第五話 順番がある
警察署の廊下は、朝になっても夜と同じ明るさだった。
机の上に、診断書が二枚並んでいる。
「八代さんは鼻骨骨折で、全治4週間。駒井さんは全治10日。ここ、間違いありませんか」
刑事の堀内さんが、ボールペンの先で数字を示した。40代くらいの、声の低い人だ。
「ありません」
「廊下の防犯カメラの映像も、管理会社さんから提出してもらいました。それから、お兄さんのほうですが」
隣で、兄の背筋が伸びた。
「現時点では、正当防衛と、現行犯逮捕として扱っています。立件の予定はありません」
兄が、長く息を吐いた。
「よかった……。俺、てっきり手錠かと」
「ただ、今後も何度かお話を伺うことになると思います。駒井さんも」
「はい。何度でも」
包帯の上に、新しいガーゼが増えていた。背中は、息を吸うたびに軋む。
*
兄の車で、実家に向かった。
玄関を開けた母が、私たちの顔を見て目を丸くした。
「あら、どうしたの、二人そろって。こんな朝早くに」
「お母さん。あとで話す。寝てから、話すから」
そう言ったら、目の縁が熱くなった。
「寝てからって、遥ちゃん……」
母の後ろから、父が顔を出す。兄が先に靴を脱いで、両親の背中を押した。
「遥は先に寝かせて。父さん、母さん、ちょっと書斎来て」
自分の部屋のベッドに倒れ込むと、高校のころのカーテンの匂いがした。
目が覚めたのは、午後3時。
台所に下りると、三人がそろっていて、食卓が皿で埋まっている。十数品はありそうだった。
「……これ、食べきれるの?」
「二人とも帰ってきたんだもの。作りすぎちゃった」
母は笑って、私の椅子を引いた。その目の縁が、赤かった。
「温かいうちに食べなさい。話は、話せるところだけでいいから」
父は背筋を伸ばして、食卓の端に座っていた。
「座りなさい。冷めるぞ」
唐揚げを二つ口に入れたところで、父が箸を置いた。
「あいつのことだが」
母が、父を睨んだ。私も箸を置いた。
「お父さん。私、このままにはしないから」
母の手が、テーブルの下で私の膝に乗る。
「結婚してる人が私と付き合ってたのは、ただ気持ち悪いだけ。寝てるところを襲ってきたのは、別。そっちは、代償を払ってもらう」
「そうだ」
父がテーブルを叩いた。皿が鳴った。
「辰巳に頼んだ。10年はぶち込んでもらう」
辰巳先生は父の高校の同級生で、会社の顧問弁護士だ。私の勤め先のボスでもある。
「人事にも、もう言った。明日付けで辞めさせる」
「待って」
麦茶を一口飲んだ。
「有罪が確定してから。まずは起訴休職。今切ったら、解雇無効で訴える口実をあげるだけ」
父の顔が、赤から別の赤になった。
「待てと言うのか。あいつを、まだうちの社員にしておけと」
「お父さんの会社が訴えられる理由を、あの人にあげないで。順番がある」
「順番……」
「法律は守る。お父さんの娘は、弁護士よ」
父は唸った。母が、その袖を引く。
「あなた。遥ちゃんが話してるでしょう」
父は腕を組み、ほどき、また組んだ。
「……分かった。人事には、待てと言っておく」
兄がだし巻きを口に放り込んで、私に親指を立てた。
*
3日後、堀内さんから電話があった。被害者調書の補充をお願いしたい、という。
私は、ひとりで警察署へ向かった。
狭い取調室で、堀内さんは書類を机に揃えた。
「八代さんの供述が、ひととおり取れました。駒井さんにお伝えしておくべき部分があります」
「はい」
「本人の言葉のまま、読みます。いいですか」
「お願いします」
紙をめくる音がした。
「一度寝てしまえば、別れるとは言えなくなると思った」
格子の入った窓の向こうで、街路樹が揺れていた。
「それから、こうも言っています。『男の子ができれば、母が喜ぶ』」
「……はい」
「本人は、全面的に認めています。それと、確認していただきたいものがあります」
「分かりました」
それ以外に、言えることがなかった。
*
堀内さんは、クリアファイルから紙を数枚出した。印刷された、LINEの画面だった。
「八代さんの携帯にあったものです。駒井さんに関わる部分だけ、確認をお願いします。コピーはお渡しできません」
一枚目が、机に置かれた。
左側の吹き出しの上に、「母」とある。時刻は、私が書斎で布団に入ったころだった。
『男児、なんで知られたの? あんたが言ったの?』
『言ってない。睦がいきなり来たんだよ』
右側が、あの人だ。
『母さんをこっそり何日か泊めるつもりだっただけなのに。ここの住所、睦に教えたの母さんだろ』
『教えて何が悪いの。妻が夫の住んでるところを知らなくてどうするの』
『遥が、別れるって』
怒った顔のスタンプが、三つ並んでいた。
『別れるにしても、家を取ってからにしなさい。あんたも住んでた部屋なんだから』
『向こうの兄貴まで来てる。無理だよ』
『だったら今夜のうちに、やることをやりなさい』
指を止めて、もう一度読んだ。
自分の指で、次の一枚をめくる。
『傷物になれば、出ていけなくなる』
『大きいお腹で帰ってくるしかないでしょう。男の子なら、なおいい』
紙から、指を離した。
指先に、紙の端の感触が残っている。
一分ほど、壁を見ていた。
最後の一枚をめくり、全部をそろえて、堀内さんに返した。
*
実家に戻って、居間で三人に話した。原文は、読み上げなかった。
「家を取ってから。傷物。お腹。……あの人のお母さんが、そう送ってた」
「は? なんだよそれ。ふざけんなよ」
兄が、椅子を鳴らして立ち上がった。父の声が、家じゅうに響いた。
「解雇だ。今すぐ解雇だ。訴えてやる」
母は、口元を押さえていた。
「落ち着いて」
三人を順に見た。
「順番がある。お父さん、この前約束したでしょう」
「いや、これは……」
「分かってる。私も今日、読んだから」
父は何か言いかけて、拳を自分の太ももに下ろした。兄は壁に背中をつけて、天井を睨んでいた。
その夜、自分の部屋の明かりを消す。
目を閉じると、警察署の机が戻ってくる。
最後の一枚。右側の吹き出しが、一つだけ残っていた。
『やってみる』




