではなく、地方公共団体自身に整備を促す。その中間だ」
「だから努力義務」
「そう考えればいい」
腑に落ちます。
地方自治。
全国一律。
その間。
全部国が決める。
でもない。
全部地方任せ。
でもない。
国の行政手続法の趣旨を踏まえて、地方も公正・透明な制度を整えてください。
そういう設計。
「じゃあ未来では」
「また未来か」
「仮定です」
「もういい」
「地方公共団体が、自分たちで行政手続条例みたいなのを作る可能性もありますね」
所長が頷きました。
「当然考えられる」
そう。
実際、後世では多くの地方公共団体が行政手続条例などを整備していくことになります。
国の行政手続法が直接全部を覆わないから、
地方公共団体自身が条例等で補う。
それこそ四十六条が期待する方向の一つです。
昨日、倉田係長が利用調整基準を掲示すると決めたことも、規模は小さいけれど同じ発想でした。
自分たちの判断を見えるようにする。
基準を整える。
申請の入口を閉じない。
理由を説明できるようにする。
法律に細かく命じられてからやるのではなく、
行政自身が手続を整える。
「先輩」
「何だ」
「昨日の対応って、法律ができる前の“行政手続条例の赤ちゃん”みたいな感じですね」
「気持ち悪い例えだな」
「かわいくないですか」
「基準の掲示を赤ちゃん扱いする奴は初めて見た」
私は笑いました。
でも、そんな感じです。
制度というものは。
ある日突然、完成形で現れるわけではない。
まず現場で困る。
次に役所が工夫する。
自治体ごとにルールができる。
裁判例が積み重なる。
議論が重なる。
その先で、国の法律ができる。
行政手続法もきっとそうです。
私は未来から完成品だけを見ていた。
だから四十六条を、
試験に出る努力義務。
くらいにしか思っていませんでした。
でも今は違う。
この条文の向こうに、水野さんみたいな人が見えます。
「じゃあ、試験対策」
相馬先輩が言いました。
「急に未来の試験に付き合ってくれるんですか」
「お前が一人でぶつぶつ言うから気味が悪い」
「理由がひどい」
「引っかかりそうなのは何だ」
私は考えます。
「まず」
行政手続法が適用されない地方公共団体の行為については、地方公共団体は何の措置も取らなくてよい。
「誤りだな」
「はい。行政手続法の趣旨にのっとって、公正の確保と透明性の向上のため必要な措置を講ずるよう努める」
「次」
「行政手続法四十六条により、地方公共団体には行政手続法の各手続規定がそのまま義務付けられる」
「それも違う」
「はい。四十六条は行政手続法そのものを全面適用する規定じゃない」
「次」
「四十六条の義務は、措置を講じなければ直ちに違法となる法的義務である」
「努力義務なんだろ」
「そうです」
「次」
「地方公共団体の機関がする処分は、すべて行政手続法の適用除外となる」
相馬先輩が少し考えました。
「さっきの話なら、根拠まで見ろ」
「正解です」
私は嬉しくなりました。
「地方公共団体がする処分でも、何を根拠にするかによって扱いが違う。単に主体だけ見て、“地方だから全部除外”は危険」
「面倒だな」
「行政法ですから」
「開き直るな」
私はノートにさらに書き足します。
そして、もう一つ。
「四十六条で挙げられてるのは、処分だけじゃないんですよね」
「他は?」
「行政指導。届出。それから命令等を定める行為」
「多いな」
「しかも“前章まで”っていう書き方だから、対象を雑に覚えると危ない」
「お前、本当に未来の条文を見たみたいに喋るな」
ぎく。
「受験勘です」
「便利だな、それ」
危ない危ない。
転生者、法律知識より秘密保持が難しい。
私は話を戻しました。
「でも昨日の水野さんの件は、処分の場面が中心ですね」
「ああ」
「市民会館の使用許可をするかどうか」
「そうだな」
「ところが、その前の窓口対応で申請そのものを止められそうになった」
「そこが実務では厄介だ」
相馬先輩が言いました。
「正式な不許可なら、不許可という形が残る」
「でも窓口で帰されたら?」
「何も残らん」
「ですよね」
私は昨日、水野さんが言った言葉を思い出します。
自分が無理を言ってるんだと思った。
子どもの作品展なんて、今の町には邪魔なのかなって。
あれが、この単元の一番怖いところかもしれません。
行政が不透明だと。
市民は理由を、自分の中で補ってしまう。
私たちは価値がないから。
私たちは対象じゃないから。
役所がそう決めたなら仕方ないから。
でも実際には。
基準が曖昧だっただけかもしれない。
担当者が面倒を避けただけかもしれない。
内部方針を強く言い過ぎただけかもしれない。
説明できない運用だっただけかもしれない。
だから、透明性は大事なんだ。
「所長」
「何だ」
「透明性って、行政を監視するためだけじゃないんですね」
「どういう意味だ」
「市民が、自分を責めなくて済む」
所長がこちらを見ました。
私は続けます。
「駄目なら、何で駄目か分かる。基準があるなら、それに当てはまったか分かる。別の方法があるなら探せる」
「ああ」
「理由も基準も分からないと、“自分たちが要らないから追い返された”って思う人もいる」
「……そうだな」
所長が短く答えました。
行政手続法の目的。
公正の確保。
透明性の向上。
それは、行政を縛るための飾り文句じゃない。
人が次に何をすればいいのか分かるようにするためのものでもある。
昨日、水野さんの申請を受け付けてもらったことで、
許可。
不許可。
少なくとも、そのどちらかへ進めるようになった。
そして結果は許可だった。
物産展も別の会場で開催できることになった。
最初は、
どちらか一方しか使えない。
地域振興だから物産展を優先。
そういう雑な二択だったのに。
ちゃんと条件を見れば、両方できた。
行政手続って、
結果を遅らせる面倒な道具だと思っていました。
でも違うこともある。
急いで雑に決めるより、
一度立ち止まって、
申請を受けて、
基準を確認して、
理由を考える。
その方が、結果としてうまく収まることがある。
「制度の冷たさって」
私は呟きました。
「時々、役所自身も助けるんですね」
「何の話だ」
相馬先輩が聞きます。
「ルールがあれば、担当者が全部背負わなくていいじゃないですか」
「まあな」
「倉田係長だって、最初は“地域振興を優先することになってるんです”しか言えなかった」
「ああ」
「でも基準を作れば、“この条件で判断しました”って説明できる」
「役所にとっても、その方が楽な面はある」
「ですよね」
公正で透明な手続は、
市民だけの武器ではない。
行政側にとっても、
誰が担当しても判断をそろえやすい。
説明しやすい。
後から検証しやすい。
担当者個人の勘や圧に頼らずに済む。
制度が冷たいからこそ、
人間同士が直接ぶつからずに済む。
それも、法律の役目なのかもしれません。
「で」
相馬先輩が私のノートを覗き込みました。
「今日の一行は?」
「まだです」
「長々書いてるくせに」
「最後が大事なんです」
私はページを見直します。
地方公共団体。
適用除外。
公正の確保。
透明性の向上。
必要な措置。
努力義務。
昨日までなら、丸暗記するしかなかった単語です。
でも今は、水野さんが窓口で申請書を抱えて立っている。
倉田係長が、
「行政内部の調整ですから」
と言っている。
所長が、
「義務があることしかしませんか」
と返している。
全部、顔があります。
私はノートの最後に一行書きました。
――適用除外は、手続の空白を放置してよいという意味ではない。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ短くします」
その下に書き直します。
――国の手続が外れても、公正と透明性まで外れない。
「それなら分かる」
「でしょう」
所長が新聞を置きました。
「もう一つ書け」
「何をです?」
「地方公共団体だから、で思考を止めるな」
私はペンを持ちます。
「主体だけじゃなく?」
「根拠を見ろ」
それも書きました。
――「地方の仕事だから」で終わらず、誰が、何を根拠に、どんな手続で決めたかを見る。
うん。
今日のノートは、これでいい。
未来の行政手続法四十六条は、たぶん派手な条文ではありません。
処分を取り消すわけでもない。
損害賠償を命じるわけでもない。
地方公共団体に、
公正にやってください。
分かるようにやってください。
そのための仕組みを整えるよう努めてください。
そう言うだけです。
でも。
昨日の水野さんには、その「だけ」が必要でした。
申請できる。
基準が見える。
理由が分かる。
その小さなことがあるだけで、
「どうせ駄目です」
は、
「では、条件を見て判断しましょう」
に変わる。
それは、かなり大きな違いです。
「こはる」
「はい」
「茶」
相馬先輩が空の湯呑みを差し出しました。
「自分で入れてください」
「後輩だろ」
「その運用基準、どこにあります?」
「事務所慣行」
「公表されてません」
「今した」
「私の意見を聞いてません」
「必要ない」
「不公正!」
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「自分で入れろ」
「はい」
早い。
ものすごく早い。
私は笑いました。
「所長命令、透明性はともかく効力が強いですね」
「事務所内だからな」
相馬先輩が立ち上がります。
「お前の分も入れてやる」
「急に優しい」
「クッキー食ったからな」
「やっぱり罪悪感あったんですね」
「ない」
「そこは否定するんだ」
やがて、湯気の立つ湯呑みが私の机に置かれました。
窓の外には、昭和六十三年の町。
まだ行政手続法はありません。
四十六条もありません。
でも、その条文が必要になる理由は、もう町のあちこちにある。
曖昧な基準。
見えない手続。
口頭だけの「駄目です」。
内部の都合。
そして、その前で困る人。
法律は未来から突然現れるわけじゃない。
先に問題があって。
先に誰かが困って。
先に誰かが、
「それでは分からない」
と言う。
法律は、その声を後から文章にする。
私は湯呑みを持ち上げました。
国の手続が直接届かない場所でも。
人を雑に扱っていい場所にはしない。
未来の行政手続法四十六条は、
たぶん、そのための地味な橋なのです。
私はノートを閉じました。
昨日より、この単元では少し眠らずに済みそうでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




