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第5話:六龍姫の洗礼と「法」の確立

 後宮に入って三週間が経った頃、私は初めて倒れかけた。


 統一王国の行政システム構築は、急務だった。帝国側の記録を盟約軍の統治体制に接続するだけでも、膨大な作業量がある。竜族の慣習と帝国法の衝突点を一つ一つ洗い出し、どちらを優先するか、あるいは新たな規範を作るか——判断の連続だった。


 私は毎夜、執務室に籠もった。羽ペンが擦れる音と、インクの匂いだけがある静かな部屋。蝋燭が三本、四本と燃え尽きていく。


 問題は、竜族に「法律」を浸透させることの難しさだった。


 セフィラは条文を読んで「窮屈すぎる」と言い、書類を風で吹き飛ばした。レヴィアは「そんな細かいことより、力で解決すればいい」と一蹴した。竜族の兵士たちも、人間の役人が作った規則を素直に受け入れる気配はなかった。


 本能と情熱で動く者たちに、論理の枠を嵌めようとしている。


 それは、嵐の中で設計図を広げるような作業だった。


 アクアだけは例外で、条文の論理的な整合性については真剣に向き合ってくれた。ただし——真剣だからこそ、ぶつかった。


「この条項は設計思想が甘い。竜族が時速三百を超える速度で移動する場合、この規定では対応できない。作り直しなさい」

「対応できないのではありません。速度の基準値を固定することで、例外申請の手続きを標準化する設計です。柔軟性より予測可能性を優先したのです!」

「予測可能性のために実態を無視するのは本末転倒よ!」

「実態に合わせすぎると、法が恣意的な運用を許す余地を生むわ。帝国はそれで腐った!」


 アクアの眼鏡の奥の瞳が、わずかに鋭くなった。私も引かなかった。


 二人の間に張り詰めた沈黙が落ちた時、傍らに控えていたシエルが静かに一歩前に出た。


「……僭越ながら」


 シエルの声は穏やかだったが、両者の視線を等分に受け止めていた。


「アクア様のご指摘は実態への適合性、レオーネ様のご主張は制度の安定性。どちらも正しい。ならば、基準値を設けた上で例外申請の審査基準を条文に明記する——という折衷は、いかがでしょうか?」


 間があった。


「……検討の余地はある」


 アクアが先に言った。


「同意します」


 私が続けた。


 シエルが小さく息を吐いたのが分かった。似た者同士を相手にするのは、相当な消耗だったと思う。私は後から少し申し訳なかった。


 そうして三週間が経ち、ある夜、私は執務室の椅子の上で意識を失いかけた。




 テラが、いた。


 執務室の扉を開けた気配に気づかなかったのは、それだけ限界に近かったということだろう。蜂蜜色の瞳が、私を静かに見下ろしていた。その手には、土色の器に入った温かいスープがあった。


「……倒れそうな気配がしたので」


 テラはそれだけ言って、スープを机の端に置いた。


 薬草の香りがした。甘くはないが、深みのある、土の温もりのような匂い。私はしばらくそれを眺めてから、一口飲んだ。


 芯から温まった。魔力ではなく、ただの食物の力で、これほど体が楽になるとは思わなかった。


「……ありがとうございます」

「無理をしすぎていますわ」


 テラは椅子を引き、私の向かいに座った。珍しかった。この方は、いつも控えめに距離を置いている。


「レオーネ様。一つ、聞いてもよいですか?」

「何でしょう?」

「この法案を、なぜ一人で背負おうとしているのですか?」


 私は少し考えた。


「一人でやっているつもりはありません。ただ——」

「ただ?」

「誰かに任せる前に、骨格だけは自分で作りたいのです。骨格が歪めば、後から何を足しても歪んだままになる……」


 テラは静かに頷いた。


「……貴女の言う『骨格』は、この国だけのものではないのでしょう」


 鋭かった。私は思わずテラを見た。


「主が——ヒカル様が、いつまでも生きるわけではありません。わらわたち竜族も同様です。ただ、人間よりは長い。……貴女は、自分が生きている間に、この法を完成させようとしている」


 否定しなかった。いや、否定できなかった。


 テラの言葉は、私が誰にも言わずに抱えていたことの核心を、静かに射抜いていた。


「わらわも同じです」


 テラは続けた。


「主が築いたものを、主がいなくなった後も守り続けること。それが、わらわの義務です。……だから、レオーネ様の仕事は、わらわにとっても他人事ではないのです」


 私は羽ペンを置いた。


「……貴女は、思っていたより、ずっと」

「ずっと?」

「——怖い方ですね」


 テラが、ほんの少し笑った。それが、この方と初めて笑いを共有した瞬間だった。


 スープを飲み終えた頃、私の頭の中で何かが解けていた。


 この国に必要なのは、冷たいルールではない。種族を超えた「家族」を守るための器だ。ならば法案の骨格は、帝国の論理だけでなく、竜族の特性を活かした柔軟な設計でなければならない。


 私は新しい紙を広げ、羽ペンを手に取った。



 ◇◆◇◆◇



 話し終えた時、バルコニーはすっかり夜の気配に包まれていた。

 ソイルは静かに手元の模型を見つめていた。


「……母が、そんなことを言っていたとは知りませんでした」

「あの方は、口数が少ないですから。でも、いつも要所を突いてくる。貴女と、よく似ています」


 ソイルが苦笑した。


「母に似ていると言われると、照れますね」

「褒め言葉のつもりですよ」


 そこへ、廊下の方から軽い足音が近づいてきた。


「レオーネ! いる?」


 扉を開けもせず声をかけてくるのは、五十年経っても変わらない。セフィラ様が半身だけ扉から覗かせ、手に小さな包みを持っていた。


「辺境の市場で見つけたの。蜂蜜漬けの木の実。レオーネ、甘いもの好きでしょ!?」

「……貴女が勝手に好きと決めているだけです」

「でも毎回食べてるじゃない!」


 反論できない。私は「置いていきなさい」と言った。セフィラは満足げに包みを置き、「じゃあヴァルキリアにも持ってくね。ルーナのとこも寄ってくるから!」と言い残して風のように去っていった。



 数分後、入れ替わるように、別の足音。今度は重く、落ち着いている。

 扉が静かにノックされた。


「レオーネ様。少しよろしいですか?」


 ヴァルキリアだった。漆黒の髪と深い闇色の瞳は、昔と少しも変わらない。片手に書類、もう片方の手に小さな包みを持っている。


「新しい種族間契約の条項について、確認したいことがあって。……ユリウスに聞けばいいのですが、あの子は今、議会の調整で手が離せないと言うので、母君に訊いたほうが早いかと……」

「構いませんわ。資料を持ってきていますか?」

「ええ」


 ヴァルキリアが傍らに座り、書類を広げながら、手元の包みをテーブルの端に置いた。蜂蜜漬けの木の実——セフィラが持ってきたものと同じだった。


 私が視線を向けると、ヴァルキリアは静かに言った。


「……さっきセフィラが持ってきた。貴女のところにも来たのかしら」

「ええ、先ほど」

「あら、かぶったわね」


 それだけ言って、何事もない顔で木の実を一粒口に含んだ。ソイルが小さく目を瞬いた。私は見なかったことにした。


 書類を眺めながら三人で話し合っていると、廊下の向こうからレヴィアの声が響いた。


「ヴァルキリア姉! そっちにいるの? 市場で見つけたんだけど、一緒に食べようと思って——」

「扉を叩いてから入りなさい」


 ヴァルキリア様が静かに言った。


 廊下で一拍の沈黙。それからノックが二回。


「……入っていい?」

「どうぞ」


 レヴィアが勢いよく扉を開けた。手に、例の蜂蜜漬けの木の実の包みを持っていた。テーブルの上の同じ包みに気づいた瞬間、目を細めた。


「……もうあるじゃない」

「セフィラが先に来たのよ」

「あの子ったら! 私が先に見つけたのに!」


「貴女も座りなさい。法律の話があるから」

「法律の話はわかんないもの!」

「分からなくても聞きなさい。どうせこの条項、貴女の軍団にも関わるから」


 レヴィアが不満げに口を尖らせながらも、椅子を引いた。それから自分の包みを開けて、木の実を一粒ヴァルキリアの前に押しつけた。


「……私のも食べなさいよ。セフィラのと味が違うかもしれないから」

「同じ市場のものでしょう」

「違うかもしれないでしょ!?」


 ヴァルキリアが小さくため息をつきながら、差し出された木の実を黙って口に含んだ。


「……同じね」

「ぐぬぬ! でも、おいしいでしょ! 我が最初に見つけたのよ!!」

「……ええ」


 ヴァルキリアが、ほんの少し表情を和らげた。

 ソイルが、こらえきれずに小さく笑った。

 私も、つられて少し笑った。


 この騒がしさが、今の後宮だ。法案を抱えて一人で燃え尽きかけていた、あの夜からは想像もできない。六龍姫の誰もが、あの頃とは違う顔を持っている。いや——あの頃からすでに、こういう方たちだったのかもしれない。私が見えていなかっただけで。


「……次は、兄との密談のことを話しましょうか」


 レヴィアが「密談!? ヒカルと?」と食いついてきた。


「兄レオナルドと、です」

「なんだ、つまんない」


「貴女はもう帰りなさい」とヴァルキリア。

「帰らない! 木の実食べながら聞く!」


 ソイルが、また笑った。


【第6話に続く】


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