第九話 国家級の信用
第九話 国家級の信用
王宮の謁見室は、静まり返っていた。
高い天井。
白銀の柱。
磨き上げられた大理石。
窓から差し込む春の陽射しが床へ落ちているのに、空気は冷たい。
その中央で、カイル・フォルディアは荒い呼吸を繰り返していた。
「だから……!」
怒鳴った声が広間へ響く。
「エレナは元々、フォルディア家の人間だと言っている!」
周囲の貴族たちが眉をひそめる。
近衛騎士たちは無表情のまま動かない。
ただ、その視線だけが冷たかった。
カイルは拳を握り締めた。
数日前までは、ここへ来れば取り戻せると思っていた。
エレナを連れ戻せばいい。
そうすれば商人たちも戻る。
交易も回復する。
全て元通りになる。
本気でそう思っていた。
だが現実は違った。
ルヴァイン王宮へ来てから、誰一人として彼に同情しない。
むしろ。
侮蔑していた。
「フォルディア伯爵」
低く静かな声が響く。
アルヴェイン王太子だった。
漆黒の礼装を纏った彼は、玉座前へ立ったままカイルを見下ろしている。
感情を荒げているわけではない。
だが、その静けさが逆に恐ろしかった。
「先ほどから誤解を繰り返しているようだ」
「誤解だと?」
「エレナ嬢は物ではない」
空気が凍る。
カイルの顔が引き攣った。
「私はそんな意味で――」
「ではどういう意味だ」
ぴしゃりと言葉を断たれる。
謁見室の空気が張り詰めた。
エレナは少し離れた場所で静かに立っていた。
薬草茶師としての淡い灰青色の衣装。
背筋を伸ばし、騒ぎの中でも穏やかに呼吸している。
以前の伯爵邸にいた頃とは違う。
もう怯えていない。
その姿が、カイルには理解できなかった。
「……エレナ」
思わず名を呼ぶ。
「お前からも言ってくれ」
エレナは静かに視線を向けた。
「私はもうフォルディア家の人間ではありません」
淡々とした声だった。
だが、その一言がカイルの胸へ深く刺さる。
「違う!」
彼は叫んだ。
「全部お前が出て行ってからおかしくなったんだ!」
ざわり、と周囲が揺れる。
「商会も、港も、使用人も! 全部!」
「……」
「お前が裏切ったからだ!」
その瞬間。
アルヴェインの瞳が冷えた。
「まだ分からないのか」
「何がだ!」
王太子はゆっくり階段を降りる。
靴音だけが静かに響く。
「彼女は、ただ茶を淹れていたわけではない」
「……は?」
「フォルディア伯爵家の薬草流通、医療連携、交易仲介。その全てを整えていたのは彼女だ」
カイルは息を呑んだ。
「何を馬鹿な」
「馬鹿なのはお前だ」
低い声だった。
だが謁見室全体が震えた気がした。
アルヴェインは続ける。
「南部薬草農家。西方茶葉商。香油商会。医師組合。各地の宿場商人。全て彼女の調整で繋がっていた」
エレナは目を伏せた。
決して誇らしげではない。
当たり前の仕事を説明されているだけ、という顔だった。
「彼女は情報を集め、人脈を整え、商談を円滑にし、医療網を維持していた」
アルヴェインの声が静かに響く。
「つまり」
一拍。
「彼女の薬草網は国家級だ」
謁見室がどよめいた。
「国家級……」
「そこまでだったのか」
「フォルディア伯爵はそれを捨てたのか?」
ざわめきが広がる。
カイルの顔から血の気が引いていく。
国家級。
そんなはずがない。
だが思い返せば、全部繋がる。
何故、港が止まったのか。
何故、商人たちが離れたのか。
何故、医師組合まで動いたのか。
全部。
エレナが繋いでいたからだ。
「……嘘だ」
掠れた声が漏れる。
「そんなの……聞いてない」
エレナが静かに答えた。
「お話はしていました」
カイルの肩が揺れる。
「薬草農家の収穫状況も、交易路の問題も、医師組合との調整も」
「……」
「ですがカイル様は、“女の世間話だ”と」
喉が詰まった。
確かに言った。
何度も。
夜会の後。
食後の茶の時間。
エレナが穏やかに話していた内容を、自分はまともに聞いていなかった。
「……そんな」
膝が震える。
その時だった。
近衛騎士が一通の書簡を持って現れる。
「殿下」
「読め」
騎士は頷き、書簡を開いた。
「フォルディア伯爵家より追加報告。西部商会との契約、正式破棄。領地負債増加につき、王国監査院が調査開始」
空気がざわめく。
「さらに、ミレイユ嬢が本日未明に失踪」
カイルが顔を上げた。
「……は?」
「使用人を伴い、宝石類を持ち出したとのことです」
謁見室のあちこちで失笑が漏れる。
「愛人に逃げられたか」
「見苦しいな」
「終わったな、フォルディア家」
カイルの顔が歪む。
「違う……」
呼吸が浅い。
胸が苦しい。
視界が滲む。
「違う……俺は……」
その時だった。
ふわり、と香りが漂った。
エレナが茶を淹れていた。
銀月花。
ミント。
柔らかな春の香り。
昔、自分が当たり前のように飲んでいた香り。
だが今は遠い。
決して戻らない場所の匂いだった。
アルヴェインはカイルを見下ろしたまま、静かに告げる。
「お前が捨てたのは“妻”ではない」
低い声。
だがはっきりと響いた。
「国家級の信用だ」
その瞬間。
カイルの中で、何かが完全に崩れ落ちた。
もう戻らない。
港も。
商会も。
屋敷も。
そして。
エレナも。




