第11話 香りなき晩餐会
第11話 香りなき晩餐会
冬の雨が石畳を濡らしていた。
フォルディア伯爵邸の門前には、かつてのような馬車の列はない。雨粒を弾く黒塗りの馬車が、ぽつり、ぽつりと到着するたび、使用人たちは張りつめた顔で駆けていく。
大広間には無数の燭台が灯されていた。金の装飾皿、銀器、磨き上げられたワイングラス。見た目だけなら、以前と変わらぬ豪奢な晩餐会だった。
だが、空気が違う。
重いのだ。
湿った暖炉の匂いと、強すぎる香油の甘ったるさが混ざり、胸の奥がむかつくようだった。
カイル・フォルディアはその異変に気づかぬまま、満足げに杯を掲げた。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝する。新たな交易計画について、有益な夜にしたい」
拍手はまばらだった。
テーブルについた貴族たちはどこか落ち着かない。椅子を引く音ばかりが耳につく。
以前なら、席についた瞬間に温かな香茶が配られていた。
胃を整える柑橘葉。
緊張をほぐす薄荷。
酒に弱い者には苦味を抑えた薬草茶。
それが自然に出されていた。
だが今夜、最初に配られたのは濃い葡萄酒だけだった。
侯爵の一人が顔をしかめる。
「……酒が強すぎるな」
「料理も塩気がきつい」
別の貴族が小声で呟く。
「以前はもっと、居心地が良かった気がするのだが」
カイルは聞こえないふりをした。
その隣で、豪奢な真紅のドレスをまとったミレイユが笑う。
「まあ皆様、堅苦しいですわ。今日は楽しく飲みましょう?」
鈴を転がすような声。
だが誰も笑わなかった。
料理が運ばれる。
肉料理の香辛料は強すぎ、魚料理は生臭さが残っている。以前は食事の合間に口を整える香茶や果実水が挟まれていたが、それもない。
舌に脂が残り、酒だけが進む。
空気は次第に荒れていった。
「だから、その港の税率では利益にならんと言っている!」
「そちらが一方的に条件を変えたのだろう!」
商談の声が大きくなる。
カイルは眉をひそめた。
「落ち着きたまえ。話し合えば済むことだ」
「ならばもっと誠意を見せていただきたい!」
机を叩く音が響いた。
グラスが倒れ、赤い葡萄酒が白い卓布に広がる。
血のようだった。
ミレイユが怯えたように肩を震わせる。
「な、なんですの……?」
さらに別の席で怒声が上がった。
「酔わせて契約を取るつもりか!」
「はっ、酒も飲めん腰抜けが!」
笑い声が混ざる。
だがそれは陽気な笑いではない。刺々しく、酔いに濁った声だった。
給仕たちも混乱していた。
誰に何を出せばいいのかわからない。
以前の使用人たちは、客の癖を把握していた。誰が冷え性で、誰が胃を悪くしやすく、誰が酒に酔うと怒りっぽくなるか。
エレナが全て記録していたからだ。
しかし今、その帳面はもうない。
若い給仕が震える手で酒瓶を持ち上げた瞬間、酔った男が腕を掴んだ。
「遅いんだよ!」
悲鳴。
瓶が落ち、砕け散る。
葡萄酒の匂いがむっと広がった。
その時だった。
老齢の伯爵が急に胸を押さえた。
「ぐ……っ」
「伯爵様!?」
椅子が倒れる。
場が凍りついた。
顔色は青白く、呼吸が浅い。
「医者を呼べ!」
怒号が飛ぶ。
だが屋敷付き医師はすでに辞めていた。待遇悪化に耐えかねて去ったのだ。
カイルの額に汗が浮かぶ。
「な、何をしている! 早く動け!」
使用人たちは狼狽えるばかりだった。
以前なら、宴席で体調を崩す者が出る前にエレナが察していた。
酒量を抑え、
料理を変え、
香茶を出し、
空気を切り替えていた。
誰もそれに気づいていなかっただけで。
沈黙の中、誰かがぽつりと呟いた。
「……昔のフォルディア家では、こんなことはなかった」
別の貴族が低く続ける。
「伯爵夫人がいた頃は、皆穏やかだった」
「そうだな。商談も自然とまとまっていた」
「茶会も心地よかった」
カイルの顔が引きつる。
「黙れ」
しかし声は止まらない。
「あの夫人は、人を見ていた」
「酒に弱い者には必ず薬草茶を出していたな」
「香りも違った。この屋敷、前はもっと落ち着く香りがしていた」
ミレイユが不安げにカイルを見る。
「ねえ……」
「黙っていろ!」
怒鳴り声が広間に響いた。
一瞬、空気が完全に冷える。
皆が見た。
かつてなら絶対に生まれなかった沈黙だった。
暖炉の火だけがぱちりと鳴る。
湿った灰の匂いがした。
老伯爵はどうにか持ち直したものの、もう誰も長居したがらなかった。
「今夜は失礼する」
「契約の件は、後日改めて」
貴族たちは次々に席を立つ。
その背中には、以前のような親しみも信頼もなかった。
残ったのは、荒れた食卓だけだった。
割れたグラス。
冷えた肉料理。
飲み残しの葡萄酒。
そして鼻につく、安物の香油の甘い匂い。
カイルは立ち尽くしていた。
胸の奥がざわつく。
だが認めたくなかった。
認めれば、自分が捨てたものの大きさを理解してしまう。
「……ただの偶然だ」
誰に言うでもなく呟く。
「次は上手くいく」
しかし返事はない。
広間にはもう、誰も残っていなかった。
静まり返った空間に、冷えた雨音だけが遠く響いていた。




