第13話 愛人の逃亡
第13話 愛人の逃亡
雨だった。
灰色の空から落ちる冷たい雨が、フォルディア伯爵邸の窓を絶え間なく叩いている。
かつては花で満ちていた玄関広間には、湿った空気だけが淀んでいた。暖炉の火も弱い。使用人が減ったせいで薪の管理すら行き届いていないのだ。
ミレイユは震える指でティーカップを持ち上げた。
一口飲んだ瞬間、顔をしかめる。
「……苦い」
ただ苦いだけだった。
昔、この屋敷で飲んだ茶は違った。
香りが柔らかくて、温かくて、自然と気分が軽くなった。なのに今は、舌に渋みだけが残る。
彼女は苛立ったようにカップを置いた。
「どうしてまともなお茶も出せないのよ」
向かいの侍女が困ったように頭を下げる。
「申し訳ございません……以前の茶葉商との契約が切れてしまいまして」
「新しいところから買えばいいでしょう!?」
「それが……どこも取引を断っておりまして」
ミレイユは黙った。
最近、そればかりだ。
断られる。
避けられる。
返事が来ない。
最初は意味が分からなかった。
フォルディア伯爵家は大貴族だ。地方経済を握る家だ。皆、媚びて当然だと思っていた。
なのに今は違う。
商人たちは曖昧に笑って距離を置く。
茶葉商は在庫不足を理由に逃げる。
香油商は突然値段を吊り上げた。
そして何より。
人が来ない。
以前は毎晩のように客人が訪れていた屋敷が、今は静まり返っている。
ミレイユは窓の外を見た。
雨に煙る庭は荒れ放題だった。花壇には雑草が伸び、噴水の水も止まっている。
あの温室を壊してからだ、とふと思う。
脳裏に、薬草棚を前にして笑った自分の姿が浮かんだ。
『雑草ばかり』
あの時は本当にそう思っていた。
葉っぱを乾かし、香りを混ぜ、お茶を淹れるだけ。
そんなもの、誰にでもできると思っていたのだ。
だが違った。
社交とは、ただ笑って座っているだけではなかった。
ある夜会で、ミレイユは侯爵夫人に赤薔薇の香油を使った。
夫人は途端に顔色を変えた。
『亡くなった娘が好きだった香りなの』
泣きながら席を立たれた。
別の日には、香辛料を強くした料理で老伯爵が胃を悪くした。
酒好きの商会長に濃い葡萄酒を勧めれば、酔って別の商人と喧嘩になった。
誰と誰が仲が悪いのか。
どの家が縁談でもめているのか。
誰が不眠症で、
誰が胃痛持ちで、
誰が花の香りを嫌うのか。
そんなことまで把握して初めて、“居心地の良い場”が作られるのだと、ミレイユは今さら知った。
エレナは、全部覚えていた。
全部。
ミレイユは唇を噛んだ。
「……どうして誰も教えてくれなかったのよ」
侍女は答えられない。
その時だった。
廊下の向こうで怒鳴り声が響く。
「だから待てと言っているだろう!」
カイルだ。
低く苛立った声。
続いて荒々しい男の声が重なる。
「三ヶ月も待った! 本日こそ払ってもらう!」
ミレイユの背筋が冷えた。
「……誰?」
侍女の顔が青ざめる。
「借財の取り立てです」
カップが震えた。
「借金……?」
「港の停止以降、かなり厳しい状態だと……」
ミレイユは立ち上がった。
嫌な汗が背を伝う。
急いで廊下へ出ると、玄関広間で男たちが睨み合っていた。
雨水を滴らせた商人たち。
険しい顔。
湿った革靴の匂い。
その中心で、カイルが怒鳴っている。
「伯爵家に向かって無礼だぞ!」
「無礼はどちらだ! 支払い期限を何度破った!」
「黙れ!」
怒声が響く。
だが以前のような威圧感はない。
ただ焦っているだけだ。
男の一人が吐き捨てる。
「以前はきちんとしていた」
「……」
「茶会で話を通せば、自然と調整された。だから皆、多少の融通を利かせていたんだ」
別の男が低く言う。
「あの伯爵夫人がいた頃はな」
カイルの顔が歪む。
「またその話か!」
「事実だろう!」
ミレイユは思わず後ずさった。
空気が荒れている。
皆、苛立っている。
この屋敷、こんなに息苦しかっただろうか。
湿った空気。
怒鳴り声。
酒と汗の匂い。
頭が痛い。
その時、商人の一人がミレイユを見た。
「そこの愛人殿は、随分派手な宝石を身につけておられるな」
ミレイユはびくりと肩を震わせた。
「え……」
「金がないなら売ればどうだ?」
くすくすと笑いが起こる。
嘲笑だった。
頬が熱くなる。
「わ、私は……」
「お前のせいだ!」
突然カイルが怒鳴った。
ミレイユは目を見開く。
「え……?」
「お前が無駄遣いばかりするから!」
「なっ……!」
「温室だの茶葉だの、くだらんものを整理しただけで何故こうなる!?」
ミレイユの中で何かが切れた。
「知らないわよ!」
声が裏返る。
「私は悪くない!」
「何だと!?」
「だって、あの人が全部やってたんじゃない!」
静まり返る。
ミレイユは涙を滲ませながら叫んだ。
「私は知らなかったのよ! お茶を出して笑ってるだけだと思ってた! でも違ったじゃない!」
呼吸が乱れる。
「誰が何を嫌うかも! 誰と誰が揉めてるかも! どの香りで落ち着くかも! 全部、全部あの人が考えてたんじゃない!」
涙が頬を伝う。
「私は……綺麗な服を着てればいいと思ってたのに……」
誰も何も言わない。
ただ雨音だけが響く。
ミレイユはその沈黙に耐えられなかった。
ここにはもう、自分を守ってくれるものが何もない。
愛されてもいない。
尊敬もされていない。
ただ“代わり”として置かれていただけだ。
その事実が、今さら胸に突き刺さる。
ミレイユは震える手でドレスの裾を握った。
そして踵を返す。
「おい、待て!」
カイルの声。
だが振り返らなかった。
玄関扉を開ける。
冷たい雨が一気に吹き込んできた。
髪もドレスも濡れる。
それでも、屋敷の中より息がしやすかった。
ミレイユは泣きながら走った。
泥水を跳ね、
雨に打たれながら、
どこへ行くあてもないまま。
背後では、怒鳴り声がまだ続いていた。
フォルディア伯爵邸は、雨の中で静かに崩れていく。
まるで、誰にも気づかれないまま根から腐っていた花のように。




