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エピローグ 湯気の向こう側

エピローグ 湯気の向こう側


 初夏の風が、薬草園を揺らしていた。


 王宮東庭園は、すっかり人の集まる場所になっている。石畳の小道には白い花弁が舞い、朝露を含んだミントが陽光を受けてきらきら輝いていた。


 柔らかな香りが風へ混じる。


 カモミール。

 レモンバーム。

 銀月花。


 エレナは籠を抱えながら、小さく息を吐いた。


「今日はよく香りますね」


 隣で薬草を摘んでいた侍女のマリアが笑う。


「はい。昨夜雨が降ったので」


 エレナは手を止め、驚いて振り返った。


「マリア?」


「お久しぶりです、奥様」


 懐かしい笑顔だった。


 フォルディア伯爵邸で長く仕えていた侍女。少し涙ぐみながら、それでも以前と変わらぬ優しい目でこちらを見ている。


 エレナの胸がじわりと熱くなる。


「どうしてここに……」


「ルヴァインへ来ました」


 マリアは薬草籠を抱え直した。


「もう、あの屋敷には誰も残っておりませんから」


 風が吹く。


 ミントの香りがふわりと広がった。


 エレナは静かに目を伏せる。


 フォルディア伯爵邸。


 かつて自分が暮らしていた場所。


 だが不思議と、もう胸は痛まなかった。


「……そう」


「はい」


 マリアは少し困ったように笑う。


「でも、良かったです」


「何が?」


「奥様が、ちゃんと笑っていらっしゃるので」


 エレナは一瞬言葉を失った。


 笑えているだろうか。


 昔の自分は、ちゃんと笑えていたのだろうか。


 フォルディア伯爵邸にいた頃も、確かに穏やかに過ごしていた。けれどいつも、“失敗してはいけない”という緊張が胸の奥にあった。


 空気を壊さないように。

 誰かが怒らないように。

 商談が止まらないように。


 ずっと気を張っていた。


 今は違う。


 薬草園には風が流れている。


 人々の笑い声が聞こえる。


 ここでは、誰も彼女を“無価値”だと言わない。


「エレナ」


 背後から声がした。


 振り返ると、アルヴェインが立っている。


 白い夏用礼装姿の王太子は、以前より少し柔らかな顔をするようになっていた。


「会談用の茶は準備できそうか」


「はい。西方使節の方が長旅でお疲れと伺っていますので、胃を整える配合に」


「助かる」


 アルヴェインはそう言って、ふとエレナの手元を見る。


「銀月花か」


「今年は特に香りが良いんです」


 エレナが花を指先で撫でると、柔らかな甘い香りが立ち昇った。


 その時、庭園の入口が騒がしくなる。


「おお、ここか!」


「本当に良い香りですな!」


 商会長たちだった。


 王宮茶会の常連になった面々である。


 南部商会のグレゴールが、エレナを見るなり豪快に笑った。


「エレナ殿! 今日の茶を楽しみにしておりましたぞ!」


「ありがとうございます」


「いやぁ、最近はうちの若い連中まで薬草茶に凝り始めましてな!」


「この前なんて、会議中に皆でカモミールを飲んでましたよ」


「昔なら考えられんな!」


 どっと笑いが起きる。


 エレナも思わず吹き出した。


 以前の彼女なら、こうして人前で自然に笑えただろうか。


 きっと無理だった。


 誰かの機嫌を損ねないよう、空気を読み続けていたから。


 だが今は違う。


 ここにいる人々は、彼女を“役に立つ道具”としてではなく、一人の人間として見てくれている。


「エレナ様!」


 少年給仕が走ってくる。


「焼き菓子、出来ました!」


「ありがとう」


「今日は蜂蜜とレモン入りです!」


「まあ、楽しみ」


 庭園には次々に人が集まってくる。


 医師組合。

 交易商。

 王宮騎士。

 侍女たち。


 皆、自然に笑い、席へ着き、茶の香りへ肩の力を抜いていく。


 その光景を見ながら、マリアがぽつりと呟いた。


「本当に、“茶飲み友達”が増えましたね」


 一瞬、空気が止まる。


 そして。


 エレナは静かに笑った。


「……ええ」


 もう、その言葉は痛くなかった。


 昔は侮辱だった。


 価値のないものだと言われた。


 けれど今なら分かる。


 人と人が安心して向き合える関係は、決して無価値ではない。


 むしろ。


 一番壊れやすくて、一番大切なものだ。


「お待たせいたしました」


 エレナは茶器を持ち上げる。


 透明な茶が陽光を受け、淡く輝いた。


 湯気が立ち昇る。


 ミントの爽やかさ。

 カモミールの甘さ。

 銀月花の柔らかな余韻。


 人々が自然に息を吸い込む。


「良い香りだ」


「落ち着きますなぁ」


「まるで春そのものですね」


 穏やかな声が重なる。


 エレナはゆっくり茶を配った。


 一人一人へ。

 温かさを渡すように。


 遠くで鐘が鳴る。


 初夏の風が薬草を揺らし、白い花弁を空へ舞い上げた。


 エレナは空を見上げる。


 青かった。


 どこまでも、穏やかに。


 もう、誰かの言葉に怯えることはない。


 積み重ねてきた時間は、ちゃんと人を温めていた。


 だから今、ここに繋がっている。


 湯気の向こうで、人々が笑っている。


 その光景を見ながら、エレナもまた静かに微笑んだ。



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