第6話:兄レオナルドとの密談
兄レオナルドが定例の政務報告で竜の国を訪れた。
摂政として、あるいは帝国と竜の国を繋ぐ宰相の一人として、兄は月に一度はここに来ていた。表向きは統治状況の共有と予算の調整。それは本当のことだったが、その夜の執務室には、兄と私の二人だけが残っていた。
人払いは、私がした。
別に隠すことではない。兄妹が二人で話したいというだけのことだ。ただ、これから話す内容が、ヒカルの耳に入る前に整理しておく必要があった——それだけのことだった。
「待たせたな」
「いいえ」
兄は向かいの椅子に座り、しばらく私を見た。
「後宮での生活は、どうだ?」
「問題ありませんわ」
「……竜姫たちに、虐められていないか?」
私は少し間を置いた。
「虐められる暇もないほど、忙しくしています」
兄がわずかに表情を緩めた。それから、すぐに引き締めた。
「本題に入ろう」
「はい」
兄は机の上に地図を広げた。大陸全図。竜の国と帝国の国境線が、新たな色で引き直されている。
「今は良好だ。ヒカル殿の人望と、竜姫たちの力によって、表向きは平和が保たれている。だが——」
「百年後は、分からない」
私が続けた。兄は頷いた。
「人間は憎悪を忘れる。あるいは、新たな憎悪を生む。ヒカル殿という特異点が失われた後、この均衡がどこまで持つか」
それが、私たちが共有していた最大の懸念だった。
カインは滅んだ。だが、カインを生んだ土壌——人間の恐怖と、異種族への本能的な敵意——は、消えていない。世代が変われば、また別のカインが現れる可能性がある。
「感情と信頼だけでは、百年は持たない」
私は静かに言った。
「必要なのは、感情に関わらず機能する仕組みです」
私は懐から、折りたたんだ草稿を取り出した。
兄の前に広げる。数字と条文の羅列。一見すると無味乾燥な行政文書だが、その中に私が数ヶ月かけて設計した構想の骨格が詰まっていた。
「竜の国と帝国が、完全に依存し合う経済・軍事条約の草案です」
兄は紙面に目を落とした。
「依存、か」
「はい。愛や信頼ではなく、『手放せない利』によって両国を縛る。竜の国は帝国の生産力と行政技術を必要とし、帝国は竜の国の軍事力と魔力資源を必要とする。どちらが欠けても立ち行かない状態を、制度として固定する」
兄は草稿をめくりながら、低い声で言った。
「……これは、不可逆だな」
「意図的にそう設計しました。一度締結すれば、どちらの側も離脱するコストが莫大になる。憎悪が生まれても、経済的な打撃を恐れて戦争を選べない——そういう構造です」
兄がゆっくりと顔を上げた。
「ヒカル殿は、これを知っているのか」
「まだです」
沈黙。
「……いつ話すつもりだ」
「全員の合意を取り付けてから」
兄の眉が上がった。
「全員、とは?」
「すでに、アクア様とシエル殿には骨格を説明し、論理的な整合性について合意を得ています。ギルティア殿には財務的な試算を確認してもらい、問題なしという返答をもらいました。レヴィア様、フレア殿、ガイア殿の三将軍には、軍事条項の部分だけを先行して示し、大筋で了承を得ています。ゼファー殿には物流と通商の条項を確認してもらい、リヒター総帥には——」
「ちょ、ちょっと待て」
兄が片手を上げた。
「……お前、いつの間にそこまで」
「この半年です」
兄はしばらく草稿と私の顔を交互に見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「リヒター総帥まで、か!?」
「当然ですわ。辺境連合の軍事力を条約に組み込まなければ、人類側の抑止力として機能しません。総帥は武人として筋の通った話には乗ってくださる方ですから」
「……もしかして俺に話してきたのは、最後なのか?」
「兄上には、帝国側の署名権が必要です。最後でなければ意味がないですもの」
レオナルドが、低く笑った。苦笑とも、感嘆とも取れる笑い方だった。
「お前は昔から、こういうやり方をする。根回しが終わってから、既成事実として持ってくる」
「反対意見が出る前に、論理的な合意を積み上げた方が効率的ですから」
「ヒカル殿が気の毒だな」
「あの方は、皆が合意しているという事実に、最終的には納得してくださいます」
「それを見越しているから余計に気の毒だ」
私は少し黙った。
「……ヒカル様には、最終的に私が正直に話します。皆に先に話したこと、理由も含めて。あの方は感情で動く人間ですが、論理を拒絶はしない。ただ、順序が必要なのです」
兄は草稿に視線を戻した。しばらく読み込んでから、静かに言った。
「俺も、帝国の暗部を背負う。お前が影なら、俺はもっと深い影だ」
「兄上」
「お前が法で縛るなら、俺は力で抑える。両輪でなければ、百年は持たない」
兄が右手を差し出した。握手ではなく——かつて子供の頃、二人だけの約束をする時にやっていた仕草。小指を絡める、子供じみた誓いの形。
私は少し笑って、小指を絡めた。
「……ご健闘を、兄上」
「お前もな、レオーネ」
◇◆◇◆◇
話し終えた時、部屋はすっかり静かになっていた。
ヴァルキリアが、腕を組んだまま静かに言った。
「……知らなかった。貴女がそこまでやっていたとは」
「知る必要がなかったことですから」
「私には話が来たが——あれが、そういう意図だったとは」
「条約の軍事条項は、ヴァルキリア様の特務機関なしには機能しませんから。当然です」
ヴァルキリアが少し黙った。それから、静かに言った。
「……アクアも、シエルも、ギルティアも、皆に先に話を通してから兄上のところへ持っていったのか」
「はい」
「契約者には?」
「最後に」
ヴァルキリアが微かに目を細めた。呆れているのか、感心しているのか、判然としない表情だった。
レヴィアが「私にも来てたわ、その話」と言った。
「覚えていらっしゃいますか?」
「あー、バカにしてるでしょ。そのくらい覚えてるわよ。フレアが『軍事条項の確認をしてほしい』って持ってきて、私が『細かいことはフレアに任せてる』って言ったら、フレアが『レヴィア様のご確認が必要な箇所です』って引かなかったやつでしょ」
「ええ、きっとそれですわ、ふふふ」
「あれ、レオーネが仕込んでたの?」
「フレア殿には、レヴィア様の同意が必要な理由を説明した上でお願いしました」
レヴィアが「なんか釈然としない」と言いながら木の実を口に放り込んだ。
「ヒカル様、お父様は、後から知ってどうでした?」とソイルが静かに聞いた。
私は少し考えた。
「……苦笑していました。『君は本当に抜け目がないな』と。それから、『でも、皆が納得しているなら』と」
「それだけですか!?」
「それだけです。ただ——」
私は庭園の方に目をやった。夜の帳が降り、ヒカルはもう中に入っているだろう。
「その夜、珍しくヒカルから私の執務室に来たのです。何も言わずに隣に座って、少しだけ、私の仕事を見ていた。……それだけで、十分でした」
部屋が静かになった。
レヴィアが「なによ、それ」と小さく言った。声に棘はなかった。
ヴァルキリアが木の実を一粒、静かに口に含んだ。
「次は、ユリウスが生まれた日のことを話しましょう、か」
レヴィアの目が輝いた。
「それは聞きたい! ヒカルどうだった? 泣いた?」
私は少し間を置いた。
「……泣きました」
「やっぱり!」
レヴィアが勢いよく身を乗り出した。ヴァルキリアも、わずかに前のめりになっている。
「ライオスとノアの時もですか?」と私が聞くと、レヴィアは「そうよ! あの人ったら産声聞いた瞬間に!」と言いながら、その口元が知らず知らず緩んでいた。
「クロノスとミスティの時も」
ヴァルキリアが静かに言った。声は平静だったが、目が少し遠くを見ていた。
「……あの方は、毎回そうなのです」
私は言った。
「どの子の誕生も、同じように泣いた。竜の子も、人間の子も、関係なく。……それが、あの方のあの方たる所以だと、私は思っています」
部屋がしばらく静かになった。
レヴィアが、珍しく何も言わなかった。
ヴァルキリアが、小さく「……ええ」とだけ言った。
「続きは、また明日」
「ふふ、明日も来るからね!」
レヴィアが立ち上がりながら、そう言った。その顔は、来た時より少し柔らかかった。
【第7話へ続く】
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