第八話 被害者
法廷は、思っていたより明るかった。
正面の高い壇に、裁判官が三人。その両側に、裁判員が六人並んでいる。
私の席は、検察官の隣にある被害者参加人の席だった。左に、辰巳先生が座っている。
「話しにくくなったら、手を挙げて止めてください。私が引き取ります」
開廷の前、先生は小声でそう言った。
傍聴席には喜久と睦がいて、兄は一番後ろの列にいる。末は、廊下の長椅子で祖父と待っていると聞いた。
被告人席に、あの人が座った。
紺のスーツが、肩の線より少し大きい。鼻の形が、前と違っていた。
「被告人は、証言台の前に立ってください」
裁判長の声で、あの人が前に出る。
「名前は」
「八代侑征です」
起訴状が読み上げられても、私の名前はどこにも出てこない。その中の私は、ただ「被害者」と呼ばれていた。
「……被害者が就寝していた居室に、合鍵を用いて立ち入り」
起訴状の言葉が、あの夜を乾いた順番に並べ直していく。
「被告人には、黙秘権があります。言いたくないことは、言わなくてかまいません。言ったことは、有利にも不利にも証拠になります」
「はい」
「今読まれた事実に、違っているところはありますか」
「ありません」
あの人の声は、小さかった。
冒頭陳述が終わり、証拠調べに入った。
検察官が、一枚の書面を手に取る。
「次に、被告人の携帯電話から抽出された、被告人と母親とのLINEのやり取りについて、要旨を告げます」
背中のほうで、誰かが座り直す気配がした。
「事件当夜、母親は被告人に対し、被害者の住居について『別れるにしても、家を取ってからにしなさい』と送信しています」
「続けて、『傷物になれば、出ていけなくなる』」
裁判員の一人が、手元の資料から顔を上げた。
「さらに、『大きいお腹で帰ってくるしかないでしょう』。これに対し、被告人は『やってみる』と返信しています」
傍聴席から、咳払いが一つ聞こえた。
誰も、振り返らなかった。
被告人質問。あの人は、同じ言葉を何度も繰り返した。
「自分が送りました。間違いありません」
弁護人が立ち上がって、一つだけ尋ねた。
「今、被害者の方に対して、どう思っていますか」
「申し訳ないことをしたと、思っています」
あの人は、私のいるほうを一度も見なかった。
「お母さんに言われたから、やったのですか」
検察官が尋ねると、あの人は少し黙った。
「……自分で、やると決めました」
「被害者の部屋に入ったとき、何をするつもりでしたか」
「……調書に書いてあるとおりです」
被告人質問が終わり、裁判長がこちらを向いた。
「被害者参加人から、心情についての意見陳述の申出があります。どうぞ」
辰巳先生が、私の肘に軽く触れた。
立ち上がる。用意した紙には、三行しか書いていない。
「あの夜から、ドアの鍵の音で目が覚めるようになりました」
「被告人とその母親のLINEを読んで、自分が何のために狙われたのかを知りました」
「私は、誰かの家のための体ではありません」
座った。
膝の上で握りしめた手を、辰巳先生は見ないでいてくれた。
*
2日目に論告と弁論があり、最終日は、その翌週の水曜だった。
「被告人は、証言台の前に立ってください」
あの人が、証言台の前に立つ。
裁判長が、手元の紙に目を落とした。
「主文」
誰も、身じろぎしなかった。
「被告人を拘禁刑7年に処する」
「男児!」
背後で、喜久が叫んだ。
何かが床に倒れる、重い音。椅子の脚が鳴り、廷吏の足音が私の後ろを駆けていく。
「大丈夫ですか。聞こえますか」
「救急車を。担架、持ってきて」
私は、前を向いていた。
あの人も、振り返らなかった。証言台の縁を握った指だけが、白い。
「傍聴人の方は、係員の指示に従ってください。続けます」
裁判長は少し間を置いてから、判決の理由を読み始めた。
母親の送った文面からすれば、教唆として立件される可能性はある。それを決めるのは私ではないし、私から何かを求めるつもりもなかった。
閉廷のあと、辰巳先生が書類をまとめながら言った。
「損害賠償命令の申立ては、これから審理に入ります。判決が出たので、ここからです」
父からは、判決が確定したらすぐ処分できるよう人事に書類を揃えさせている、とLINEが来ていた。
*
廊下に出ると、傘立ての脇の長椅子に、あの人の父親と末が座っていた。
父と母は、先に駐車場へ向かっている。兄が、私の肩に手を置いた。
「弁護士さん」
振り向くと、睦が立っていた。目の周りが、赤く腫れている。
「少し、話せますか」
肩の上で、兄の手に力が入った。私はその手に、自分の手を重ねた。
「どうぞ」
「……そんなに、あの人が憎いの」
「三つの家を壊した人を、憎まない理由がない」
睦は唇を噛んだ。
「7年なんて……末が、中学生になっちゃう」
「知ってる」
「あの人がいないと、私たち、どうやって」
その先を、睦は言わなかった。
長椅子から、末が下りてきた。母親の脚の横に立って、私を見上げる。
「パパ、いつ帰ってくるの。どうしてパパを、帰してくれないの」
しゃがむ。目の高さが、あの夜と同じになる。
末を見ていると、睦を見ているようだった。会ったことのない、あの人の四人の姉を見ているようでもあった。
「パパが好き? それとも、パパが帰ればママが笑うから?」
末は答えなかった。小さな唇が、少し開いて閉じる。
「私とあなたのママは、おなじ被害者」
末の眉が、少し寄った。分からない、という顔だった。
「あなたはどうなるのか、私には分からない」
睦が、私の肩を突いた。
後ろに手をつく。兄が、背中を支えた。
睦は末を抱きしめて、髪に頬を押しつけていた。
「怖くない、怖くない。末、怖くないからね」
その腕の中から、末がこちらを見ていた。
目に、何もない。あの夜、私を睨んだ目とは違っていた。
私は何も言えなかった。兄の手を借りて立ち上がり、廊下を歩き出す。
*
判決は控訴されずに確定し、父の会社は、規定どおりあの人を懲戒解雇した。
レジデンス鉢森の部屋は、年明けに売れた。値段のことは、もう考えない。
判決が出てからしばらく、喜久からの電話が何度もかかってきた。番号を変え、時間を変えて。
「あの子を出してやって。あんたが頼めば、出してもらえるんでしょう」
許して一緒になってやってくれ、という電話もあった。最後のほうは、手切れ金の話になった。
かかってきた電話は、すべて録音して警察へ。冬の終わりには、それきり鳴らなくなった。
春先に、辰巳先生から事務所の廊下で呼び止められた。
「損害賠償命令、500万円で認められました。払われるかどうかは、また別の話ですが」
「はい。分かっています」
判決から半年が経って、私は弁護士2年目になった。辰巳先生の事務所で、離婚や婚姻費用の相談を受けることが増えている。
ときどき、睦と末のことを考える。睦は今も、籍を入れてくれるはずの人を待っているだろうか。
末という名前は、女の子はもうこれで終わりに、という願いで付けられたのかもしれない。誰がその字を選んだのかは、知らない。
あの子はいつか、自分の名前の意味を知るだろうか。そのとき、隣に誰がいるだろう。
日曜の昼だった。机の上の資料を閉じかけたところで、部屋のドアが開いた。
「終わったか? 日曜だぞ、飯」
兄が、ドアの隙間から顔を出していた。
「今行く」




