[行政手続法35条・行政指導の方式]現場編 「従わないなら営業許可も分かりませんよ」の罠。口頭の“お願い”と、書面にできない圧力
口で言うだけなら、強いことはいくらでも言えます。
紙にしてください。
そう頼んだ瞬間、急に弱くなる言葉もあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所で働き始めてから、私はそれを何度か目にするようになっていました。
役所の窓口で、
「まあ、これはお願いなんですが」
と始まった話が、
「従っていただかないと困ります」
になり、
「今後の許可にも影響するかもしれませんよ」
まで育つ。
お願い。
なのに、断ったら何か起きそう。
行政指導という言葉を知らなければ、ほとんど命令です。
知っていても怖いですけどね。
「朝比奈。ぼさっとするな」
朝から相馬先輩の声が飛んできました。
「ぼさっとしてません。考え事です」
「お前の考え事は外から見ると居眠りと区別がつかん」
「失礼ですね」
「ならこれ持て」
どさっ。
机の上に、一冊の青いファイルが置かれました。
表紙には、
――駅前再整備事業・仮設店舗関係。
嫌な予感しかしません。
「また駅前ですか」
「また駅前だ」
最近、この町は駅前を触りすぎです。
広場を整備する。
観光客を呼ぶ。
仮設店舗を出す。
看板を揃える。
道路をきれいにする。
行政が町を整えるとき、図面の上では全部まっすぐです。
困るのは、図面の上に人間が住んでいることです。
「で、今度は何です?」
「喫茶店」
「喫茶店?」
「表にいる」
見ると、入口の長椅子に四十代くらいの女性が座っていました。
膝の上には茶色い封筒。
中身を握り潰しそうなほど、両手に力が入っています。
私は湯呑みを用意して、応接へ案内しました。
「朝比奈こはるです。見習いです」
「森川です。森川和代と申します」
声が小さい。
でも、小さいというより、声を大きくすると何かが崩れそうな感じでした。
片桐所長が向かいに座ります。
「どうされました」
「……店を、移してくれと言われまして」
「移転ですか」
「いえ。店そのものじゃなくて、入口を」
「入口?」
私は思わず聞き返しました。
森川さんは駅前で「喫茶つばき」という店をやっているそうです。
再整備に合わせて歩道が整備され、商店街の建物についても、行政から景観上の協力が求められている。
問題は、店の正面入口でした。
「市役所の人に、横の路地側に入口を移してほしいって」
「理由は?」
「新しい街路の統一感がどうとか……」
相馬先輩が眉を上げました。
「入口動かすって、工事じゃねえか」
「はい。見積もりを取ったら八十万円近くて」
「補助は?」
「出ないそうです」
「で、断った?」
「最初は」
森川さんが、封筒から一枚の紙を出しました。
建物の平面図です。
赤い鉛筆で、現在の入口に大きな×。
横の壁には矢印。
ただし、市役所の印も文書番号もありません。
「これ、役所が?」
「担当の方が、その場で書きました」
「正式な通知は?」
「ありません」
そこで森川さんは、少し黙りました。
「それで……昨日、また呼ばれたんです」
所長が目を上げます。
「何と言われました」
「入口の移設には協力してほしい。これは行政としてのお願いだって」
「はい」
「だから、うちはそんなお金ありませんって言ったら……」
森川さんの指先が震えました。
「担当の人が、“あんまり非協力的だと、今後の営業許可のこともありますからね”って」
部屋が静かになりました。
相馬先輩の顔から、さっきまでの雑さが消えます。
「営業許可って、飲食店営業の?」
「はい」
「保健所の許可だろ」
「私もそう思って。でも、その人は市役所の商工観光課の方なんです」
「名前は?」
「倉田さん」
私は思わず顔を上げました。
「係長?」
「はい。倉田係長です」
おお。
知ってる人が来ました。
前回、駅前の露店を「一切認めない」と掲示して、私たちに突っ込まれた人です。
倉田係長。
悪人ではない。
むしろ役所の中では話が通じる方です。
ただし、ときどき行政の便利さを市民側へ押し出しすぎる。
何でしょう。
悪意のないブルドーザーみたいな人です。
「それだけですか」
所長が聞きました。
「もう一つ……」
森川さんが言いにくそうに続けます。
「来月、店の道路側に小さなテラス席を作りたいと思って、相談してたんです」
「それも許可か何かが絡む?」
「はい。道路の使い方とか、いろいろ相談が必要だと」
「それについても何か言われた?」
「入口の件が片付かないと、そっちの話も進めにくいでしょうね、って」
相馬先輩が椅子の背にもたれました。
「なるほどな」
私は頭の中で、昨日までの行政法のページをめくりました。
行政指導。
相手方の任意の協力を求める行政活動。
命令ではない。
処分でもない。
でも現実には、役所から言われるだけで強い圧力になる。
そして。
私は知っている。
未来には、この手の問題を意識して、行政指導についてかなり細かいルールが置かれる。
趣旨と内容。
責任者。
許認可をちらつかせるなら、その根拠。
要件。
その要件に当てはまる理由。
さらに、口頭なら書面を求められる場合もある。
――ただし。
今は昭和六十三年です。
その法律はまだありません。
まだ、ない。
ここ、大事です。
私は未来の条文を、そのまま今の役所へ突きつけることはできない。
そんなことをしたら、行政法以前に私が時空犯罪者です。
「所長」
「何だ」
「これって、処分じゃないですよね」
「今聞いた限りではな」
「入口を移せという法的命令でもない」
「そうだろう」
「でも、断ったら営業許可に響くかもしれない、と言ってる」
「そこが問題だ」
所長の声が低くなりました。
相馬先輩が私を見る。
「で?」
「で、って」
「お前、その顔は何か引っかかってる顔だろ」
「あります」
「言え」
私は図面を指しました。
「何を求めているのか、誰の判断なのか、どこまでがお願いなのかが、全部口頭なんです」
森川さんが私を見ます。
「口頭なのが問題なんですか?」
「口頭だから駄目、とは言い切れません」
私は慎重に答えました。
「でも、口頭だけだと境目がなくなるんです。“お願い”なのか、“従わないと不利益を受けるもの”なのか」
「……はい」
「それに、“営業許可にも影響する”と言うなら、誰がどんな権限で、何を理由にそう言っているのかが分かりません」
相馬先輩が頷きます。
「商工観光課が保健所の営業許可を握ってるわけでもないしな」
「ですよね」
ここです。
行政指導という話になると、つい、
従う義務があるか。
断れるか。
ばかり見てしまいます。
でも、その前に聞けることがある。
何を求めているのか。
誰が責任者なのか。
断ったら何が起こると言っているのか。
その不利益を、本当にその人は与えられるのか。
曖昧な圧力は、曖昧だから強い。
なら、輪郭を描かせればいい。
「書いてもらいましょう」
私は言いました。
森川さんが目を瞬きます。
「え?」
「市役所に」
相馬先輩が、にやっとしました。
「何をだ」
「入口を移してほしい理由。具体的に何を求めているのか。誰の責任で言っているのか。それから――」
私は一拍置きました。
「従わない場合に営業許可その他に不利益があるというなら、その根拠も」
森川さんの表情が変わります。
「そんなこと、書いてくれるんでしょうか」
「そこです」
「え?」
「書ける話なら、書いてもらえばいいんです」
私は図面の赤い×を見ました。
「書けない話なら、それも大事な情報です」
相馬先輩が鼻で笑います。
「性格悪くなってきたな、お前」
「法律のせいです」
「法律に謝れ」
所長が立ち上がりました。
「行くぞ」
「市役所ですか」
「他にどこへ行く」
最近、所長のこのパターンにも慣れてきました。
論点に気づく。
口にする。
市役所へ連れていかれる。
行政法の実地演習、だいたい徒歩です。
◇
商工観光課へ着くと、倉田係長は私たちを見るなり、露骨に嫌そうな顔をしました。
「……今度は何ですか」
「ご挨拶がひどい」
私が言うと、
「君が来ると話が長くなるんだ」
「今回は短くします」
「信用できんな」
少しずつ関係ができている。
いいことなのか悪いことなのか分かりません。
森川さんは私たちの後ろで、緊張した様子で立っていました。
相馬先輩が平面図を窓口に置きます。
「これ。係長が書いた?」
「ああ」
「入口移せって話も?」
「お願いはしました」
「行政のお願い?」
「そうです」
「なら確認したい」
相馬先輩は、いつものように飾りません。
「何を、どこまで求めてる?」
倉田係長が眉をひそめました。
「ですから、街路整備に合わせて正面の景観を統一したいんです」
「それは目的だ」
相馬先輩が即座に切ります。
「聞いてるのは内容。入口を必ず移設しろ、なのか。できれば協力してくれ、なのか」
「……協力要請です」
「断れる?」
「そりゃ、強制はできませんよ」
森川さんが顔を上げました。
私はそこを逃しませんでした。
「では、断ったこと自体を理由に、森川さんの営業許可や今後の手続を不利益に扱うことはありますか」
倉田係長の顔が固まりました。
「いや、それは……」
「昨日、“今後の営業許可のこともありますからね”とおっしゃったそうですが」
「それは一般論です」
「何の一般論です?」
「飲食店なんですから、行政との協力関係は必要でしょう」
「協力関係と、営業許可の要件は同じですか」
「そういう意味じゃない」
来ました。
そういう意味じゃない。
行政法の現場で、かなり危険な日本語です。
言った側の意味と、聞いた側が受ける圧力が一致していない。
森川さんは昨日、それを、
言うことを聞かないなら店を続けられなくなるかもしれない。
そう受け取っています。
それは無理もありません。
許可という言葉を出されたんだから。
「じゃあ係長」
私は言いました。
「整理させてください」
「何を?」
「森川さんに求めているのは、法的義務ではなく、任意の協力ですね」
「そうだ」
「入口を移設しないことだけを理由に、営業許可を取り消したり、不許可にしたりする話ではない」
「少なくとも、私の権限でそんなことはできない」
「テラス席の相談も?」
「それは道路や施設管理の問題が別にある」
「入口を移さないから話を止める、ではない?」
倉田係長は黙りました。
そこだけ、答えが遅い。
相馬先輩が低い声で言いました。
「別の手続なら、別に判断しろよ」
「……分かってます」
「昨日は混ぜたろ」
「言い方が悪かったのは認めます」
お。
認めた。
倉田係長、前より早くなりました。
成長している。
私たちに慣らされているとも言います。
「では」
私は鞄から便箋を出しました。
「今日確認した内容を、簡単でいいので書面にしてください」
倉田係長の動きが止まりました。
「……書面?」
「はい」
「何で」
「森川さんが不安だからです」
「今説明したでしょう」
「口頭では」
「それで十分じゃないですか」
私は一瞬、未来の行政手続法第三十五条を思い浮かべました。
行政指導が口頭でされた場合において――。
いけない。
まだ存在しません。
私は頭の中で未来の条文を畳みました。
今ある言葉で言うしかない。
「係長」
片桐所長が口を開きました。
「行政指導であれば、なおさら内容を曖昧にしてはいけない」
倉田係長が所長を見ます。
「法的な強制ではない。だからこそ、相手方が何を求められているのか、従わなければ何が起きるのかについて、誤解が生じないようにする必要がある」
「しかし、何でも文書にすると……」
「責任が残る?」
相馬先輩が言いました。
「そういう言い方はしてません」
「じゃあ書けるだろ」
「相馬さん」
所長が短く制しました。
相馬先輩は黙る。
でも顔は完全に「じゃあ書けるだろ」です。
私も同じ顔だったと思います。
倉田係長はしばらく考え、平面図を見ました。
「正式な通知文書はすぐには作れません」
「正式じゃなくてもいいです」
私は言いました。
「今日確認できた内容だけで」
「具体的には?」
「市として入口移設への協力を求めていること。法令上、移設を命ずるものではないこと。移設しないことのみを理由に、飲食店営業許可について不利益な取扱いをするという趣旨ではないこと」
「営業許可はうちの課じゃない」
「だからこそ、その一文があると森川さんは安心できます」
倉田係長が、今度は森川さんを見ました。
「……そんなに怖がらせましたか」
森川さんは少し迷ってから、頷きました。
「店を取られるのかと思いました」
「そこまでは」
「でも、“許可のこともあります”って言われたら……」
倉田係長の顔から、反論が消えました。
たぶん、初めて自分の言葉が相手側でどう聞こえたのかを見たのだと思います。
「……分かりました」
机に向かい、紙を一枚出す。
ボールペンを取る。
そして書き始めました。
不思議なものです。
さっきまで空中に漂っていた話が、紙に置かれた途端、急に形になります。
駅前整備に伴う店舗入口変更への協力依頼。
強制ではない。
入口を変更しないことのみを理由に営業許可について不利益に扱う趣旨ではない。
テラス席に関する相談は、関係する法令・管理上の要件に基づき別途検討する。
最後に、
商工観光課 倉田。
そこまで書いて、係長は紙を森川さんへ差し出しました。
「これでいいですか」
森川さんはすぐには受け取りませんでした。
文字を読みました。
一行ずつ。
何度も。
それから、両手で受け取りました。
「……はい」
その声は、最初に事務所へ来たときより、少しだけ太くなっていました。
「ありがとうございます」
倉田係長は頭を掻きます。
「こっちも、言い方は気をつけます」
相馬先輩がぼそっと言いました。
「最初からそうしろ」
「聞こえてますよ」
「聞かせてる」
相変わらずです。
でも、今回は誰も怒鳴りませんでした。
誰かが負けたわけでもありません。
役所は景観への協力を求める。
森川さんは、できないものはできないと言える。
テラス席の相談は、本来の要件に沿って別に進める。
それだけです。
それだけのことが、昨日までは全部一つの塊になっていました。
入口を移さない。
非協力的だ。
許可にも響くかもしれない。
テラス席も難しいかもしれない。
口頭の世界では、それらが全部つながって見える。
でも言葉にして、紙に書けば、切り分けられる。
お願いはお願い。
許可は許可。
別の手続は別の手続。
それぞれ、根拠も責任も違う。
行政法って。
時々、ばらばらにすることで人を救うんだな。
私はそんなことを思いました。
◇
事務所へ戻る頃には、日が傾いていました。
森川さんは一度店へ戻り、その一時間後、紙袋を抱えて再び現れました。
「これ、よかったら」
中にはサンドイッチが入っていました。
「うちの卵サンドです」
「いいんですか」
「今日は久しぶりに、お腹が空いたので」
一瞬、意味が分かりませんでした。
でも、そのあと分かりました。
昨日から心配で、ろくに食べられなかったのだそうです。
「入口は、結局どうするかまだ分かりません」
森川さんは言いました。
「工事費を考えたら、たぶん今は無理です。でも、市役所がお願いしてる理由は分かりました」
「はい」
「それと、断ったら店を取り上げられるわけじゃないって分かっただけでも」
森川さんは、あの紙を大事そうに鞄へしまいました。
「全然違います」
私は頷きました。
そうだろうな、と思います。
自由に選べます。
そう言われても、
断ったら何が起きるか分からないなら、人は自由には選べません。
選べるためには、境界線が要る。
どこまでがお願いか。
どこからが法的な義務か。
誰が言っているのか。
従わなかったら、本当に何が起きるのか。
制度は冷たい。
でも、その冷たい線をちゃんと引けば、
人はやっと安心して「はい」や「いいえ」を言えるのかもしれません。
森川さんが帰ると、相馬先輩がサンドイッチの包みを開きました。
「お、分厚い」
「まだ所長が見てません」
「早い者勝ち」
「またそれですか」
「前回、団子で学ばなかったのか」
「学びましたよ。だから今回は書面にしましょう」
「何をだ」
「サンドイッチ配分についての趣旨、内容、責任者を明確にしてください」
「責任者は俺」
「嫌な予感しかしない」
「内容は、俺二個、お前一個、所長一個」
「不平等!」
奥から片桐所長の声がしました。
「四つしかないのか」
「はい」
「なら二、二で分けろ」
私は固まりました。
「所長と相馬先輩が二個ずつ?」
「俺と森川さんの依頼を処理した二人で二個ずつ」
「見習いの労働権!」
「お前は茶を飲め」
「冷たい!」
相馬先輩が笑いながら、一つ差し出してきました。
「冗談だ」
「今の圧、書面にしてください」
「しつこいな」
私はサンドイッチを受け取りました。
卵がたっぷり入っています。
美味しい。
昭和の喫茶店、卵の量に遠慮がありません。
机の端には、今日使ったメモが残っていました。
私は一度ペンを取りました。
けれど、まだノートにはまとめません。
今日、現場で分かったのは一つだけです。
口頭の行政指導は、形がないぶん、膨らみやすい。
お願いなのに、命令に聞こえる。
権限がないのに、許可を握っているように聞こえる。
別の手続なのに、一つの取引条件みたいに聞こえる。
そして、相手が怖がって従えば、それで話は終わってしまう。
未来の私は知っています。
何年か後、この種の問題に対して、行政指導の趣旨や内容、責任者を明確にすることが法律上要求される時代が来る。
さらにもっと後には、許認可の権限を行使できると示すなら、
何の法律の、
どの条文で、
どんな要件があり、
なぜその要件に当たるのか。
そこまで示すことを求められる時代が来る。
そして、口頭でされた行政指導について、相手方が書面を求めることにも意味が与えられていく。
でも。
今はまだ昭和六十三年です。
そんな整った制度は、ここにはありません。
だから今日、片桐所長は未来の条文を使わなかった。
ただ、
何を求めているのか。
強制なのか。
誰の権限なのか。
断ったら本当に何が起きるのか。
曖昧にするな。
そう言っただけでした。
「朝比奈」
相馬先輩が、向かいから私を見ます。
「また難しい顔してるぞ」
「今日のこと、ノートにしようと思って」
「じゃあ書け」
「まだ整理できてません」
「今日やっただろ」
「現場で使えたのと、試験で説明できるのは別なんです」
「面倒くさい受験生だな」
「受験生は面倒くさい生き物です」
私はノートを開きました。
白いページ。
題名だけを書く。
――行政指導の方式。
その下で、ペンが止まります。
趣旨。
内容。
責任者。
口頭の場合の書面。
許認可をちらつかせた場合。
そして、どんなときは書面が要らないのか。
未来の条文を思い出すと、いくつも論点が浮かびました。
でも今日は、まだそこまで書かない。
森川さんの顔を思い出します。
店を失うかもしれない。
昨日まで、そう思っていた人がいました。
今日、紙一枚を受け取って、
「全然違います」
と言った。
法律の文章は冷たいです。
でも冷たいからこそ、
「お願い」と「命令」を混ぜない。
「協力」と「不利益」を曖昧につなげない。
そんな線を引ける。
私はノートの端に、一行だけ書きました。
――口で強いことを言われたら、その言葉を紙の上に置いてみる。
「何書いた」
相馬先輩が覗き込みます。
「見ないでください」
「どうせ試験の話だろ」
「違います。今日の教訓です」
「どんな」
私はノートを閉じました。
「書けない圧力は、書かせると輪郭が見える」
相馬先輩が少し黙りました。
「……まあ、悪くない」
「珍しく褒めました?」
「気のせいだ」
奥で片桐所長が書類を閉じました。
「ただし」
「はい?」
「書面にできないから違法、とは限らん」
私は肩を落としました。
「今ちょっといい感じに締めようとしたのに」
「間違って覚えるよりいい」
「それはそうですけど」
「明日、整理しろ」
出ました。
片桐所長の、余韻を試験範囲へ戻す一言。
私はノートを見ます。
行政指導の趣旨と内容。
責任者。
口頭でされた場合。
書面を求められた場合。
許認可の権限をちらつかせた場合。
例外。
後の時代なら、それぞれちゃんと法律の条文になる。
でも今日の私は、
その条文がなぜ必要になったのかを、先に見た気がしました。
役所の人が、
「お願いです」
と言う。
市民が、
「断ったらどうなりますか」
と聞く。
そのとき、
「まあ、それは今後のこともありますから」
と曖昧に笑う。
その曖昧さが、人を従わせる。
行政指導で本当に怖いのは、声の大きさじゃありません。
境界線が見えないことです。
お願いなのか。
命令なのか。
従わないと、本当に不利益があるのか。
誰がその不利益を与える権限を持っているのか。
今日、森川さんを少し救ったのは、
市役所に「お願いをやめさせた」ことではありませんでした。
お願いなら、お願いとして言ってください。
それだけでした。
窓の外では、駅前の工事現場に夕方の灯りがついています。
町はこれから、もっと変わっていくのでしょう。
新しい道路。
新しい店。
新しいルール。
そのたびに、たぶん役所は市民へ「協力してください」と言う。
協力は必要です。
行政だって、何でも命令だけで町を動かせるわけじゃない。
でも。
だからこそ。
お願いは、お願いの顔をしていなければならない。
私は最後に、ノートの題名をもう一度眺めました。
――行政指導の方式。
昨日までなら、これだけで眠れそうな言葉です。
でも今は、森川さんがあの紙を両手で受け取った光景が浮かびます。
方式なんて、ただの形式じゃない。
何を言われているのかを、人がちゃんと理解して選べるようにするための形なんだ。
たぶん。
未来の法律は、そのことを条文にするのでしょう。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「はい」
「サンドイッチ最後の一個、食うか?」
「食べます」
「じゃあ茶入れろ」
「それ、交換条件ですか?」
「お願いだ」
「断ったら?」
「俺が食う」
「任意性が薄い!」
所長が新聞の向こうで言いました。
「早く決めろ。俺が食うぞ」
「第三者参入!」
結局、私はお茶を入れました。
完全に自由意思だったかどうかについては、少し議論の余地があります。
でも少なくとも、
誰が何を求めているのか。
断ったら何が起きるのか。
今回は、ものすごく明確でした。
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