第四話 そこまで
眠れなかった。
書斎の天井を見ていても、目の裏にあの子の目が浮かんでくる。
リビングから、兄のいびきが聞こえていた。ドア一枚隔てただけの、聞き慣れた音。
午前1時を過ぎて、不動産仲介のサイトを開いた。売却相談のフォームに、部屋番号と名前を打ち込む。
『できるだけ早く売りたいです。内見は、立ち会えます』
送信すると、すぐに自動返信が届いた。担当者から連絡します、という定型の文を読んでいるうちに、文字がにじんだ。
朝いちばんで来てくれる鍵屋にも、依頼のメールを送った。9時に来るという返事だった。
あと8時間。スマホを枕元に伏せて、目を閉じた。
浅い眠り。何度か、夢の底を蹴って浮きかけた。
布団の端が、沈んだ。
目を開けなかった。
暗い書斎に、私のものではない呼吸がある。
指が髪に触れて、一房すくって離す。そこにいるのが私かどうか、確かめる手つきだった。
かちり、と小さな音がした。
書斎の鍵が、内側からかけられた音だ。
床がかすかに軋む。膝をそろえて座る気配。
兄なら、忍び足はしない。
用があるなら、ドアの外から私を呼ぶ。鍵をかける理由もない。
この時間に、この部屋まで入ってこられる人間は、もう一人しかいない。
合鍵。
息を細くした。さっきまでの寝息の長さに合わせる。
壁を向いて横になっていた肩に、手がかかった。体が、仰向けに返される。
目を閉じたまま、天井のほうを向く。
手のひらが、顔に乗った。
頬、腕、腹、寝間着のボタンに手がかかった。
足を振り上げた。
踵が、硬いものにめり込んだ。
「痛っ」
あの人の声だった。
*
相手がのけぞる。その腕を両手で抱え込み、口を開けた。
歯を立てる。
あなたの娘に噛まれた借りだ。
顎を閉じたまま、空いた手で本棚を探った。指に触れたものを、片っ端から床へ落とす。
背表紙の褪せた文庫が、何冊もばらばらと床に散る。ペン立ての割れる音がした。
「遥? おい、遥!」
ドアの外で兄の声がして、ノブが鳴る。開かない。
「んっ……んんっ」
声にならない声で、返事をした。顎は緩めなかった。
口の中に、鉄の味が広がる。
頭皮に、焼けるような痛み。髪を掴まれている。
続けて、背中に重い衝撃が来た。拳だ。
息が止まる。それでも、顎は開けなかった。
空いた手で、相手の顔を探る。目のあたりへ、指を突き出した。
あの人がうめいて、体をよじった。手足が、めちゃくちゃに私を打つ。
痛みが、どこか遠い。
這った。ドアのほうへ。
腕に食らいついたまま、片手で鍵のつまみを探り当てて、回した。
ドアが、外から開いた。
兄が、そこに立っている。
*
兄の拳が、あの人の顔に入った。
私はようやく口を離して、壁際まで下がった。肩で息をしながら、手の甲で口元を拭う。
血がついていた。私のものではなかった。
「兄ちゃん、この人、寝てる私に——」
言い終わる前に、兄の二発目が入った。
骨の折れる音が、はっきりと聞こえた。
あの人が床に崩れる。両腕で頭を抱えて、兄を見上げた。
「もう殴らないでくれ」
兄の拳が、また上がる。
「兄ちゃん」
立ち上がって、その腕を掴んだ。
「そこまで。これ以上は過剰防衛」
兄の肩が、大きく上下していた。拳を握ったまま私を見て、それからゆっくりと腕を下ろす。
「……大学行った甲斐あったな」
「知識は力よ」
兄が鼻で笑い、私も少しだけ笑った。笑うと、背中が軋んだ。
「こいつ、どうする」
「逃げないように押さえてて。それ以上は何もしないで」
「分かってるよ」
兄はあの人をうつ伏せにして、背中に膝をのせた。あの人は、もう抵抗しなかった。
「お前、背中やられたろ。見せろ」
「あとで。今は、いい」
「口、血だらけだぞ」
「私のじゃない」
兄は何か言いかけて、やめた。
*
「110番して」
兄が片手でスマホを出そうとする。
「いい。私がする」
震える指で、三つの数字を押した。
「はい、110番です。事件ですか、事故ですか」
「事件です。元交際相手が、合鍵で自宅に入ってきました。寝ているところを、襲われました」
自分の声が、他人のもののように落ち着いていた。
「今、兄が押さえています。相手は顔を怪我しています。救急車もお願いします」
「あなたにお怪我は」
「腕と、背中を。歩けます」
「相手の方のお名前は、分かりますか」
「八代侑征。26歳です」
「刃物などは持っていますか」
「持っていません。今は、床に伏せています」
「すぐに向かいます。電話は切らずに、そのままでいてください」
住所と部屋番号を言う。残りの質問にも、一つずつ答えた。
床の上で、あの人がうめいている。兄はその背中を押さえたまま、黙って見下ろしていた。
足元には、落ちた本が散らばったままだった。
遠くで、サイレンが聞こえ始める。
ほどなく、インターホンが鳴った。
兄の代わりに玄関へ出ると、制服の警察官が二人立っていた。一人が私の腕の包帯を見て、もう一人が奥の書斎を覗く。
「通報された駒井さんですね。相手の方は」
「奥です。兄が押さえています」
警察官が書斎へ入っていく。私は耳に当てたままだったスマホを、ようやく下ろした。
廊下の先で、兄が立ち上がってこちらを見た。
「あとは、法律に裁いてもらう」




