第一話 知らない名前
エレベーターを降りると、内廊下の突き当たりに人が座っていた。
レジデンス鉢森の、うちの玄関の前だ。腕時計は、夜の9時を少し過ぎていた。
女の人と、小さな女の子。二人とも絨毯の上に直に腰を下ろして、膝を抱えている。
私たちの足音に気づいて、女の人が慌てて立ち上がった。継ぎの当たったカーディガンの裾を、両手で何度もこする。
女の子は、5歳くらいだろうか。母親の脚の陰から、顔を半分だけ出してこちらをうかがっていた。
「……どういうこと?」
私は、隣を歩いていた侑征を振り返った。
「侑征。この人たち、誰」
「し、知らない」
声が裏返っていた。侑征は女の人と私を交互に見て、もう一度首を振る。
「いや、待って。知らないっていうか……親戚。遠い親戚だよ、実家のほうの。ほとんど会ったこともない」
「遥、ほんとに。俺の顔見れば分かるだろ」
それなりに筋は通っていた。女の人が、口を開くまでは。
「男児さん」
細い声だった。
「私、会いに来たんです。この子が、ずっと会いたがってて」
だんじ。
聞いたことのない名前が、侑征の顔の上で止まった。口の端が、ひくりと引きつる。
「……昔の名前だよ。大学に入ってから、家裁で変えた。言ってなかっただけで」
4年付き合って、一度も聞いたことがない。
「パパ」
女の子が言った。
乾いた音が、廊下に響いた。
侑征の手のひらが、女の子の頬を打っていた。
一拍遅れて、泣き声が上がる。女の人がしゃがみ込んで娘を抱え、涙の溜まった目で侑征を見上げた。
「なにするの、男児さん……」
責める言葉なのに、語尾が甘く溶けていた。
侑征の右手が、また上がった。
その手首を、私は掴んだ。
「子どもを叩いて、どうするの」
奥歯を噛んで、口の端だけ持ち上げる。
「中で話しましょう。ここは廊下だから」
女の子の前に屈んで、赤くなった頬のほうへ手を伸ばしかけた。
母親が、さっと娘を引き寄せる。女の子は母親の胸に顔を半分埋めたまま、私を睨んだ。
叩いたのは、私じゃない。
立ち上がって鍵を出し、先に玄関へ入った。
背後で、侑征が声を押し殺している。
「なんで来たんだよ。いきなり、ここに……誰に聞いた」
「入らないの?」
振り向くと、侑征は慌てて靴を脱いだ。その後ろから、二人が小さく頭を下げて入ってくる。
*
コートだけ脱いで、リビングのソファを手で示した。
「座って。用件は早めにお願い」
女の人は侑征の顔をうかがってから、ソファの端に浅く腰かけた。膝の上で、両手がジーンズの生地を往復している。
「もう9時過ぎだし。近くに泊まってるの? ホテルなら、あとで送るけど」
「ホテルは、取ってなくて……」
女の人は、少しだけ顔を上げた。
「ここに、泊めてもらうつもりで」
「ここ、パパのおうちでしょ」
女の子が胸を張った。母親がすぐにその腕を引く。
私は、立ったままの侑征を見た。喉仏が上下する。
「その、行くところがないなら、今夜だけでも……」
「そういう話はしてない」
遮った。
「『パパ』って、誰のこと」
「……」
「あなたのこと?」
侑征は黙った。
否定しない。
腹の底で、何かが煮え立った。先に口を開いたのは、女の人のほうだった。
「私、この人の妻です」
「婚姻届は」
「今は、持ってなくて。でも、写真なら……」
彼女はスマホを取り出しかけた。
「見せなくていい」
画面を点ける前に、彼女は手を止めた。代わりに、私の顔をじっと見る。
「あなた、男児さんの彼女さんですよね」
私が何か言う前に、彼女は続けた。
「いいんです。男児さんが、あなたのことを本当に好きなら……一緒に暮らしても、私は構いません」
「……一緒に暮らすって、何」
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「妾? 一夫多妻? 明治じゃないんだから」
女の人は、何を言われたのか分からないという顔で瞬きをした。
「遥、落ち着けって。この人は、その……」
侑征が私の肩を押して、寝室のほうへ向けようとする。
「明日ちゃんと話すから。明日、指輪を受け取りに行く約束だろ。だから今夜は——」
その手を払った。押し返すと、侑征は二歩よろけた。
「なんで今じゃないの。明日まで生きてられない理由でもある?」
侑征の顔から、色が引いていく。
「いつ結婚したの」
「……」
「4年よ。大学から、就職して、今日まで。その間の、いつ?」
返事の代わりに、侑征の呼吸が荒くなった。
「だって、母さんが……」
床を見たまま、彼は言った。
「孫の顔が見たいって。俺ひとりで決めたわけじゃなくて」
「お母さんは私を育ててない」
声が、勝手に大きくなった。
「あなたのお母さんの都合で、私は4年も騙されてたの? それで平気な顔して、今日も一緒に帰ってきたの?」
侑征は、もう顔を上げなかった。
*
女の人が立ち上がった。何か言おうとして、言葉を探している。
私は玄関を指さした。
「話はもう分かった。出ていって。三人とも、今すぐ」
「遥、待ってくれ。今夜だけでいいから」
「今すぐ、って言った」
視界の端で、小さな影が動いた。
女の子が、母親の手を振りほどいていた。
叩かれた頬が、まだ赤い。その目が、真っすぐこちらを向いている。
侑征ではなく、私に。
「……パパに、いじわる言わないで」
声は震えていなかった。
小さな体が、床を蹴った。




