第二話 迎えに来た兄
左の前腕に、歯が食い込んだ。
体ごとぶつかってきた勢いで、背中が壁に当たる。声も出ないまま、袖の下に熱いものが広がっていく。
女の子は離れない。噛みついたまま、下から私を見上げていた。
髪を掴んで、引き剥がした。肩を押しのける。
小さな体がよろけて、ソファの脚のそばに尻もちをついた。
「末!」
母親が飛びついて、娘を抱きかかえた。
見ると、セーターの袖に丸く血がにじんでいた。指先が、勝手に細かく震えている。
「この子、まだ子どもなのに……」
女の人は娘を抱いたまま床に膝をつき、泣き声になった。
「気が済まないなら、私を叩けばいいでしょう。この子じゃなくて、私を……」
「遥、なにやってんだよ。女の子だぞ」
侑征が女の人の背中に手を添えて、私を見た。
「平手打ちしたとき、女の子だと思わなかった?」
侑征の口が、開いたまま止まった。
袖をまくる。
歯の形が、そのまま赤く並んでいた。皮膚の一か所が破れて、血が細く垂れている。
「見て。子どもには悪意がないって?」
女の人が、何か言いかけた。
「悪意がないなら、教えた大人がいる」
彼女は口を閉じた。娘の背中をさする手だけが動いている。
腕の中の末が、母親の肩越しに私を見ていた。
ソファの上のバッグから、財布とスマホだけ引き抜いた。
「どこ行くんだよ」
侑征が私の腕を掴む。噛まれていないほうの腕だった。
「病院。狂犬病じゃなくて、破傷風」
振りほどいた。
「侑征。いきなり人の生活を引っかき回したのは、そっちでしょう。私に当たらないで」
玄関のドアを開ける。
侑征は、追ってこなかった。
ドアが閉まりきる前に、彼の怒鳴り声が聞こえた。続いて、乾いた音が二度。
「パパ、おこらないで。パパ、おこらないで……」
細い声が、ドアの隙間から漏れてくる。
私はドアを叩きつけるように閉めた。
エレベーターの中で、1階のボタンを押す指が二度外れた。
スマホを開く。いちばん上にピン留めした番号を見て、少し迷ってから、押した。
呼び出し音が、二回で切れた。
「……なんだよ、こんな時間に。暇かよ」
寝起きの、不機嫌な声だった。
「兄ちゃん」
喉が詰まった。
「兄ちゃん、助けて」
*
救急外来の待合は、蛍光灯が白すぎた。
壁の番号表示板が小さく鳴って、数字をひとつ進める。私の番は、まだ先だった。
診察室で傷を洗われ、薬を塗られ、ガーゼを当てられる。若い医師が、包帯を巻きながら言った。
「人に噛まれた傷って、犬より厄介なんですよ。腫れてきたり熱が出たりしたら、すぐ来てください」
「はい」
「破傷風のほうも、念のため打っておきますね」
待合に戻ると、背の高い男が腕を組んで立っていた。
駒井壮輔。私の兄だ。
190センチの体にパーカーを引っかけて、下は高校のときのジャージ。パーソナルトレーナーという仕事のせいで、肩のあたりだけが待合の中で浮いている。
「着替えもせずに来たんだぞ、こっちは」
第一声が、それだった。
「電話で泣きそうな声出すから、何事かと思えば。振られて噛まれたのかよ」
「……」
「お前、口だけは強いだろ。噛まれたなら噛み返せよ。外では妹って言うな、恥ずかしい」
言い返そうとして、包帯の腕が目に入った。
鼻の奥が、つんと痛んだ。
「兄ちゃん、ここ、すごい痛い」
声が崩れた。一度崩れると、止まらなかった。
「あー、もう。分かった、分かったって」
兄がしゃがんで、パーカーの袖で私の顔をごしごし拭いた。
「男一人のことで泣くなよ。……いや、泣いていい。泣いていいから」
包帯の腕を、兄の目の前に突き出した。
「はいはい。あいつが最低で、お前が気の毒。これでいいか」
鼻をすすって、うなずいた。
「……前から、ちょっと変だなって思ったことはあったの」
兄の眉が、跳ね上がった。
「大学の告白アカウント、覚えてる? 匿名で、好きな人に告白を投稿するやつ。卒業してからも、なんとなくフォローしてて」
「ああ、あったな。そういうの」
「そこに、侑征の名前を出して告白してる後輩がいたの。返信を辿ったら、侑征はその子に『今フリーだから』って返してた」
「はあ?」
「問い詰めたら、何日も謝られた。ご飯に連れていかれて、プレゼントももらって。それで、終わりにした」
兄の顎に、力が入るのが見えた。
「で、お前はそれで許したのかよ。あいつ、最初からそういう——」
「すみません。病院ですので」
通りかかった看護師が、低い声で言った。
兄は、すぐに頭を下げた。
「すみません。妹を叱ってるんです」
それで、笑ってしまった。笑ったらまた涙が出て、兄の膝を軽く二回蹴る。
「なんだよ。そんな痛いのか」
兄は私の頭に手をのせて、ため息をついた。
「にしても、男が女に噛みつくかよ。最低だろ」
「……侑征じゃない」
うつむいたまま、言った。
「噛んだのは、娘」
「娘!?」
待合じゅうの頭が、こちらを向いた。
「病院です」
さっきの看護師が、今度は振り返りもせずに言った。
兄は自分の口を手で押さえ、私の腕を引いて、自動ドアの外まで出た。
*
夜間出入口の前で、兄はようやく声を戻した。
「娘って何だよ。あいつの子か? いくつだ? ……まさか、お前の子じゃないよな? いつから知ってたんだよ?」
「落ち着いて。私が産むわけないでしょう。侑征の、地元の奥さんの子」
「奥さん? 結婚してたのかよ。それ、重婚ってやつじゃ」
「私たち、入籍はしてない」
「いや、そういう問題か? いつ結婚したんだよ。俺、何も聞いてねえぞ」
「私も、今夜知った」
駐車場から吹いてくる風が、包帯の上を抜けていく。
「その人たち、まだうちにいるの」
「は?」
「どうするか、まだ決めてない。でも、このままにはしない」
兄は、しばらく私を見ていた。
それから、車のキーを指に引っかけて回した。
「父さんたちには言うな、とか言うんだろ」
「……言わないで」
「言うかよ。もう寝てる時間だ。明日の朝のセッションは、二本ともキャンセルした」
「ごめん」
「謝るとこじゃねえよ」
兄は駐車場のほうへ歩き出し、途中で振り返った。
「で、その三人は今、お前の家にいるんだな」
「うん」
「とりあえず帰るぞ」




