第三話 私の家
兄の車は、夜の幹線道路を流れていた。
信号で止まるたび、ワイパーの根元に溜まった枯れ葉が小さく揺れる。
「で、あいつの実家って、どこだよ」
「舟伏町。山のほう。電車とバスを乗り継いで、半日かかるって言ってた」
「聞いたことねえな」
「あの人、町から十数年ぶりに国立大に受かったんだって。浪人して、東央大学」
「東央かよ。頭はいいんだな、頭は」
兄は鼻を鳴らして、ハンドルを指で叩いた。
「家族は」
「お父さんと、お母さん。お姉さんが4人いて、あの人が一番下」
「姉が4人で、末っ子が長男」
「家のことは、お母さんが全部決めるみたい。お父さんは、あんまりしゃべらないって」
「田舎の長男ってやつか」
私は答えなかった。窓の外を、コンビニの明かりが一つ流れていく。
「お前ら、どこで知り合ったんだっけ」
「3年の夏。インターンの説明会で、隣の席だった」
「実家のこと、そのころから聞いてたのか」
「ほとんど話さなかった。何度も聞いて、やっと少し」
「父さんたち、最初は反対してたよな」
「だから会社に入っても、一番下からだった。主任になったのは、あの人が自分でやったことだから」
「入社2年で主任な。俺はそれで、まあいいかと思ってたんだよ」
ウインカーの音が、車内に鳴った。
「名前変えたのも、知らなかったんだろ。前は何て名前だよ」
「だんじ。男の児童の、児で」
兄は何か言いかけて、口を閉じた。
次の交差点まで、どちらもしゃべらなかった。
*
マンションに着いたのは、病院を出て20分後だった。
鍵を回して、ドアを引く。
10センチほど開いたところで、急に重くなった。内側で、誰かがノブを引いている。
「……どなたですか」
眠そうな女の声。隙間から、目がのぞいた。
あの女の人だ。
私と目が合った途端、ドアが閉まりかけた。
ノブを両手で引き戻す。その隙間に兄が手を差し入れ、肩を入れて一気に開けた。
「誰だ、あんた」
兄は190センチの高さから、彼女を見下ろした。
「ここは妹の家だ。なんであんたが寝てる」
女の人は口を開けたまま後ずさり、廊下の奥へ走っていった。
リビングの明かりをつける。
片づいていた。出かける前より、片づいているくらいだった。
テーブルの上に、うちのグラスが二つ、洗って伏せてある。
「グラスまで出してんのかよ」
玄関脇の棚から、来客用のスリッパが二足とも消えていた。さっきの二人が履いている。
洗面所を覗いた。コップに、見覚えのない歯ブラシが二本立っていた。
「……歯まで磨いてる」
主寝室のドアは、開いたままだった。
女の人が、ベッドの脇で立ちすくんでいる。
ベッドの上で、あの人が半身を起こしていた。目をしょぼつかせて、何が起きているのか分からない顔をしている。
その隣のシーツが、人の形にくぼんでいた。
このベッドは、捨てる。
「は、遥? なんで……戻ってきたんだ」
「ここが私の家だから」
私は、あの人を指さした。
「私の家よ。三人で出ていって」
「おい、なにすんだよ」
リビングのほうで、兄の声がした。
客間——あの人の部屋から女の子が飛び出してきて、兄が片腕を広げてその前に立っている。女の子は兄の脇をすり抜けようとして、何度も押し戻された。
「あいつの部屋で寝かせてたのか、この子」
「客間はあの人の部屋。主寝室は、私の」
兄が、短く笑った。笑った顔ではなかった。
「部屋割りまで決めてあったってわけかよ」
「俺の妹を病院に行かせといて、自分はぐっすりかよ」
兄が主寝室を振り返った。あの人は、ベッドの上でうつむいていた。
*
私は、女の子の前に立った。
「さっき噛んだ分の治療費は、保護者に請求する。あなたのお母さんにね」
女の子の顔が、くしゃりと歪んだ。
「だれ。どいてよ」
女の子は、私ではなく兄を見上げて叫んだ。
「どかねえよ。俺は、こいつの兄ちゃんだ。きみこそ、ここが誰の家か分かってんのかよ」
「泥棒猫」
女の子は、兄の腕の下から私を指さした。
「泥棒猫。パパはママのもの」
母親が追いついて、娘の腕を引いた。女の子は振りほどきもせず、もっと大きな声を出した。
「パパとママが、ほんとの家族なんだから」
しゃがんで、女の子と目の高さを合わせた。
両肩に手を置く。細い肩から、逃げようとする力が手のひらに伝わってくる。
「あなたのお父さんは嘘つき。私は、騙されたほう」
女の子の目が、大きくなった。
「お母さんは、ずっと待たされる」
肩の下で、小さな体がこわばる。
「私は、あなたが可哀想」
その先は、言わなかった。
手を離す。
女の子は弾かれたように母親の脚にしがみつき、振り返って私を見た。
分からないのか、怯えているのか。両方なのかもしれない。
あの目を、忘れられない。
*
クローゼットから、あの人のスーツとシャツを抱えて出た。玄関の外の廊下に、まとめて置いていく。
「遥、頼む。頼むから、落ち着いて話そう」
あの人は兄に行く手を塞がれたまま、私の背中に言った。
「落ち着いてる」
振り返った。
「家族のことも、お母さんのことも、もう出さないで。私には関係ない」
「違うんだ。俺は、言い訳がしたいんじゃなくて」
「じゃあ、奥さんと娘さんがいて、私と付き合ってた。それだけね」
洗面所から持ってきたあの人の歯ブラシを、両手で折った。プラスチックが、白く裂けた。
「もういい。顔も見たくない」
兄が、あの人の襟首を掴んだ。そのまま玄関まで引きずって、外へ押し出す。
「男児さん、大丈夫……?」
女の人が、靴を履きかけのまま追いかけていく。
「ママ」
女の子が泣きながら、その後ろに続いた。
ドアを閉めて、鍵をかける。
背中をドアにつけたら、膝から力が抜けた。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと、座りたいだけ」
外で言い合う声がして、ドアが何度か叩かれ、一度蹴られた。私も内側から、一度だけ蹴り返した。
それきり、音が止んだ。
しばらくしてドアスコープを覗くと、廊下には誰もいなかった。服の山も、消えている。
日付は、もう変わっていた。
「寝るか。俺、ここにいるから」
兄の大きな手が、頭の上に乗った。
「もう帰っていいよ。遅いし」
「何言ってんだよ。兄ちゃんだぞ」
手のひらが、今度は乱暴に髪をかき回した。
主寝室に入ろうとして、ドアの前で足が止まる。
くぼんだシーツを思い出すと、喉の奥に酸っぱいものがせり上がってきた。客間も、同じだった。
「兄ちゃん、ソファでもいい?」
「どこでも寝られる。お前は」
「書斎で寝る。あそこなら、平気」
来客用の布団をソファに運んで、私は書斎の床に、もう一組を敷いた。
スマホが震える。あの人からのLINEだった。
『本当に、話を聞いてもらえないのか』
指が、勝手に動いた。
『別れた。明日、鍵を替える。来たら住居侵入で告訴する』
送信して、ブロックした。トークは、消さなかった。
合鍵は、あの人が持ったままだ。明日の朝いちばんに、鍵屋を呼ぶ。
書斎のドアを閉める。
兄がいるから、鍵はかけなかった。




