第十話 春庭園の薬草茶
第十話 春庭園の薬草茶
春風が、薬草を揺らしていた。
ルヴァイン王宮の東庭園。
かつて使われていなかった空き庭は、今では一面の薬草園へ変わっている。
陽射しを浴びるミント。
白く小さな花を咲かせるカモミール。
銀色の葉を揺らす銀月花。
風が吹くたび、柔らかな香りが庭いっぱいに広がった。
「……綺麗だな」
庭へ足を踏み入れた老商人が、思わず呟く。
「春そのものみたいだ」
「ありがとうございます」
エレナは穏やかに微笑んだ。
白いテーブルクロス。
陽光を受ける硝子器。
磨かれた茶器。
今日は王宮主催の小さな茶会だった。
大規模な夜会ではない。
けれど集まっている顔ぶれは豪華だ。
各地の商会長。
医師組合代表。
外交使節。
貴族たち。
以前なら利害ばかりを持ち込んでいた者たちが、今日は不思議なほど穏やかに談笑している。
「エレナ殿」
南部薬草農家の老女が笑った。
「今年の銀月花は出来が良いよ」
「香りで分かります」
「はは、さすがだねぇ」
周囲に柔らかな笑い声が広がる。
エレナは茶器へ湯を注いだ。
しゅん、と静かな音。
乾燥薬草がゆっくり開いていく。
ミントの青い香り。
カモミールの甘さ。
銀月花の柔らかな余韻。
春の空気そのものを溶かしたような香りだった。
「本日は長時間の会談がございますので、疲労を残しにくい調合にしております」
茶を配りながらエレナが言う。
西方の使節が目を丸くした。
「会談前からそこまで考えるのか」
「皆様、移動続きでお疲れでしょうから」
「……なるほど」
男は茶を一口飲む。
ふっと肩の力が抜けた。
「美味いな」
「胃が楽になる」
「香りが優しい」
次々に声が上がる。
以前のフォルディア伯爵邸とは違う。
ここには無理な笑いがない。
誰も見栄を張りすぎず、怒鳴らず、自然に会話している。
エレナはその空気を感じながら、小さく息を吐いた。
穏やかだ。
本当に。
「……楽しそうだな」
低い声がした。
振り返ると、アルヴェインが立っている。
黒の礼装姿のまま、薬草園を見渡していた。
「殿下」
「この庭、以前より人が集まるようになった」
彼はミントを軽く指先で撫でる。
「近衛騎士まで休憩に来ている」
エレナは少し驚いた。
「騎士の方々が?」
「ああ。最近は喧嘩も減ったそうだ」
その言葉に、近くにいた侍女たちが吹き出す。
「本当なんです!」
「前は毎日怒鳴り合ってましたものね」
「今は皆さん、茶を飲んで落ち着いてくださるので」
アルヴェインが珍しく苦笑した。
「王宮の空気まで変えてしまったな」
エレナは困ったように笑う。
「私はお茶を淹れているだけです」
「違う」
アルヴェインは静かに首を振った。
「君は、人が安心して呼吸できる場所を作っている」
その声は穏やかだった。
以前のような“評価”ではない。
もう自然な事実として語っている。
エレナの胸が少し熱くなる。
昔は、誰にも理解されなかった。
薬草は遊び。
茶会は無駄。
香りなど意味がない。
そう笑われてきた。
けれど今は違う。
ここでは皆、香りを吸い込み、笑い、肩の力を抜いている。
薬草は、人を癒していた。
最初からずっと。
「エレナ様!」
ぱたぱたと小さな足音が近づく。
振り返ると、王宮勤めの少年給仕が目を輝かせていた。
「新しいカモミール、咲きました!」
「本当?」
「はい!」
少年は嬉しそうに白い花を差し出す。
エレナは受け取り、優しく香りを嗅いだ。
甘く、柔らかい。
春の匂いだった。
「綺麗に咲きましたね」
「えへへ……!」
少年は照れくさそうに笑う。
その光景を見て、老商人がぽつりと呟いた。
「不思議ですな」
「何がでしょう」
「ここへ来ると、皆穏やかな顔になる」
彼は湯気の立つ茶器を見つめた。
「昔は薬草茶など贅沢な趣味だと思っておりました」
エレナは黙って耳を傾ける。
老商人は静かに笑った。
「ですが違ったのですな」
一口、茶を飲む。
ミントの香りが春風へ溶けていく。
「本当に、人を救うお茶なのですね」
庭が静まった。
誰も否定しない。
医師組合の代表も。
外交使節も。
王太子も。
皆、穏やかな顔で茶を飲んでいた。
エレナはゆっくり微笑む。
「……ありがとうございます」
風が吹く。
薬草が揺れる。
ミントの香り。
カモミールの甘さ。
銀月花の柔らかな余韻。
それらが混ざり合い、春の庭園を満たしていく。
ふと、エレナは空を見上げた。
青い。
どこまでも穏やかな春空だった。
思い出す。
あの冬の日。
冷えていった薬草茶。
壊された温室。
笑われた言葉。
あの頃、自分の積み重ねは全部消えてしまうのだと思っていた。
けれど違った。
誰かを気遣った時間は、消えない。
人を温めた香りは、ちゃんと残る。
だから今、ここに繋がっている。
「エレナ」
アルヴェインが隣へ立つ。
「茶が冷めるぞ」
エレナは小さく笑った。
「はい」
湯気が静かに立ち昇る。
春の陽射しの中で、その温かさはもう失われなかった。
もう、
茶が冷めることはない。




