IX 襲撃
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「フィル、楽しかった?」
「うん!」
バシリオ先生の研究室を去り、わたしとフィルは、人気のない廊下を二人きりで歩いていた。
聡明で、古い時代に関心のあるフィルのことを、バシリオ先生は気に入ったようだった。
人見知りのフィルも、バシリオ先生とは打ち解けたようだし。
なんやかんやいっても、バシリオ先生は有力な王族の息子だ。
フィルと親しくなっておいてもらえば、フィルの未来に役立つこともあるかもしれない。
フィルをバシリオ先生に会わせたのには、将来を見据えた狙いもあった。
こういう打算を、前回の人生では、わたしは自分のために使った。立派な王妃になろうとして。
今は……すべてはフィルのためだ。
フィルの幸せのためなら、わたしは何だって利用する。わたしはフィルの最高の姉になりたいのだから。
まあ、単純に、フィルの喜ぶ姿が見られるだけでも、嬉しいのだけれど。
バシリオ先生の研究室で見たものについて、フィルは頬を上気させて、嬉しそうにわたしに話してくれた。
そんなフィルの顔を見られるだけで、わたしにはご褒美だ。
あとは思わぬ収穫もあった。
「夜の魔女の瞳、がお姉ちゃんは気になっているんだよね?」
フィルの言葉にわたしはうなずく。
アルフォンソ様にも相談しに行ってみよう。預言についての知識もあるはずだし。
わたしがそう言うと、フィルはうなずいて、そして、ちょっと頬を膨らませた。
「やっぱり……王太子殿下のことを信頼しているんだね」
「そう……かな?」
アルフォンソ様は、前回の人生で、わたしを裏切った張本人だ。ただ……今回はまだそんなことは起きていない。勝手に監禁したのも、わたしのことを思ってのことだった。
だから、少なくとも、それほど悪く思ってはいない。
フィルはわたしを見つめる
「そうだよね。殿下は……お姉ちゃんの婚約者だもの」
「フィルは、アルフォンソ様のことが信頼できない?」
「そんなことないよ。でも、そういうことじゃなくて……お姉ちゃんは……いつか殿下と結婚して、ぼくのもとからいなくなっちゃうんだな、って思って……」
フィルは消え入るような声で言った。
たしかに、わたしがアルフォンソ様と結婚したら、フィルと毎日会ったりすることはできなくなってしまう。
わたしは王宮に住み、フィルは公爵領に戻ることになるのだから。
それは嫌だけど……でも、そんなのは先の話だ。だいたい、前回の人生みたいに、アルフォンソ様との婚約だって、破棄されてしまうに違いない。
それより、フィルがヤキモチを焼いてくれるのが嬉しい。その不安そうな表情も、赤く染まる頬も、とても可愛かった。
わたしは微笑んだ。
「大丈夫。わたしはフィルのもとからいなくなったりしないから」
「本当?」
「ええ。アルフォンソ様よりも、今のわたしはフィルの方が大事だし」
「……それ、殿下には絶対に言っちゃダメだよ?」
とフィルは小声で言い、でも、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
わたしは思わずフィルを抱きしめたくなり……そのとき、また、わたしは視線を感じた。
誰かがわたしを見つめている視線。しかも……好意的な目じゃない。
しかも……さっきよりもずっと近くだ。
フィルも誰かがいる気配に気づいたようだった。
「……お姉ちゃん」
フィルがぎゅっとわたしの腕にしがみつく。
いったい……誰が、何の目的で、わたしをつけているのだろう?
その答えはすぐにわかった。
物陰から一人の男子生徒が姿を現したからだ。
「あなたは……!」
「このあいだは世話になりましたね」
そこにいたのは……このあいだの決闘で戦ったカルメロだった。
黒髪に褐色の肌。獰猛な黒い瞳。
学園の標準服姿で、そして、腰に木剣をぶら下げている。
彼は残忍そうな笑みを浮かべ、そこに立っていた。
「何の用?」
わたしはフィルをかばうように前へ進み出て、そして、カルメロを睨みつける
こいつが、視線の正体だったんだ。
勝負で負けた相手を、じっと陰から見ているなんて、陰湿だ。
カルメロは笑みを深くする。
「恥をかかされた礼をしに来たわけですよ」
「へえ、仕返しってわけ? 情けないのね」
カルメロは急に真顔になった。
そして、わたしを鋭く睨みつける。カルメロは木剣を構えた。
「剣を持っていればこそ、あなたはそれなりに強いが……今は素手ってわけですからね」
「まさか……」
「まあ、手加減はしますが、ちょっと痛い目を見てもらうぜ」
わたしはすうっと背中が寒くなるのを感じた。
ここには誰もいない。校舎のなかでも薄暗くて、ほとんど人も来ない。
そして、わたしもフィルも武器を持っていない。
剣を持ってすらなんとか勝てた相手に、素手で戦うなんて……無理だ。
「恥ずかしくないの!? 武器を持っていない相手を痛めつけようとするなんて」
「これは私の本意じゃありません。騎士道精神には反するのですが……まあ、しかし、私はそこまで高潔な性格でもないのでね」
ということは、カルメロは、誰かの指示で動いているんだろうか?
いや、今は……ともかく、この場をなんとか切り抜けないと……。
「わたしやフィルに怪我をさせたら、ただじゃ済まないのは、わかっているでしょう?」
暗にわたしは王太子のアルフォンソ様のことをほのめかした。けれど、カルメロは一笑し、黙って剣を振り上げた。
サグレス王子が背後にいる以上、怖くない、ということなんだと思うけど……。
これも、サグレス王子の命令?
でも、こんな卑劣で短絡的な手段を取るような人には、サグレス王子は見えなかった。
わたしは身構えた。初撃をかわして、そして剣さえ奪い取れば……なんとかなるかもしれない。
けれど、カルメロの剣は相変わらず鋭くて、わたしは最初の一撃を避けるだけで精一杯だった。
しかもフィルもいる。フィルをかばいながら、反撃するのは不可能だ。
わたしは二撃目の剣を避けようとして、転んでしまった。
「お姉ちゃん……!」
フィルの叫び声が聞こえる。
もうダメかもしれない。わたしはカルメロの振り下ろそうとする木剣を見て、ぎゅっと目をつぶる。
けれど、次の瞬間、何も起こらなかった。
おそるおそる目を開けると、そこには、長身の男性がわたしに背中を向けて立っていた。
その人は細長い木剣を構え、そして、カルメロと向き合っている。
どうやら、その人が、カルメロの剣を防いでくれたみたいだ。
そして、彼は、わたしたちがさっきまで会っていた人だった。
「ば、バシリオ先生!?」
バシリオ先生は、わたしたちを振り返ると、穏やかに微笑んだ。
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