[行政手続法36条・行政指導指針]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、魚の匂いが似合いません。
いや。
正確には、生魚そのものが似合いません。
「先輩」
「何だ」
「この事務所、今日だけ港町みたいな匂いしません?」
「サバだろ」
「原因を聞いてるんじゃないです」
机の横には、魚辰の辰巳さんが差し入れてくれた発泡スチロール箱。
その中には、先ほど公平に――という名のもとに重量測定までして分配されたアジとサバが入っています。
片桐行政書士事務所鮮魚配分事件。
行政不服申立ての余地はありません。
「で」
相馬先輩が煙草を指でもてあそびながら、私のノートを顎で示しました。
「今日は何を整理する」
「これです」
私は昨日書いた文字を見せました。
――行政指導指針。
「またその言葉か」
「はい」
「お前が勝手につけた名前だろ」
「今のところは」
「今のところ?」
「何でもないです」
危ない。
うっかり未来を漏らすところでした。
今は昭和六十三年。
行政手続法はまだ存在していません。
でも私の頭の中には、未来の条文がはっきり残っています。
行政手続法第三十六条。
同一の行政目的を実現するため、一定の条件に該当する複数の者に対して行政指導をしようとするとき。
行政機関は、あらかじめ。
事案に応じ。
行政指導指針を定める。
そして。
行政上特別の支障がない限り、それを公表する。
受験生だった頃なら、
策定は義務。
公表は原則。
例外は行政上特別の支障。
はい暗記。
以上。
そんな感じでした。
でも。
昨日、市役所で二十七軒、今後は四十軒と聞いた瞬間。
その条文の意味が、急に魚の匂いを帯びました。
「所長」
「何だ」
「昨日の市役所のやり方って、何が一番まずかったんでしょう」
片桐所長は帳簿から目を上げました。
「どの部分だ」
「魚辰だけじゃなく、駅前の店を何十軒も回って、同じ目的で看板の変更をお願いしてたことです」
「それ自体か?」
「……いえ」
私は首を振りました。
「同じ目的で複数の店に協力を求めること自体が、すぐおかしいわけじゃない」
「そうだ」
「問題は、そのとき使う基準が外から見えなかった」
「それだけか」
う。
来ました。
所長の「それだけか」。
試験問題より圧があります。
私は昨日の場面を思い出します。
魚辰の鯛。
向かいの文房具屋の青い鉛筆。
喫茶店の赤いテント。
そして市役所の内部資料。
「……誰を対象にするのかも、はっきりしない」
「うん」
「何を直してもらうのかも曖昧」
「うん」
「どの程度ならいいのかも、担当者次第」
「うん」
「それなのに、『皆さん同じようにお願いしています』と言っていた」
片桐所長が小さく頷きました。
「そこだ」
私はノートを開きます。
まず一番上に。
――複数の者を対象とする行政指導。
と書きました。
字面だけ見ると、また眠い。
行政法は、人を眠らせる才能だけは超一流です。
「相馬先輩」
「何だ」
「行政指導って、そもそも何です?」
「今さらそこからか」
「整理です、整理」
「役所が相手に何かしてくれって言うやつだろ」
「雑」
「昨日ので十分だろ。看板外してくれ、小さくしてくれ、協力してくれ」
「まあ、それです」
私は書きます。
行政指導。
行政機関が、その任務や所掌事務の範囲内で、一定の行政目的を実現するために、相手へ作為や不作為を求める働きかけ。
ただし。
法的に強制する処分とは違う。
「昨日の市役所は、魚辰に『鯛の看板を外してください』と言った」
「ああ」
「でも、命令ではなかった」
「そうだな」
「だから辰巳さんが断っても、すぐ違法になるわけじゃない」
「そこを忘れるな」
片桐所長が言いました。
「行政指導と命令を混ぜると、話が崩れる」
そう。
昨日も倉田係長は、
あくまで協力のお願いです。
と言っていました。
なら。
お願いされる側には、応じるかどうかを考える余地がある。
少なくとも、「従わなければ法律違反」と同じではない。
なのに。
「『皆さん協力してますよ』って言われると、断りにくくなるんですよね」
私が言うと、相馬先輩が鼻で笑いました。
「人間は法律より世間体に弱い」
「名言みたいに言わないでください」
「事実だ」
でも。
たぶんそこが大事です。
行政指導は、法的強制力がないから安全。
ではありません。
役所が言う。
皆さん従っています。
今後の関係もありますよ。
町のためです。
協力してください。
そう積み重なると。
形式上は「お願い」でも、受ける側には相当な圧になります。
だからこそ。
そのお願いを何十人にも同じようにするなら。
行政側の物差しが重要になる。
「ここですね」
私は線を引きました。
――同一の行政目的。
「昨日の目的は?」
相馬先輩が聞きます。
「駅前の景観整備」
「対象は?」
「駅前再整備区域内の店舗」
「人数は?」
「すでに二十七軒、今後四十軒ほど」
「同じお願いか?」
「看板や店先の物について、変更や撤去を求める協力要請」
「つまり?」
「完全に一人一人バラバラの相談じゃなくて、共通した政策目的に基づいて、一定の条件に当てはまる複数の人へ同種の行政指導をしてた」
「そうだ」
私は頷きました。
未来の行政手続法三十六条なら。
まさに、ここからが問題になります。
「未来では」
危ない。
「え?」
相馬先輩がこちらを見る。
「いえ。もし制度として整理するとしたら」
「変な言い直しだな」
「気にしないでください」
心臓に悪い。
私はノートに書きます。
同一の行政目的を実現するため。
一定の条件に該当する複数の者に行政指導をしようとするとき。
――行政指導指針を定める。
「それが昨日言ってた物差しか」
「はい」
「具体的には?」
「誰を対象にするのか。何を求めるのか。どういう事情を考慮するのか。どんな場合に協力を求めるのか」
「全部細かく数値化する必要があるのか?」
相馬先輩が聞きました。
「そこまでは一律じゃないと思います。事案に応じて、ですね」
「事案に応じて?」
「行政指導の内容や性質に合わせて、必要な程度の指針を作る」
私は昨日の内部資料を思い出します。
原色の大型広告。
突出物。
破損看板。
通行の妨げ。
あれは一応、指針らしきものではありました。
ただ。
「著しく景観を損なうと担当職員が判断したもの」
ここが強すぎた。
「昨日の資料でも」
私は言いました。
「何もないよりはマシでした。でも最後が『担当者が景観を著しく損なうと判断したもの』だと、かなり広い」
「裁量を残してるんだろ」
「残す必要はあると思います。でも広すぎると、指針を作った意味が薄くなる」
「青い鉛筆は残って、赤い鯛は外せ、の説明がつかなくなる」
「そうです」
私は昨日の辰巳さんを思い出して、少し笑いました。
――四十軒に言うからこそ、何を基準に言ってるのかちゃんとしろ。
あれが、ほとんど核心でした。
「所長」
「何だ」
「複数の人へ行政指導するときに指針を定める意味って、やっぱり公平性ですか」
「公平性だけじゃない」
「他には?」
「予測できることだ」
「あ」
「相手が、何を求められるのか事前に分からなければ、行政への信頼は生まれない」
なるほど。
私は書き足します。
公平性。
一貫性。
予測可能性。
信頼性。
「同じ条件の人には、原則として同じ物差し」
「そうだ」
「でも事情が違えば、同じ結果じゃなくてもいい」
「そうだ」
「大事なのは、違う扱いをする理由が説明できること」
「そういうことだ」
行政法。
公平という言葉を、「全員同じ結果」にすると間違うんですね。
同じ事情には同じ基準。
違う事情には、違いに応じた判断。
でも。
その違いが見えなければ。
ただのえこひいきに見える。
「じゃあ次」
相馬先輩がノートを指さします。
「その指針は、作れば終わりか?」
「いいえ」
来ました。
教材で一番大事なところ。
私は大きく二重線を引きました。
――指針の策定。
――指針の公表。
「ここ、試験で引っかけられます」
「どういうふうに」
「行政指導指針は、必要に応じて作ればよい、とか」
「違うのか」
「対象が条件に当てはまれば、定めること自体は義務です」
「ほう」
「同一の行政目的のために、一定条件の複数人に行政指導をする場合は、あらかじめ指針を定める」
「“あらかじめ”か」
「はい」
ここ重要。
やりながら考える。
揉めてから基準を作る。
昨日の市役所は、ちょっとそれに近かった。
内部資料はあったけれど、かなり試行的。
しかも職員がそれを使ってすでに二十七軒も回っていた。
「行政指導を始めたあとに、揉めたから基準作りました、じゃ遅いんですね」
「まあな」
「何十人も回る前に、役所自身が何をするのか決めておく」
「そういうことだろ」
私はさらに書きます。
そして公表。
「これも義務なんだろ?」
相馬先輩が聞きました。
「原則としては」
「出たな。原則」
「行政法の“原則”は、だいたい後ろに例外がいます」
「で?」
「行政上特別の支障がある場合は、公表しなくていい」
「作らなくても?」
「そこは違います」
私は勢いよく首を振りました。
「ここが一番大事です」
相馬先輩が少し笑います。
「試験の顔になったな」
「なりますよ。ここ絶対引っかけます」
私はノートに大きく書きました。
指針の策定。
――義務。
指針の公表。
――原則として義務。
ただし、行政上特別の支障があるときは公表不要。
「つまり」
私はペン先でそれぞれを指します。
「『行政上特別の支障があるので、指針そのものを作りませんでした』は駄目」
「なるほど」
「公表しない例外があるだけで、指針を定める義務まで消えるわけじゃない」
「そこは混ぜるなってことか」
「そうです」
昨日の市役所に当てはめて考えると。
もし未来の行政手続法三十六条が適用される世界なら。
駅前景観整備のため。
一定の区域の店舗に。
同種の協力要請をする。
なら。
事前に行政指導指針を定める。
これは必要。
そして。
行政上特別の支障がない限り、それを公表する。
「昨日の件で、特別の支障ってありそうでした?」
私が聞くと、相馬先輩が肩をすくめます。
「看板の基準見せたら何が困るんだ」
「ですよね」
「隠しておくと、店が基準逃れする、とか?」
「場合によってはそういう理屈もあるかもしれません。でも、ただ『内部資料だから』では弱そうです」
片桐所長が口を挟みました。
「例外は、便利な逃げ道ではない」
「はい」
「公表すると行政目的そのものが著しく害されるなど、それなりの事情が必要になる」
短い。
でも分かりやすい。
行政上特別の支障。
普通の面倒。
職員が嫌がる。
内部資料だから恥ずかしい。
説明が増える。
そういう話ではない。
少なくとも。
「公表しないのが楽だから」では足りない。
「じゃあ」
私は昨日の倉田係長の言葉を思い出しました。
――まだ正式なものではありませんので。
「試行中だから非公表、っていうのは?」
「場合による」
所長が答えます。
「指導を実際に始めているなら、試行中という言葉だけでは済まんだろう」
「ですよね」
二十七軒回っておいて。
まだ試してるだけです。
は、受ける側からしたら結構怖い。
「ここ、現場で見ると分かりますね」
「何が」
「指針って、役所のためでもある」
相馬先輩がこちらを見る。
「昨日、所長が言ってたろ」
「はい」
行政が自分を律するための線は、市民のためだけにあるわけじゃない。
その意味。
指針があれば。
担当者は毎回ゼロから判断しなくていい。
住民から聞かれても説明しやすい。
職員同士で扱いが大きくずれにくい。
あとで、
あの店だけなぜ違った。
と言われたときも、理由を説明できる。
つまり。
指針は住民を守るだけじゃなく。
役所自身を、場当たり的な判断から守る。
「所長」
「何だ」
「こういうのって、行政指導をする側にとっても面倒を減らすんですね」
「まともに運用すればな」
「まともに」
「基準を作って終わりじゃない」
「使わないと意味ない」
「そうだ」
なるほど。
紙一枚作って棚に入れる。
それでは意味がない。
昨日、市役所には一応内部資料があった。
でも。
誰が対象になるのか。
なぜ魚辰が対象なのか。
なぜ鉛筆看板は対象外なのか。
辰巳さんには見えなかった。
それだと。
形式的には基準があっても。
外から見れば、相変わらず担当者の気分にしか見えない。
「もう一つ」
相馬先輩が言いました。
「昨日みたいに、全部の店が同じじゃない場合はどうする」
「同じじゃない?」
「魚屋もあれば文房具屋もある。看板の大きさも違う。歩道への出っ張りも違う」
「ああ」
私は少し考えました。
「指針って、一律に同じ結果にするためのものじゃないですよね」
「うん」
「むしろ、どういう事情を見て判断するのかを揃えるためのもの」
「そうだろうな」
「だから、鯛も鉛筆も全部撤去、じゃなくていい」
「当たり前だ」
「でも、“鯛だから駄目”“鉛筆だからいい”みたいな気分の判断にならないようにする」
「そういうことだ」
昨日の最終的な着地。
魚辰の鯛は、全部撤去ではなく。
歩道へ出ていた部分を二十センチ短くした。
なぜか。
通行の妨げになり得る。
その具体的な問題が見えたから。
辰巳さんも納得した。
一方で。
魚であること。
赤いこと。
目立つこと。
それだけで全面撤去にはしなかった。
これ。
まさに指針の使い方です。
「行政指導指針って」
私は言いました。
「住民を同じ形に揃えるためのものじゃなくて、役所の判断方法を揃えるためのものなんですね」
片桐所長が頷きました。
「それなら覚えやすい」
よし。
ノートに書きます。
――同じ人にするためではなく、同じ物差しで見るため。
「で」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「試験でどう引っかけられる」
「急に先生ですね」
「いいから言え」
「一つ目」
私は指を一本立てました。
「複数の者に行政指導をする場合は、必ず行政指導指針を定めなければならない」
「それで正しい?」
「ちょっと危ないです」
「なぜ」
「“複数の者”だけじゃ足りないから」
条件があります。
同一の行政目的を実現するため。
一定の条件に該当する複数の者に対して。
行政指導をしようとするとき。
ここが要件。
「たまたま別々の目的で二人に行政指導したからって、それだけで共通の指針を作る話じゃない」
「そうだな」
「二つ目」
指を二本。
「行政指導指針を定めることも、公表することも、行政機関の裁量である」
「違うな」
「はい。策定は義務。公表も原則必要」
「三つ目」
「行政上特別の支障がある場合は、行政指導指針を定めなくてもよい」
相馬先輩が首を振ります。
「それも違う」
「正解」
「嬉しそうだな」
「試験問題の罠を見つけると嬉しくなる病気です」
そして。
四つ目。
「行政上特別の支障がある場合、公表は不要」
「これは正しい」
「はい」
ここ。
たぶん最重要。
策定義務と公表義務を分ける。
行政上特別の支障が例外になるのは、公表のほう。
指針の策定そのものではない。
「先輩」
「何だ」
「これ、魚で覚えられます」
「どうやって」
「四十軒の魚屋に言うなら、魚をどう扱うか先に決める。基準は必ず作る」
「うん」
「でも基準を見せると、魚が逃げる」
「何の話だ」
「特別の支障」
「魚が逃げる行政って何だ」
「例えを考え直します」
駄目でした。
片桐所長が、珍しく少し笑いました。
「公表の例外だけ覚えろ」
「はい」
「指針そのものは作る」
「はい」
「それで十分だ」
所長の説明はいつも短い。
でも受験には強い。
私はその横に、もう一つ書きました。
――「特別の支障」は、公表のブレーキ。策定のブレーキではない。
「朝比奈」
「はい」
「昨日の市役所の件で、一番危なかった言葉は何だ」
相馬先輩が聞きました。
私は少し考えます。
派手だから。
内部資料だから。
皆さん同じです。
いろいろありました。
でも。
「『皆さん同じようにお願いしています』ですかね」
「なぜ」
「同じって言えば公平に聞こえるから」
「実際は?」
「同じかどうか、相手には確認できなかった」
「そうだ」
私は頷きます。
公平です。
平等です。
同じです。
行政がそう言うこと自体には、法的な魔法はありません。
むしろ。
同じだと言うなら。
何をもって同じなのか。
どういう基準で同じ扱いをしているのか。
そこが必要になる。
「行政指導指針って」
私は呟きました。
「役所の“ちゃんと公平にやってます”を、口約束じゃなくするためのものなんですね」
「いい言い方だ」
片桐所長が言いました。
お。
珍しく褒められた。
私はちょっと嬉しくなって、そのままノートに書きます。
でも。
まだ一つ。
未来の条文を見ていて気になることがありました。
「所長」
「何だ」
「“あらかじめ、事案に応じ”って、結構大事ですよね」
「なぜそう思う」
「行政指導指針って、全国一律の万能テンプレートを作ればいいわけじゃない」
「そうだ」
「例えば昨日は景観。別の行政指導なら、建築とか衛生とか、全然違う」
「当然だ」
「だから、その事案に合った指針じゃないと駄目」
「そういうことだ」
私はさらに整理します。
行政指導指針。
何でもかんでも細かく文章にすればいいわけではない。
指導の目的。
対象。
内容。
性質。
そうしたものに応じて。
必要な基準を定める。
景観なら。
対象区域。
対象工作物。
考慮要素。
協力を求める内容。
衛生なら。
全然違う項目になる。
「つまり、役所が使いやすいだけの抽象論じゃ駄目なんですね」
「そうだな」
「『適切に協力してください』だけじゃ」
「指針の意味がない」
そうですよね。
それは指針ではなく。
立派な顔をしたお願いです。
「あと」
私はノートの端に、小さく線を引きました。
「公表する意味も、昨日ので分かります」
「言ってみろ」
「相手が自分の扱いを確認できる」
「うん」
「行政側の説明も揃う」
「うん」
「おかしい扱いをされたときに、『基準と違いますよね』って言える」
「そうだ」
ここ。
たぶんすごく大事です。
基準が存在するだけでは。
市民は比べられない。
公表されて初めて。
自分がどう扱われるはずなのか。
行政が何を考慮するのか。
確認できる。
だから。
指針は公平性のため。
公表は信頼性のため。
そんな整理もできます。
「未来って、こういうの法律にするのかな」
ぽろり。
出ました。
相馬先輩が振り向きます。
「未来?」
「いえ!」
「またか」
「独り言です」
「最近多いぞ」
「疲れてるんです」
「十八で?」
「精神年齢が複雑なんです」
「意味分からん」
危ない危ない。
私は咳払いして、ノートに集中しました。
でも。
本当に不思議です。
未来の私は。
行政手続法三十六条を、試験対策として読んでいました。
策定義務。
公表原則。
特別の支障。
たったそれだけ。
でも今は。
どうしてその条文が必要なのか。
少しだけ分かる。
見えない内部基準。
担当者ごとの判断。
「みんなそうしている」という圧。
任意の協力なのに、断りづらい空気。
そして。
説明を求めると、
内部資料です。
の一言。
そういう小さな雑さが積み重なる。
だから。
未来の法律はたぶん。
行政にこう言うんです。
複数の人を同じ方向へ動かしたいなら。
まず自分たちの物差しを決めなさい。
そして。
特別な支障がないなら、それを見えるようにしなさい。
「法律って」
私は呟きました。
「後から来るんですね」
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「問題の後から」
「そりゃそうだろ」
「そうなんですけど」
法律は、最初から完璧な設計図として空から降ってくるわけじゃない。
先に。
役所と市民が揉める。
分からない。
不公平だ。
説明されない。
みんな同じと言われる。
でも同じか確認できない。
そういう困りごとが積もって。
やがて。
法が言葉にする。
「昨日の話って」
私はノートを見ながら言いました。
「未来から見れば、一条文なんですよ」
「また未来か」
「比喩です!」
「便利な比喩だな」
「でも現場では」
私は続けました。
「魚屋のおじさんが、三十二年ぶら下げてきた鯛を外せって言われる話なんですよね」
片桐所長が静かに言いました。
「法律は、いつも誰かの具体的な困りごとから離れるな」
私は顔を上げました。
「はい」
「条文だけ覚えると、使い方を間違える」
「……はい」
それ。
たぶんこの世界に来てから、何度も感じていることです。
行政法の教科書では。
行政指導指針。
十文字にも満たない。
でも。
その後ろには。
魚屋がいて。
文房具屋がいて。
喫茶店がいて。
市役所の担当者がいて。
公平にやっているつもりの人もいる。
不公平だと感じる人もいる。
指針とは。
その人たちの間に一本置く、冷たい物差しなのかもしれません。
冷たいから。
相手によって伸びない。
役所の都合で縮まない。
誰かの気分だけで曲がらない。
もちろん。
完全には無理です。
現実には裁量もある。
例外もある。
判断も残る。
でも。
何もないよりはずっといい。
「先輩」
「何だ」
「最後に問題出してください」
「俺が?」
「受験生役お願いします」
「逆だろ」
「細かいことはいいです」
相馬先輩は面倒そうな顔をしました。
でも。
こういうとき、結局付き合ってくれます。
「じゃあ」
彼は適当に煙草の箱を机へ置きました。
「市役所が、駅前の景観を良くするため、区域内の四十店舗に看板改善の行政指導をすることにした」
「はい」
「行政指導指針を定めるかどうかは、市役所が必要だと思ったときだけでいい」
「誤り」
「理由」
「同一の行政目的を実現するため、一定の条件に該当する複数の者に行政指導をしようとする場合は、指針を定めること自体が義務」
「次」
「はい」
「市役所は指針を作ったが、行政上特別の支障があるため公表しなかった」
「あり得る」
「公表しなくてもいい?」
「その特別の支障が本当にあるなら、例外として公表不要」
「指針自体も作らなくていい?」
「駄目。そこは別」
「次」
「はい」
「相手が複数なら、目的が違っても全部まとめて共通の行政指導指針が必要」
「誤り。同一の行政目的って要件があります」
「次」
「まだやるんですか」
「言い出したのはお前だ」
そうでした。
「指針を定めたから、どんな行政指導をしても適法」
「それも違います」
「なぜ」
「指針を作ったことと、個々の行政指導が適切かどうかは別問題だからです」
「よし」
おお。
よし、いただきました。
相馬先輩に褒められると、なぜか学校の先生より嬉しい。
たぶん普段が口悪いからです。
「じゃあ最後」
「まだ?」
「一番簡単だ」
「どうぞ」
「昨日の辰巳さんが、市役所に対して最初に聞くべきだったことは?」
私は少し考えました。
そして笑います。
「『みんな同じって、何を基準に同じなんですか』」
「それでいい」
片桐所長が言いました。
私はノートの最後に。
一行の覚え書きを書きました。
――大勢に同じ「お願い」をするなら、先に同じ物差しを作る。物差しは原則、見えるところへ。
相馬先輩が横から覗き込みます。
「長いな」
「一行です」
「内容が長い」
「じゃあ先輩なら?」
「四十軒回る前に基準作れ」
「雑!」
「分かりやすいだろ」
悔しい。
分かりやすい。
私はその下に小さく書き足しました。
――策定は義務。公表は原則。例外は「行政上特別の支障」。
「それは何だ」
「試験用です」
「急に教科書だな」
「ここだけは落とせないので」
私はノートを閉じました。
窓の外。
昭和六十三年の町は、もうすっかり夜です。
駅前では。
魚辰の赤い鯛が、少しだけ短くなってぶら下がっているはずです。
市役所では。
倉田係長たちが、看板の協力要請について新しい紙を作っているかもしれない。
まだ。
行政手続法はありません。
行政指導指針を定め、公表するというルールが。
全国一律の法律として置かれるのは、もっと先です。
でも。
問題はもうある。
同じ目的で、大勢へ同じお願いをする。
役所は公平にやっているつもり。
市民は公平かどうか確認できない。
その間にある小さな溝。
未来の法律は。
たぶん、そこへ橋を架けます。
私は引き出しを開けました。
「さて」
「何だ」
「サバ、忘れないうちに持って帰ります」
相馬先輩も立ち上がります。
「俺のほうが少なくないか」
「重さで分けました」
「頭がついてる分、そっちが重かっただろ」
「基準は事前に合意しました」
「食える部分で計算し直せ」
「後から基準変更しないでください!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「争うなら、明日だ」
「なぜです?」
「魚が傷む」
一番合理的。
結局。
私たちは再計量しませんでした。
行政上特別の支障ではありません。
単に。
面倒だったからです。
そして私は。
それが「公表しなくていい理由」にはならないんだよなあ。
と思いながら。
サバの入った袋を抱えて、昭和の夜道へ出ました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




