第12話 銀月花の秘密
第12話 銀月花の秘密
王宮の薬草園には、春を待つ匂いが満ちていた。
朝露を含んだ薄荷の香り。乾いた土の匂い。風に揺れるカモミールの甘い香気。白い石畳の小道を歩くだけで、胸の奥に張りつめていたものが少しずつほどけていく。
エレナはしゃがみ込み、小さな鉢植えを見つめていた。
銀月花。
淡い銀色の葉を持つ希少薬草。夜になると月光を吸ったように花弁が薄く輝くことから、その名がついた。
だが、その芽は弱々しかった。
葉先が茶色く枯れ、今にも萎れそうになっている。
「……また駄目ですね」
エレナはそっと葉に触れた。
指先に伝わる感触は乾いている。水は足りている。土も悪くない。温度管理もしている。
なのに育たない。
背後で足音が止まった。
「今朝も様子を見ていたのか」
低く落ち着いた声だった。
振り返ると、アルヴェイン王太子が立っていた。深い紺色の外套をまとい、朝靄の中に溶け込むような静かな姿だった。
彼は庭を見回し、目を細める。
「ここへ来ると空気が違うな」
「そうでしょうか」
「呼吸が楽になる」
エレナは少しだけ困ったように笑った。
「薬草の香りのおかげです」
「それだけではない気がする」
アルヴェインは銀月花の鉢へ視線を落とした。
「また枯れかけているな」
「はい……原因が分からなくて」
エレナは小さく息を吐いた。
「銀月花は難しい薬草なのです。昔、一度だけ満開を見たことがありますが……それ以来、一度も」
「フォルディア家でか?」
その名に、胸の奥が微かに痛んだ。
もう終わった場所なのに、傷だけが時折疼く。
「ええ。温室の奥で」
思い出す。
柔らかな陽射し。
硝子窓を叩く雨音。
静かな温室。
あの頃、自分は毎日、植物に話しかけていた。
使用人の体調を聞き、
茶葉を乾かし、
商会長の胃痛を案じ、
誰かが少しでも穏やかでいられるようにと動いていた。
誰も気づかなかったけれど。
アルヴェインが静かに尋ねる。
「育て方に条件があるのか?」
「強い香りに弱いのです」
「強い香り?」
「はい。刺激の強い香草の近くでは育ちません。香油にも弱いですし、人の出入りが激しい場所でも枯れやすいと言われています」
「妙な花だな」
「とても繊細なんです」
エレナは銀色の葉を撫でた。
「だから、昔は温室の一番静かな場所に置いていました」
アルヴェインは少し考え込むように黙った。
その時、庭園の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「だからその帳簿を先に回せと言っているだろう!」
「こちらにも順序があります!」
若い文官たちが口論しているらしい。
途端、銀月花の葉が風もないのにかすかに震えた。
エレナは目を見開く。
「……え?」
彼女は慌てて鉢を抱き寄せた。
アルヴェインも気づいたらしい。
「今、葉が閉じたな」
「そんな……」
エレナは困惑しながら銀月花を見つめた。
まるで怯えるように葉が縮こまっている。
その瞬間だった。
彼女の脳裏に、昔の温室の光景が蘇る。
静かだった。
あそこはいつも穏やかだった。
使用人たちは争わず、商人たちは安心して茶を飲み、客人たちは声を荒げなかった。
自分は毎日、空気を整えていた。
無意識に。
エレナははっと息を呑んだ。
「……感情、ですか」
「何?」
「銀月花は、強い香りだけではなく……人の感情にも反応しているのかもしれません」
アルヴェインが眉を上げる。
「感情?」
「怒声や苛立ちのある場所では、葉を閉じるんです。逆に、穏やかな場所ではよく育つ」
彼女は小さく笑った。
「変な花ですよね」
だがアルヴェインは笑わなかった。
真剣な目で庭を見渡している。
風が吹いた。
薄荷の葉が擦れ、青い香りが広がる。
遠くで噴水の水音がした。
「……君は昔から、こういう場所を作っていたんだな」
エレナは目を瞬かせた。
「え?」
「人が傷つかない空間だ」
その声は静かだった。
けれど不思議なほど胸に響いた。
「以前、フォルディア家の茶会へ行ったことがある」
アルヴェインは薬草棚に触れながら続けた。
「皆、自然に笑っていた。商人も貴族も、普段なら衝突する相手同士が穏やかに話していた」
彼は少し目を細める。
「私はずっと、あれが不思議だった」
「……」
「だが今なら分かる」
彼はエレナを見る。
まっすぐに。
「君が整えていたんだな」
胸が熱くなった。
そんなふうに言われたことは、一度もなかった。
カイルは結果しか見なかった。
茶会が成功しても当然。
商談がまとまっても当然。
人が笑っていても当然。
誰も、その裏側を見ようとはしなかった。
なのにこの人は。
ちゃんと見ている。
エレナは視線を落とした。
「……私は、大したことはしていません」
「そんな顔で言うな」
思わず顔を上げる。
アルヴェインは少し困ったように笑っていた。
「君は、自分の価値を低く見積もりすぎだ」
「ですが」
「私は多くの貴族を見てきた。権力を振りかざす者も、金だけを見る者もな」
彼はゆっくりと言葉を続ける。
「だが、人が安心して呼吸できる空間を作れる人間は少ない」
風がまた吹いた。
その瞬間。
銀月花の葉が、ゆっくりと開いた。
朝陽を受け、銀色にきらめく。
エレナは息を呑んだ。
「……開いた」
「君のせいだろうな」
「え?」
「安心したんじゃないか。この花も」
冗談のような口調だった。
だが彼の眼差しはひどく優しかった。
胸の奥がじんわり熱くなる。
怖かった。
こんなふうに理解されるのが。
嬉しくて、泣きそうになるほど。
エレナは慌てて微笑んだ。
「お茶をお淹れします」
「また誤魔化したな」
「……誤魔化しておりません」
「その顔は誤魔化している顔だ」
アルヴェインが珍しく笑う。
低く穏やかな笑い声。
その音を聞いた瞬間、不思議なほど肩の力が抜けた。
王宮の庭園に、柔らかな春の風が吹き抜ける。
銀月花は静かに揺れていた。




