[行政手続法36条・行政指導指針]現場編 「みんなに同じお願いをしてます」の罠。見えない基準で町を動かす役所と、同じ指導には同じ物差しが要る
役所の「お願い」は、一人に言ううちはお願いでも、町じゅうに言い始めると、だんだん顔つきが変わります。
しかも困ったことに。
その顔つきが変わっていることに、役所自身が気づいていない場合があります。
「朝比奈。これ、十枚コピー」
「はい」
「そのあと封筒」
「はい」
「終わったら市役所」
「……はい?」
昭和六十三年。
地方都市の片桐行政書士事務所。
私は朝比奈こはる、十八歳の事務見習い。
前世――と言っていいのか分かりませんが――では、令和の行政書士受験生でした。
今はコピー機の横で、人生より紙詰まりのほうが身近です。
「先輩」
「何だ」
「今、コピーと封筒の流れに、しれっと市役所が混ざりましたよね」
「混ぜた」
「料理みたいに言わないでください」
相馬誠司先輩は、いつもの仏頂面で上着をつかみました。
「相談だ。駅前商店街」
「また駅前ですか」
「また駅前だ」
嫌な予感がします。
この町では、駅前再整備という言葉が出てきてから、相談の三割くらいが駅前絡みになった気がします。
再整備。
観光振興。
景観改善。
響きは立派です。
でも、立派な言葉というものは、ときどき小さな店の軒先を踏みます。
「何があったんです?」
「看板」
「看板?」
「見りゃ分かる」
説明を放棄しましたね。
相馬先輩らしい。
そのとき、事務所のドアが勢いよく開きました。
「片桐先生いるかね!」
飛び込んできたのは、五十代半ばくらいの男性でした。
茶色のジャンパー。
日焼けした顔。
手には、なぜか巨大な木製の魚。
魚。
しかも鯛。
全長一メートル近い。
「……ご相談でしょうか」
「そうだよ!」
男性は、その鯛を応接机にどんと置きました。
木製とはいえ、ものすごい存在感です。
相談者より先に相談内容を主張してくる物件、初めて見ました。
「これを外せって言うんだ!」
「鯛を?」
「看板だよ!」
「あ、看板なんですね」
「見りゃ分かるだろ!」
相馬先輩を見る。
先輩、あなたと同じ説明方法の人が来ましたよ。
男性の名は、魚屋「魚辰」の主人、辰巳源蔵さん。
駅前商店街で三十年以上、鮮魚店を営んでいるそうです。
例の木彫りの鯛は、店の軒先からぶら下げてきた看板。
先代である父親が作らせたものだといいます。
「昨日、市役所の人間が来てな」
辰巳さんは、折り畳まれた紙を机に置きました。
「駅前の景観を整えるから、派手な看板は外してくださいってよ」
私は紙を開きました。
そこには、
――駅前景観美化へのご協力のお願い。
そう書かれていました。
お願い。
柔らかい。
ものすごく柔らかい。
でも行政法受験生は、この柔らかさを見ると逆に警戒します。
だいたい「お願い」の後ろから、何かが出てくるからです。
「これだけですか?」
「最初はな」
「最初?」
「俺が嫌だって言ったら、担当がこう言ったんだ」
辰巳さんは眉間にしわを寄せ、役所の職員らしい口調を真似しました。
「『駅前の対象店舗には、皆さん同じようにお願いしています』」
「……なるほど」
「そのうえ、『ほかの店は協力してますよ』だ」
ああ。
それは効く。
法律より効くときがあります。
みんなやってます。
あなただけですよ。
町内会と役所が使うと、妙に破壊力のある言葉です。
「で、ほかの店は?」
片桐所長が聞きました。
「外した店もある。看板を塗り直した店もある」
「拒んだ店は」
「うちの向かいの文房具屋は、そのままだ」
「なぜ?」
「知らん」
「喫茶店の赤いテントも残ってる」
「それも?」
「知らん」
私は紙をもう一度見ました。
駅前景観美化へのご協力のお願い。
対象となる看板。
望ましい色彩。
突出物の整理。
派手な広告物の自粛。
それなりに書いてあります。
けれど。
決定的に、何かが足りない。
「辰巳さん」
「何だい」
「市役所の人は、どういう店に、どの程度まで直してほしいのか説明しました?」
「してねえよ」
「魚の看板だから駄目だとか、大きさが何センチ以上だからとか」
「派手だからって」
「派手」
「派手」
派手。
法律用語としては、かなり腰が弱い言葉です。
私は相馬先輩を見ました。
「先輩」
「何だ」
「魚って、どこから派手なんでしょう」
「知らん」
「金目鯛から?」
「魚種の問題じゃねえ」
「ですよね」
辰巳さんが木彫りの鯛を撫でました。
「こいつは赤いから目立つ。でも魚屋の看板なんだから、魚で何が悪いんだ」
「赤いのが駄目なら、消防車も駅前に入れませんね」
「朝比奈」
「はい」
「話を広げるな」
すみません。
でも気になるんです。
個別のお願いなら、
辰巳さん、この看板はこういう事情で少し直してもらえませんか。
そういう話で済むかもしれない。
けれど市は、
駅前の対象店舗には皆さん同じようにお願いしています。
と言った。
つまり。
同じ行政目的のために。
一定の条件に当てはまる複数の人へ。
同種の行政指導をしている。
そこまで考えた瞬間。
私の頭の奥で、未来のテキストがぱっと開きました。
――行政手続法第三十六条。
同一の行政目的を実現するため、一定の条件に該当する複数の者に対して行政指導をしようとするとき。
行政機関は、あらかじめ。
事案に応じ。
行政指導指針を定める。
そして。
行政上特別の支障がない限り、公表する。
「……あ」
「何だ」
相馬先輩が私を見る。
「いえ」
危ない。
今は昭和六十三年です。
行政手続法は、まだありません。
未来の法律を窓口で振り回したら、行政書士見習いではなく予言者として扱われます。
でも。
未来の法律が整理することになる問題は、もう目の前にある。
これか。
私は、少しぞくっとしました。
法律が先にあって問題が生まれるんじゃない。
問題が先に積もって。
後から法律が名前をつけることもあるんだ。
「こはる」
片桐所長が呼びました。
「はい」
「何が引っかかった」
私は未来の条文を飲み込み、昭和六十三年の言葉を探しました。
「……同じお願いを、何軒にもしていることです」
辰巳さんが眉を上げます。
「どういうことだ?」
「一軒だけなら、その店の事情を見て相談すればいいです。でも市役所は、“対象店舗には皆さん同じようにお願いしている”って言った」
「ああ」
「なら、誰が対象なのか。何を基準に、どこまで直してほしいのか。役所の中で何か決めているはずです」
相馬先輩が腕を組みました。
「なけりゃ?」
「同じ目的で何十軒も回ってるのに、担当者がその場その場で“派手ですね”“これはいいでしょう”って決めてることになります」
辰巳さんが顔をしかめました。
「だから向かいの文房具屋は残ってんのか?」
「まだ分かりません。でも」
私は木彫りの鯛を見ました。
「少なくとも、“みんな同じようにお願いしています”と言うなら、その“同じ”の中身を聞いていいと思います」
部屋が少し静かになりました。
片桐所長が、短く言いました。
「行くぞ」
「はい」
相馬先輩が立ちます。
「鯛も?」
私が聞くと、辰巳さんが即答しました。
「持ってく」
「持っていくんですか」
「現物見せたほうが早い」
こうして私は。
昭和六十三年の午後。
一メートルの木彫りの鯛を抱えて、市役所へ向かうことになりました。
行政法の教材としては、だいぶ生臭そうな見た目です。
木ですけど。
◇
市役所の商工観光課。
私たちを見るなり、倉田係長は顔をしかめました。
「……今度は何ですか」
「鯛です」
「見れば分かります」
私にも分かりませんでしたけどね、最初。
倉田係長とは、駅前の露店やら商店街の催しやらで、最近すっかり顔なじみになっています。
融通はきかない。
でも、悪い人ではない。
役所という巨大な箱の中で、「現場が回らん」と毎日胃を痛めていそうな人です。
相馬先輩が例の紙を窓口に置きました。
「これ」
「景観美化のお願いですね」
「誰が作った」
「うちです」
「何を基準に回ってる」
「基準?」
「対象店舗だよ。誰に何を頼むか」
倉田係長が、少しだけ目をそらしました。
「駅前再整備区域のうち、景観上改善が必要と考えられる店舗に……」
「だから、その“必要と考えられる”の物差し」
相馬先輩、容赦がありません。
倉田係長が咳払いしました。
「個々の状況がありますから、一概には」
「じゃあ、“皆さん同じようにお願いしています”は?」
「同じ趣旨でお願いしている、という意味です」
私は口を挟みました。
「同じ趣旨でも、基準は同じですか?」
倉田係長が私を見る。
「朝比奈さんでしたか」
「はい」
「また細かいところを」
「細かいところが気になる仕事みたいなので」
半分は受験生の病気です。
「この鯛は外してくださいと言われました」
「目立ちますからね」
「向かいの文房具屋さんの青い鉛筆看板は残っています」
「……あれは昔からありますし」
「この鯛も昔からあります」
辰巳さんが即座に言いました。
「三十二年だ!」
「年数勝負になってる」
私は小声で呟きました。
倉田係長が困った顔をします。
「いや、ですから、全体として判断を」
「その“全体として”を、誰が、どうやって?」
私は聞きました。
係長が黙る。
その沈黙で、少し見えました。
「もしかして」
私は慎重に言いました。
「内部には何かあります?」
「何か、とは」
「色とか、大きさとか、突出幅とか。職員さんが店舗を回るときに見る項目」
倉田係長の眉が動きました。
当たり。
相馬先輩も気づいたらしく、すぐに続けます。
「あるんだな」
「……内部資料です」
「見せてください」
「それはちょっと」
「なぜ?」
「まだ正式なものではありませんので」
出ました。
内部資料。
正式じゃない。
でも、それを使って外では人を動かしている。
行政法の嫌なところを煮詰めたような状況です。
「係長」
片桐所長が、初めて口を開きました。
「その資料を使って、何軒回りました」
「……二十七軒です」
辰巳さんが目をむきました。
「二十七?」
「今後、四十軒ほどまで」
私は心の中で未来の条文をもう一度思い出しました。
一定の条件に該当する複数の者。
同一の行政目的。
行政指導。
あらかじめ指針を定め。
原則、公表。
ぴたりと重なる。
もちろん。
昭和六十三年には、その条文はまだない。
でも、なぜ未来にあんな条文が作られるのか。
今なら分かる気がします。
二十七軒。
今後四十軒。
それを職員が非公開の内部メモ片手に回る。
相手には「皆さん同じです」と言う。
でも市民は、その「同じ」の物差しを見ることができない。
これでは、自分だけ厳しく扱われていないか確認できない。
直す必要があるとしても、どこまで直せばいいのか分からない。
担当者が替わったら判断が変わるかもしれない。
しかも。
断りにくい。
「係長」
私は言いました。
「その資料を見せられないと、辰巳さんは何を直せば市役所の考える“景観改善”になるのか分かりません」
「担当者が説明します」
「担当者によって説明が違ったら?」
「それは……」
「文房具屋さんは良くて魚屋さんは駄目。その違いを、辰巳さんは確認できません」
倉田係長の表情が少し険しくなります。
「しかしこれは命令ではありません。あくまで協力のお願いです」
そう。
そこです。
私は危うく、
行政指導ですね。
と言いそうになりました。
いや、「行政指導」という考え方自体は当時にもあります。
でも私の脳内には、どうしても未来の行政手続法が一緒に出てくる。
気をつけろ、私。
「お願いだからこそです」
私は答えました。
「命令なら、何の権限で命じたのかが問題になります。でもお願いなら、相手は断れるはずです」
辰巳さんが頷く。
「俺は断った」
「はい。でも“みんな協力していますよ”と言われた」
「言われた」
「基準も見せてもらえないまま」
「そうだ」
「それだと、断る側だけがわがままみたいになります」
倉田係長は黙っています。
私は続けました。
「役所が同じ目的で何十人にも協力を求めるなら、せめて、どういう場合に、何をお願いするのか、役所側の考え方が見えないと不公平じゃないですか」
倉田係長が眉を寄せました。
「公平にはやっています」
「それを確認できないんです」
言ってから。
自分でも、あ、と思いました。
たぶん。
今日の核心です。
「係長が公平にやっていると言ってるかどうかじゃなくて」
私は少しゆっくり言いました。
「お願いされる側から、公平に扱われているか確かめられないことが問題なんだと思います」
倉田係長の表情が止まりました。
相馬先輩がこちらをちらりと見る。
片桐所長は何も言わない。
止められないなら、続けます。
「同じ目的で、何十軒も回るんですよね」
「……ええ」
「だったら、担当者の頭の中だけじゃなくて、“この条件ならこうお願いする”という考え方を揃えたほうがいいです」
「内部では揃えています」
「じゃあ、その中身を相手が分かる形にできませんか」
「朝比奈」
相馬先輩が低い声で言いました。
「論点で喋るな。役所が逃げる」
「はい」
毎回言われます。
でもその相馬先輩が、倉田係長へ向き直りました。
「簡単に言う。こっちは、魚を絶対残せって言ってんじゃない」
「……はい」
「魚を外せと言うなら、何を基準に魚が駄目なのか説明してくれ。それだけだ」
「……」
「四十軒回るなら、なおさらだ。四十通りの気分で決められちゃ困る」
先輩。
結局、ものすごく論点で喋ってますよ。
ただし私より十倍分かりやすい。
片桐所長が続けました。
「行政が一定の施策を進めるため、市民に任意の協力を求めること自体がおかしいと言っているわけではありません」
「ええ」
「ただし、広い範囲の者を同じ目的で動かすなら、運用に一貫性が要る」
「……」
「そして一貫していると言うなら、その内容を説明できなければならない」
倉田係長は机の上の木彫りの鯛を見ました。
鯛も見返しています。
たぶん。
「内部資料というのは、どの程度のものなんですか」
所長が尋ねると、係長はしばらく迷ったあと、引き出しから一枚の紙を出しました。
「……お見せするだけです」
相馬先輩が受け取る。
私ものぞき込みました。
駅前環境整備・店舗協力要請項目。
そこには、いくつかの項目が並んでいました。
歩道側への突出。
点滅照明。
原色の大型広告。
破損した看板。
通行の妨げとなる置物。
商品箱の常時積置き。
そして。
備考欄。
――地域の景観を著しく損なうと担当職員が判断したもの。
私は顔を上げました。
「最後、広すぎません?」
「そこは個別事情を見るためです」
「この鯛、そこですか」
「……そうです」
「文房具屋さんの鉛筆は?」
「対象外です」
「なぜ?」
「青ですから」
辰巳さんの眉が上がりました。
「色かよ!」
「鯛を青く塗ればいいんですか?」
「朝比奈さん」
「すみません」
でも聞きたい。
青い鯛。
それはそれで町の景観に別の問題を生みそうです。
相馬先輩が資料を指で叩きました。
「原色の大型広告。これ、大型って何メートルだ」
「特に数値は」
「原色ってどこまでだ」
「一般的な意味で」
「著しく損なうって誰が判断する」
「担当者です」
「担当者が二人いたら?」
「相談します」
「相談して割れたら?」
「係で判断します」
「その結果は店側に説明する?」
「必要があれば」
「必要かどうかを誰が決める」
「……我々です」
倉田係長の声が、だんだん小さくなりました。
いじめているわけではありません。
ただ、質問するたびに。
基準の中にあった曖昧さが、一つずつ表へ出てきます。
私は急に、行政手続法三十六条の「指針」という言葉が、生々しく感じられました。
指針。
テキストでは眠い。
とても眠い。
でも本来は。
役所が四十人へ同じ方向を向けと言うなら、その役所自身が、どっちを向かせたいのか先に線を引いておけ。
そういう話なのかもしれない。
「係長」
私は言いました。
「この紙、もう少し整理できませんか」
「整理?」
「対象になる店舗。お願いする内容。判断するときの項目。それから、これは強制じゃなく協力要請だということ」
「そこまで外へ出すんですか」
「出したら困りますか?」
係長が止まります。
私は続けました。
「もし出したせいで、役所の目的が達成できなくなるとか、具体的な支障があるなら別です。でも」
ここで。
自分の言葉に、自分でぞくっとしました。
行政上特別の支障がない限り、公表する。
未来の条文の文言が、頭の中で重なります。
私はもちろん口には出しません。
今はまだ昭和六十三年。
でも、未来の法律が生まれる理由が、目の前にある。
「隠しておく必要が特にないなら」
私は言いました。
「見せたほうが、役所にとっても楽じゃないですか」
「楽?」
「“あの店は良くて、なんでうちは駄目なんだ”って、一軒ずつ揉めなくて済みます」
相馬先輩が笑いました。
「それは効くな」
倉田係長も、少しだけ苦笑しました。
「君、住民側なのか役所側なのか分からないね」
「揉め事を減らしたい側です」
「行政書士らしくなってきたな」
相馬先輩が言います。
「見習いですけど」
「そこはまだな」
倉田係長は、内部資料を見つめました。
それから。
「今日すぐ公表、というのは無理です」
と言いました。
辰巳さんが何か言いかけます。
でも所長が手で制しました。
「続けてください」
「課長とも相談が要ります。この資料自体、まだ試行的なものです」
「ええ」
「ただ……」
係長は一度、息を吐きました。
「対象店舗に何を求めているのか分からない、というのは確かにまずい」
私は黙って聞きます。
「少なくとも、店舗を回る職員向けの判断項目を整理します」
「はい」
「それから、協力依頼の文書に、対象となる事項をもう少し具体的に書く」
辰巳さんが腕を組みました。
「うちの鯛は?」
「それは別です」
「別かよ!」
「個別にもう一度見ます」
「外せって決まったんじゃねえのか」
倉田係長が少し困ったように笑いました。
「お願いしただけですから」
辰巳さんが目を細める。
「じゃあ、断ってもいいんだな」
「……強制はできません」
その言葉が落ちた瞬間。
ほんの少しだけ。
部屋の空気が変わりました。
別に辰巳さんが勝ったわけではありません。
役所が負けたわけでもない。
ただ。
お願いが、お願いの顔に戻った。
それだけです。
でも。
行政の言葉では、その「それだけ」が大きい。
辰巳さんは木彫りの鯛を抱え直しました。
「じゃあ俺も考える」
「何をです?」
倉田係長が聞く。
「こいつを少し小さくする」
「え?」
「歩道に出てる部分だけな。客の頭に当たりそうだってのは、前から女房に言われてた」
私は思わず笑いました。
「そこは市役所より奥さんの指導が効いてるんですね」
「女房のは行政指導じゃねえ。命令だ」
「強制力が違いました」
相馬先輩が鼻で笑います。
倉田係長も、とうとう笑いました。
「それなら、こちらも現地でもう一度確認します」
「ただし魚は残すぞ」
「魚そのものを駄目とは言ってません」
「最初からそう言え!」
「申し訳ありません」
お。
倉田係長が謝りました。
ちょっと珍しい。
所長が名刺入れをしまいます。
「では、今日はそこまでで」
「片桐先生」
倉田係長が呼び止めました。
「何です」
「さっきの話ですが」
「はい」
「こういう協力要請って、やはり最初に方針を整理しておいたほうがいいんでしょうか」
所長は少しだけ考えました。
「人数が増えるほど、そうでしょう」
「法律で決まってるわけではないですよね」
「この件について、一般にそうした形を一律に義務づける法律がある、という話をしているわけではありません」
さすが。
昭和六十三年です。
未来を知る私と違って、所長はちゃんと今の地面を踏んでいる。
「ただ」
所長は続けました。
「同じ行政目的のために、多数の市民へ同種の働きかけをするなら、基準がなければ不公平になる」
「……はい」
「基準があっても、相手から何も見えなければ、不信を招く」
「そうですね」
「行政が自分を律するための線は、市民のためだけにあるわけじゃない」
倉田係長がゆっくり頷きました。
短い。
でも、重い。
たぶん今日いちばんの言葉でした。
◇
事務所へ戻る途中。
辰巳さんは、木彫りの鯛を肩に担いで歩いていました。
昭和の夕暮れ。
駅前商店街。
そこを巨大な鯛を担いだ男と、行政書士二人と、見習い一人が歩く。
町の人たちが振り返ります。
「目立ってますね」
私が言いました。
「何がだ」
「鯛です」
「看板なんだから目立ってなんぼだ」
「景観行政と永遠に分かり合えなさそう」
辰巳さんは笑いました。
「しかし、嬢ちゃん」
「はい」
「俺ぁ最初、役所が四十軒に同じこと言ってるなら、しゃあねえと思ったんだ」
「はい」
「逆なんだな」
「逆?」
「四十軒に言うからこそ、何を基準に言ってるのかちゃんとしろって話なんだろ」
私は一瞬、言葉を失いました。
それ。
たぶん完璧です。
「……そうだと思います」
「なんだ、自信ねえな」
「私も今日、分かったばかりなので」
「勉強中か」
「絶賛」
「行政書士になるのか」
「なりたいですね」
「じゃあ受かったら魚送ってやる」
「木彫りじゃないですよね?」
「生だ」
「よかった」
「なんで残念そうなんだ」
残念ではありません。
ただ、この鯛には若干愛着が湧いてしまいました。
◇
三日後。
片桐行政書士事務所に、市役所から一枚の文書が届きました。
相馬先輩が読み上げます。
「『駅前環境整備に伴う協力要請について』」
「お」
「『対象となる店舗および工作物、協力をお願いする主な事項、判断に際して考慮する事項を整理し、対象者に説明する』」
「おお」
「『なお、本要請は関係法令に基づく命令とは異なり、任意の協力を求めるものである』」
私は思わず机を叩きました。
「そこ!」
「うるせえ」
「でもそこですよ!」
「分かったから叩くな。インク倒れる」
さらに。
市役所では、対象店舗向けに同じ内容を書いた紙を窓口で配ることになったそうです。
全部の内部資料を公開したわけではありません。
正式な制度ができたわけでもない。
どんな行政指導にも、必ず事前に公表された基準が必要だ。
そんな時代でもありません。
でも。
少なくとも。
見えない物差しを職員だけが持ち、
「皆さん同じようにお願いしています」
という言葉で住民を動かすやり方は、一歩だけ変わりました。
「辰巳さんの鯛は?」
私が聞くと、相馬先輩が封筒から写真を出しました。
「現地確認。突出部分だけ二十センチ短くすることで話がついた」
「魚体切断」
「言い方」
「痛そう」
「木だ」
写真の中では。
少しだけ短くなった木彫りの鯛が、魚辰の軒先にぶら下がっていました。
前より少し奥へ引っ込み。
でも、ちゃんと赤い。
ちゃんと目立つ。
その下で辰巳さんが、得意げに腕を組んでいます。
「残りましたね」
「ああ」
「役所も別に、魚を絶滅させたかったわけじゃなかった」
「そりゃそうだ」
そこへ、事務所のドアが開きました。
「おう!」
辰巳さん本人でした。
手には発泡スチロールの箱。
「約束の魚だ!」
「本当に来た!」
中には、立派なアジとサバ。
相馬先輩の顔が、一瞬だけ明るくなりました。
「刺身だな」
「先輩、仕事中です」
「夜の話だ」
辰巳さんが豪快に笑います。
「鯛はまだ店にいるぞ」
「写真見ました」
「倉田さんも来てな。“少しなら目立っても魚屋らしくていいですね”だと」
「だいぶ柔らかくなりましたね」
「俺も少し引っ込めた。向こうも少し引っ込めた。それでいい」
なるほど。
たぶん。
そういう決着もある。
法律の話になると、つい。
適法か違法か。
勝ちか負けか。
白か黒か。
そこへ行きたくなります。
でも今日の話は、そうじゃありませんでした。
市役所には、駅前を整えたい目的がある。
辰巳さんには、三十二年守ってきた店の顔がある。
どちらかを叩き潰さなくても。
役所の「お願い」が、どんな物差しで出されているのか見えるだけで。
話し合える場所まで戻ってこられる。
それが大きかった。
辰巳さんが帰ったあと。
私は机の引き出しからノートを出しました。
「また勉強か」
相馬先輩が言います。
「今日のは、ちょっと書いておきたいです」
「何を」
「同じ行政目的で、複数の人に同じようなお願いをするときの話」
「長えな」
「短くします」
私はペンを持ちました。
でも。
すぐには書きませんでした。
頭の中では、未来の条文がはっきり浮かんでいます。
行政手続法第三十六条。
――同一の行政目的を実現するため。
――一定の条件に該当する複数の者に対し行政指導をしようとするとき。
――あらかじめ。
――事案に応じ。
――行政指導指針を定め。
――行政上特別の支障がない限り。
――これを公表する。
私はその条文を知っています。
でも。
今、この町の誰も知らない。
なぜなら。
まだ存在していないから。
不思議な気分でした。
未来から見ると、一行で終わる試験知識です。
複数者への行政指導。
指針の策定は義務。
公表も原則必要。
ただし行政上特別の支障がある場合は公表不要。
受験生だった頃の私は、
策定は義務。
公表は原則。
例外、特別の支障。
そんなふうに、丸暗記していた気がします。
でも今日。
その一行の法律が、なぜ必要になるのかを先に見てしまった。
二十七軒。
やがて四十軒。
同じ町。
同じ行政目的。
同じ「お願い」。
なのに。
物差しは役所の引き出しの中。
相手には見えない。
それでは、
公平なのか。
同じ扱いなのか。
何をすれば協力したことになるのか。
誰にも分かりません。
私はノートの一番上に、題名だけ書きました。
――行政指導指針。
「何だそれ」
相馬先輩が覗き込みます。
しまった。
未来用語。
「ええと」
「聞いたことねえ言い方だな」
「私の整理用です」
「また勝手な言葉作ったのか」
「まあ……そんなところです」
嘘ではない。
今の時代には。
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「意味は」
「行政が同じ目的で何人にも協力をお願いするなら、どういう場合に何をお願いするか、あらかじめ物差しを決めておく、みたいな」
「ふむ」
「それを相手にも分かるようにしておく」
相馬先輩が眉を上げます。
「毎回そんな面倒なことやるのか」
「一人一人なら別です。でも何十人にも同じことを言うなら」
私は今日の市役所を思い出しました。
「むしろ決めておかないほうが面倒になる気がします」
「確かにな」
所長が短く言いました。
そして、少し間を置いて。
「基準は、役所を縛る」
「はい」
「だが」
所長は続けます。
「役所を縛るものは、ときに住民を守る」
私はペンを止めました。
その言葉を。
ノートの端に、そのまま書きました。
条文は冷たい。
基準も冷たい。
指針なんて言葉は、もっと冷たい。
でも。
冷たい物差しだからこそ。
人によって伸びたり縮んだりしない。
担当者の好き嫌いで変わらない。
「みんなそうしてますよ」という空気だけで、誰か一人を押し切らない。
制度の冷たさが、人を救う。
その意味が。
今日は少しだけ分かった気がしました。
「朝比奈」
「はい」
「魚、持って帰るか」
相馬先輩が発泡スチロール箱を指さします。
「いいんですか?」
「半分な」
「珍しく公平ですね」
「俺がサバ二本、お前がアジ二本」
「それ魚種が違いません?」
「本数は同じだ」
「形式的平等!」
「嫌ならじゃんけん」
「またですか!」
奥から片桐所長が言いました。
「先に基準を決めろ」
私と相馬先輩は、同時に黙りました。
それから顔を見合わせます。
「……所長」
「何だ」
「今日のテーマを雑に回収しないでください」
所長は答えません。
ただ、ほんの少し笑っていました。
結局。
魚は重さを量って分けました。
基準は事前に決定。
双方に公表。
異議なし。
片桐行政書士事務所における鮮魚配分手続は、たぶん市役所より一足早く整備されました。
夕暮れの窓の向こう。
駅前の商店街に灯りがつき始めます。
そのどこかで。
赤い木彫りの鯛が、今日も軒先にぶら下がっている。
少しだけ短くなって。
でも、前と同じ顔で。
私はノートを閉じました。
今日覚えたのは。
「みんなに同じお願いをしています」
その言葉を聞いて、安心してはいけないということ。
むしろ。
何人にも同じお願いをするからこそ。
誰を対象にするのか。
何を求めるのか。
どんな物差しで判断するのか。
その「同じ」の中身が必要になる。
そして未来では。
きっと。
そういう当たり前を、法律が名前をつけて拾い上げていく。
私はまだ、その未来の条文を口には出せません。
でも今夜なら。
行政手続法三十六条を開いたとき、もう眠くならない気がしました。
たぶん。
少なくとも。
木彫りの鯛が頭に浮かぶくらいには。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




