[行政手続法36条の2・行政指導の中止等の求め]現場編 「役所から是正を求められた以上、従うしかない」の罠。法律に基づく指導と、要件を外した“正しさ”を切り分ける
役所の「直してください」は、ときどき命令より怖いです。
命令なら、根拠を聞けます。
不服なら、争い方も考えられます。
でも。
「お願いです」
「指導です」
「自主的にお願いします」
そう言われると。
こっちが断った瞬間だけ、急に悪い人みたいになる。
行政指導。
法的には柔らかい。
現場では、全然柔らかくない。
◇
昭和六十三年。
地方都市の片桐行政書士事務所。
私は朝比奈こはる。
十八歳の事務見習い。
そして。
前世では令和の行政書士受験生でした。
「朝比奈」
「はい」
「電話」
「誰です?」
「怒ってる」
「分類が雑!」
相馬先輩から受話器を渡されました。
出てみると。
『もう店閉めろってことですか!』
耳が痛い。
「ええと、落ち着いてください。片桐行政書士事務所です」
『落ち着けるか!』
落ち着けませんでした。
相談者の名前は、野中修一さん。
駅裏で、小さな金属加工工場を営んでいるそうです。
従業員は六人。
親の代から続く町工場。
自動車部品の下請けや、農機具の修理部品を作っている。
その工場へ。
今日、市役所の職員が来た。
そして。
こう言ったそうです。
『設備の使用をやめてください』
「何の設備ですか?」
『プレス機だよ。古いやつだ』
「騒音ですか?」
『近所から苦情が出たって』
なるほど。
ここまでは、まあ分かる。
町工場。
古い機械。
騒音。
近隣苦情。
行政が間に入ること自体は、ありそうです。
「それで、市役所は何て?」
『法律違反だから是正してくださいって』
私は受話器を持つ手を止めました。
「法律違反?」
『そうだよ! 騒音の基準超えてるから、このまま使うなって』
「測定したんですか?」
『知らん』
「知らない?」
『今日来た職員は、苦情が何件か来てる、前にも注意した、それで十分だって』
あ。
嫌な感じ。
かなりします。
「書面は?」
『これ』
「電話なので見えません」
『ああ、そうか』
野中さん。
相当混乱しています。
「持ってきてもらえますか」
『今から行く』
電話が切れました。
相馬先輩がこちらを見ます。
「何だ」
「工場に行政指導です」
「騒音か」
「たぶん」
「で?」
「法律違反だからプレス機止めろって」
相馬先輩の眉が少し動きました。
「測ったのか」
「そこが怪しいです」
「なら来たら見る」
私は机に戻りました。
でも。
頭の中では。
未来の条文が、もう立ち上がり始めています。
行政手続法第三十六条の二。
行政指導の中止等の求め。
かなり後から追加された制度。
平成二十六年改正。
つまり。
昭和六十三年の今から見れば、遥か未来。
でも。
その制度が必要になる理由は。
たぶん。
今から玄関を蹴破りそうな勢いで来る。
そんな気がしました。
◇
十分後。
本当に蹴破りそうな勢いで来ました。
「片桐先生!」
野中さんは四十代後半。
油の染みた作業着のまま。
手には封筒。
顔は真っ赤でした。
「これだ!」
机の上に紙が置かれます。
私は相馬先輩の横から覗き込みました。
市役所環境保全課。
表題。
――騒音発生施設の改善について。
本文。
近隣住民から騒音に関する苦情が寄せられている。
関係法令に照らし、適正な状態を確保するため。
プレス機の使用停止または防音措置を講じるよう指導する。
「……行政指導ですね」
私が言うと。
「だから困ってるんだよ!」
野中さんが叫びました。
「指導って書いてあるけど、役所から止めろって言われたら止めるしかないだろ!」
はい。
現場の行政指導です。
教科書では。
任意。
非権力的。
相手方の協力を求める。
そんなふうに書かれています。
でも。
六人の従業員を抱えた町工場で。
市役所の職員が来て。
法律違反です。
設備を止めてください。
と言われたら。
「これは任意だから断れますね」
なんて笑える人は、たぶんあまりいません。
「所長」
片桐先生――ではなく片桐所長が、文書を受け取ります。
「市の職員は何を根拠にした」
「騒音の法律だってよ」
「法律名は?」
「そこまでは聞いてねえ」
「この文書にも具体的な条文がないな」
所長が静かに言いました。
私も確認します。
関係法令に照らし。
適正な状態を確保するため。
ふわっとしている。
役所文書は、ときどき「関係法令」という言葉で法令名を霧にします。
「前にも注意されたんですか?」
私が聞くと。
「一年前にな。夕方うるさいって言われたから、夜七時以降は止めた」
「今回は?」
「最近、近所にマンションが建ったんだよ」
「ああ」
嫌な予感が一本つながりました。
「工場は昔から?」
「三十年だ」
「マンションは?」
「去年」
うわあ。
新しい住宅。
古い工場。
典型的に揉めます。
でも。
それと。
法律上の基準違反かどうかは。
別です。
「騒音の測定値って、あります?」
「ない」
「市役所から見せてもらってない?」
「見てない」
「工場のどの機械が、どの時間帯で、どれくらい超えてるとか」
「聞いてない」
私は所長を見ました。
所長は。
「相馬」
「はい」
「市役所」
短い。
「こはるも」
「やっぱり」
昭和の行政書士事務所。
論点に気づいた見習いは。
だいたい現場に連行されます。
◇
市役所環境保全課。
窓口へ行くと。
係員は、私たちを見るなり少し警戒しました。
最近。
市役所で私たちの顔、覚えられてません?
嬉しくない実績です。
「野中鉄工所の件です」
相馬先輩が文書を置きました。
「これ、誰が出した」
「うちです」
「何に基づく行政指導だ」
職員が答えます。
「騒音規制に関する法令です」
「法令じゃ広すぎる」
「具体的にお願いします」
私も言いました。
職員が少し面倒そうな顔をしました。
「騒音規制法等に基づくものです」
私は心の中で引っかかりました。
等。
法律文書における、便利で怖い一文字。
「じゃあ」
相馬先輩が続けます。
「この工場が、法律上のどの要件に該当してる」
「要件?」
「法律違反だから是正しろって言ったんだろ」
「ええ」
「なら違反の要件があるだろ」
職員が黙りました。
そこへ。
「どうしました」
奥から、倉田係長が出てきました。
「また皆さんですか」
「またです」
私が答えると。
「今日は商工観光じゃありませんよ」
「出張ですか」
「違います。環境保全課と調整してる案件です」
どうやら駅前再整備の関係で、課をまたいで動いているらしい。
倉田係長も大変です。
でも。
大変なのと、雑でいいのは別です。
「野中鉄工所への行政指導です」
所長が文書を渡しました。
倉田係長が読みます。
「ああ……」
「根拠は?」
「騒音規制法です」
「条項は?」
「そこまで必要ですか」
倉田係長が少し疲れた顔で言いました。
相馬先輩の顔が。
一段階冷たくなりました。
「必要だから聞いてる」
「ですが、近隣苦情もありますし」
「苦情があることと、法律違反は同じか」
「……同じではありません」
「なら、法律違反だから是正しろと言うなら、どの要件に当てはまるか説明してください」
倉田係長は黙ります。
私はそこで。
昨日まで眠かったはずの未来の知識が。
急に、血を通わせ始めるのを感じました。
行政手続法三十六条の二。
未来では。
法令違反の是正を求める行政指導。
しかも。
その行政指導の根拠となる規定が法律に置かれている場合。
その相手方が。
その行政指導は法律の要件に合っていないのでは。
と思ったとき。
行政機関に対して。
中止その他必要な措置を求めることができる。
でも今は昭和六十三年。
そんな制度はまだない。
私は。
未来の条文そのものではなく。
その骨だけを使うことにしました。
「係長」
「何です」
「市役所は、“法律違反だから是正してください”と言ったんですよね」
「はい」
「だったら」
私は文書を指で押さえました。
「違反になる要件を確認しないと、是正の前提が分からなくないですか」
「……」
「近所から苦情が出た、は事実」
「はい」
「音が大きいかもしれない、も事実」
「はい」
「でも、“法律違反です”は別の話です」
倉田係長の表情が固まります。
「その法律は、どういう場合に是正の対象にできるんですか」
私は聞きました。
「野中さんの工場は、その条件を満たしてるんですか」
「だから、それを調べるためにも――」
「調べる前に止めろと言ったんですか?」
私が言うと。
空気が止まりました。
しまった。
少し強すぎた。
でも。
相馬先輩は止めません。
むしろ。
「そこだな」
と低く言いました。
「調査が先だろ」
倉田係長が唇を結びます。
「苦情が続いていて、早急な対応が必要だったんです」
「それは分かります」
私は言いました。
「でも」
ここで。
この人を悪者にしてはいけない。
そう思いました。
倉田係長は。
苦情を放置したかったわけじゃない。
住民から電話が来る。
市議から言われる。
駅裏再整備の話もある。
町工場から音はする。
だから。
とりあえず止めてもらえれば丸い。
そう考えたのかもしれない。
でも。
その「とりあえず」が。
六人分の給料を止める。
「苦情対応と」
私はゆっくり言いました。
「法律違反を理由にした是正指導は、分けたほうがいいと思います」
「分ける?」
「まだ法律上の違反が確認できていないなら、“苦情が出ているので協力してください”という話かもしれない」
「……」
「でも、“法律違反なので止めてください”と言うなら、法律の要件に当てはまってることを確認しないと」
所長が短く言いました。
「理由が違えば、相手の受け止め方も違う」
そう。
そこです。
自主的な協力要請。
法律違反の是正を求める行政指導。
見た目は似ています。
どちらも。
「直してください」
と言う。
でも。
重みが違う。
法令違反だと言われれば。
企業の信用にも関わる。
取引先へ噂が回るかもしれない。
従業員だって不安になる。
だからこそ。
根拠となる法律の要件から外れた行政指導なら。
後世の法律は。
行政自身に見直させる道を作る。
私は。
未来の制度の意味が。
少しずつ見えてきました。
「係長」
所長が言います。
「測定記録を確認できますか」
「……測定はまだです」
野中さんの眉が跳ねました。
「測ってねえのかよ!」
「落ち着いてください」
私は慌てて止めました。
ここで窓口が魚市場になると話が進みません。
「じゃあ何をもって基準超過と?」
相馬先輩が聞く。
「職員が現地で確認した際、相当な騒音がありました」
「耳で?」
「……はい」
「測定器は?」
「持参していませんでした」
「法律上の基準値超過を、耳で判断した?」
「そこまでは……」
「じゃあ法律違反だと言ったのは?」
倉田係長は。
しばらく答えませんでした。
それから。
小さく息を吐きました。
「表現が先走りました」
来た。
完全撤回ではない。
でも。
役所が自分で。
そこを認めた。
「市としては、苦情が続いている以上、何もしないわけにはいきません」
「それは分かります」
所長が答えます。
「なら、まず事実を確認してください」
「測定を?」
「ええ」
「必要な指定や施設要件も確認する」
「はい」
「その上で、本当に法令上の是正対象なら、その根拠を明示して指導する」
「はい」
「違うなら」
所長が一度、野中さんを見る。
「違う言葉を使うべきです」
倉田係長が頷きました。
そのとき。
野中さんが口を開きます。
「じゃあ」
声は。
さっきより少しだけ低くなっていました。
「今日の“法律違反だから止めろ”ってのは」
「現時点では撤回します」
倉田係長が答えました。
「撤回?」
「法違反を前提とした是正指導としては、です」
野中さんが目を見開きました。
「ただし」
係長は続けます。
「苦情が出ているのは事実です。市として騒音の測定をさせてください。その結果によっては、改善をお願いすることがあります」
野中さんは。
少し考えました。
それから。
「測るのは構わん」
「ありがとうございます」
「本当にうちが基準超えてるなら、防音も考える」
「はい」
「でも、測る前から違反者扱いはするな」
倉田係長が。
「そこは申し訳ありませんでした」
と頭を下げました。
私は。
胸の奥で。
何かがすっとほどけるのを感じました。
これです。
たぶん。
法律で勝ったわけじゃない。
行政指導そのものを禁止したわけでもない。
苦情が消えたわけでもない。
ただ。
法律違反かもしれない。
が。
法律違反だから直せ。
に化けていた部分を。
元へ戻した。
それだけ。
でも。
それだけで。
野中さんは。
違反企業ではなく。
これから事実確認を受ける事業者に戻った。
ものすごく大きな違いでした。
◇
市役所から出ると。
野中さんが煙草を一本取り出しました。
でも。
火をつける前に。
「ここ、禁煙か?」
と聞きました。
「そこは急に法令遵守」
私が言うと。
「今日は懲りた」
野中さんが笑いました。
少しだけ。
本当に少しだけ。
最初の怒鳴り声の人から戻った気がします。
「こはるちゃん」
「はい」
「俺、法律ってのは役所がこっちに使うもんだと思ってた」
「分かります」
「でも今日」
野中さんは市役所の建物を振り返りました。
「役所が法律を使うなら、その法律の条件も守らなきゃならんのな」
私は。
返事をするまで。
ほんの少し時間がかかりました。
「……そうだと思います」
「そりゃ当たり前か」
「当たり前って、現場だと意外と見えないんです」
本当に。
そうでした。
法律違反だから。
是正してください。
その言葉を聞くと。
言われた側は。
自分が悪いと思う。
でも。
まず見るべきなのは。
法律が本当に。
その人を違反者として扱う条件を満たしているのか。
そこなんです。
◇
三日後。
市役所が正式に騒音測定をしました。
結果。
昼間の一部時間帯で。
基準にかなり近い値は出たものの。
測定した範囲では。
直ちに「法令違反だから停止しろ」と言える状態ではありませんでした。
ただ。
プレス機を連続運転すると。
近所へ響く時間帯があることも分かった。
そこで。
野中さんは。
機械の下へ防振材を入れる。
午後六時以降の連続運転を避ける。
扉を閉めて作業する。
できるところから対応することにしました。
「結局、直すんですね」
私が事務所で聞くと。
野中さんは紙袋を置きながら言いました。
「そりゃうるさいのは本当らしいからな」
「じゃあ最初から従えば」
「それとこれとは別だ」
即答でした。
「違反してねえのに、違反してるから止めろって言われるのは嫌だ」
「はい」
「でも迷惑かけてるなら直す」
「はい」
「同じ“直す”でも、全然違うだろ」
私は思わず笑いました。
「今日の法理編、もう野中さんが書けそうですね」
「何編だ?」
「いえ、何でもないです」
危ない。
未来用語。
片桐所長が紙袋を開けました。
中には。
たい焼き。
「なんでたい焼きなんです?」
私が聞くと。
「駅前の店で買った」
野中さんが答えます。
「この前、木の鯛で揉めたって聞いたから」
情報が早い。
町が狭い。
相馬先輩が一個取ります。
「じゃあ俺は尻尾」
「勝手に分割しないでください!」
私も手を伸ばします。
すると。
所長が言いました。
「一人一個」
「はい」
「異議なし」
相馬先輩も素直です。
こういうときだけ。
◇
夕方。
事務所が静かになったあと。
私はノートを開きました。
白いページの上に。
ゆっくり。
題名だけを書きます。
――行政指導の中止等の求め。
書いた瞬間。
変な感じがしました。
この言葉は。
この時代にはまだない。
正確には。
行政手続法そのものすら、まだない。
しかも。
この制度が法律に加わるのは。
もっともっと先。
平成二十六年の改正。
今から四半世紀以上。
未来です。
でも。
今日の市役所で起きたことは。
まるで。
その条文が生まれる前の問題集みたいでした。
法令違反の是正を求める行政指導。
役所は。
「法律違反です」
と言った。
でも。
その法律が要求する要件を。
本当に満たしているのか確認されていなかった。
未来なら。
一定の場合。
相手方から行政機関へ。
その指導は法律の要件に合っていない。
だから。
中止など必要な措置を求めます。
そう正式に申し出る道ができる。
そして役所は。
必要な調査をする。
法律の要件に合っていないと認めたなら。
行政指導を中止したり。
必要な措置をとったりしなければならない。
「朝比奈」
「はい」
相馬先輩が私のノートを覗き込みました。
「また妙な題つけてるな」
「自分用です」
「今日のは何だ」
私は少し考えます。
行政指導の中止等の求め。
そのまま説明したら。
未来人確定です。
「役所から“法律違反だから直せ”と言われても」
私は答えました。
「その法律の条件に当てはまってないなら、指導する側にもう一回確認を求めてもいいんじゃないか、って話です」
「当たり前だろ」
「そうなんですけど」
私は笑いました。
「当たり前を手続にするのが、法律なんだと思います」
相馬先輩が。
少しだけ黙りました。
奥で。
片桐所長が帳簿を閉じます。
「こはる」
「はい」
「今日、一番大事だったのは何だ」
私は。
迷いませんでした。
「行政指導だから、じゃないです」
「ほう」
「法律違反の是正を求めるって言うなら、その法律の要件に本当に合ってるかを見ることです」
「それでいい」
所長が言いました。
短い。
でも。
たぶん今日は。
それだけでいい。
私はノートの一番下に。
一行だけ書きました。
――「法律違反だから直せ」と言われたら、まず、その法律のどの要件に当てはまるのかを聞く。
ペンを置きます。
窓の外では。
駅裏の工場街に。
一つずつ灯りがついていました。
野中鉄工所のプレス機も。
今ごろ動いているかもしれない。
少しだけ静かに。
少しだけ気をつけながら。
法律は。
工場の機械を止めることもある。
でも。
その前に。
行政の口から出た「法律違反」という言葉を。
本当に法律の形へ戻すこともできる。
条文は冷たい。
要件も冷たい。
でも。
冷たいからこそ。
「たぶん違反だ」
を。
「違反だから従え」
にしてしまう熱を。
少しだけ冷ましてくれる。
「先輩」
「何だ」
「たい焼き、もう一個残ってません?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
「根拠は?」
「俺が食った」
「事実関係の調査が終わってた!」
どうやら。
こちらについては。
中止を求めるには遅すぎたようです。
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