第七話 嫁なんだから
植え込みの縁に、年寄りの男がしゃがんでいた。手の中で回しているたばこの箱に、火の気はない。
その横で腕を組んでいる女は、小柄で、よく日に焼けていた。背中だけが、やけにまっすぐだ。
「お義母さん、この人です」
睦が、女の袖をそっと引いた。
「泥棒猫」
末が、私を指さした。今度は、睦は娘の手を引かなかった。
「あんたが、遥さん」
女は、上から下まで私を眺めた。
「あの子の母です。八代喜久」
「ご用件は。私、これから用事があります」
「用事? あの子より大事な用事があるの」
喜久が、一歩前に出た。
「嫁なんだから、あの子を家に帰すのが先でしょう。示談にしなさい。夫婦喧嘩みたいなものなのに、裁判だなんて大げさな」
日に焼けた手が、私の手首に伸びてきた。半歩下がって、それを避ける。
「まず、あの人とは別れました」
「夫婦でもありません。そちらの家の嫁になった覚えも、ない」
「和解は、しません」
喜久の眉が寄った。
「孫を産んでほしかっただけよ。それを、警察だの裁判だの」
「法律なんて、妊娠すれば済む話でしょう。お腹に子がいれば、誰も文句は言わないの」
エントランスの自動ドアが開いて、住人らしい女性が出てきた。私たちを避けて、遠回りに歩いていく。
仲介の担当者に、内見の立ち会いは任せるとメッセージを送った。顔を上げる。
「立ち話もなんですから。近くに、行きつけのお店があります」
*
千鳥坂は、駅の裏の坂の途中にある。
格子戸を開けると、カウンターの奥で仁科さんが顔を上げた。大学の先輩で、この店の店長だ。
後ろの四人を見た仁科さんの目が、私に戻る。私は小さく首を横に振った。
仁科さんは、黙ってうなずいた。
「奥の個室、空いてますよ。どうぞ」
通された個室で、喜久はさっそく品書きを広げた。
「お刺身と、天ぷら。この、和牛のってのもいいわね。あなた、何にする」
肘でつつかれて、あの人の父親は首を振った。たばこの箱を、テーブルの端に置く。
仁科さんは、お品書きを置いたきり戻ってこなかった。誰も、注文を取りに来ない。
私はスマホを出して、家族LINEに打った。
『千鳥坂の奥の個室。八代の両親が来てる』
*
「……だからね、夫婦なんて喧嘩しても、寝て起きたら元どおりなのよ。わざわざ裁判所に持っていくことないの。ちょっと、聞いてるの?」
喜久は、ずっとしゃべっていた。私は手のひらを向けて、それを止めた。
「撤回って、告訴を取り下げろってことですよね」
「そう、そう。それよ」
喜久の顔が、ぱっと明るくなった。
「無理です」
三人が、そろって顔を上げた。
「公訴は、検察官が起こすもの。私が告訴を取り下げても、もう止まりません」
「でも、あの人は、何も……」
睦が、小さな声で言った。
「未遂でも、怪我をさせた時点で致傷です」
睦は口を閉じた。膝の上で、末の手を握り直している。
「あんた、そこまでして、あの子を潰したいの」
喜久の声が、歯の隙間から押し出されてきた。
個室の戸が、音を立てて開いた。
「だったら何だよ」
兄だった。その後ろに、父が立っている。
*
「奥さんと子どもを実家に置いて、こっちで女作ってたのかよ」
兄は戸口に立ったまま、喜久を見下ろした。
「仕事はうちの会社。住んでたのは、うちの妹の部屋。それで、まだ何が足りねえんだよ」
「妹に何したか分かってて、その口きいてんのかよ」
喜久が顔を赤くして、言い返した。
「何年も付き合ってたんでしょう。あの子の何年分を、どうしてくれるの。嫁になる人が逃げ出すほうが、よっぽどおかしいじゃないの」
「あなたという人は……」
父が、喜久を指さした。その指が震え、息が浅くなっている。
私は立って、父の背中をさすった。
「お父さん、座って。どうせ、あの人は刑務所に入るから」
その一言で、喜久の顔から表情が落ちた。
喜久は、椅子から畳へずり落ちた。そのまま、体を左右に揺する。
「返して。息子を返して」
「国立大まで出したのよ。あの子が刑務所だなんて、そんなことがあるもんですか」
「70の私が、これから誰に養ってもらうの。あんたのせいよ、あんたが」
畳を、平手で叩く。
「返せないなら、賠償して。あの子が稼ぐはずだったお金を、返して」
兄が一歩出る。私は腕を伸ばして、それを止めた。
睦を見ると、末を胸に抱えて、畳の一点を見ていた。
「あなたは、この人に孫を産ませた」
喜久に向き直る。
「生まれたのが女の子だったから、息子に別の女を探させた。お金のある女を。それが駄目になったら、今度は罪を人のせいにする」
「あの女が、男を産めなかっただけよ」
喜久が、畳から跳ね起きた。
「別れればいいの。別れて、あんたと一緒になれば、あの子にちょうどいいじゃない」
睦の肩が、震えていた。末が、母親の顔を見上げる。
あの人の父親が、たばこの箱から指を離して口を開く。喜久が一瞥すると、その口は閉じた。
「……あなたを見てると、吐きそう」
本当に、喉の奥が熱かった。
喜久の目が、見開かれた。
「吐きそう? ……できたの?」
身を乗り出してくる。
「だったら早く籍を入れて、あの子を出してやって。ねえ、そうしましょう」
兄が、短く息を吐いた。父は、口を開けたまま固まっていた。
「話になりません」
立ち上がった。兄と父も立つ。
背中に、喜久の声が飛んできた。
「この尻軽」
振り返った。
「尻軽でも、あなたほど汚くはない」
戸を開けると、廊下の先に仁科さんが立っていた。
「仁科さん、何も出てないよね。お会計はなしで。部屋、ありがとう」
「はい。またどうぞ、駒井さん」
背後の個室で、お品書きの閉じる音がした。
格子戸の外は、まだ明るかった。坂の下から、夕方の風が上がってくる。
公判は明日、10時。あの母親も、来る。




