[行政手続法46条・地方公共団体の措置]現場編 「市の条例ですから、国の手続なんて関係ありません」の罠。適用除外と野放しを混ぜる役所と、“外れた後”にも必要な公正と透明性
法律が直接届かない場所は、役所が好きにしていい場所ではありません。
……という当たり前のことほど、なぜか条文になるまで時間がかかります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、封筒の山に埋もれていました。
「こはる。その青いの、建設課」
「はい」
「黄色は農業委員会」
「はい」
「白は捨てるな」
「分かってます」
「昨日、捨てただろ」
「あれは広告です」
「土地家屋調査士会の研修案内だ」
「広告っぽかったんです!」
紙の色で仕事を分類する相馬先輩と、紙の色で仕事を忘れる私。
昭和の事務所には、検索窓がありません。
当たり前ですが、つらい。
現代ならファイル名で検索できるところを、こちらでは戸棚を開け、紐をほどき、紙をめくり、最後に「誰だここへ入れたのは」と怒鳴ります。
だいたい入れた本人が怒鳴っています。
「先輩」
「何だ」
「事務所こそ透明性を上げるべきでは」
「お前の机から始めろ」
正論で殴られました。
そんな朝でした。
入口の引き戸が、勢いよく開いたのは。
「すみません!」
入ってきたのは、四十代くらいの女性でした。
紺色のカーディガン。
手には紙袋。
そして、その紙袋から大量の色紙が覗いています。
千羽鶴?
いや、折る前です。
「片桐先生――」
「所長です」
相馬先輩が訂正しました。
そこ、毎回きっちり直すんですね。
女性は慌てて頭を下げました。
「片桐所長さん、いらっしゃいますか。私、南町子ども会の水野と申します」
奥から片桐所長が出てきます。
「どうしました」
「市民会館が借りられなくなったんです」
市民会館。
事件としては、かなり地味です。
でも、こういう地味な話ほど生活に刺さります。
水野さんは、南町子ども会の世話役でした。
毎年十一月、市民会館の小ホールを借りて、地域の子どもたちの作品展を開いている。
書道。
絵。
折り紙。
夏休みの工作。
舞台では最後に合唱。
もう十年以上続いている行事だそうです。
「今年も六月に申し込みに行ったんです。でも窓口で、『今年から地域振興に資する団体を優先します』って」
「地域振興?」
私は聞き返しました。
「観光とか、商業とか、そういうことらしいです」
水野さんが膝の上で紙袋を握ります。
「それで子ども会は対象外だと」
「使用不許可の通知は?」
所長が聞きます。
「それが……ありません」
「申請書は出したんですね」
「出そうとしました。でも、受け取ってもらえなかったんです」
相馬先輩の眉が上がりました。
「受け取らない?」
「はい。『どうせ許可にならないから、出しても同じです』って」
来ました。
役所界の便利ワード。
どうせ。
同じです。
正式にやると紙が増えるから、その前に帰ってください。
だいたいこの三つは親戚です。
「何か紙は渡されましたか」
「これだけです」
水野さんが鞄から一枚のコピーを出しました。
題名は、
市民会館利用調整方針。
その下に、
駅前再整備及び地域活性化事業との連携を促進するため、当分の間、観光振興、商業振興その他地域振興に資する行事を優先的に取り扱う。
とあります。
「これ、市の条例ですか?」
私が聞くと、水野さんは困った顔をしました。
「窓口の人は、『市で決まったことです』って」
市で決まったこと。
広い。
広すぎます。
議会で条例を作ったのか。
市長が規則を定めたのか。
担当課で打ち合わせしたのか。
係長が朝礼で言ったのか。
全部「市で決まったこと」に収納できます。
便利な日本語です。
便利すぎて危険です。
「それまでは、子ども会でも普通に借りられたんですか」
「はい。今年も日にちが空いているのは確認しました」
「他の団体は?」
水野さんは少しためらいました。
「同じ日に、駅前商店街の物産展が入ることになったそうです」
「後から?」
「はい。私たちが最初に相談したときには空いていました」
なるほど。
少し見えてきました。
駅前再整備。
地域振興。
商店街。
最近この町では、何かにつけてこの言葉が出てきます。
観光客を増やす。
駅前を明るくする。
新しい店を呼ぶ。
それ自体は悪くありません。
ただ。
新しい看板を立てるとき、古くからそこにいた人が、看板の裏側へ押し込まれることがあります。
「その方針って」
私はコピーをひっくり返しました。
裏は白紙。
「いつ作られたんでしょう」
「分かりません」
「誰が決めたかは?」
「分かりません」
「優先する基準は?」
「それも……」
「対象外になったら、どう争えるかは?」
「聞いてません」
うん。
何も分かりません。
分かるのは、
あなたは駄目です。
だけ。
行政法、こういうの好きですね。
いや好きじゃない。
私は嫌いです。
「こはる」
所長が言いました。
「何が引っかかる」
「申請書すら受け取らないところです」
「他は」
「方針の正体が見えません」
「他は」
今日、所長、追試形式ですね。
私は紙を見ます。
そして。
頭の奥で、妙な既視感がありました。
現代で見た条文。
行政手続法。
地方公共団体。
適用除外。
努力義務。
――四十六条。
いや待って。
ここは昭和六十三年です。
行政手続法は、まだない。
存在しない法律を持ち出したら、転生者以前に変な人です。
でも。
その法律が後から必要になるということは。
今、目の前にあるこの雑さこそ、後世で整理される問題なんじゃないでしょうか。
「……役所側が、自分たちで決めた手続だからって、手続そのものを軽く扱ってる気がします」
私はゆっくり言いました。
相馬先輩がこちらを見ます。
「どういう意味だ」
「たとえば」
私は水野さんからコピーを借りました。
「仮にこの市民会館の使用許可が、市の条例に基づくものだったとしても」
「ああ」
「だからって、誰を優先するかを秘密にしていいとか、申請を受け取らなくていいとか、不許可の理由を言わなくていいとか、そういう話にはならないですよね」
所長が小さく頷きました。
「ならない」
「国の法律が細かく手続を決めてないなら、市が自分で公正な取扱いを考えないと、むしろ危ない」
言いながら、背中がぞくっとしました。
これ。
後の行政手続法四十六条の考え方に近い。
もちろん、今ここで条文名は言えません。
でも未来の法律が突然ゼロから生まれたわけではない。
こういう窓口。
こういう曖昧な方針。
こういう「うちはうちです」。
それが積もった先に、あの条文ができる。
そんな気がしました。
「よし」
相馬先輩が立ち上がりました。
「行くぞ」
「どこへ」
「市民会館」
「今日もですか」
「お前、今いい顔してたぞ」
「嫌な予感しかしません」
「当たりだ」
昭和の実務教育、基本的に現地集合です。
◇
市民会館の事務室は、妙に立派でした。
木目調の壁。
大きな灰皿。
観葉植物。
そして窓口には、
地域文化の拠点として皆様に親しまれる会館を目指します。
という標語。
親しまれる前に申請書を受け取ってください。
水野さんと一緒に窓口へ行くと、担当の男性職員が明らかに嫌そうな顔をしました。
「ああ、水野さん」
「先日はどうも」
「申し上げたと思いますが、今年は地域振興行事を優先することになっておりまして」
相馬先輩が名刺を出します。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
職員の顔が少し固くなりました。
「行政書士さん?」
「この方の相談を受けています。まず確認ですが、使用許可の申請書を出させてください」
「いや、それは……」
「なぜです」
「ですから、今年は優先方針が」
「申請を受け取れない根拠ですか、それは」
職員が詰まります。
「いえ、受け取れないというか、受け取っても結果は同じですので」
「結果を決める前に申請を出すんでしょう」
私が思わず言いました。
職員がこちらを見る。
「え?」
「申請を見て、条件を確認して、それから許可するか決めるんですよね」
「まあ……形式上は」
形式上。
出ました。
手続を雑にするとき、人は「形式上」と言いがちです。
でも、その形式が人を救うことがあるんですよ。
「じゃあ形式上でいいので、受け取ってください」
私は笑顔で言いました。
相馬先輩が横で噴き出しそうになっています。
職員は渋い顔をしました。
「ちょっとお待ちください」
奥へ消えます。
数分後。
現れたのは倉田係長でした。
またあなたですか。
向こうも同じ顔をしました。
「……片桐事務所さん」
「どうも」
相馬先輩が軽く頭を下げます。
「今度は市民会館です」
「最近よく会いますね」
「町が元気なんでしょう」
「皮肉ですか」
「事実です」
倉田係長はため息をつきました。
「事情は聞きました」
「では申請書を」
「その前に説明します。今年、市として駅前再整備と地域振興を一体で進めています。その関係で、市民会館についても地域振興事業を優先する方針になっています」
「誰の方針です?」
相馬先輩。
早い。
「企画調整会議です」
「条例?」
「いえ」
「規則?」
「違います」
「市長決裁?」
「部内協議を経ています」
また微妙なやつが出てきました。
部内協議。
法律ではない。
でも現場では、かなり強い。
「その方針で、条例上申請できる人を最初から排除できるんですか」
私が聞きました。
「排除という言い方は困ります」
「じゃあ、受け付けない?」
「……効率的な利用調整です」
日本語が整うほど、現実が見えなくなるやつ。
相馬先輩が腕を組みました。
「条例を見せてください」
倉田係長が職員に指示して、市民会館条例の冊子を持ってこさせました。
使用には市長の許可が必要。
一定の場合には許可しないことができる。
公の秩序を乱すおそれ。
施設管理上の支障。
その他、設置目的に照らして不適当な場合。
そんな規定が並んでいます。
「子ども会の作品展は、どれです?」
相馬先輩が聞きました。
「いや、不適当ということではありません」
「じゃあ何で受け付けない」
「今年は優先順位が――」
「それは条例の不許可事由ですか」
「違います」
「なら申請させてください」
倉田係長の顔が険しくなりました。
「行政の運営には裁量があります」
おっと。
強い言葉が来ました。
でも。
それは万能呪文じゃありません。
私は口を開きかけて、止まりました。
ここで「裁量権の逸脱濫用が」と言い始めると、相馬先輩から「論点で喋るな」と頭を叩かれる未来が見えます。
なので、人間語に翻訳します。
「裁量があるなら、なおさら基準が分からないと困りませんか」
倉田係長が私を見ました。
「何?」
「誰を優先するのか。どんな行事なら地域振興に資するのか。同じ日に希望が重なったら何を見るのか」
「それは個別に判断します」
「その個別判断の基準を、市民は知らないんですよね」
「行政内部の調整ですから」
その言葉で。
私は、未来の条文を思い出しました。
地方公共団体。
国の行政手続法がそのまま適用されない領域。
だけど。
公正の確保。
透明性の向上。
必要な措置を講ずるよう努める。
適用しない。
だから、何もしなくていい。
ではない。
むしろ反対。
国の統一手続から外れるなら、地方は地方で、その穴を埋めなさい。
後世の法律は、そう言う。
「係長」
私は言いました。
「行政内部で決めることと、市民に影響することは、別じゃないですか」
「どういう意味です」
「内部の会議で優先方針を作るのは分かります。でも、その方針で市民会館を借りられる人と借りられない人が分かれるなら、外の人にも結果が出ます」
「それは当然でしょう」
「なら」
一度、息を吸います。
「何を基準に分けるのか、少なくとも説明できないと変じゃないですか」
倉田係長が黙りました。
「申請書も受け取らない。判断結果も書面にしない。理由も残さない。優先基準も見せない。でも『行政内部で決めました』だけは外に効いてくる。それって、一番困る形です」
静かになりました。
まずい。
しゃべりすぎたでしょうか。
相馬先輩を見る。
止めません。
所長を見る。
何も言いません。
つまり続けろということです。
「市の仕事だから、市が決める。それはそうだと思います」
私は言いました。
「でも、市が決めることと、市民に何も説明しなくていいことは同じじゃありません」
倉田係長が腕を組み直しました。
「では、あなたはどうしろと言うんです」
「まず申請を受け取ってください」
「それから?」
「正式に判断してください」
「それから?」
「駄目なら、なぜ駄目なのか分かる形にしてください」
「それから?」
試されてます?
私は少し考えました。
「今後、同じような申し込みが来るなら、優先の考え方を最初から案内できるようにした方がいいと思います」
そこで片桐所長が初めて口を開きました。
「それでいい」
短い。
でも部屋の空気が変わりました。
所長は倉田係長に向き直ります。
「誰を優先するかは行政の仕事です。しかし、同じ条件の者をどう扱うのか見えなければ、行政への信頼は落ちる」
「条例上、そこまで公表義務はありません」
「義務があることしか、しませんか」
所長の声は静かでした。
倉田係長が黙ります。
強い。
大声じゃないのに強い。
「法に書かれていないからこそ、行政側で手続を整える必要がある場面もあるでしょう」
私は思わず所長を見ました。
今。
今の発想。
まさにそれです。
数年後。
行政手続法ができる。
その中で、地方公共団体について、国法の手続規定が直接適用されない領域が残る。
でも。
放っておいていいとは書かれない。
地方公共団体自身が、公正と透明性のための措置をとるよう努めなさい。
そうなる。
私は未来を知っている。
けれど所長は知らない。
知らないのに、同じ場所へ立っている。
法律って、ある日突然空から降ってくるんじゃないんだ。
先に困っている人がいる。
先に変な運用がある。
先に現場で「これ、おかしくないですか」と言う人がいる。
法律は、その後から名前を付けに来る。
「……分かりました」
倉田係長が言いました。
「申請書は受理させます」
水野さんが息を呑みました。
「本当ですか」
「ただし、使用許可を約束するものではありません」
「もちろんです」
私が答えました。
「それでいいんです」
許可しろ。
ではない。
まず、申請する入口を開ける。
そして、判断したなら、その中身が見えるようにする。
それだけ。
でも、さっきまで水野さんには、その入口すらありませんでした。
◇
三日後。
片桐事務所に一本の電話が入りました。
「朝比奈です」
『倉田です』
最近、この人から電話が来ると少し身構えます。
『市民会館の件ですが』
「はい」
『子ども会の申請、許可になりました』
「えっ」
思わず大きな声が出ました。
奥から相馬先輩が顔を上げます。
『物産展は大ホールへ移します。あちらは展示面積が必要なので、むしろそちらの方が適当だということになりまして』
「じゃあ、両方使えるんですか」
『そういうことです』
私は椅子にもたれました。
なんだ。
できたんじゃないですか。
最初から。
『それと』
倉田係長が続けます。
『館内の利用調整方針を書き直しました』
「書き直した?」
『はい。申し込みが競合した場合に何を見るか、簡単ですが掲示することにしました』
「へえ」
『公益性、継続性、施設との適合性、代替会場の有無。それから、単に商業振興だから当然優先、とはしないことにしました』
「かなり変わりましたね」
『あのままだと、私も説明できませんから』
少し笑っているように聞こえました。
『ただし』
「はい」
『あなた、窓口で“申請を受け取ってください”を連呼するのはやめなさい』
「正しかったですよね」
『正しいことを三回言われると、腹が立つこともあるんです』
「行政運営における感情の透明性が高いですね」
『何だそれ』
「いえ、何でもありません」
危ない。
未来語が漏れるところでした。
電話を切ると、相馬先輩が聞きます。
「どうだった」
「許可です」
「お」
「しかも、利用調整の基準を掲示するそうです」
「へえ」
相馬先輩は煙草をくわえかけ、所長を見て、やめました。
「係長も変わったな」
「そうですね」
「お前がうるさいからだ」
「いい意味で言ってます?」
「半分は」
半分か。
◇
その夕方。
水野さんが事務所へやってきました。
今度は紙袋ではなく、大きな缶を抱えています。
「これ、皆さんで」
「何ですか」
「クッキーです。子ども会のお母さんたちで焼きました」
手作り。
強い。
相馬先輩の視線が一瞬で缶に吸われました。
「先輩」
「何だ」
「まだ開けないでくださいね」
「開けてない」
「目で開けてます」
水野さんは笑いました。
「本当に助かりました」
「まだ作品展はこれからですよ」
「ええ。でも」
水野さんは少しだけ表情を曇らせました。
「あのとき窓口で断られたとき、私、自分が無理を言ってるんだと思ったんです」
「無理?」
「市が地域振興を進めてるのは知ってましたから。子どもの作品展なんて、今の町には邪魔なのかなって」
その言葉が、妙に刺さりました。
行政の雑さは。
紙一枚では終わりません。
理由の分からない「駄目です」は、ときどき人の中で、
あなたには価値がありません。
に変換されます。
役所側は、そんなつもりじゃなくても。
「邪魔じゃありませんよ」
私は言いました。
「少なくとも、そう決める話じゃなかったです」
「そうですね」
「今回は、物産展が悪いわけでもないですし」
「ええ」
「両方できるなら、それが一番です」
水野さんは頷きました。
「子どもたち、喜んでます」
「合唱もやるんですよね」
「はい。練習中です」
「何を歌うんですか」
「翼をください」
昭和六十三年。
その選曲、強い。
時代を越えて強い。
「見に来てくださいね」
「行きます」
「相馬さんも」
「暇なら」
「先輩」
「何だ」
「そういうところです」
水野さんが帰ったあと。
クッキー缶を開けると、星や花や動物の形が並んでいました。
一枚だけ、妙に角ばった形があります。
「これ何でしょう」
「市民会館」
相馬先輩が即答します。
「そんなクッキーあります?」
「役所だろ」
「もっと嫌です」
所長が一枚取ります。
「家だ」
「所長が言うなら家で」
「権威に弱いな、お前」
「適切な判断権者を見極めただけです」
「物は言いようだ」
私はクッキーを一枚取って、机の上のノートを見ました。
今日はまだ、何も書いていません。
いや。
正確には、書けませんでした。
頭の中に、未来の法律が浮かんでいたからです。
行政手続法。
今はまだ、この世にない法律。
その法律では、地方公共団体の機関が行う一定の処分や行政指導、届出、それに命令等を定める手続について、国の行政手続法の規定がそのまま適用されない場面が出てくる。
でも。
そこで話は終わらない。
適用しないから好きにしていい。
ではなく。
地方公共団体自身が、その法律の趣旨に沿って、公正を確保し、透明性を高めるための措置を講ずるよう努める。
そんな条文ができる。
私はそれを知っています。
片桐所長も。
相馬先輩も。
倉田係長も。
まだ知りません。
それでも今日。
所長は言いました。
義務があることしかしませんか。
法に書かれていないからこそ、行政側で手続を整える必要がある場面もある。
後の法律は、きっと。
こういう現場の積み重ねを、条文にしたんだと思います。
「何ぼーっとしてる」
相馬先輩がクッキーを二枚取ります。
「あっ」
「早い者勝ち」
「またその内部ルールですか!」
「事務所慣行だ」
「私は同意してません!」
「内部規則だ」
「外部どころか私を直接拘束してますけど!」
所長が新聞をめくりながら言いました。
「一人二枚までにしろ」
「はい」
相馬先輩が即座に一枚戻しました。
「所長の命令には素直ですね」
「権限がある」
「事務所内では最強ですもんね」
私は笑いながら一枚取ります。
窓の外では、市民会館の方角へ帰る小学生たちが走っていました。
たぶん、あの中に作品展へ出す子もいるのでしょう。
役所にとっては、利用調整。
紙の上では、それだけです。
でもその向こうには、
絵を描いた子。
歌を練習した子。
会場を予約しに来たお母さん。
商店街の物産展を準備している人。
いろんな人がいます。
だから手続は、面倒でも必要なんだと思います。
誰かを必ず勝たせるためじゃない。
誰かを雑に負けさせないために。
法律は冷たい。
公正。
透明性。
措置。
努力義務。
そんな言葉は、正直ちっとも温かくありません。
でも。
理由も分からず窓口から帰される人にとっては、
申請を受け取ること。
基準を見せること。
判断の理由を説明すること。
そういう冷たい仕組みの方が、
「今回はそういうことになってますから」
という人間的で曖昧な一言より、ずっと優しいことがあります。
私はノートを開きました。
そして、題名だけを書きます。
――地方公共団体の措置。
「また題名だけか」
相馬先輩が覗き込みます。
「今日はここまでです」
「何でだ」
「これ、ちゃんと整理すると未来の話まで絡むので」
「未来?」
「いえ、こっちの話です」
「最近ますます変だぞ、お前」
「自覚あります」
私はペンを置きました。
今日の教訓なら、もう一つだけ書けます。
法律が直接届かない場所は、好き勝手していい空白ではない。
むしろ。
そこを誰が、どう埋めるか。
そこに行政の丁寧さが出る。
後の世では、この考え方に、ちゃんと条文番号が付く。
でも昭和六十三年の今日。
私たちはまだ、その番号を知りません。
ただ一人の母親が、
「どうして申請すらできないんですか」
と困ったところから。
その考え方は、もう始まっていました。
「こはる」
「はい」
「クッキー、あと一枚だぞ」
「えっ」
見ると、皿の上には星形が一枚。
相馬先輩の前には、明らかに二枚以上食べた痕跡。
「先輩」
「何だ」
「一人二枚まででは?」
「二枚まで取っていいという意味だ」
「食べたあと追加していい意味じゃないですよ!」
「解釈の問題だ」
「都合のいい行政解釈みたいなこと言わないでください!」
所長が新聞の向こうから言いました。
「相馬」
「はい」
「明日の茶菓子はなしだ」
「何でですか」
「運用が不公正だからだ」
私は吹き出しました。
「所長、それです」
「何がだ」
「いえ」
たぶん。
何年か先。
この国は、今より少しだけ、
そういう言葉を法律に書くようになる。
公正にしなさい。
分かるようにしなさい。
直接この法律が当たらないからといって、
何もしなくていいわけではありません。
そんな、とても地味な条文を。
でも。
地味な条文ほど、ときどき人を救います。
少なくとも今日は。
一つの小さな作品展が、
「市で決まったことです」
という曖昧な一言の向こう側から、ちゃんと戻ってきたのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




