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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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109/278

[行政手続法37条・届出]現場編 「受理されるまで営業できません」の罠。許可を待つ手続と、役所に届けば終わる手続

挿絵(By みてみん)

 役所に紙を出すと、人はつい、返事を待ちたくなります。


 受け付けました。


 認めます。


 許可します。


 そんなお墨付きをもらって、初めて前へ進める気がするからです。


 でも。


 世の中の書類が全部、


 「役所が認めてくれるまで待つ書類」


 とは限りません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所で働き始めてから、私はそのことを、嫌というほど思い知らされることになります。


 その朝。


「まだ来ないんです」


 相談者の女性は、膝の上でハンカチを握りしめていました。


 三十代半ばくらい。


 紺色のスカートに白いブラウス。


 隣には、小学生くらいの女の子が一人。


 女の子は大人しく椅子に座りながら、こちらをじっと見ています。


 相談者は、高瀬美代子さん。


 町の外れにある小さなクリーニング店を、亡くなったご主人から引き継いだばかりでした。


「何が来ないんです?」


 相馬先輩が聞きました。


「役所からの……その、受理したっていう通知です」


「受理通知?」


「はい」


 相馬先輩の眉が動きました。


 嫌な予感を察知した顔です。


 私も、机の端に置かれた書類を見ました。


 そこには、


 営業承継届。


 そんな題名が印刷されています。


「これ、いつ出したんですか」


 私が聞くと、美代子さんは答えました。


「一昨日です」


「窓口に?」


「はい。ちゃんと持っていきました」


「その場で何か言われました?」


「担当の方から、“受理されるまでは営業しないでください”って」


 私は瞬きをしました。


 相馬先輩も、美代子さんを見る。


「そのまま?」


「はい」


「書面で?」


「いえ。口頭です」


 またそれですか。


 行政法を勉強していると、だんだん分かってきます。


 役所の問題は、紙が多すぎることより、


 大事なことほど紙になっていないことのほうが怖い。


「それで、店を閉めてるんですか」


「はい」


 美代子さんは小さく頷きました。


「昨日も今日も」


「お客さんは?」


「預かってる洗濯物があります。でも、営業しちゃいけないって言われたので……」


 女の子がそこで初めて口を開きました。


「お母さん、昨日ずっと電話で謝ってた」


「真理」


「だって本当だもん」


 美代子さんは困ったように娘さんを見ました。


「学校の制服とか、礼服とか。急ぎのお客さんもいるんです。でも、役所から連絡が来るまでは駄目なのかなって」


「役所からは、いつ連絡すると?」


「それが……」


 嫌な間です。


「一週間くらいかかるかもしれない、と」


 相馬先輩が椅子にもたれました。


「一週間」


「はい」


「店を閉めて?」


「はい」


「一週間?」


 二回言いました。


 大事なので二回言ったのでしょう。


 私は書類を手に取りました。


 届出。


 その二文字を見た瞬間。


 頭の奥で、令和の受験生だった私の記憶が、ぴくっと反応しました。


 届出。


 申請とは違う。


 行政庁に何かを認めてもらうための行為ではなく、一定の事項を通知する行為。


 そして――。


 そこまで思い出して。


 私は固まりました。


 あ。


 まずい。


 これ。


 行政手続法だ。


 しかも、私が知っているのは行政手続法第三十七条。


 届出は、必要事項が記載され、必要な添付書類がそろい、法令所定の形式的要件に適合していれば、提出先の事務所へ到達した時点で、手続上の届出義務を履行したものとする。


 受理通知待ちではない。


 到達でいい。


 ――という、あの条文。


 でも。


 壁のカレンダーを見る。


 昭和六十三年。


 一九八八年。


 行政手続法の制定は、まだ先。


 施行なんてもっと先。


 未来の法律を、


「第三十七条です!」


 とか言って振り回したら、私は行政書士見習いではなく予言者になります。


「……何百面相してんだ」


 相馬先輩が言いました。


「いえ、ちょっと未来と現在が衝突してまして」


「朝から面倒くせえな」


 全面的に同意します。


 私は書類へ視線を戻しました。


「所長」


 奥で別の書類を見ていた片桐所長が顔を上げます。


「これ、“届出”なんですよね」


「ああ」


「許可とか認可じゃない」


「ああ」


 短い。


 でも、その二回で十分でした。


 私は美代子さんに向き直ります。


「高瀬さん。役所に出したとき、この書類に不足があるって言われました?」


「不足?」


「書き忘れとか、添付書類がないとか」


「いえ。窓口の人が見て、“書類はそろってます”って」


 来ました。


 頭の中で、眠っていた条文が完全に起き上がります。


 記載事項。


 添付書類。


 形式上の要件。


 全部そろっている。


「先輩」


「何だ」


「これ、役所が“受理します”って判断するまで待つ手続じゃないんじゃないですか」


 相馬先輩が私を見ました。


「……続けろ」


「届出って、基本的には、本人が一定の事実を行政側へ知らせるためのものですよね」


「ああ」


「だったら、提出した後に役所が許可するかどうか審査する手続とは違う」


「そうだな」


「じゃあ、“受理されるまで営業するな”って、何を待たせてるんです?」


 応接室が静かになりました。


 美代子さんが私を見ています。


 片桐所長が、ゆっくり書類を置きました。


「いいところを見た」


 お。


 今日初めて褒められました。


 この人の褒め言葉、出現率が彗星並みなので貴重です。


 相馬先輩が書類を取り上げます。


「ただし」


 先輩は私を見る。


「“届出”って名前だけで決めつけるなよ」


「あ」


「大事なのは、その制度の根拠だ」


 そうでした。


 名前だけ見て走ったら駄目。


 行政法は、看板詐欺が多い。


「何を届ける制度なのか。届け出た後に行政の判断を予定してるのか。別に許可が必要なのか。根拠規定を確認する」


「はい」


「論点で喋るな。調べろ」


「自分から聞いたのに」


「早くしろ」


 理不尽。


 ただし今回は正しい。


 私たちは根拠となる規定と提出書類を確認しました。


 今回の高瀬さんの手続は、夫から営業を承継した事実を届け出るもの。


 別途、新規の営業許可を取り直すという仕組みではありません。


 そして美代子さんが持参した控えを見る限り、必要事項は記載され、求められている書類も添付されていました。


 少なくとも、


 「行政庁が受理を決定するまで、当然に営業できない」


 という仕組みには見えません。


「市役所行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「はい」


「高瀬さんは?」


 私は振り返ります。


 美代子さんは不安そうでした。


「私も行った方がいいんでしょうか」


 所長が静かに言います。


「来てください」


「でも、役所の人に逆らったみたいになりませんか」


 その一言に、私は少し胸が詰まりました。


 そこなんですよね。


 法律の問題って、知識だけじゃない。


 役所に嫌われたらどうしよう。


 次から困るんじゃないか。


 面倒な人だと思われるんじゃないか。


 そういう空気が、人を止めます。


「喧嘩しに行くんじゃありません」


 私は言いました。


「何を待つ必要があるのか、確認しに行くだけです」


「確認……」


「はい」


「営業していいか、お願いするんじゃなく?」


「そこも含めて、まず手続の正体を確認します」


 すると娘さんが言いました。


「お母さん、行こうよ」


「真理」


「だって制服返さないと、みんな困るんでしょ」


 子どもは時々、大人より論点整理が速い。


 市役所の窓口には、昼前に着きました。


 担当課のカウンターで、美代子さんが控えを見せます。


「ああ、高瀬さん」


 若い男性職員が言いました。


「一昨日の」


「はい」


「まだ処理中です」


 処理中。


 便利な言葉です。


 カップ麺ならあと何分か分かるんですが、役所の処理中には時計がついていません。


 相馬先輩が横から聞きます。


「何の処理です?」


「え?」


「この届出について、何を処理してるんです」


「内容を確認して、受理を……」


「受理するかしないかの判断があるんですか」


 職員が詰まりました。


「いや、まあ、書類を確認したうえで……」


「書類は窓口で確認済みだと聞いてます」


「形式的には、ですけど」


「じゃあ他に何を審査する?」


 相馬先輩、今日も切れ味が包丁です。


 若い職員は困った顔で後ろを振り返りました。


 すると。


「また片桐事務所ですか」


 聞き覚えのある声がしました。


 倉田係長。


 最近、この市役所で会いすぎです。


 向こうもたぶん同じことを思っています。


「今度は何です」


「高瀬さんの営業承継届です」


 相馬先輩が答えます。


「一昨日提出。形式上の不備なし。それでも、“受理されるまで営業するな”と言われた」


 倉田係長の眉が寄りました。


「誰がそんなことを」


 若い職員が小さく手を挙げました。


「私です」


「なぜ」


「いや、受理前に営業されると問題かと……」


「何が問題なんだ」


「それは……」


 係長、今日はこっち側です。


 ちょっと珍しい。


 私は控えめに口を挟みました。


「係長。この届出って、役所が許可するための手続ではないですよね」


「そうだ」


「承継したことを届け出る」


「ああ」


「なら、高瀬さんが待つべき“許可”って、何ですか」


 倉田係長は黙りました。


 私も黙ります。


 未来の私は知っています。


 数年後。


 この国では行政手続法という法律ができる。


 そして、その第三十七条で、


 届出が形式上の要件を満たしているなら、提出先の事務所に到達した時点で、届出義務を果たしたことになる。


 そう整理される。


 でも今は昭和六十三年。


 その条文はまだありません。


 だから私は、条文を口にできない。


 代わりに、今ここにある制度そのものを見るしかない。


「この制度」


 私はゆっくり言いました。


「役所が営業していいかどうかを判断して、許可を与えるための仕組みじゃないですよね」


「……そうだな」


「だったら、“受理待ち”っていう言葉だけで営業を止めるのは、おかしくありませんか」


 若い職員が言いました。


「でも、届出書は一応、上に回しますから」


「役所の中で回すことと、高瀬さんの届出義務が終わっているかは別じゃないですか」


 言ってから、自分で少し驚きました。


 あ。


 これだ。


 内部処理と、外部の義務。


 混ぜちゃいけない。


 役所の机の上で書類が係員から係長へ、係長から課長へ旅をする。


 それは役所内部の事情です。


 でも、その旅が終わるまで市民の義務が未履行扱いになるかどうかは、別問題。


 相馬先輩が、ちらりと私を見ました。


 いいぞ。


 たぶんそんな顔です。


 口では絶対言わないでしょうけど。


 倉田係長が職員に聞きました。


「この届出、不備あるのか」


「……ありません」


「添付は」


「そろっています」


「他の許可が必要なのか」


「いえ」


「じゃあ何を待たせてる」


「……処理です」


「だから、その処理は誰のための処理だ」


 きれいに刺さりました。


 若い職員は完全に黙りました。


 少し可哀想です。


 でも。


 この二日間、美代子さんは店を閉めています。


 誰かが曖昧に言った、


 「受理されるまで待ってください」


 その一言だけで。


 倉田係長がため息をつきました。


「高瀬さん」


「はい」


「この件について、“受理通知が出るまで営業してはいけない”という取扱いはしていません」


 美代子さんが目を見開きました。


「じゃあ……」


「少なくとも、今出されている届出について形式上の不足はありません」


「営業していいんですか」


 係長はそこで言葉を選びました。


「この届出の受理通知を待たなければ営業できない、ということではありません」


 慎重。


 でも十分です。


 美代子さんの肩から、目に見えない重りが一つ落ちました。


「じゃあ、今日、お店を開けても」


 倉田係長は若い職員を見ました。


「この届出との関係では、それを止める理由はない」


 美代子さんは、しばらく何も言いませんでした。


 それから。


「よかった……」


 小さく呟きました。


 大勝利。


 という感じではありません。


 拍手もない。


 役所が謝罪文を出したわけでもない。


 ただ、


 閉めなくてよかった店を、もう閉めなくていい。


 それだけです。


 でも生活の法律って、たぶんこういうものです。


 誰かの一日分の売上。


 今日着る制服。


 葬式へ着ていく礼服。


 そういう細い糸を、行政法は時々つないでいる。


 若い職員が申し訳なさそうに言いました。


「高瀬さん、すみません」


「いえ……」


「私、“受理前だから”って、つい……」


 倉田係長が横から言います。


「許可と届出を一緒にするな」


 強い。


 私は心の中でメモしました。


 今日のタイトル、それでもいいくらいです。


 若い職員が頭を下げました。


「申し訳ありません」


 美代子さんも、小さく頭を下げ返します。


「私も、役所の人に言われたら、そういうものだと思ってしまって」


「いや、それはこちらの説明が悪い」


 倉田係長が言いました。


「今後、窓口でも言い方を改めます」


 おお。


 倉田係長。


 最近ちょっと好きになってきました。


 融通は利かないけど、間違いが分かれば直す。


 行政法のキャラクターとして非常に正しい成長をしています。


 帰り際。


 私はどうしても一つ聞きたくなりました。


「係長」


「何だ」


「届出って、いつ“終わった”ことになるんですか」


 倉田係長が私を見る。


「何だ、急に」


「いえ。役所側の処理が終わったときなのか、本人が出したときなのか」


「その制度による」


「ですよね」


「ただ」


 倉田係長は少し考えました。


「行政の確認や許可を受けることを要件にしている制度じゃないなら、役所が勝手に“受理という判断”を一個足すのは変だろうな」


 私は黙って頷きました。


 胸の奥で。


 未来の条文と、昭和の現場が、かちりと噛み合った気がしました。


 そう。


 後の行政手続法は、突然空から降ってくるわけじゃない。


 たぶん、こういう現場が先にある。


 出した。


 届いた。


 書類もそろっている。


 なのに、


 「まだ受理してません」


 「内部処理中です」


 「上司の印鑑がまだです」


 そんな行政側の事情で、市民がいつまでも宙ぶらりんになる。


 だから後の時代に、


 形式上の要件を満たした届出は、所定の提出先に到達したとき、届出義務を果たしたことにしましょう。


 そう線を引く。


 法律は、問題が起こる前に完璧な答えを用意しているわけじゃない。


 問題が積み重なった後で、


 ここで人を待たせちゃ駄目だった。


 ここは曖昧にしちゃ駄目だった。


 そうやって線を引くこともある。


 その日の夕方。


 片桐行政書士事務所に、高瀬さん親子がもう一度やってきました。


「ありがとうございました」


 美代子さんは大きな紙袋を持っています。


「お店、開けられました」


「よかったですね」


「預かってた制服も渡せました」


 娘さんが嬉しそうに言いました。


「お母さん、午後だけでいっぱい仕事したよ」


「真理」


「ほんとだもん」


 紙袋の中には、近所のパン屋さんの菓子パンが入っていました。


「こんなに?」


「うち、食べ物を扱ってないから。差し入れ、何にしたらいいか分からなくて」


「最高です」


 私が即答すると、相馬先輩がもう紙袋へ手を伸ばしました。


「先輩」


「何だ」


「まだ高瀬さん帰ってません」


「だから?」


「人として待ちません?」


「腹が減ってる」


「欲望の届出が速い」


 娘さんが笑いました。


 高瀬さんも、今度はちゃんと笑いました。


「朝比奈さん」


「はい」


「私、あのとき、“受理されるまで”って言われて、何も聞けなかったんです」


「はい」


「受理って言われたら、何か難しい審査があるんだと思って」


「分かります」


 受理。


 処理。


 審査。


 承認。


 役所の言葉は、時々それだけで人を止めます。


「でも今日、分かりました」


 美代子さんは言いました。


「待たなきゃいけない書類と、出せばいい書類は、同じじゃないんですね」


 私は少しだけ笑いました。


「たぶん、そこが一番大事です」


「次から聞きます」


「何をです?」


「これは、許可を待つ書類ですか。それとも、出せばいい書類ですかって」


「それ、すごくいい質問です」


 高瀬さん親子が帰ったあと。


 相馬先輩は、案の定、クリームパンを確保しました。


「それ私が狙ってたんですが」


「届出は受け付けた」


「何の」


「お前がクリームパンを欲しいという通知」


「じゃあ返してください」


「通知を受けただけだ。許可はしてない」


「制度設計が悪質!」


 奥で帳簿を見ていた片桐所長が言いました。


「相馬」


「はい」


「返せ」


「何でです」


「俺も食う」


「所長まで!」


 三人で争った末、クリームパンは三等分されました。


 行政より平和的解決です。


 たぶん。


 外が暗くなり始めた頃。


 私は机に戻り、ノートを開きました。


 今日の頁の一番上に、


 ――届出。


 と書きます。


 そこで、ペンが止まりました。


 申請。


 届出。


 受理。


 到達。


 形式上の要件。


 どこからが行政側の仕事で、


 どこまでが市民側の義務なのか。


 高瀬さんは、ちゃんと紙を出していました。


 記載にも不足はなかった。


 添付書類もそろっていた。


 それなのに、


 役所内部での処理が終わっていない。


 ただそれだけの理由で、


 本人は自分の義務がまだ終わっていないと思い、


 店まで閉めてしまった。


 未来の私は、知っています。


 この数年後。


 行政手続法という法律ができる。


 そして、


 こういう届出について、


 必要事項が書かれ、


 必要な書類が添えられ、


 法令上の形式的な要件を満たしているなら、


 その届出が所定の提出先へ到達したときに、


 届出をすべき手続上の義務は果たされたものとする。


 そんなルールが、明文で置かれる。


 でも。


 今はまだ、その条文はない。


 昭和六十三年の机の上には、


 真っ白な私のノートしかありません。


「書かないのか」


 相馬先輩が言いました。


「今、ちょっと不思議な気分で」


「何が」


「法律って、後から生まれることもあるんだなって」


「そりゃ法律くらい増えるだろ」


「そういう意味じゃなくて」


 私は今日の窓口を思い出しました。


 受理されるまで待って。


 処理中だから待って。


 役所の中で紙が回っているから待って。


 誰かにとっては小さな言葉です。


 でも、その一言で店が二日閉まった。


 だから。


 未来で条文になる。


 たぶん法律は、教科書のために作られるんじゃありません。


 こういう、


 「それ、いつまで待てばいいんですか」


 という人たちのために作られる。


 片桐所長が言いました。


「今日のことだけ書け」


「今日のこと?」


「未来の話は知らん」


 ぎくり。


「何で未来って」


「さっきから顔に出てる」


 鋭すぎません?


 私は慌ててノートへ視線を落としました。


「じゃあ今日分かったことだけ」


「ああ」


 少し考えて。


 一行だけ書きました。


 ――役所に紙を出したら、まず「許可を待つ手続なのか、知らせれば足りる手続なのか」を分ける。


 相馬先輩が横から覗き込みました。


「珍しくまともだな」


「最近それ毎回言いますね」


「成長してるってことだ」


「褒め方が雑」


 所長が言いました。


「もう一行」


「はい?」


「役所内部の処理と、本人の義務を混ぜるな」


 私はペンを止めました。


 それから、そのまま書き足しました。


 ――役所の机で書類が止まっていても、市民の義務まで止まっているとは限らない。


 今日のところは、それで十分でした。


 届出とは何なのか。


 申請とは何が違うのか。


 形式上の要件とは何なのか。


 書類が「到達する」とは、どの時点なのか。


 そして、


 役所が「受理しました」と言う前でも、本当に届出義務は終わるのか。


 そこまできちんと整理するのは、明日にしましょう。


 今やると、未来の法律まで口から滑りそうです。


 窓の外では、昭和六十三年の町に灯りがともっています。


 高瀬さんのクリーニング店にも、たぶん今頃、明かりがついているはずです。


 たった一枚の届出書。


 役所から見れば、書類の束の中の一枚。


 でも、高瀬さんにとっては、


 店を開けていいのか。


 娘さんと生活していけるのか。


 その境目に置かれた一枚でした。


 条文は冷たい。


 届出。


 到達。


 形式上の要件。


 義務の履行。


 人の顔なんて一つも書いてありません。


 でも。


 冷たい線があるからこそ、


 「うちの内部処理が終わるまで待ってください」


 という曖昧な一言と、


 「あなたが法律上やるべきことは、もう終わっています」


 という話を、切り分けられる。


 制度の冷たさが、人を待たせないこともある。


 私は今日、それを初めて見た気がしました。


 そして、机の隅を見ると。


「先輩」


「何だ」


「クリームパン、もうないんですけど」


「食った」


「三等分したでしょう!」


「俺の分をな」


「私の分も消えてます!」


「証拠は?」


「包み紙が先輩の机にあります!」


 所長が新聞をめくりながら言いました。


「相馬」


「はい」


「形式上の要件を満たしているな」


「何の話です?」


「犯人確定の」


「届出より審査が速い!」


 どうやら片桐行政書士事務所では、


 菓子パン窃盗についてだけは、


 到達即時で処分が下るようでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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