VIII ある教師の秘密
書籍、本日発売です! 書籍版のみの書き下ろしがかなりあります!
「ようこそ。クレア・ロス・リアレスさん。それに弟のフィルくん」
目の前の教師は眠たげな目をこすりながら、穏やかな低い声で、そう言った。
バシリオ先生だ。
赤色の髪は、サグレス王子を思い出させる。けど、サグレス王子よりもずっとくすんだ色で、地味だった。
淡い青色の瞳も、アルフォンソ様のような輝きはない。
ひょろりと背が高くて、そこは大人だなあと思う。
それなりに美形なはずなのだけれど、全体的によれよれの服のせいで台無しだ。
教師になったのは二十代後半と遅くて、今は二十九歳のはずだけれど、もう少し年上に見える。
「眠っていらしたのですか?」
とわたしが尋ねると、バシリオ先生は「そう」とこくっとうなずいた。まだ授業が終わったばかりの夕方なのに……。
部屋に舞うホコリを、窓からの夕日が照らす。
ここは西校舎の三階の片隅にある、古代学講座の準備室だった。事実上、バシリオ先生の研究室といってもいい。
人間嫌いのバシリオ先生は、教師たち共通の仕事部屋にはめったに出向かないらしい。
そんなところに、わたしはフィルと二人で来ていた。
「こんなところに、生徒が来てくれるなんて珍しいね」
とバシリオ先生はかすかな微笑みを浮かべて言う。
まあ、たしかに、バシリオ先生は、人気はない。
冴えないし、授業は下手だし。
ただ……悪い人ではないのだと思うけれど。
フィルはきょろきょろと所在なさげに、わたしとバシリオ先生を見比べた。
そして、棚の奥の物を見て、ぱっと顔を輝かせる。
そこには、バシリオ先生の収集品の、古そうなものが並んでいた。
フィルは上目遣いにバシリオ先生を見る。先生はにっこりとして、「自由に見てご覧」と言った。
フィルは嬉しそうにうなずくと、棚を見て回った。
貴重なものが置かれていると思う。でも、わたしにはその価値がわからない。
神様の石像、みたいなものは、遺跡の出土品なのかなとわかる。
けれど、わたしがかがみ込んで見たところにあったのは、ただの木の棒のようなものだった。
たしかに加工されているようで、先端が曲がっているけど……なんだろう、これは?
「ええと、背中がかゆいときにかくやつ?」
わたしの言葉にフィルがくすっと笑う。
「お姉ちゃん、それは昔の人の斧だよ」
「斧? でも木だけだけど……」
「その先端に、石を縄で固定して、木に当てるんだ」
そうすると、木が斬れるらしい。斧の取手の部分だけが見つかって、こうして収蔵品になっていることはとても多いらしい。
とフィルに聞いて、へえ、とわたしは感心する。
「よく知ってるね」
とバシリオ先生もフィルを褒める。わたしがフィルに教えるどころか、フィルにわたしが教えてもらっている。
まあ、でもフィルも楽しそうだし、一緒に楽しめれば、まあ、いいか。
古い銀貨とか、凝った神像とか、そういうのは、わたしも見て楽しめる。
すべての遺物には、白いラベルのようなものが貼ってあった。
「どこで見つかったものか、という情報と組み合わさって、はじめて遺物は歴史を知る手がかりになるからね」
と、バシリオ先生はフィルに説明している。人見知りのはずのフィルは、珍しくすぐにバシリオ先生は慣れたようだった。先生の言葉に、こくこくとうなずいている。
二人は意外と性格的に相性がいいのかもしれない。
……フィルがバシリオ先生みたいになるのは、ちょっと困るけれど。
バシリオ・エル・アストゥリアスという先生は、ただただ考古学のことにしか関心がない変わり者だった。
バシリオ先生は、国王の弟フランシスコ殿下の長男だった。フランシスコ殿下は国王軍最高司令官で、とても有能な軍人なのだという。
バシリオ先生はそんなとても高い身分と権力のある父親を持ちながらも、この国の政治にも宮廷での社交にも背を向けて、ひたすら古い時代の研究に没頭している。
かつてのわたしには理解できない人だった。
前回の人生のわたしは、理想の王妃を目指していた。それが自分の幸せだと思っていたし、そして、国に貢献するのが、高貴な者の義務だと思っていた。
もちろん、それはとんでもない勘違いだったと今では思う。
でも、当時はそんな考え方をしていたし、そうすると、バシリオ先生のように、王族としての立場を捨てた存在には、反発もあった。
それに……バシリオ先生はいつも授業をちゃんと行わなかったし……。
だからこそ、わたしはバシリオ先生のことを軽蔑していた。
そして、バシリオ先生が研究ばかりしていることを、「そんなの何の意味があるんですか?」と言ってしまったのだ。
これが、前回の人生での、バシリオ先生と仲が良くなかった原因だった。
今は……バシリオ先生のおかげで、フィルは楽しい時間を過ごせている。
少なくとも、今のわたしはバシリオ先生のことを見下したりはしていない。
前回の人生のわたしは、愚かで傲慢だったな、と思う。
今のわたしと、バシリオ先生は立場は近いかもしれない。
わたしもバシリオ先生も、高い身分に執着なんてしていない。その代わり、別の大事なものがある。
バシリオ先生にとってはそれが考古学の研究で、わたしにとっては弟のフィルなのだ。 そんなことを考えながら、棚を見ていたら、そのなかの一つに目が止まる。
石と鉄が組み合わさったような……板だった。
赤い線が走っているのは、何かの顔料だろうか。
なんだろう、これ?
フィルに聞いてみるけど、フィルも不思議そうに首をひねった。
「ぼくも……わからないや」
バシリオ先生が笑いながら、こっちにやってきた。
「わからなくて当然だよ。僕たち学者もわかっちゃいないんだから」
「そうなんですか?」
「いちおう祭祀用……古い神様を祭る儀式に使われた、ということになっているけどね。ただ、考古学の世界で祭祀用というのは、つまり使い方がわからないから、そうだと決めつけていることがほとんどだから」
「ふうん」
「ただね、一つだけ手がかりがあって……この板には名前がある」
もったいぶって、バシリオ先生は微笑み、間を置いた。
そして、言う。
「これはね、ある地方で記録された伝承では……『夜の魔女の瞳』と呼ばれているんだよ」
わたしは大きく目を見開いた。フィルも固まっている。
こんなところで……「夜の魔女」という言葉を聞くなんて。
「よ、夜の魔女って……なんですか?」
わたしは動揺を押さえ、何も知らないフリをして尋ねてみる。
バシリオ先生は、そんなわたしたちの様子の変化に気づいていないのか、それとも単に無頓着なのか、あくまで穏やかな表情だった。
「トラキア共和国西北の辺境、ソレイユ地の伝承上の存在だよ。『夜の魔女来たりて、諸人の罪を背負う。災いは望まざるものにあらず。ただ天よりもたらされるもの』」
流れるように、歌うように、バシリオ先生が言う。
わたしが聞き返す前に、ちょっと恥ずかしそうにバシリオ先生は頬をかいた。
「今のが、ソレイユ地方につたわる古い伝承でね」
「どういう意味なんですか?」
「一種の救世主願望に分類されるね。夜の魔女、という超人的な存在が現れ、彼女がこの世の人々のすべての罪を背負い、浄化する。そうすることで、あらゆる人々が幸せになる理想郷がもたらされる、というわけだ」
「で、でも、魔女って……教会の異端のことですよね。神に逆らい、みんなを惑わし苦しめる存在なんでしょう?」
「今の教会はそういうね。ただ、もっと古い時代の宗教……神々の時代には、魔女、つまり魔法を使う巫女は、神の代理人、あるいは女神そのものとして崇拝されていたという記録も残っている。古代の神話が形を変えたもの、と考えれば、おかしな点はないさ」
「へえ……」
「魔女は、優れた魔法の使い手から、異端で邪悪な存在へと変わった。当時の人々は今とはまったく違った価値観を持っていたってことさ。そして、そういう異なる世界が存在する」
わたしとフィルは顔を見合わせた。
この伝承がどういう意味を持つのか、今はまだ、わからない。
ただ……魔女崇拝者のクロウリー伯爵は、「夜の魔女はこの国に救いと希望をもたらす」と言っていた。それはただの迷信ではなくて、ずっと昔の神話が根拠なのかもしれない。
わたしはおそるおそる尋ねる。
「その……伝承では、夜の魔女、はどうなるんですか?」
「この類型の説話は、たいてい同じ結末を迎えるね。つまり、罪を背負った救世主は、死ぬんだよ。みんなの苦悩を背負って、犠牲となるのさ」
とバシリオ先生は、なんでもなさそうに言う。
……それって。
つまり……。
わたしが破滅するのは、宿命だということになる。いや、もちろん、この伝承がわたしのことを言っているのかはわからないけど……。
王宮の預言には……伝承と同じことが書かれているんだろうか? 魔女崇拝者たちが、わたしを崇拝するのも……同じ理由なんだろうか?
フィルが「そんな……」とつぶやいて、ショックを受けていた。
大丈夫、と言ってあげたいけど……でも、どう考えればいいのか、わからなくなった。
バシリオ先生は言う。
「それで、この遺物、つまり『夜の魔女の瞳』は、夜の魔女を崇める祭祀に使われていたんじゃないか、なんて言われるけど、僕は別の考えを持っている。」
バシリオ先生は、大陸が統一されていた時代の機械の一部だったのではないか、というようなことを言っていた。
でも、わたしは……もう、上の空だった。
そんなとき、ぞくっと背中に寒気が走る。
また……視線を感じる。こないだも感じた……誰かがわたしを見つめているような視線だ。
でも、視線の主は見つからない。
ふっとバシリオ先生と目が合う。その淡い青色の瞳には、一瞬、鋭く光り、わたしを見つめた。
けれど、すぐにその瞳の輝きは消えてしまった。
二回目ですが、書籍、本日発売です! 書籍版のみの書き下ろしがかなりあります!







