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第3話:運命の調律師

 降伏交渉の場は、帝都郊外の野営地に設けられた。


 天幕の中央に長机が一つ。帝国側は私と兄レオナルド、それに数名の廷臣。盟約軍側は——私が足を踏み入れた瞬間、思わず息を詰めた。


 竜姫たちがいた。


 レヴィアという炎の竜姫は、机を挟んで向かい側に座りながら、私を値踏みするような視線で見ていた。炎の髪が揺れ、その瞳には隠しようのない独占欲と警戒が混在していた。アクアという水の竜姫は対照的に表情を消し、こちらの動きを静かに計測している。


 その後方に、私はさらに視線を走らせた。


 穏やかな蜂蜜色の瞳をした竜姫——テラが、レヴィアのやや後ろに控えていた。そして純白に近い金の髪を持つルーナが、静かにその隣に立っている。前列の二人と比べると、後方の二人は不思議なほど落ち着いた空気を纏っていた。


 さらに、天幕の端に小柄な人影があった。


 亜麻色のショートカット、控えめな立ち姿。竜族ではない——人間の少女だ。メイド服の下に何かを隠しているような、静かな緊張感がある。リリアという名の、ヒカル様の幼馴染だと後から知った。


 そして、その中央に——ヒカル・クレイヴが座っていた。


 拍子抜けするほど、普通の青年だった。


 黒髪、中肉中背、目立たない顔立ち。裏切り者の悪鬼と噂された元軍師候補とは、とても思えない。だが、私が視線を合わせた瞬間、その認識は根底から覆された。


 静かな瞳だった。


 竜姫たちの激情を一身に受け止めながら、それでも揺るがない、深く落ち着いた眼差し。強さではなく——重さ、とでも呼ぶべき何かが、あの瞳の奥に沈んでいた。私はその一瞬で理解した。


 この人間は、疲れている。


 圧倒的な力を持つ竜姫たちの感情を調律し、世界の歪みを修正しようと、ただ一人の人間として必死に踏ん張っている。その孤独の重さが、黙って座っているだけで滲み出ていた。


(……竜たちの中で、この方だけが人間の論理で考えている)


 私の中で、何かが静かに動いた。





 交渉は、最初から噛み合わなかった。


 帝国側の廷臣たちは、感情的な弁明と条件の羅列を繰り返した。レヴィアは苛立ちを隠さず炎の粒子を散らし、アクアは冷たい視線で帝国側を切り捨てた。このままでは交渉ではなく、降伏儀式で終わる。


 私は口を開いた。


「王。一つ、確認させてください」


 室内の視線が集まった。帝国側の廷臣たちが、皇女が発言したことに驚いている。レヴィアの眉が上がった。ヒカルだけは、静かに私を見た。


「貴方の戦術は、帝国兵の殺傷を最小化するよう設計されていました。補給路の遮断、通信網の分断——破壊の対象は常に軍事機能のみで、都市基盤は意図的に温存された。これは、降伏後の統治を見据えた設計です」


 天幕に沈黙が落ちた。


「つまり、貴方は帝国を滅ぼしに来たのではない。問題は、どう再編するかです。ならば、この交渉は降伏の儀式である必要はない——統治の設計を始める場にできます」


 ヒカルが、わずかに目を細めた。


「……随分と冷静な皇女だ」

「感情は、後で幾らでも持てます。今は時間が惜しい」


 レヴィアが「この女——」と低く呟いた。その瞬間、後方からテラの静かな声が届いた。


「レヴィア姉上様。もう少し、聞いてみましょう」


 諭すような、柔らかい声だった。レヴィアの炎の粒子が、わずかに鎮まった。ルーナ様もまた、穏やかに頷いている。前列の二人が後列の二人に静かに支えられている——その構図が、この軍団の均衡を象徴しているように見えた。


 ヒカル様は少し間を置いてから、口を開いた。


「では聞こう。帝国の行政基盤を温存することが、なぜ盟約軍の利益になると考える?」

「竜族の力は圧倒的です。ですが、国を動かすのは魔力ではなく、徴税記録と法体系と官僚機構です」


 私は抱えていた書類の束を机に置いた。


「帝国が五百年かけて積み上げた行政の論理を、ゼロから再構築するには、おそらく百年かかります。その百年の間に、新秩序は内部から腐ります。……貴方の理念を百年先まで生かしたいなら、帝国の法と行政は解体すべきではない」


 ヒカル様は私の言葉を最後まで遮らなかった。


「——正しい、な」


 その一言で、室内の空気が変わった。


「帝国の論理の甘さを指摘してもらった。確かに、感情だけでは国は動かない」


 私は内心で驚いていた。否定されると思っていた。だが、この方は違った。敵の言葉であっても、論理として正しければ認める。その率直さが、私には最も予想外だった。


「確認させてくれ。貴方の名は?」

「レオーネ・アルトリア。グランツェリア帝国、第二皇女です」

「レオーネ。帝国の行政記録は、どこにある?」

「私の手元に」


 また沈黙。今度は、少し違う種類の沈黙だった。






 交渉が一段落し、休憩が宣言された。


 私は天幕の端に退き、書類を整理していた。廷臣たちは固まって小声で話し合い、竜姫たちは各々の場所に散った。テラがレヴィアに何か囁き、ルーナが静かに頷いている。天幕の外から風が入り、灯火が揺れた。


 不意に、人の気配がした。


「一つ、聞いていいか?」


 ヒカルだった。


 従者もなく、ただ一人で立っている。竜姫たちの視線が届かない天幕の隅で、彼は先ほどより少し疲れた顔をしていた。「王」の仮面が、わずかに薄れている。


「何でしょう?」

「お前は、怖くなかったのか。ここに来るのが」


 率直な問いだった。廷臣に向ける言葉ではなく、同じ人間に向ける言葉だった。


「怖かったですわ」


 私も正直に答えた。


「ですが、論理がこの方向を指していたので」


 ヒカルは少し黙った後、小さく笑った。竜姫たちに向ける笑顔とは違う、ひどく素朴な笑い方だった。


「……俺も、いつもそうやって動いている」


 それから、ほんの少し間があった。


「……お前みたいな皇女と、こうして話しているのが、まだ信じられない気がするな」


 独り言のような口調だった。私は書類から目を上げた。


「と、言いますと?」

「俺の出自は、帝国で言えば下級貴族だ。軍師候補として取り立てられなければ、皇女の顔を見ることすら生涯なかった。……謁見どころか、同じ空気を吸う機会もなかったはずだ」


 自嘲の色が滲んでいたが、卑屈ではなかった。ただ、事実として口にしている——そういう言い方だった。


 私は少し考えた。


 この方が「皇女」という言葉を持ち出した理由は、皮肉でも謙遜でもない。おそらく、竜姫たちとの間では生まれない感覚——人間の社会における、埋めようのない身分の隔たり——を、ふと思い出したのだ。竜の世界では王として君臨しながら、人間の世界では通用しない出自を持つ。その断絶を、この方は静かに抱えている。


「……では、私が申し上げましょう」


 私は書類を置いた。


「今この場において、私は皇女ではありません。敗戦国の交渉担当者です。貴方は王ではなく、新秩序の設計者です。身分は関係ない——少なくとも、この天幕の中では」


 ヒカルは私を見た。


「……そう割り切れるものか」

「割り切れるかどうかではなく、そう定義した方が話が早いので」


 また、あの素朴な笑い方をした。今度は少し長く。


「お前は面白いな、レオーネ」


 面白い、という言葉だった。賞賛でも侮りでもなく、純粋な発見として。


 その瞬間、私の中で何かが静かに変わった。


 政治的な計算ではなかった。この方の孤独を、頭ではなく胸で理解した最初の瞬間だったと思う。竜姫たちに囲まれ、王として立ちながら、それでも人間の社会における自分の座標を忘れられない——その不器用な率直さが、私には眩しかった。


(この方は、嘘をつかない)


 それだけで、十分だった。


 私は羽ペンを手に取り、言った。


「王。一つ、申し上げてよいですか?」

「言ってくれ」

「貴方には、法が必要です。竜姫たちの力を正しく機能させ、貴方の理念を感情ではなく構造として支える冷徹な設計図が。それがなければ、どれほど強大な力も、百年は持ちません」


 ヒカルは私を見た。


「……お前が、それをやると言いたいのか?」

「はい」

「剣も魔力もないのに?」

「ありません。ですが」


 私は懐の羽ペンに触れた。


「——これだけは、誰にも負けません」


 ヒカル様はしばらく私を見ていた。やがて、先ほどとは違う目で——軍師が同じ思考の持ち主を見つけた時のような眼差しで——静かに頷いた。


「……分かった。俺には、お前が必要だ」



 ◇◆◇◆◇


 バルコニーの風が、少し冷たくなっていた。


 ソイルは模型の円卓を指先でそっと撫でながら、静かに言った。


「お義母様がヒカル様に惹かれたのは——その時だったのですね」

「……気づいていましたか」

「話し方が、少し変わりました」


 この子は、本当によく見ている。


「政治的な判断だと思っていたのです、最初は。ですが」


 私は庭園のヒカル様に目をやった。ひ孫たちに囲まれて笑っている。あの笑い方は、あの天幕の隅で初めて見た笑い方と、少しも変わっていない。


「嘘をつかない人間というのは、思っていたより、ずっと珍しいものでした」


 ソイルが、静かに微笑んだ。


「次は、後宮に入った日のことを話しましょう。……あれは、戦場より恐ろしかった」


 ソイルが、くすりと笑った。


【第4話へ続く】


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