[行政手続法39条〜45条・意見公募手続]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、役所の「募集」という言葉を疑うのにちょうどいい静けさがあります。
募集。
なんとなく開かれた感じがします。
あなたの声を聞かせてください。
みんなで考えましょう。
そんな爽やかな響き。
でも。
募集期間三日。
資料なし。
対象は商店会役員だけ。
出された意見をどう扱ったかも秘密。
ここまでくると、募集というより、
「一応、聞いたことにはしました」
です。
「……ありません」
私は机の上を見回しました。
「何が」
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「どら焼きです」
「食った」
「早い!」
「昨日から置いてあった」
「だからって全部いきます?」
「期限を過ぎると品質が落ちる」
「食品にだけ行政手続並みの迅速性を発揮しないでください」
森下和江さんが昨日置いていったどら焼き。
駅前の森下文具。
あの赤い看板をめぐって、市役所の新しい景観基準とぶつかった人です。
役所は最初、
「もう決まった基準ですから」
と言いました。
そこから話を戻して。
じゃあ、実際に影響を受ける商店の事情を聞こう。
必要なら基準も見直そう。
そんなところまで進んだ。
そして今度、市役所は改めて「意見募集」をすることになった。
そこまではよかったんです。
問題は、そのやり方でした。
昨日、市役所が出してきた紙には、
こう書いてありました。
――駅前景観形成基準案についてご意見を募集します。
そこまではいい。
でも。
基準案の中身は、
「周辺環境との調和に配慮した看板とすること」
ほぼ、それだけ。
何色ならいいのか。
大きさはどうなのか。
既存看板をどう扱うのか。
何を根拠にそんな基準を作るのか。
関連資料もない。
しかも募集期間は十日。
市役所の説明では、
「駅前再整備の日程が迫っていますので」
とのことでした。
さらに、
「主に駅前商店会の方からご意見を」
と案内していた。
そのうえ、
意見を出した後どうなるのか聞くと、
「内部で参考にします」
以上。
私は、その紙をもう一度机の上に広げました。
「……雑ですね」
「役所だって忙しいんだよ」
相馬先輩が言います。
「先輩、たまに向こうの味方しますよね」
「味方じゃねえ。現場を知ってるだけだ」
奥で帳簿を見ていた片桐所長が短く言いました。
「だから手順がいる」
私はペンを持ちました。
はい。
今日の答え、ほぼ出ました。
未来の行政手続法。
第三十九条から第四十五条。
意見公募手続。
行政機関が、
「意見を聞きました」
と言うだけでは足りない。
どういう案について。
誰から。
どれくらいの期間。
何を資料として示し。
出された意見をどう考え。
最後に何を公表するのか。
そこまで手順にする。
私はノートの一番上に書きました。
――意見公募手続。
「で」
相馬先輩が覗き込みます。
「順番は?」
「順番?」
「昨日、お前が言ってただろ。こういうのは流れで覚えた方がいいって」
言いました。
行政書士試験。
暗記量が多すぎます。
一個ずつ孤立させると脳内で行方不明になります。
だから流れ。
私はノートに矢印を引きました。
案を作る。
公示する。
意見を募集する。
意見を考慮する。
命令等を決める。
結果を公示する。
「それだ」
所長が言いました。
私は最初に戻ります。
まず。
命令等の案を作る。
そして、それをあらかじめ公示する。
「昨日の紙も、“案”とは書いてましたよね」
「ああ」
「でも、中身がほぼ“周辺環境に配慮する”だけ」
「それで何が分かる」
所長が言います。
「分かりません」
そこなんです。
未来の第三十九条第二項。
公示する命令等の案は、
具体的かつ明確でなければならない。
しかも。
命令等の題名。
その命令等を定める根拠となる法令の条項。
それも明示する必要がある。
「なぜです?」
相馬先輩が言いました。
「意見募集するんだから、細かい案なんて後で作ればいいんじゃねえか」
「それじゃ意見できないからです」
私は即答しました。
例えば。
市が、
「駅前の景観を良くしたいと思います。意見ください」
とだけ言ったとします。
私は何を言えばいいんでしょう。
きれいにしてください。
頑張ってください。
以上。
でも。
「赤・黄など原色の使用面積は看板面積の三分の一以下」
「突出看板の幅は○メートル以下」
「既存看板には三年間の経過措置」
そこまで案が出れば、
森下さんは言えます。
三分の一なら今の看板でも対応できる。
三年あれば交換費用を準備できる。
あるいは、
それでも十八万円かかる。
この規制は厳しすぎる。
意見が具体的になる。
「つまり」
私は書きました。
――曖昧な案には、具体的な意見を出せない。
「根拠条文を示すのは?」
相馬先輩が聞きます。
「役所が何の権限でそのルールを作ろうとしてるか分かるようにするため」
「そうだな」
昨日まで何度もやってきたことです。
誰が。
何の権限で。
何を。
どんな手続で。
行政法は結局、ここへ戻ってきます。
しかも第三十九条第一項では、
案だけではありません。
関連する資料も、併せて公示する。
「ここ、“出してもいい”じゃないんですよね」
「義務か」
「はい」
例えば。
景観調査。
交通量調査。
観光客アンケート。
商店街の現況。
基準を作る理由になったデータ。
そういう関連資料があるなら、案と一緒に出す。
「昨日、市役所は何も付けてなかったな」
「そうなんです」
私は森下さんの言葉を思い出しました。
――どうして赤が駄目なんですか。
役所は、
景観上です。
と答えた。
でも。
なぜ赤が景観を悪くするのか。
どんな調査をしたのか。
何と比べたのか。
そこが見えなければ、住民側は反論どころか検討もできません。
「資料を見せるって」
私は言いました。
「行政側の答えを教えるんじゃなくて、同じ問題文を住民にも渡すことなんですね」
所長が頷きました。
「そういうことだ」
いい。
今のはノートに残します。
――意見公募は、役所だけが問題文を持ったまま答えを募集する手続ではない。
「で、次」
相馬先輩が言います。
「誰が意見を出せる」
「広く一般です」
「森下さんだけ?」
「違います」
「商店会員だけ?」
「違います」
「この町の住民だけ?」
「それも違う」
ここ。
試験で狙われそうです。
未来の第三十九条第一項は、
広く一般の意見を求めなければならない。
とする。
「利害関係人に限らない」
私は丸で囲みました。
例えば。
駅前の商店主。
もちろん出せる。
近所の住民。
出せる。
通勤で毎日駅前を通る人。
出せる。
町の外に住んでいても、この基準案に専門的な意見がある人。
それも排除されない。
「じゃあ北海道の人でも?」
相馬先輩が言います。
「制度上、“利害関係がないから意見を受け付けません”とはできない、という話です」
「全部採用するのか」
「それは別」
昨日もやりました。
意見提出資格が広いことと、
意見が採用されることは別。
意見公募は住民投票じゃない。
多数決でもない。
提出された意見を十分に考慮する制度です。
「だから昨日の職員の」
私は言いました。
――主に駅前商店会の方から。
という説明。
「商店会中心に周知すること自体は、関係が深いから分かります。でも、“商店会員しか出せない”みたいに扱ったら違う」
「そうだ」
所長が答えました。
次。
提出期間。
ここは数字です。
受験生が大好き。
受験生が大嫌い。
数字。
「何日?」
相馬先輩が聞きます。
「原則、三十日以上」
「三十日?」
「公示の日から起算して三十日以上」
未来の第三十九条第三項。
意見提出期間は、
案を公示した日から起算して三十日以上。
「昨日は?」
「十日」
「短いな」
「はい」
「じゃあ違法」
「待ってください」
私は手を上げました。
出ました。
行政法で危険な、
原則だけ覚えて即断する病。
「例外があります」
「だろうな」
相馬先輩が笑います。
第四十条第一項。
三十日以上の期間を定めることができない、
やむを得ない理由があるとき。
その場合は、
三十日を下回る意見提出期間を定めることができる。
「だから十日でもあり得る」
「はい」
「じゃあ昨日の市役所はいいんじゃねえか」
「理由があれば」
「駅前再整備の日程が迫ってる」
「それだけで自動的に“やむを得ない”にはならないと思います」
行政側が自分で準備を遅らせて、
時間がなくなりました。
だから十日です。
これで何でも許されるなら、
三十日原則は消えます。
例えば。
法律が施行日を定めていて、
それまでに命令を制定しなければ制度そのものが動かない。
そんな事情で期間を確保できない。
そういう、やむを得ない事情が問題になる。
しかも。
「短縮するときは?」
所長が聞きました。
「案を公示するときに、その理由を明らかにする」
「そうだ」
私は大きく書きます。
――三十日未満にするなら、理由も公示。
「ここ試験で出ますね」
「どう出る」
「“やむを得ない理由がある場合、行政機関内部に理由を記録しておけばよい”」
「×か」
「はい。公示の際に理由を明らかにする」
「なるほどな」
数字だけ覚えると、
三十日。
で終わります。
でも現場なら、
森下さんが看板屋へ見積もりを取り、
商店会で話し合い、
代替案を考え、
文章にする。
十日と三十日。
その差は二十日。
テキストなら数字。
生活なら、考える時間です。
「期間って」
私は呟きました。
「意見を受け付ける箱を置いておく時間じゃないんですね」
「じゃあ何だ」
「意見を作る時間です」
片桐所長が一度だけ頷きました。
よし。
今日二つ目の覚え書き。
――三十日は、役所が待つ期間ではなく、国民が考える期間。
「で」
相馬先輩が言います。
「募集したって誰も知らなきゃ意味ない」
「第四十一条」
「何て?」
「周知と情報提供です」
意見公募をやります。
でも、市役所の隅の掲示板に紙一枚。
誰も知らない。
意見ゼロ。
はい、反対意見はありませんでした。
――それはちょっと違う。
だから命令等制定機関は、
必要に応じ、
意見公募手続の実施を周知するよう努める。
関連情報の提供にも努める。
「ここは?」
所長が聞きます。
「努力義務です」
「義務じゃない?」
「“努める”です」
試験の嫌なところ。
第三十九条。
案と関連資料を公示し、
広く一般の意見を求めなければならない。
義務。
第四十一条。
必要に応じ、
周知するよう努める。
情報提供に努める。
努力義務。
「全部“しなければならない”で覚えると落ちますね」
「お前、未来でも落ちそうだな」
「縁起でもない!」
私は未来で試験を受ける予定だったんです。
多分。
昭和へ飛んでこなければ。
周知。
例えば現代なら、
役所のホームページ。
広報。
報道発表。
関係団体への案内。
制度の性質に応じて、いろんな方法が考えられる。
「でも昭和六十三年にホームページは」
「ない」
相馬先輩が言いました。
「はい」
未来人最大の罠です。
今ここで、
インターネットで公示しましょう。
と言ったら、
私は本格的に不審者です。
未来の第四十五条では。
公示は、
電子情報処理組織を使用する方法その他の情報通信技術を利用する方法で行う。
要するに現在ならインターネットを利用した公示が基本になる。
でも昭和六十三年。
そんな仕組みはない。
「未来だと」
私は小声で言いました。
「全国どこからでも案を見られるようになるんですよね」
「何を」
「独り言です」
「またか」
でも、これは大きい。
広く一般から意見を求める。
そのためには、
広く一般が案を見られなければならない。
未来の技術は、その理念を現実にする。
「制度と技術ってつながってるんですね」
「急にどうした」
「いえ、未来の話です」
「もう好きにしろ」
相馬先輩が諦めました。
次。
提出された意見。
「これを?」
「十分に考慮する」
第四十二条。
命令等制定機関は、
意見提出期間内に提出された意見を、
十分に考慮しなければならない。
「“読むよう努める”じゃない」
「義務です」
「“全部採用する”でもない」
「はい」
ここは昨日の第三十八条からつながっています。
意見は票じゃない。
でも飾りでもない。
十分に考慮する。
だから例えば。
森下さんが、
「三年間の経過措置が必要です」
と出した。
行政が検討して、
いや、一年で対応可能だ。
そう判断することはある。
意見どおりにならなくても、
直ちに「無視した」ことにはならない。
問題は、
そもそも見たのか。
何を考えたのか。
です。
「それをどう確認する」
所長が言いました。
「結果の公示」
第四十三条。
ここで前半と後半がつながります。
意見を募集しました。
ありがとうございました。
終わり。
ではない。
命令等を定めたなら、
その命令等の公布と同時期に、
一定の事項を公示する。
「何を」
相馬先輩が聞きます。
私は指を折りました。
「命令等の題名」
「うん」
「命令等の案を公示した日」
「うん」
「提出された意見。なければ、なかった旨」
「うん」
「提出意見を考慮した結果と、その理由」
「そこだな」
はい。
そこです。
しかも。
案と最終的に定めた命令等に違いがあれば、その差異も含む。
「つまり」
私は森下さんの例で考えます。
最初の案。
既存看板は一年以内に交換。
森下さんたちから、
費用負担が重い。
三年ほしい。
という意見が出た。
最終基準。
経過措置を二年に変更。
その場合、
意見を踏まえ、
費用負担を考慮して二年に変更した。
そういう結果が見える。
逆に一年のままなら、
なぜ変更しなかったのか。
その理由を示す。
「これなら」
私は言いました。
「“聞くだけ聞きました”で終われませんね」
「そうだ」
所長が答えました。
それが透明性。
私は少し感動しました。
未来の私。
この条文、絶対眠そうに読んでいました。
題名。
公示日。
提出意見。
考慮結果。
理由。
暗記暗記暗記。
でも。
全部一本につながってる。
案を見せる。
意見を集める。
考える。
そして、
どう考えたかを返す。
「意見公募って」
私は言いました。
「一方通行じゃないんですね」
「どういう意味だ」
「行政が“意見ください”って口を開けるだけじゃない」
出された意見を受け取り。
考え。
最後に、
こうしました。
と返す。
そこで一往復になる。
「会話か」
所長が言いました。
「制度化された会話、ですね」
ちょっと格好いい。
ノートに書いておきます。
――意見公募は、「意見を出してください」で終わらず、「こう考えました」までで一往復。
「提出意見って全部そのまま晒すのか?」
相馬先輩が聞きます。
「そこも例外があります」
第四十三条第二項。
提出意見は、
必要に応じて整理・要約したものを公示することができる。
「一万件来たら全部載せるの大変だもんな」
「はい。ただし要約した場合、元の提出意見も後で適当な方法で公にする」
「なるほど」
「さらに」
第三項。
提出意見を公示したり公にしたりすることで、
第三者の利益を害するおそれがある。
その他正当な理由がある。
そんな場合は、
意見の全部または一部を除くことができる。
「個人情報とか企業秘密みたいな話か」
「そういう場面が考えやすいですね」
つまり。
透明性は大事。
でも、
透明性を理由に誰かを傷つけていいわけじゃない。
公開もまた、機械的ではない。
「行政法って」
私は言いました。
「一個原則を立てると、その横に必ず“でも”がありますよね」
「人間相手だからな」
所長が言いました。
深い。
私は次へ進みます。
「じゃあ、意見募集したけど、結局その命令等を作らないことにしたら?」
相馬先輩が聞きました。
「それも公示します」
第四十三条第四項。
意見公募手続をした。
でも最終的に命令等を定めないことにした。
その場合。
定めないことにした旨。
別案でもう一度意見公募するなら、その旨。
命令等の題名。
案を公示した日。
これらを速やかに公示する。
「作らなかったんだから黙って消せばいい、じゃない」
「はい」
「何で?」
私は少し考えました。
「みんなが意見を出してるから」
「それだけか」
「……行政が何をしたか、手続の結末を分かるようにするため」
所長が頷きました。
そうです。
意見を集めた。
でもその後、何も出てこない。
半年。
一年。
結局どうなったの。
それでは手続が宙に浮く。
作らない。
というのも結論です。
なら、その結論も見せる。
「終わり方まで手続なんですね」
「ああ」
意見公募って、
始め方だけじゃない。
終わり方も決めてある。
私はノートに一本の線を引きます。
案の公示。
意見募集。
十分な考慮。
命令等の決定。
結果公示。
または、
定めない旨の公示。
これで流れが閉じる。
「でも」
相馬先輩が言いました。
「そもそも意見公募しなくていい場合もあるんだろ」
「あります」
第三十九条第四項。
ここは例外がいっぱいです。
公益上、緊急に命令等を定める必要があり、意見公募が困難な場合。
法律改正に伴って機械的に必要となる金額や率など。
予算に基づく給付決定に必要な算定事項。
一定の委員会で、相反する利害を持つ代表者と公益代表による審議が行われる場合。
他の行政機関が意見公募して定めたものと実質的に同一のもの。
技術的な読替え。
根拠法令の削除に伴う当然の廃止。
法令改廃に伴う軽微な整理。
「多い!」
私は頭を抱えました。
「未来の制度、例外多すぎません?」
「知らん。お前の未来だ」
「私のせいじゃありません!」
全部を今すぐ語呂合わせにするのは諦めます。
ただ、現場感覚として。
意見を聞く意味が乏しい。
あるいは、
聞いている時間が本当にない。
別の仕組みですでに利害調整がされる。
そんな類型では、意見公募を省略する例外がある。
「でも」
所長が言いました。
「省略したら終わりか」
「いいえ」
第四十三条第五項。
第三十九条第四項の例外に当たり、
意見公募手続を実施せず命令等を定めた場合。
その場合でも、
公布と同時期に、
命令等の題名と趣旨。
意見公募手続を実施しなかった旨と、その理由。
それを公示する。
「逃げ道にも説明を付ける」
私は呟きました。
「そういうことだ」
所長が答えました。
この制度。
かなりしつこい。
意見公募するなら、
案を具体的に。
資料も付けろ。
三十日以上。
広く一般から。
意見を十分考えろ。
結果と理由を見せろ。
やらないなら、
なぜやらなかったか見せろ。
途中でやめたなら、
やめたことも見せろ。
「行政法、逃げ道を塞ぐの好きですね」
「逃げ道じゃない」
所長が言いました。
「説明の道だ」
私はペンを止めました。
うわ。
今日の名言。
「もう一回」
「言わん」
「所長!」
「自分で書け」
仕方ないので書きました。
――例外は、沈黙してよい理由ではない。手続を省くなら、省く理由を示す。
「第四十条第二項もあるぞ」
相馬先輩が言います。
「え」
「さっき読んでただろ」
先輩、見てたんですか。
委員会等の議を経て命令等を定める場合。
その委員会等が意見公募手続に準じた手続を実施していれば、
命令等制定機関が自ら重ねて意見公募をする必要がない場合がある。
「同じこと二回やる必要はない」
「そういうことですね」
ただし、第三十九条第四項第四号のケースとは区別。
ああ。
細かい。
受験生の目が死ぬところです。
「顔が死んでるぞ」
相馬先輩が言いました。
「今、第四十条二項に殺されました」
「生き返れ。まだ試験終わってねえぞ」
「昭和なのに未来の試験で励まされるのおかしくないですか?」
「知るか」
私は水を一口飲みます。
ここで整理です。
意見公募手続の流れ。
最初。
具体的かつ明確な案を作る。
題名と根拠法令の条項を明示。
関連資料と一緒に公示。
そして、
広く一般から意見を募集。
原則三十日以上。
短縮にはやむを得ない理由が必要で、その理由も公示。
必要に応じて周知・情報提供に努める。
期間内の提出意見を十分考慮。
命令等を定めたら、
題名。
案の公示日。
提出意見。
考慮結果と理由。
それを同時期に公示。
作らないなら、それも公示。
意見公募を省略したなら、その事実と理由も公示。
「……流れで覚えると、意外と一本ですね」
「最初に言っただろ」
相馬先輩が言います。
「先輩が?」
「お前が」
「ですよね」
危うく功績を取られるところでした。
私は昨日の森下さんを思い出しました。
赤い看板。
十八万円。
あの人が欲しかったのは、
自分の言うとおりのルールにしてもらう権利、
ではありません。
話を聞いてもらう入口。
その意見がどう扱われたのか分かる出口。
それだけです。
でも。
入口と出口があるだけで、
「もう決まりました」
という壁はかなり低くなる。
未来の行政手続法は、
そこにさらに細い線を引きます。
案は具体的に。
三十日。
広く一般。
十分に考慮。
結果と理由の公示。
冷たい。
数字と義務ばかり。
でも、その冷たさが、
「一応聞きました」
を許さない。
「制度の冷たさって」
私は言いました。
「今回は、時間を作るための冷たさですね」
「時間?」
「はい」
三十日以上。
そこに人情はありません。
森下さんが忙しいから。
市役所が忙しいから。
担当者が急いでいるから。
そういう事情だけで簡単には縮まらない。
だから市民側に、
調べる時間。
相談する時間。
意見を作る時間。
が残る。
条文は、
森下さんの十八万円を知りません。
赤い看板も知りません。
でも。
三十日という冷たい数字が、
十八万円について考える時間を守ることがある。
それって。
ちょっとすごい。
「じゃあ試験」
所長が言いました。
「来ましたね」
「意見を提出できるのは利害関係人に限る」
「誤り。広く一般です」
「意見提出期間は二週間以上」
「誤り。原則三十日以上」
「三十日未満にする場合、理由は行政内部に記録すればいい」
「誤り。案の公示の際に理由を明らかにする」
「周知と情報提供は必ず行わなければならない」
「誤り。“努める”なので努力義務」
「期間内に出された意見は採用しなければならない」
「誤り。十分に考慮する義務で、採用義務ではない」
「提出意見がゼロなら、結果公示は不要」
「誤り。意見がなかった旨を公示」
「案と最終命令等が違っていても、その差異を示す必要はない」
「誤り。考慮した結果には差異も含む」
「意見を整理・要約することはできない」
「誤り。必要に応じてできます。ただし元の意見も後で公にする」
「第三者の利益を害するおそれがあっても、透明性のため全文公示」
「誤り。正当な理由があれば全部または一部を除けます」
「意見公募後、命令等を作らないことにしたら何もしなくていい」
「誤り。その旨などを速やかに公示」
「意見公募の例外で手続をしなかった場合は?」
「命令等の題名・趣旨、意見公募を実施しなかった旨と理由を公示」
所長が新聞を開きます。
「よし」
「やった」
「何点です?」
「知らん」
「またそれ!」
相馬先輩が笑いました。
「お前、試験本番でも採点者に点数聞くつもりか」
「聞けたら聞きたいです」
本当に。
私はノートを眺めました。
今日のページは、かなり文字で埋まりました。
未来の行政手続法第三十九条。
第四十条。
第四十一条。
第四十二条。
第四十三条。
第四十五条。
昨日までなら、条文番号だけで眠れそうな並びです。
でも今は。
全部、森下さんの赤い看板につながっている。
具体的な案を出す。
資料を見せる。
時間を置く。
誰でも意見を言えるようにする。
意見を考える。
そして、
どうしたかを返す。
私はノートの最後に、
一行の覚え書きを書きました。
――意見公募は、「募集した」という行事ではない。「案を見せる→時間を置く→意見を考える→結果を返す」という一往復の手続。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ先輩なら?」
少し考えて。
相馬先輩は言いました。
「聞くなら、決める前にちゃんと聞け。聞いたなら、どうしたか答えろ」
私は黙りました。
「……それ、採用」
「使用料」
「またですか」
「どら焼き」
「全部食べた人が言います?」
私はノートに書き直しました。
――聞くなら、決める前にちゃんと聞く。聞いたなら、どうしたか答える。
所長が横から一言。
「期限も忘れるな」
「あ」
その下にもう一行。
――原則三十日。
「一行じゃねえな」
「試験対策なので!」
そのとき電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『森下です』
「森下さん」
『市役所から、新しい紙が来ました』
「新しい紙?」
『意見募集、やり直すそうです』
私は思わず背筋を伸ばしました。
『今度は基準案が細かく書いてあります。看板の大きさとか、色の範囲とか』
「関連資料は?」
『景観調査っていうのも付いてます』
「期間は?」
『三十日です』
おお。
『あと、“どなたでも意見を提出できます”って』
「いいですね」
『でもね』
「はい」
『私、もう一回意見書書くの、大変ですよ』
私は笑いました。
「それはそうですね」
『十八万円って、また書きます』
「ぜひ」
『今度は見積書も付けます』
「もっと強くなりましたね」
『あと、三年ほしいって』
「はい」
『採用されなくても、理由は出るんですよね』
私は少しだけ黙りました。
未来では。
そういう仕組みになる。
今、この昭和六十三年に、行政手続法第四十三条はありません。
でも市役所は今回、
出された意見と、
それを踏まえてどうしたか。
できる限り公表する。
そう約束していました。
「はい」
私は答えました。
「少なくとも、“聞きっぱなし”にはさせません」
『頼もしいねえ』
電話が切れます。
私は受話器を置きました。
「どうした」
相馬先輩が聞きます。
「三十日になりました」
「そうか」
「案も具体的になったそうです」
「そうか」
「誰でも意見を出せるって」
「よかったじゃねえか」
はい。
たったそれだけ。
役所が負けたわけじゃない。
森下さんが勝ったわけでもない。
赤い看板を残せるかも、まだ分からない。
でも。
今度は、
何について意見を出せばいいか分かる。
考える時間がある。
商店会員でなくても参加できる。
そして最後に、
行政がどう考えたかを見ることができる。
制度って。
結果を約束するものじゃないことがあります。
正しい答えを約束するものでもない。
でも。
答えを出すまでの道を、
雑に飛ばさせない。
そのためのものでもある。
条文は冷たい。
三十日。
具体的かつ明確。
十分に考慮。
公示。
理由。
そこに、
森下さん。
とか、
十八万円。
とか、
赤い看板。
なんて一言も書いていません。
でも。
その冷たい手順が、
森下さんの十八万円を、
役所の会議室の外から中へ運ぶ。
私は、そういう条文なら嫌いじゃありません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「机の引き出し」
「何です?」
「開けてみろ」
開けました。
どら焼きが一個。
「え」
「所長が隠してた」
「先輩、全部食べたって」
「意見公募前の暫定説明だ」
「嘘じゃないですか!」
所長が新聞の向こうで言いました。
「二人で分けろ」
相馬先輩が即答します。
「反対」
「意見として受け付けました」
「採用しろ」
「採用義務はありません」
「お前!」
「十分に考慮しました」
「早すぎるだろ!」
「相馬」
所長が言います。
「半分」
「……はい」
強い。
この事務所では、
意見公募より所長決裁の方が圧倒的に速い。
私はどら焼きを半分に割りました。
「先輩」
「何だ」
「こっち大きくないです?」
「誤差だ」
「関連資料を公示してください」
「どら焼きに資料なんかあるか!」
窓の外では。
昭和六十三年の駅前に、
赤い看板が今日も灯っています。
その色を変えるかどうか。
答えは、まだ出ていません。
でも今度は。
答えが出る前に、
ちゃんと声を入れる場所があります。
私はどら焼きを一口食べて、
ノートの最後にもう一度だけ書きました。
――意見を聞くとは、耳を置くことではない。手順を開いて、考えた跡まで見せること。
たぶん。
これで今夜は、
三十九条から四十五条まで、
少しだけ眠らずに読めそうでした。
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