[行政手続法36条の2・行政指導の中止等の求め]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間の怒鳴り声が嘘みたいに静かでした。
電話も鳴らない。
来客もない。
窓の外では、駅裏の工場街にぽつぽつ明かりがついています。
そして机の上には、野中さんが置いていったたい焼きの空き袋。
「……ありません」
「何が」
相馬先輩が帳簿から顔を上げます。
「たい焼きです」
「食った」
「全部?」
「残す理由がない」
「あるでしょう。後輩への配慮とか」
「法的義務は?」
「そういうときだけ法律持ち出すのやめてもらえます?」
私は空き袋を恨めしく見つめてから、ノートを開きました。
今日、市役所が野中鉄工所にしたのは、
――法律違反だから、プレス機の使用をやめるか、防音措置をしてください。
という行政指導でした。
ところが。
詳しく聞いてみると、騒音の測定はまだしていない。
法律上の基準を超えているかも確認していない。
職員が現地で音を聞いた。
近隣から苦情が出ている。
それだけで、
「法律違反だから是正してください」
というところまで話が進んでいました。
私はノートの上に、昨日書いた題をもう一度なぞります。
――行政指導の中止等の求め。
相馬先輩が横から覗きました。
「その妙な言葉、また使うのか」
「はい」
「お前の造語だろ」
「今のところは」
「またそれか」
私は笑ってごまかします。
昭和六十三年。
この時代には、行政手続法はまだありません。
まして。
行政指導の中止等の求めなんて制度が法律に入るのは、ずっと先。
平成二十六年の改正です。
でも。
今日起きたことを見れば。
なぜ未来でこんな制度が作られるのか。
ものすごくよく分かります。
「所長」
「何だ」
片桐所長は、奥の机で書類を整理しています。
「今日の市役所の問題って、行政指導だったこと自体じゃないですよね」
「そうだ」
「行政指導だから悪い、ではない」
「当然だ」
私はノートに書きます。
行政指導。
行政機関が、一定の行政目的を実現するため、相手方に一定の作為や不作為を求める働きかけ。
基本的には、相手方の任意の協力を前提にする。
今日なら。
市役所が野中さんに、
騒音を改善してください。
プレス機の運転方法を見直してください。
防音措置を考えてください。
そう働きかけることです。
「じゃあ」
相馬先輩が聞きます。
「行政指導なら、気に入らなきゃ全部『やめろ』って言えるのか」
「そこが違います」
「どう違う」
来ました。
今日の本題です。
私は未来の行政手続法三十六条の二を、頭の中でゆっくりほどきました。
「未来の制度で、中止等を求められる行政指導には条件があります」
「未来?」
「たとえばの話です!」
「便利な『たとえば』だな」
もう気にしません。
「まず」
私は指を一本立てます。
「法令に違反する行為の是正を求める行政指導であること」
「普通のお願いじゃ駄目か」
「はい」
ここ。
大事です。
行政指導なら全部対象。
ではありません。
たとえば、
町をきれいにするため花壇を置いてください。
営業時間を少し短くしてもらえませんか。
地域行事に協力してください。
そういう一般的な協力要請まで、この制度で全部止められるわけではない。
対象になるのは。
法令に違反する行為について、
その違反を直してください。
と求める行政指導。
「今日の野中さんなら?」
「市役所は『騒音規制に関する法律に違反しているから是正してください』と言いました」
「だから当てはまりそうだと」
「はい。ただし、まだ条件があります」
「まだあるのか」
「行政法は、だいたい一個条件を言うと後ろから二個出てきます」
「嫌な生き物みたいに言うな」
でも本当にそうなんです。
私は二本目の指を立てます。
「その行政指導の根拠となる規定が、法律に置かれていること」
相馬先輩の眉が動きました。
「法令じゃないのか」
「ここ、試験で危ないところです」
私はノートに大きく書きます。
――根拠規定が「法律」に置かれている行政指導。
「法律です」
「条例は?」
「この制度の対象には入りません」
「規則は?」
「それだけを根拠にするものなら対象外」
「省令は?」
「同じく、この三十六条の二の中止等の求めの対象になるためには、根拠となる規定が法律に置かれている必要があります」
「なるほどな」
ここ。
かなり大事です。
教材を雑に覚えて、
法律に違反する行政指導なら全部。
と思うと間違えます。
正確には。
法令に違反する行為の是正を求める行政指導で。
しかも。
その行政指導の根拠となる規定が法律に置かれているもの。
です。
「所長」
「何だ」
「ここ、ややこしくないですか」
「行政法だからな」
「相馬先輩と同じこと言った」
「事実は一つだ」
妙に格好いいけど、内容は「行政法はややこしい」です。
「じゃあ」
私は整理します。
「市役所が単なる内部方針で『直してください』と言っているだけなら、未来の三十六条の二による正式な中止等の求めは使えない」
「そうなるな」
「逆に、法律に根拠規定がある是正指導なら、次の問題へ進める」
「次?」
「その行政指導が、法律に定められた要件に適合しているか」
これです。
今日。
私たちが市役所で聞き続けたこと。
どの法律ですか。
どの条項ですか。
どんな要件ですか。
野中鉄工所は、その要件を満たしているんですか。
たったそれだけ。
でも。
それを確認した途端。
「法律違反だから止めてください」
という強い言葉が崩れました。
「相馬先輩」
「何だ」
「法律に基づく行政指導なら、役所は何でも言えるんですか?」
「そんなわけねえだろ」
「ですよね」
私は頷きます。
根拠が法律にある。
だから無敵。
ではありません。
その法律には。
行政指導をするための要件がある。
一定の施設であること。
一定の違反状態にあること。
一定の基準を満たさないこと。
そういう条件です。
そして。
その条件を満たしていないのに。
「法律違反だから是正してください」
と行政指導をしたなら。
未来の制度では。
相手方が行政機関に申し出て。
その指導をやめるなど必要な措置を求めることができる。
「今日の野中さんなら」
私は言います。
「市役所は、騒音基準を超えているか測定していなかった」
「ああ」
「なのに法律違反を前提に、プレス機を止めるよう求めた」
「ああ」
「だから野中さんとしては、“その行政指導、法律の要件に当てはまってないんじゃないですか”と問題にできる」
「それが中止等の求めか」
「はい」
私はノートに大きく書きました。
行政指導の中止等の求め。
――行政指導を受けた者が、その行政指導は根拠法律の要件に適合していないと考えるとき、行政機関に申し出て、中止その他必要な措置を求める制度。
「待て」
相馬先輩が言います。
「誰でも言えるのか」
「そこも限定があります」
「誰だ」
「その行政指導の相手方です」
ここも。
試験では地味に大事です。
近所の人。
競争相手。
従業員。
たまたま不満を持った第三者。
そういう人がこの制度を使うわけではありません。
行政指導を受けた。
その相手方。
「今日なら野中さん」
「そうだな」
「近所のマンション住民じゃない」
「当然だ」
「行政書士事務所の私でもない」
「当たり前だ」
「所長でもない」
「くどい」
「確認です」
私は線を引きます。
誰が。
行政指導の相手方。
どこへ。
その行政指導をした行政機関。
何を求める。
行政指導の中止その他必要な措置。
「中止“等”って何です?」
私が聞くと、所長が答えました。
「必ずしも全部やめるだけじゃないということだろう」
「修正とか?」
「場合によってはな」
なるほど。
今日も実際そうでした。
市役所は。
苦情対応そのものをやめたわけではありません。
「法律違反だからプレス機を停止してください」
という部分は撤回。
そのうえで。
まず騒音測定をする。
本当に違反なら、その結果に応じた対応をする。
違反でなくても、近隣への配慮として任意の改善を相談する。
そう整理し直した。
全部中止。
だけではなく。
問題のある部分を正す。
それも「その他必要な措置」に近い発想です。
「じゃあ」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「申出があったら、役所はどうする」
「調べます」
「必ず?」
「必要な調査を行う」
「その結果、役所が『やっぱり正しかった』と思えば?」
「そのままになることもあります」
「じゃあ申し出れば必ず止まるわけじゃない」
「その通りです」
ここも重要。
申出。
イコール行政指導が当然停止。
ではありません。
申出を受けた行政機関は。
必要な調査をする。
そして。
その行政指導が法律の要件に適合していないと認めたとき。
初めて。
行政指導の中止その他必要な措置をとらなければならない。
「つまり」
私は整理します。
「申出があったから中止義務、じゃない」
「ああ」
「調査した結果、法律の要件に適合しないと認めた場合に、中止等の措置義務が出る」
「そういうことだ」
所長が頷きます。
これ。
選択肢にすると。
ものすごく引っかけやすい。
行政指導の中止を求める申出があった場合、行政機関は直ちに行政指導を中止しなければならない。
――誤り。
まず調査。
それから要件不適合が認められた場合に、必要な措置。
「行政法、すぐ“直ちに”って書いて殺しに来ますよね」
「試験を殺人事件にするな」
相馬先輩が言いました。
私は三本目の大きな線を引きました。
「そして、例外があります」
「またか」
「あります」
「言え」
「行政指導が、その相手方について弁明その他意見陳述のための手続を経てされたものである場合」
「その場合は?」
「この中止等の求めはできません」
「なぜ」
「もう言い分を聞くための手続を経てるから」
教材では。
ここも大事。
私は今日の野中さんの件を思い出します。
「今日、市役所は野中さんの話を事前に聞いてませんでした」
「ああ」
「いきなり職員が来て、“法律違反だから止めてください”だった」
「そうだな」
「だから、もし未来の制度があって、ほかの要件も満たしていれば、少なくともこの例外には引っかからない」
「逆に」
相馬先輩が言いました。
「行政指導する前に、正式に本人の意見を聞く手続をやってたら?」
「三十六条の二による中止等の求めはできない」
「意見を聞いた結果が気に入らなくても?」
「この制度では、ですね」
「なるほど」
私はノートに大きく書きました。
ただし。
弁明その他意見陳述のための手続を経てされた行政指導については、中止等の求めはできない。
「この例外、試験に出そうですね」
「出そうじゃなく、覚えろ」
「はい」
所長、急に受験指導が厳しい。
「じゃあ」
私は一度、全部整理します。
未来の行政手続法三十六条の二。
対象になるのは。
法令に違反する行為の是正を求める行政指導。
ただし。
その根拠規定が法律に置かれているものに限る。
その相手方が。
行政指導は法律の要件に適合していないと考えたとき。
行政指導をした行政機関に申し出る。
中止その他必要な措置を求める。
行政機関は必要な調査をする。
そして。
法律の要件に適合していないと認めたら。
中止その他必要な措置をとる。
ただし。
行政指導が、相手方について弁明その他意見陳述の手続を経てされたものなら、この制度は使えない。
「……多い」
「何が」
「条件が」
「法律だからな」
相馬先輩が平然と言います。
この人、覚える側じゃないから強い。
「先輩」
「何だ」
「試験で引っかけてください」
「またやるのか」
「お願いします」
「じゃあ一問目」
相馬先輩が、どこか楽しそうに腕を組みました。
「行政指導を受けた者は、その行政指導が不当だと思えば、すべて中止等を求められる」
「誤り」
「理由」
「対象は行政指導全部じゃないからです。法令違反の是正を求める行政指導で、その根拠規定が法律に置かれているものに限る」
「二問目」
「はい」
「条例に根拠がある行政指導でも、中止等を求められる」
「誤り」
「理由」
「三十六条の二は、根拠となる規定が法律に置かれているものに限定しています」
「三問目」
「はい」
「中止等の申出があれば、行政機関は直ちに行政指導を中止しなければならない」
「誤り」
「なぜ」
「まず必要な調査をする。その結果、行政指導が根拠法律の要件に適合しないと認めるときに、中止その他必要な措置をとる義務があります」
「四問目」
「どうぞ」
「相手方に弁明の機会を与えたうえでされた行政指導でも、中止等を求められる」
「誤り」
「はい」
「そこは例外です。弁明その他意見陳述のための手続を経てされた行政指導については、この制度は使えません」
「五問目」
「まだあるんですか」
「受験生だろ」
「昭和の職場で突然模試が始まりました」
「行政指導の中止等を求められるのは、行政指導によって不利益を受ける者なら誰でもいい」
「誤り」
「理由」
「その行政指導の相手方です」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「今日は素直ですね」
「間違ったらお前が面倒くさいからな」
「それ褒めてない」
私はノートを見返します。
すると。
もう一つ。
気になるところがありました。
「申出って、口頭でもいいんですか」
「知らん」
相馬先輩、即逃亡。
私は未来の条文を思い出します。
「書面です」
「書面?」
「申出書を提出してする」
「何を書く」
「そこは……」
私は少し考えました。
試験では。
申出書の細かい記載事項まで、一字一句暗記する優先度は高くありません。
でも。
意味を理解すると、面白い。
「本人の氏名や住所」
「当然だな」
「どんな行政指導を受けたか」
「ああ」
「その行政指導が根拠にしている法律の条項」
「うん」
「その条項の要件」
「うん」
「なぜ自分はその要件に当てはまらないと思うのか」
「なるほど」
「その他参考になること」
相馬先輩が少し笑いました。
「役所に『おかしい』だけ言うんじゃないんだな」
「そうなんです」
私はそこで。
今日の出来事と、きれいにつながるのを感じました。
野中さんが朝、事務所へ来たとき。
言っていたのは。
役所から止めろと言われた。
困る。
納得できない。
でした。
感情としては正しい。
でも。
行政法の言葉にすると。
それだけでは足りない。
どの行政指導か。
何を根拠にしているか。
その法律の要件は何か。
なぜ要件を満たしていないと考えるのか。
そこまで切り分ける。
初めて。
「納得できない」が。
行政に調査を求める具体的な主張になる。
「つまり」
私は言いました。
「中止等の求めって、“役所が嫌いだからやめろ”って制度じゃないんですね」
「当たり前だ」
「行政指導が法律の要件から外れてる。そのズレを具体的に示して、行政自身に確認し直させる制度」
片桐所長が顔を上げました。
「そこだ」
「はい」
「感情を、要件に直せ」
短い。
でも。
今日の話全部が入っています。
野中さんは怒っていました。
役所に。
マンション住民に。
突然来た職員に。
でも私たちが市役所でしたことは。
怒鳴り返すことじゃない。
苦情があること。
法律違反であること。
行政指導をする根拠があること。
その法律上の要件を満たしていること。
そこを一つずつ分けただけです。
すると。
市役所自身が。
「法違反を前提とした是正指導は撤回します」
と言った。
行政法のカタルシスって。
もしかすると。
こういうものなのかもしれません。
相手を言い負かすんじゃない。
混ざっている話を。
正しい箱に戻す。
それだけで。
強かった言葉が。
必要な大きさまで縮む。
「所長」
「何だ」
「でも、この制度って、行政指導を受けた人を守るためだけじゃないですよね」
「なぜそう思う」
「役所にとっても、自分たちの行政指導が法律の条件に合ってるか、見直す機会になるから」
「そうだな」
「今日もそうでした」
倉田係長は。
最初から悪意があったわけじゃない。
苦情を止めたい。
騒音を何とかしたい。
そう思っていた。
でも。
目的が正しいから。
手段も正しいとは限らない。
「うるさいから何とかしたい」
と。
「法律違反だから是正しろ」
は。
同じではありません。
未来の制度は。
その間に。
一度止まる場所を作る。
申出。
調査。
要件確認。
そして。
本当に外れていれば、中止その他必要な措置。
「条文って」
私は呟きました。
「ブレーキなんですね」
「何の」
相馬先輩が聞きます。
「行政の」
「行政だけか」
所長が言いました。
私は考えました。
「……市民の感情にも?」
「そうだ」
なるほど。
野中さんも。
最初は、
役所が間違っている。
全部撤回しろ。
そんな勢いでした。
でも測定した結果。
法令違反とまでは言えなくても。
近所へ響く騒音自体はあった。
だから。
防振材を入れた。
夕方の連続運転を避けた。
扉を閉めた。
役所が一歩戻ったから。
野中さんも一歩戻れた。
もし最初から。
法律違反だ。
従え。
という形で押し切っていたら。
たぶん。
野中さんは意地でも直さなかったかもしれません。
制度の冷たさが。
双方の熱を少し下げた。
その結果。
本当に必要な対策だけが残った。
「そう考えると」
私はノートに書きます。
――中止等の求めは、行政指導そのものを敵にする制度ではない。
――法律の要件から外れた行政指導を、正しい位置へ戻す制度。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「またですか」
「一行で書け」
「難しいんですよ」
「じゃあこれでいい」
相馬先輩が言います。
「『法律違反だ』と言うなら、法律の条件を満たしてから言え」
私は止まりました。
「……先輩」
「何だ」
「それ、すごく分かりやすいです」
「だろ」
「悔しい」
「何でだ」
私はそのままノートに書きました。
今日の一行の覚え書き。
――「法律違反だから直せ」と行政指導するなら、まずその法律の要件に当てはまっているか確かめる。
その下に。
試験用として。
もう一行。
――対象は「法律」に根拠規定がある法令違反是正の行政指導。申出後は調査、要件不適合なら中止等。意見陳述手続済みなら対象外。
「詰め込んだな」
「試験用なので」
「最初の一行でいいだろ」
「本番で点くれます?」
「俺は採点しねえ」
「じゃあ黙っててください」
相馬先輩が笑いました。
外はもう暗い。
駅裏の工場から。
遠く、機械の動く音が聞こえます。
野中鉄工所かどうかは分かりません。
でも。
今日は少しだけ。
あの音の聞こえ方が違いました。
法律違反ではない。
だから何をしてもいい。
ではない。
苦情がある。
だから法律違反として扱っていい。
でもない。
その間を。
要件という細い線が通っています。
法律は。
その線を踏み外した役所を止めることもある。
でも同時に。
線の内側で本当に必要な改善を。
きちんと残すこともできる。
私はノートを閉じました。
「帰ります」
「おう」
「たい焼き、本当にないんですね」
「しつこい」
「中止等の求めを」
「もう食った」
「その他必要な措置は?」
「ない」
奥から所長が言いました。
「調査済みだ」
「何をです?」
「袋は空だ」
「そこだけ手続が完璧!」
今日も。
行政法より。
たい焼きの救済のほうが難しそうでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




