第八話 再会の香り
第八話 再会の香り
ルヴァイン王宮の春は、静かだった。
中庭では白い花が風に揺れ、水路を流れる水が陽光を反射している。遠くで小鳥が鳴き、薬草園からは淡いミントの香りが漂っていた。
その穏やかな空気を裂くように、荒い足音が廊下へ響く。
「どこだ」
低く苛立った声。
「エレナはどこにいる」
近衛騎士たちが眉をひそめる。
旅塵にまみれた男――カイル・フォルディアは、王宮の空気にまるで馴染んでいなかった。
外套は泥で汚れ、目の下には濃い隈が浮いている。
焦燥と怒りだけを抱えてここまで来た顔だった。
「王太子殿下より、こちらへ」
案内役の侍従が静かに言う。
カイルは舌打ちした。
「まどろっこしい」
そのまま乱暴に扉を開け放つ。
ふわり、と香りが流れた。
その瞬間だった。
カイルの足が止まる。
薬草茶室。
白木の棚。
陽射しの落ちる窓辺。
吊るされた乾燥薬草。
そして。
茶器へ湯を注ぐエレナの姿。
彼女はゆっくり顔を上げた。
淡い灰青色のドレス。
後ろで緩く結ばれた髪。
穏やかな眼差し。
フォルディア伯爵邸にいた頃と何も変わらないはずなのに、不思議と別人のようだった。
空気が違う。
以前より柔らかく、静かで、温かい。
「……カイル様」
エレナは静かに立ち上がった。
驚いてはいる。
だが怯えてはいない。
そのことが、カイルを余計に苛立たせた。
「随分勝手な真似をしてくれたな」
エレナは答えない。
代わりに茶器を整える。
かちゃり、と陶器の触れ合う小さな音が響いた。
「聞いているのか」
「はい」
「なら話は早い」
カイルは命令するように言った。
「帰れ」
茶室の空気が静かに止まる。
「お前の役目は終わりだ」
エレナはしばらく黙っていた。
窓の外では春風が薬草を揺らしている。
ミント。
カモミール。
銀月花。
柔らかな香りが、静かに室内を満たしていた。
「……役目、ですか」
「そうだ」
カイルは苛立ったように続ける。
「お前はフォルディア家の妻だった。勝手に他国へ居座られては困る」
「離縁したのは、カイル様です」
「形式上の話だ!」
怒声が響く。
だがエレナは微動だにしなかった。
「戻ればいいだけだ。そうすれば全部元通りになる」
その言葉を聞いた瞬間。
エレナの胸の奥で、何かが静かに冷えた。
ああ、この人は。
本当に何も分かっていないのだ。
温室を壊した日も。
使用人たちの顔も。
夜会で笑っていた商人たちも。
全部。
「……お疲れでしょう」
エレナは穏やかに言った。
「お茶を淹れます」
「話を逸らすな!」
「昔、よくお出ししていたものです」
その声に、カイルの怒鳴り声が一瞬止まる。
エレナは静かに薬草を選び始めた。
乾燥フェンネル。
少量のミント。
そして、ほんの少しだけ銀月花。
最後に乾燥林檎を加える。
甘い香りがふわりと立ち上った。
カイルの眉がぴくりと動く。
「……その香り」
「覚えていらっしゃいますか」
湯が注がれる。
透明な熱が薬草を揺らし、柔らかな春の香りが茶室へ広がっていく。
懐かしい匂いだった。
冬の夜会。
遅くまで続いた商談。
疲れた夜。
いつも傍にあった香り。
「どうぞ」
エレナは茶器を差し出した。
カイルは無言で受け取る。
そして一口飲んだ。
その瞬間だった。
熱が喉を落ちていく。
柔らかな甘み。
胃の奥へ広がる温かさ。
張り詰めていた神経が、じわりと緩む。
脳裏に光景が浮かんだ。
大広間。
笑い声。
商人たちの談笑。
「フォルディア伯爵、次の交易もぜひ」
「奥様のお茶、毎回楽しみでしてな」
「いやぁ、居心地が良くて長居してしまう」
皆、笑っていた。
自然に人が集まり、酒が進み、商談がまとまっていた。
あれは。
自分の力だと思っていた。
伯爵家の権威だからだと。
だが違う。
この香りだ。
この空気だ。
エレナが作っていた。
人が安心して座れる場所を。
言葉を交わせる空気を。
カイルの喉がひくりと動く。
「……お前」
声が掠れた。
「これを、ずっと……」
「はい」
エレナは静かに頷いた。
「皆様が疲れすぎないように」
カイルは茶器を見下ろした。
湯気が揺れている。
昔と同じ香りなのに、何故か今は胸が痛かった。
「……何故言わなかった」
ぽつりと漏れる。
「そんな重要なことなら」
エレナは少しだけ目を伏せた。
そして、静かに笑う。
「言いました」
「……え?」
「何度も」
その声は責めるものではなかった。
だからこそ苦しかった。
「商会の方々のお名前も、薬草農家の状況も、物流の話も、全部お伝えしていました」
カイルの呼吸が止まる。
思い出す。
確かにエレナは話していた。
夜会の後。
茶を淹れながら。
穏やかな声で。
だが自分は聞いていなかった。
適当に頷き、
女の世間話だと思って流していた。
「……あ」
喉が乾く。
手の中の茶器が熱い。
なのに、指先だけが冷たかった。
エレナは窓の外を見た。
薬草園では春風が花を揺らしている。
「カイル様」
「……なんだ」
「私はもう、戻りません」
静かな声だった。
泣いていない。
怒ってもいない。
ただ穏やかに終わっていた。
「ここでは、私の仕事を理解してくださる方がいます」
カイルは何も言えなかった。
茶の香りが広がる。
懐かしくて、温かい。
けれど。
もう自分の場所には戻ってこない香りだった。




