第4話:皇女の嫁入り、盟約の儀
後宮に足を踏み入れた日のことは、五十年近く経った今も鮮明に覚えている。
終戦から半月後。兄レオナルドが新生帝国の摂政に就任し、私はヒカルの後宮へ入ることが正式に決まった。政治的な意味合いは明確だった。人間と竜を繋ぐ「平和の楔」として、帝国の血を盟約王家に組み込む——それが、表向きの理由だ。
だが私は、交渉の場でヒカルと交わした約束を、自分の中の本当の理由として持っていた。
法を刻む。この国の骨格を作る。それだけが、私がここにいる意味だ。
後宮の門をくぐった瞬間、私はその決意を必要以上に強く握り直した。
理由は単純だった。
出迎えた竜姫たちの視線が、想像より遥かに重かったからだ。
レヴィアは腕を組み、私を頭のてっぺんから足の先まで一瞥して、鼻を鳴らした。
「……ずいぶん小さいのね。人間って、こんなに儚いものかしら」
侮辱ではなく、純粋な感想として言っているのが、かえって厄介だった。
アクアは書類を手にしたまま、眼鏡の奥の目だけを私に向けた。
「レオーネ・アルトリア。帝国の行政記録を管理していた皇女。……交渉の場での発言は読んだわ。理論は正しい。ただし、実務能力については未検証。当面は見習いと同格の扱いになるわね」
見習い……か。
私は内心で深く息を吐いた。怒りではない。むしろ、アクアの物言いは正しい。実績のない者に信頼を与える道理はない。
テラが、二人の間から静かに進み出た。
「レオーネ様、遠路お疲れになったでしょう。まずお部屋へどうぞ。温かいものをご用意しています」
その声の柔らかさに、私は一瞬だけ緊張が解けた。
ルーナが隣で穏やかに微笑んでいる。この二人だけが、私を「人間」として見てくれている気がした。
セフィラはというと、私の荷物をひょいと覗き込んで「書類ばっかり! 団長の趣味に似てる!」と言い残し、風のように去っていった。
そして、後宮の廊下の奥に、もう一つの視線があった。
ヴァルキリアだ。
漆黒の髪と深い闇色の瞳。壁に背を預け、腕を組んだまま、こちらを見ている。声もなく、近づいてもこない。ただ、値踏みするような静かな視線だけが、私の背中にしばらく刺さっていた。
後宮での最初の一週間は、静かな戦場だった。
レヴィアは私が執務室に入るたびに不機嫌になった。ヒカルの傍に人間の女がいることが、理由として十分だったらしい。炎の粒子を無意識に散らしながら「何の用?」と聞いてくる。私は毎回、用件を三行以内にまとめて答えた。感情的な応酬に付き合う時間は、私には惜しかった。
アクアは別の意味で手強かった。
後宮内の資源管理の現状を把握しようと帳簿を請求したところ、アクアは帳簿を差し出しながら言った。
「確認するのは構わない。ただし、現行の管理体制への干渉は認めない。改善案があるなら数字で示しなさい。感想は要らないわ」
三日後、私は改善案を数字で提出した。
アクアはそれを一時間かけて精査し、「……七割は採用できる」とだけ言った。褒め言葉ではないが、アクアにとってはそれが最大限の評価だと、私はすでに理解していた。
問題は、帳簿を精査する中で見えてきた構造的な非効率だった。後宮の食料備蓄は竜族の消費量を基準に設計されており、人間である私の必要量が完全に想定外だった。魔力を持たない者のための医療記録も存在しない。竜姫たちに悪意はない——ただ、人間が後宮に入ることを、誰も本気で想定していなかったのだ。
私は黙って必要な項目を書き出し、テラに相談した。
「人間用の備蓄と医療記録の様式を、新たに設けさせてください。量は最小限で構いません。ただ、記録がなければ管理ができない」
テラは少し考えてから、静かに言った。
「……気づいていながら、申し訳ありませんでした」
謝罪の言葉に、私は首を振った。
「謝罪は不要です。仕組みがなかっただけです。作れば済みますわ」
テラが目を細めた。その表情に、初めて「認めた」という色が滲んだ気がした。
ヴァルキリアとの接点は、その週はほとんどなかった。ただ、廊下ですれ違う時、一度だけ足を止められた。
「……お前は、怖くないのか? ここにいることが」
レヴィアと似た問いだったが、質が違った。レヴィアの問いは挑発だった。ヴァルキリアの問いは——純粋な疑問だった。
「怖いです」
正直に答えた。
「ならば、なぜ平然としている?」
「平然とはしていません。ただ、怖いという感情を今使う場面ではないので」
ヴァルキリアは少し黙った後、何も言わずに歩き去った。それが、この時期の私たちの関係のほぼ全てだった。
◇◆◇◆◇
バルコニーの風が止み、夕暮れの空が深い藍色に変わり始めていた。
ソイルが、温め直した紅茶を私の前に置いた。湯気が静かに立ち上る。
「……母様が謝られたのですね」
「ええ。あの方は、そういう方でしょう?」
私は紅茶に口をつけた。温かい。
「竜姫たちは皆、私より遥かに長く生きていく。生まれ持って受け継ぐ知識も力も比べ物にならない。それでも——人間一人が後宮に入るという、ごく小さな現実を、誰も事前に設計していなかったわ」
「……それが、お義母様が最初にされたことだったのですね。設計」
「小さな設計です。ただの備蓄記録と医療様式の追加。でも……」
私は模型の円卓に目をやった。
「どんな大きな建物も、一本の柱から始まります。貴女が一番よく知っているでしょう、ソイル」
ソイルが静かに頷く。
「後宮での最初の一週間で、私は一つのことを理解しました。竜姫たちは私の敵ではない。ただ、世界の見え方が根本的に違う。寿命も、感覚も、時間の流れ方も——」
私は少し間を置いた。
「百年が、あの方たちにとっては長い時間ではない。でも私には、全てなの。だから私は、人間の時間の中で動ける者にしかできないことをやるしかなかったわ」
庭園から笑い声が届いた。ひ孫の一人が転んだらしく、ヒカルが慌てて駆け寄っている。その様子を見て、隣にいた別の子が笑い転げている。変わらない景色だ。
「レヴィア伯母様とは、結局いつ頃から——」
「打ち解けた、とは少し違うのですが……」
私は苦笑した。
「あの方が私を認めたのは、ヒカル様が私の提案を二度、三度と採用した後でした。論理で示すしかなかった。感情では、永遠に勝てない相手ですから」
ソイルがくすりと笑う。
「ヴァルキリア様は、今でも怖いですよ。……あの方は、人を見るのが本当に上手い」
「お義母様を、値踏みしていたのですか?」
「ええ。ただ——」
私は少し考えた。
「値踏みされることは、悪いことではありません。見られていない方が、ずっと怖いの……」
ソイルは静かに頷いた。その仕草が、ユリウスによく似ていた。あの子も、黙って頷く時が一番よく考えている。
「次は、法案の最初の草稿を書いた夜のことを話しましょう。……あの夜、テラが持ってきたスープが、今でも忘れられないのです」
【第5話へ続く】
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