[行政手続法38条・意見公募手続]現場編 「もう決まったことです」の罠。決める前に聞く手続と、決めた後に飾る“ご意見募集”
役所の「ご意見をお聞かせください」は、ときどき順番が逆です。
意見を聞いてから決めるのか。
決めてから聞いたことにするのか。
見た目は似ていますが、中身はかなり違います。
昭和六十三年の地方都市。
片桐行政書士事務所の朝は、だいたい電話か来客か相馬先輩の怒鳴り声から始まります。
その日は三つ全部でした。
「だから、その紙を勝手に捨てるな!」
「捨ててません。古い新聞の山に避難させただけです」
「それを世間では捨てるって言うんだ!」
「新聞に人権はありません!」
「あるかそんなもん!」
電話が鳴りました。
私は相馬先輩との争いを一時停止して受話器を取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『あの、相談したいんですけど』
女性の声でした。
少し早口。
怒っているというより、困っている。
「どうされました?」
『商店街の看板を、来月までに全部替えろって言われて』
「看板?」
『市役所からです』
私は椅子へ座り直しました。
「もう少し詳しく教えてください」
三十分後。
相談者は事務所の応接に座っていました。
名前は森下和江さん。
駅前商店街で、父親の代から続く文房具店を営んでいる。
四十代前半。
膝の上には、折りたたまれた一枚の通知。
「これです」
私は受け取りました。
駅前景観整備に伴う看板表示基準について。
新しい基準では、
原色を多用しないこと。
点滅灯を使用しないこと。
突出看板の大きさを一定以内とすること。
統一された色調への変更に努めること。
などが書かれていました。
そして最後に、
来月一日から、この基準に基づき指導を行います。
とあります。
「……早いですね」
「でしょう?」
森下さんが身を乗り出しました。
「うちの看板、赤いんです」
「文房具屋さんの」
「はい。“森下文具”って大きく書いてある赤い看板。二十年前からです」
「それを替えろと?」
「市役所の人が来て、“新基準に合ってませんから、できれば月末までに”って」
できれば。
役所の「できれば」は、だいたい空気圧が高い。
「費用は?」
「見積もりで十八万円です」
私は黙りました。
十八万円。
大企業なら経費。
町の文房具店なら事件です。
「補助は?」
「ありません」
「従わなかったら?」
「そこを聞いたら、“今後、商店街の事業で不利益になるかもしれませんよ”って」
私はゆっくり顔を上げました。
「誰が言いました?」
「観光振興課の人」
相馬先輩が横で舌打ちしました。
「また余計なこと言いやがったな」
「先輩、心当たりあるんですか」
「駅前再整備だ。最近あちこちで妙な話が出てる」
片桐所長が通知を読みます。
「この基準はいつ決まった」
「先週の説明会で“決まりました”って」
「説明会?」
「商店会向けです」
「その前に意見を聞かれましたか」
森下さんは首を振りました。
「いいえ。説明会で初めて聞きました」
「案の段階では?」
「何も」
「説明会で意見は?」
「言いましたよ」
森下さんの口調が少し強くなりました。
「看板を替えるのにお金がかかる。古い店には簡単じゃないって」
「役所は?」
「“もう決まった基準ですから”って」
その一言で。
頭の奥に、未来のテキストが開きました。
意見公募手続。
命令等を定める前に案を公示して、広く意見を募集する。
パブリックコメント。
法律に基づく命令。
審査基準。
処分基準。
行政指導指針。
そして。
命令等を定めるときは、根拠となる法令の趣旨に適合させる。
制定後も、実施状況や社会経済情勢の変化を踏まえて、必要に応じて見直す。
行政手続法第三十八条以下。
ただし。
私は壁のカレンダーを見ました。
昭和六十三年。
まだない。
未来では「意見公募手続」という名前まで付く仕組みが、今ここにはまだない。
でも。
問題だけは、もう目の前に座っています。
「……こはる」
所長が言いました。
「何かあるな」
「あります」
「言え」
私は通知を指で叩きました。
「これ、基準そのものより、“いつ聞いたか”が気になります」
森下さんが首をかしげます。
「いつ?」
「役所が商店街の意見を聞いたのが、基準を決める前だったのか、決めた後だったのか」
「後です」
「ですよね」
相馬先輩が腕を組みます。
「でも、役所が内部で基準作るのに、いちいち商店全部の許可がいるわけじゃねえぞ」
「それは分かってます」
「じゃあ何だ」
「意見を聞くことと、賛成をもらうことは別です」
自分で言って、少し輪郭が見えました。
「全員が納得しないとルールを作れない、って話じゃない。でも、生活や商売に影響する一般的な基準を作るなら、決める前に実際の影響を知る意味はあります」
森下さんが言います。
「じゃあ、説明会じゃ駄目なんですか」
「説明会でもいいんです。ただ」
私は通知を見ました。
「“決まりました。ご意見どうぞ”だと、その意見が基準の中身に入る余地がない」
部屋が少し静かになりました。
昨夜までなら。
意見公募手続。
命令等。
一般原則。
そんな言葉を見た瞬間、私はたぶん三ページ先へ逃げていました。
でも今は。
十八万円。
その数字が、条文の眠気を全部吹き飛ばしていました。
「相馬」
片桐所長が立ち上がります。
「市役所だ」
「またですか」
「駅前の件だ」
「私も?」
「言い出しっぺ」
「この事務所、その制度だけは完成度高いですね」
市役所の観光振興課。
窓口には、最近すっかり顔なじみになった倉田係長がいました。
私たちを見るなり、眉間にしわが寄ります。
「今日は何です」
「最近、挨拶が完全に苦情対応ですね」
「君たちが来ると大体面倒なんだ」
ひどい。
でも否定しづらい。
相馬先輩が通知を出しました。
「駅前景観の看板基準」
「ああ」
「もう決まったんですか」
「決まりました」
「何に基づいて?」
倉田係長が少し警戒しました。
「駅前再整備事業の一環です」
「それは事業名です」
私が言いました。
「基準自体の法的な位置づけは?」
係長が私を見る。
「行政指導の指針だ」
来た。
未来の私は、その言葉に反応します。
行政指導指針。
行政手続法の意見公募手続で、「命令等」に含まれるものの一つ。
でも今は、その仕組みはまだない。
「これ、誰が作ったんですか」
「課内で案を作って、庁内で決裁した」
「商店街から意見は?」
「説明会で聞いた」
「決裁の前ですか」
倉田係長が黙りました。
その沈黙が答えでした。
「後ですね」
「……後だ」
「じゃあ、その意見は基準の策定には反映できない」
「今後の運用には反映できる」
「それは“今後”ですよね」
倉田係長の目が少し細くなりました。
「君は何が言いたい」
私は一瞬迷いました。
未来の制度名を、そのまま口にするわけにはいきません。
だから、できるだけ昭和六十三年の言葉に直します。
「基準を作る前に、影響を受ける人たちの事情を集めたんですか」
「必要な調査はしている」
「例えば、看板交換費用」
「……」
「高齢の店主がいること」
「……」
「昔からの看板を使っている店が何軒あるか」
「……」
「点滅灯を消すだけで済む店と、看板そのものを作り直さなきゃいけない店を分けました?」
倉田係長は返事をしません。
私は続けました。
「基準の目的は、景観を整えることですよね」
「ああ」
「なら、その目的に合う内容にしないといけない」
「当然だ」
「だったら、“全部同じ色に寄せる”ことが、本当に必要な範囲なのかも考えないと」
相馬先輩が横から言いました。
「あと、役所の若いのが、“従わないと商店街の事業で不利益になるかも”って言ったそうだ」
倉田係長の顔が変わりました。
「誰が」
「名前は確認してある」
「……それは言わせてない」
「でしょうね」
「行政指導だぞ。法的強制じゃない」
「なら、なおさら言い方を揃えた方がいい」
相馬先輩の声が低くなりました。
「指針だけ作って、現場が脅しみたいに運用したら意味がない」
そこでした。
基準の問題。
作り方の問題。
運用の問題。
三つあります。
ごちゃごちゃにすると、誰も何を直せばいいか分からない。
「係長」
片桐所長が初めて口を開きました。
「この基準。目的は何だ」
「駅前景観の統一です」
「統一そのものが目的か」
倉田係長が止まりました。
「……観光振興と、歩きやすい商店街づくりです」
「なら、基準はその目的に合う必要がある」
「ああ」
「古い看板を一斉に交換させることが、目的達成に必要な範囲か」
「……」
「実施後に問題が出たら、見直す気はあるか」
倉田係長は少し長く黙りました。
「ある」
「なら今、聞けばいい」
短い。
でも全部入っています。
決めたから守れ。
ではなく。
決めたけれど、実際にどうなるかを見て、必要なら直す。
未来の第三十八条第二項。
実施状況。
社会経済情勢の変化。
必要に応じた検討。
適正の確保。
その言葉が、頭の中で静かにつながりました。
法律はまだない。
でも発想はここにある。
「倉田係長」
私は言いました。
「もう一度、商店街から意見を集めませんか」
「今さらか」
「今さらでもです」
「基準は決まってる」
「じゃあ、“絶対変えません”なんですか」
「……」
「決めた後でも、実施して問題が出るなら直した方がいいですよね」
倉田係長がため息をつきました。
「君は簡単に言う」
「簡単じゃないです」
十八万円。
私は森下さんの見積書を思い出しました。
「簡単じゃないから、聞いた方がいいんです」
係長が私を見ます。
「どういう意味だ」
「役所側が思ってる負担と、店側が感じる負担が違うかもしれない」
「……」
「聞けば、“その基準、本当に必要な範囲ですか”って検討できる」
相馬先輩が言いました。
「それに、どうせ駅前再整備はこれから長い。最初から住民と商店に“決まったから従え”でやったら、後でもっと揉めるぞ」
倉田係長が嫌そうな顔をしました。
「脅しか」
「未来予測です」
「お前らに予測されたくない」
それは分かります。
この事務所、未来予測すると大体ろくな話じゃないので。
結局。
その日のうちに基準そのものを撤回する話にはなりませんでした。
でも、倉田係長は三つ約束しました。
一つ。
看板交換を来月一日までに一律要求する運用は止める。
一つ。
商店会を通じて、基準について意見を改めて集める。
一つ。
その意見と実際の費用負担を踏まえて、猶予期間や対象範囲を再検討する。
「あと」
倉田係長が言いました。
「“従わないと不利益になる”なんて言った職員は確認する」
「お願いします」
「ただし」
係長は私を指しました。
「意見を聞くからって、全部採用するわけじゃないぞ」
「はい」
そこは大事です。
「意見を聞くことと、言いなりになることは違います」
私が答えると、倉田係長は少しだけ眉を上げました。
「……分かってるじゃないか」
「受験勉強で」
「何の受験だ」
「そこはいいんです」
危ない。
未来が漏れる。
事務所へ戻ると、森下さんが待っていました。
「どうでした?」
「来月までに絶対交換、ではなくなりました」
「本当ですか」
「はい」
「でも、基準は残るんですよね」
「今のところは」
森下さんの顔に、少しだけ不安が戻りました。
私は慌てて続けます。
「ただ、商店街から意見を集め直すことになりました」
「今さら?」
「私もそう思いました」
「決めた後じゃないですか」
「そうなんです」
私は苦笑しました。
「本当は、決める前に聞いてほしかった」
でも。
今からでも、基準を運用する中で見直す余地はある。
少なくとも、
決まったから終わり。
ではなくなった。
「私、意見を書いてもいいんですか」
「もちろん」
「十八万円かかるって」
「ぜひ」
「父の代からの看板だって」
「それも」
「赤いのが派手なのは認めますけど」
「そこは認めるんですね」
「だって派手なんです」
森下さんが笑いました。
「でも、あれ見て店が分かるお客さんもいるから」
「それ、大事な事情です」
私は紙を一枚出しました。
「感情だけじゃなくて、具体的に書きましょう」
「具体的?」
「交換費用。今の看板を残した場合の景観への影響。色を全部変えずに改善できる方法。猶予期間がどれくらい必要か」
森下さんの目が少し明るくなりました。
「そういうのでいいんですか」
「むしろ、そういうのが役所には必要です」
“嫌です”。
だけでは、相手も動きづらい。
でも、
十八万円かかる。
三年の猶予があれば対応できる。
点滅灯だけ外せば景観上の問題は減る。
店の識別性のため、赤色は一部残したい。
そこまで具体的なら、
基準のどこを直すべきか、議論できる。
「意見って」
森下さんが言いました。
「文句じゃないんですね」
「はい」
私は少し考えます。
「基準を作る材料です」
その言葉を口にした瞬間。
頭の中で、未来の制度がまた輪郭を持ちました。
意見公募手続。
案を公示する。
国民から意見を募る。
提出された意見を考慮する。
そして最終的な命令等を定める。
意見を聞くことは、拍手を集めることじゃない。
賛成多数で決めることでもない。
反対意見が一件あったら撤回することでもない。
判断材料を増やすこと。
行政が、自分だけでは見落とす事情を拾うこと。
その結果、
根拠法令の趣旨に適合した、より適切なルールへ近づける。
未来の私は知っています。
この考え方には、後にちゃんと名前がつく。
でも昭和六十三年の森下さんには、
名前なんて関係ありません。
十八万円が現実です。
夕方。
森下さんは一度店へ戻り、その後、紙袋を持って戻ってきました。
「これ、商店街のパン屋さんから」
「またパンですか」
「相談したって話したら、“持ってけ”って」
この町、法律相談の対価が炭水化物に偏っています。
「ありがとうございます」
紙袋を開くと、コロッケパンが四つ。
相馬先輩の手が伸びる。
「先輩」
「何だ」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってる」
「一人一個です」
「誰が決めた」
「私です」
「その基準、意見募集したか?」
「しましょうか」
「俺は二個」
「却下」
「意見を聞け!」
「聞きました。考慮した上で却下です」
「横暴!」
所長が新聞の向こうから言いました。
「一個ずつ」
「所長まで!」
「残り一個は明日」
すごい。
合理的。
しかも今のところ最も透明なルールです。
「ほら先輩。意見は聞かれても、採用されるとは限らないんですよ」
「覚えたての理屈をパンで使うな」
「生きた行政法です」
「ただの食い意地だ」
森下さんが笑いました。
その笑顔は、最初に来たときよりずっと軽い。
「朝比奈さん」
「はい」
「私、役所に意見出してみます」
「ぜひ」
「どうせ決まってるなら意味ないと思ってました」
「決まったものでも、見直す余地はあります」
「でも本当は」
「はい」
「決める前に聞いてほしかったですね」
私は頷きました。
「私もそう思います」
森下さんが帰ったあと。
事務所は少し静かになりました。
窓の外では、駅前の看板が一つずつ灯り始めています。
赤。
青。
黄色。
統一感は、正直ありません。
景観行政の人が頭を抱えそうな色です。
でも。
そこには一軒ずつ店がある。
生活がある。
歴史がある。
看板の向こうには、誰かの財布と、誰かの思い出があります。
行政が一般的な基準を作るとき。
一軒一軒に個別の許可をもらう必要はない。
全員の賛成も必要ない。
でも。
だからといって、
役所の中だけで完璧な答えが作れるわけでもない。
その基準は、何のためにあるのか。
根拠となる制度の目的に合っているか。
現場で実際に使ったら、どんな影響が出るのか。
社会や経済の状況が変わったら、今の内容のままでいいのか。
そういう問いは、
決める前にも。
決めた後にも。
残り続ける。
私はノートを開きました。
今日の題名。
――意見公募手続。
書いてから、慌てて手で隠します。
昭和六十三年。
まだ未来の言葉です。
「何隠してんだ」
相馬先輩が覗き込みます。
「秘密です」
「怪しい」
「未来の国家機密です」
「またそれか」
私はページの下に、今日分かったことだけを書きました。
――意見は、決めた後の飾りではなく、決める前の材料。
少し考えて、もう一行。
――そして決めた後も、間違っていたら見直す。
所長が横から見ました。
「悪くない」
「今日は褒めますね」
「今日はな」
「“今日は”要ります?」
相馬先輩がコロッケパンをかじりながら言いました。
「じゃあ一行でまとめろ」
「一行?」
「ああ」
私は窓の外を見ました。
商店街の赤い看板。
その一つが、森下文具です。
たぶんあの看板は、すぐには消えない。
でも、ずっと残るとも限らない。
大事なのは、
変えるか残すかを、
役所の机だけで決めないこと。
そして。
一度決めたら永遠に正しいと思わないこと。
私はノートの最後に書きました。
――「もう決まりました」の前に聞く。「もう決めました」の後にも見直す。
「長い」
「またですか」
「もっと短く」
「じゃあ先輩なら?」
相馬先輩は少し考えました。
「決める前に聞け。決めた後も疑え」
私はペンを止めました。
「……それ、いいですね」
「だろ」
「採用します」
「使用料」
「コロッケパン一口で」
「安い!」
所長が新聞をめくります。
「十分だ」
「所長!?」
私は笑いながら、その言葉をノートに書き直しました。
――決める前に聞く。決めた後も疑う。
未来では。
この考え方に、もっと細かな手続がつく。
どんな「命令等」が対象なのか。
どんな案を公示するのか。
どれくらい意見を募集するのか。
出た意見をどう扱うのか。
そのあたりは、明日ちゃんと整理すればいい。
今日のところは。
森下さんの十八万円が、
「もう決まったことです」
の一言だけで消えなくなった。
それで十分です。
条文は冷たい。
命令等。
根拠法令の趣旨。
実施状況。
社会経済情勢。
適正の確保。
全部、温度のない言葉です。
でも。
その冷たい言葉が、
役所の思いつきを止める。
決めっぱなしを止める。
現場を見ずに「正しい」と言い切ることを止める。
制度の冷たさは、ときどき、
「一度決めたんだから黙って従ってください」
という熱すぎる思い込みを冷ましてくれます。
私はノートを閉じました。
その瞬間。
相馬先輩が、明日用に残したコロッケパンへ手を伸ばしました。
「先輩」
「何だ」
「それ、明日用です」
「運用を見直した」
「誰が!」
「実施状況を勘案した」
「社会経済情勢に変化ありました!?」
「俺の腹が減った」
「それを社会経済情勢に含めないでください!」
所長が新聞の向こうから一言。
「却下」
相馬先輩の手が止まりました。
「所長まで」
「明日食え」
どうやら片桐行政書士事務所のコロッケパン基準は、
制定後の見直しにも相当慎重なようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




